落語「ひねりや」の舞台を行く
   

 

  「ひねりや」より


 

 日本橋本町に捻(ひねり)屋曽根右衛門という変わり者がいた。
 子供が出来ないので、沢庵石を磨いてしめ縄を張り、これを礼拝すると子供を授かった。生まれたのは男の子で曽根吉と名付けたが、年頃になっても堅物で本ばかり読んでいる。

 「とんでもない伜だ。これから道楽をしないと家へ置かないぞ」、「すみません。で、心を入れ替えて、道楽をいたします」と、曽根吉は、月並みの乗り物ではおもしろくないと、大八車で吉原入り。

 茶屋でもひねったものばかり注文するので、茶屋は耳は聞こえるが口はきけないという芸妓を出した。勿論こしらえもの。芸妓はいろいろ手真似で答えているうちに、曽根吉が百両出したので思わず「まぁ、すみません」、「あッ、捻った唖(おし)だ。口まできいた」。

 

増補落語事典 東大落語会編 より転載

 



ことば

■古くからあった落語を圓朝が明治時代の設定に改作したといわれています。オチは「唖の釣り」と同じです。
 私は聞いたことがありませんし、音として残っているかも分かりません。今後聞くことも無い噺です。この粗筋は、『落語事典』より転載、東大落語会の作者に感謝します。

■この噺は、禁演落語五十三題;戦時中の昭和16年10月30日、時局柄にふさわしくないと見なされて、浅草寿町(現台東区寿)にある長瀧山本法寺境内のはなし塚に葬られて自粛対象となった、廓噺や間男の噺などを中心とした53演目のこと。戦後の昭和21年9月30日『禁演落語復活祭』によって解除。建立60年目の2001年には落語芸術協会による同塚の法要が行われ、2002年からははなし塚まつりも毎年開催されている。 また、毎年8月下席の浅草演芸ホール夜の部の興行は「禁演落語の会」と銘打ち、落語芸術協会が評論家の解説をつけて禁演落語を口演している。題名は、下記の通り。

明 烏 粟 餅 磯の鮑 居残り左平次 お茶汲み
お見立て おはらい 親子茶屋 首ったけ 郭大学
五人廻し 子別れ 権助提灯 三助の遊び 三人片輪
三人息子 三枚起請 品川心中 高尾(紺屋高尾) 辰巳の辻占
付き馬 突き落とし 搗屋無間 つるつる とんちき
二階ぞめき 錦の袈裟 にせ金 文違い 白銅の女郎買い
ひねりや 坊主の遊び 万歳の遊び 木乃伊取り 山崎屋
よかちょろ 六尺棒 一つ穴 星野屋 悋気の独楽
城木屋 引っ越しの夢 包 丁 氏子中 紙入れ
駒 長 葛籠の間男 蛙茶番 疝気の虫 不動坊
宮戸川 目 薬 後生鰻    

 この表は、落語「三助の遊び」より孫引きしたもので、禁演落語53話の最後に書き出した「ひねりや」です。
 これで、禁演落語五十三題が完結です。

ひねりや;普通と変ってひと工夫してあること。また、変った趣向があること。一風変った趣向にすること。その人。ひとひねり知恵を絞った者では無く、自分だけで面白いと思っている偏屈者です。
 主人公の息子は本ばかり読んでて,道楽をしないと家に置かないと宣言されます。落語「明烏」の息子、日本橋田所町三丁目日向屋半兵衛の息子時次郎はうぶで吉原の大門がどちらを向いているかも分からない、その為に遊び人の二人源兵衛と多助に、騙され吉原に連れて行かれます。そのドタバタぶりが面白いのですが、この噺では、息子は最初から吉原を飲んで掛かっています。遊廓に初めて足を踏み入れる若者としてはいかがな物でしょうか?

日本橋本町(にほんばし ほんちょう);本町一丁目から四丁目まで有った。現在の中央区日本橋室町二~三丁目、日本橋本町二丁目、あたり。日本銀行の東側。当時の大店(おおだな)が集まっている商業の中心地。

沢庵石(たくわんいし);沢庵=漬物の一種。干した大根を糠(ヌカ)と食塩とで漬けて重石(オモシ)でおしたもの。沢庵和尚が初めて作ったとも、また「貯え漬」の転ともいう。たくあん。たくわん。重しに使われる石。

 沢庵石、季節の旬野菜をおいしく頂く「お漬物」。漬物石はお漬物を作るために欠かせない、ひとつのアイテムです。漬物石か小さいものは1kg、大きいものは10kgサイズのものがあります。軽くても、重くても、いわゆる重石(おもし)。野菜に重力をかける役割を果たしているのが「漬物石」です。
 漬け込むことで、野菜に塩が入り、野菜に入っている水分が外に出るんです。この現象が、いわゆる「浸透圧」。浸透圧という自然の力をサポートするために、漬物石が必要になります。 

しめ縄(しめなわ);標縄・注連縄・七五三縄・〆縄。(シメは占めるの意) 神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄。一般には、新年に門戸に、また、神棚に張る。左捻(ヨり)を定式とし、三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙垂(カミシデ)を下げる。輪じめ(輪飾り)は、これを結んだ形である。しめ。章断(シトダチ)。
 御旅所や、山の大岩、湧水地(泉水)、巨木、海の岩礁の「奇岩」などにも注連縄が張られる。また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることができる横綱も注連縄である。江戸時代、お蔭参りのために使わした「お蔭犬」にも、その目印として首に巻かれることがあった。現在でも水田などで雷(稲妻)が落ちた場所を青竹で囲い、注連縄を張って、五穀豊穣を願う慣わしが各地に残る。料理店などの調理場にかけられる玉暖簾も聖なる領域と俗なる領域を結界する注連縄の意を持っている。

大八車(だいはちぐるま);江戸時代から昭和時代初期にかけての日本で荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車。代八車とも書く。 なお、同様の構造の荷車は少なくとも平安時代から使用され続けているが、一般的には江戸時代からとされることが多い。
 おおよその形状は、前方に「ロ」の字型の枠、枠の後方に木を組んで作られた板が付き、その板の左右に車輪が付いている。 現在では、大八車・リヤカーというと二輪のものが連想されるが、江戸時代には四輪のものも存在した。四輪の大八車には、重量物を積載した場合でも前後のバランスが保ちやすいという利点があったが、小回りが利かない・まがり角を曲がりにくいという欠点に打ち克つことができず消滅してしまった(但し、明治時代以降には大八車に前車を取り付けて四輪とした構造の荷馬車が現れている。自動車が普及するようになるまで日本各地で使用された。

 曽根吉は大八車で吉原に行ったと言いますが、車力の男が大八車を引かなければいけません。乗り心地も悪く、構造も似ている人専用の人力車で行けば良い物と思います。ただ、人力車の発明は明治に入ってからですから、時代設定は江戸時代なのでしょうか。圓朝が改作して明治に直したと言っていますので・・・。

吉原(よしわら);廓と言えば江戸では吉原を指します。新吉原(浅草に移った後の吉原)は、江戸の北にあったところから北州、北里とも呼ばれました。俗にお歯黒ドブに囲まれた土地で、総坪数二万七百六十坪有りました。ドブには跳ね橋が九カ所有りましたが、通常は上げられていて大門が唯一の出入り口でした。大門から水戸尻まで一直線の道路を仲の町と言い、その両側には引き手茶屋が並んでいました。
  仲の町の右側には、江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目が、左側には伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目が並んでいました。なかでも、江戸町一,二丁目、京町一,二丁目、角町を五丁町と呼んでいました。揚屋町には元吉原当時の揚屋が並んでいました。また、酒屋、寿司屋、湯屋が有り、裏には芸者達が住んでいました。
  この五丁町の入り口には、それぞれ屋根付き冠木門の木戸がありました。また、各町の路の中央には、用水桶と誰(た)そや行灯が並んでいました。
  江戸町一丁目の西河岸を情念河岸と呼ばれました。また、江戸丁二丁目の河岸を別名羅生門河岸とも呼ばれました。志ん生の落語「お直し」の舞台です。
  廓の四隅にはそれぞれ稲荷神社が祀ってあります。大門を入って右側に『榎本稲荷社』、奥に『開運稲荷社』、羅生門河岸奥に『九郎助稲荷社』、戻って『明石稲荷社』があって、その中でも九郎助稲荷社が名が通っていました。明治29年頃、この四稲荷と衣紋坂にあった吉徳稲荷が併合され、吉原神社となりました。現在はお歯黒ドブが無くなって、水戸尻を越えた右側に社殿を構えています。
  吉原遊女3千人と言われていたが、安永、天明の頃は三千人を切っていたが、寛政になると三千を越えて四千人台に突入します。
  『江戸吉原図聚』 三谷一馬画より吉原略図。 落語「万歳の遊び」より孫引き

 上図、天才絵師・葛飾北斎の三女、葛飾応為筆 「吉原格子先之図」 

 上図、「青楼二階の図」 歌川国貞画 文化10年(1813)3月 江戸東京博物館蔵

茶屋(ちゃや);江戸時代、上方の遊里で、客に芸者・遊女を呼んで遊ばせた家。揚屋(あげや)より格が低かった。 また、江戸時代、江戸新吉原で、客を遊女屋などに案内することを業とした家。引手茶屋。
 ここでは引き手茶屋をさします。高級な見世(大見世)では茶屋を通さないと登楼が出来ません。茶屋は見世に対して遊女の料金から飲食費用、芸者・太鼓持ちの費用、心付け、見世を傷つけたり、損料物全ての金銭的責任を負っていますから、見ず知らずの客が来ても(一見客)上げてはくれません。最低限、財産を持った友人知人の紹介が無いとお付き合いが出来ません。で、茶屋から見世に行くことも、茶屋で遊ぶことも不可能です。吉原の話は沢山あるのに、話が廃れるのには、内容が矛盾だらけだからです。

芸妓(げいぎ。げいこ);舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。芸者・芸子のこと。酒席に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、太夫遊びが下火となった江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つ。 江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性である幇間(太鼓持ち)を指し、芸子が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。京都では芸妓(げいこ)とよばれる。現代では料理屋(料亭)、待合茶屋に出入りする芸者が売春を行うことはない。地方の温泉地等ではコンパニオンと呼ばれる派遣の芸妓などが存在し、また俗に枕芸者と呼ばれるものも一部に残っている。

百両(100りょう);現在の貨幣価値に換算すると、1両=8万円。100両=800万円~1000万円。出された芸妓も驚いた。声に出して、それは驚いた。



                                                            2020年4月記

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