落語「春の雪」の舞台を行く 二代目三遊亭円歌の人情噺、「春の雪」(はるのゆき)より
■村上 元三 (むらかみ げんぞう);(1910年3月14日 - 2006年4月3日)、小説家。この落語「春の雪」の作者。(96歳没)。
1934年 サンデー毎日大衆文芸賞佳作入選
■文政の6年、暮れの12月25日の火事;江戸は火事早い所でした。特に冬場の乾燥した北風、俗に”赤城下ろし”と言われた強風にあおられ、大火になることが多く、明暦の大火では10万人以上の焼死者が出る大災害になっています。小さな火事でも多発して、大岡越前守の時に、江戸に火消し制度を作りました。それでも、冬場の江戸は火事が多かった。江戸の火事については、落語「二番煎じ」に詳しい。
作者不詳ですが、明和九年、目黒行人坂の大火直後に画かれたもの
■麹町から外堀を越えて、神田川まで焼き尽くす大火;噺と現実の被災地は少し違うようですが、噺の筋に沿っていきます。
「鎭火安心圖巻」は、国立国会図書館特別文庫の所蔵史料。 右側の風呂屋の2階では慌てて逃げる用意をしている。左側の蔵には土で目塗りしている。町人達は家財道具を運び出しています。
■霊岸島の寮(れいがんじょま りょう);東京都中央区東部、隅田川河口右岸の旧町名。現在の新川一、二丁目にあたる。
■神田和泉町(かんだいずみちょう);江戸時代は武家地であり武家屋敷が存在していた。明暦の大火直前の『新添江戸之図』では、西から順に伊勢国津藩藤堂和泉守家上屋敷、信濃国松本藩水野出羽守家屋敷、旗本中根壱岐守の屋敷が確認できる。中根家は次代で次男正章が中根宇右衛門を名乗って分家し、屋敷を継いだ。江戸時代中期には北東部に出羽国庄内藩酒井左衛門尉家中屋敷が加わり、水野家屋敷が移転した。
■鳶頭(とびかしら);鳶の者の長。かしら。
現代の鳶頭のルーツを遡ると、江戸時代の町火消制度に辿りつく。享保3年(1718)、南町奉行大岡越前守が「火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足三十人ずつ出すべきこと」と発令。武士による武家火消し(大名火消し・定火消し)だけが存在していた江戸の町に、このときはじめて町人から成る町火消組合が誕生した。
■冥加金(みょうがきん);江戸時代の雑税の一種。本来は商・工・漁業その他の営業者が幕府または藩主から営業を許され、あるいは特殊な保護を受けたことに対する献金をいったが、のち幕府の財政補給のため、営業者に対して、年々、率を定めて課税し、上納させた金銭。
■町火消し(まちびけし);享保3年(1718)10月に、町奉行大岡越前守忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。12月には、火消組合を編成し、絵図に朱引をして各組合ごとの分担区域を定めています。しかし、これは地域割りがうまくいかなかったので、享保5年8月に、組合の再編成がおこなわれました。隅田川から西は約20町を一組とし、47組を編成しました。これらの組合は、いろは四十七文字を組の名としましたが、へ・ら・ひの三字は除き、そのかわりに百・千・万を加えました。隅田川から東、本所・深川地域は別に、一組から十六組までの16組合に編成しました。享保15年1月になると、47組をさらに一番から十番までの十組の大組に編成しました。これにより従来の編成では不足がちであった人夫を、はるかに多く火事場に集めることが可能となりました。この結果、従来一町から30人ずつ出していたのを15人に半減して、町々の負担を軽くしています。その後、いろは四十七組のほかに本組が編成されて三番組に加えられたため48組となりました。元文3年(1738)になると、四番組と七番組は交字の縁起が悪いということで、四番組は五番組に、七番組は六番組に編入しましたので、大組は8組となりました。このほか、元文3年ごろまでに、本所・深川の16組も南・中・北組の大組に再編成されました。
■節季(せっき);盆・暮または各節句前などの勘定期に差し入れ、祝儀を出した。
■小柳町(こやなぎちょう);東京都神田区小柳町(こやなぎちょう)、1933年の関東大震災後の町名改正に伴って廃止された。現在は千代田区神田須田町の一部となっている。神田須田町の靖国道路の中央線ガード下辺り。柳原土手にある柳原神社の近くの町で、氏子町会です。
■自身番(じしんばん);江戸時代の江戸・大坂・京都などで各町内の警備のため設けられていた番所。町方により維持されていた。はじめは各町の地主が自身で順番に詰めたところからこの名がある。のち家主や雇人が詰めるのが普通となった。江戸では市中を二十一番組に分け、組ごとにいくつかの番小屋を町の要所に設け、その費用は町入用より支出した。その数は嘉永三年(1850)には994ヵ所であった。
■和泉橋(いずみばし);東京都千代田区を流れる神田川に架かる、昭和通り(国道4号)の橋。左岸(北側)は神田佐久間町1丁目および神田佐久間河岸、右岸は神田岩本町および岩本町3丁目となる。
■柳原の土手(やなぎはらのどて);神田川の神田万世橋から下流の柳橋まで、神田川の南岸に沿って築かれた総延長1.3km弱の土手に柳が植えられ、その通りに、土手を背にして床店が並んでいた。床店場所全体は八つの区画に分かれていて、それぞれの区画ごとに幕府からの営業認可が与えられていた。
上図、「柳原土手」。『吾妻遊』 喜多川歌麿画。 土手際に床店の古着屋が並んでいます。
■八丁堀(はっちょうぼり);東京都中央区の地名で、旧京橋区にあたる地域内。現行行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目。江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年幕府によって、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになった。時代劇で同心が自分達を“八丁堀”と称したのはこれにちなむ。
■町同心(まちどうしん);江戸時代、江戸の町奉行所付属の同心。年番方・本所見廻・養生所見廻・牢屋見廻・吟味方・例繰方(れいくりかた)・高積(たかづみ)改など町奉行の各課に配属され、主管の与力を補佐したが、隠密廻・定(町)廻・臨時廻などのように、同心だけで管轄することもあった。
■定廻り(じょうまわり);定町廻り。江戸時代、町奉行配下の廻り方同心の一隊。南北両町奉行所同心各4名からなり、江戸の町方を大体四筋に分け定まった道筋を巡回し、犯罪の捜査および犯罪者の逮捕に従った。隠密廻り・臨時廻りとともに三廻りと呼ばれた。
■岡っ引き(おかっぴき);江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方などで警察機能の末端を担った非公認の協力者。
■身延の百姓の娘(みのぶのひゃくしょうのむすめ);身延町は、山梨県の南部に位置し、中央を北から南に日本三大急流の一つである富士川が流れ、その支流として、早川、常葉川など大小の河川が流れ込んでいます。平坦部分は富士川沿いと支流の中流域から下流域及び合流付近に広がっており、富士川の東側をJR身延線が、西側を国道52号が南北に通っており、国道300号が町を東西に延びております。
■夜鷹(よたか);江戸の”夜鷹(よたか)”が京では”辻君(つじぎみ)”、大坂に行くと”惣嫁(そうか)”と名が変わります。暗い所から「チョイと、お前さん、遊んでいかない」と声を掛ける女子衆(おなごし)です。
■本所の吉田町(ほんじょ よしだちょう);墨田区蔵前橋通り、落語「中村仲蔵」で歩いた報恩寺橋。その西側、石原四丁目中央。そこから出張するのが、両国の薬研堀、神田の筋違い橋、駿河台、護持院が原、それにここ柳原の土手。大事なことは夜になっても人通りはあるが、一応静かな所を適地とした。
■鮫が橋(さめがばし);新宿区南元町東部。赤坂御所(当時・紀伊和歌山藩中屋敷)の南元町交差点前の鮫が橋門に小川が流れていてそこに架かった橋を鮫が橋と言った。御所の西側の坂を鮫が橋坂と言い、下がりきった所が鮫が橋、そこを右に曲がると鮫が橋○○町という町が並んでいた。そこから同じように夜鷹は番町、四ツ谷堀端、牛込桜ノ馬場、愛宕下、それに柳原の土手に散って行った。
■春の朝(はるのあさ);この噺は全て旧暦での噺です。春は立春からですから今の暦で2月4日、その翌日が正月です。梅は咲いたでしょうが、まだまだ寒さは抜けきっていませんので、小雪がちらつくこともあるでしょう。お竹の心は梅の花のように春満開です。
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