落語「三国志」の舞台を行く
   

 

 五代目春風亭柳昇の噺、「三国志」(さんごくし)より


   

 

私は春風亭柳昇と申しまして、大きな事を言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば我が国では・・・、私一人で御座いまして・・・。(柳昇の決まり文句。これが無いと始まらない)

 三国志を見ますと、凄い豪傑がイッパイ出て来ますね。たった一度大嘘をついて大勝利を招いたという人が居ます。その人の名を、寿亭候関羽(じていこう かんう)身の丈9尺3寸、真っ赤な顔をして髭が60cmの大男。同じ豪傑で燕人張飛(えんぴちょうひ)は大の仲良し。劉備玄徳(りゅうびげんとく)の家来であったが、義兄弟の契りを結んだ。しかし負け戦が重なり、三人ともバラバラになって放浪する羽目になってしまった。

 曹操(そうそう)の下に来て、「関羽かい、よく来たな。アンタが良かったら何年居ても良いからね」、「条件があるんだ」、「居候から条件を聞こうとは思わなかった」、「劉備玄徳の義弟となっているが、家来だから、何か有ったら行っちゃうよ。また、貴方の所で戦があっても参加しないよ」、「大丈夫、我が軍は83万だからね」。
 でも、腹の中では自分の家来にどうしてもしたかった。金で釣ってみた。「関羽よ、ここに千両の金が有るが要らないかぃ」、「持ってても面倒くさいから要らないよ」、「そうか、リクルートの株が有るがどうだぃ」、「マスコミがウルサいから要らないよ」。曹操、何か無いか考えたら『女』が有った。男で女が嫌いと言うのは居ないからな。
 「関羽よ、歓迎の宴を開いていない今晩どうだ」、「いいよ」、「酔っ払ったら、泊まれるんだ。安心して酔えるよ」。
 「ここなんだ」、「良い店だな」、「酒が来たぞ。旨い酒だな。久しぶりに飲んだから酔ってしまった」、「泊まっても良いんだよ」、「では、そうしよう」。隣には絹布の三枚重ねの夜具が有った。その横に十七八の娘が居た。「曹操さんからサービスしろと言われているの」、「しょうが無いな。お前はそこで寝ろ。俺は廊下で寝る」。
 曹操はがっかりした。欲の無いのには適わない。「名将は名馬を選ぶと言いますから名馬を差し上げれば如何ですか」、「そんな名馬がいるかぃ」、「先日お求めになった『赤兎馬(セキトバ)』と言う名馬が・・・」、「やだよ。やっと手に入れた馬だ」、「関羽さんは百万の軍勢に匹敵するんですよ。その方に居てもらうんですよ」、「惜しいけれど、やるか。関羽を呼んでくれ」、「馬をやりたいんだがな」、「つまらない馬は要らないよ」、「セキトバだよ」、「一日に千里を走る、と言われている馬か」、「そうだ。引いて参れ」、「栗毛で、四白流れ星かッ」と、よだれを流した。「乗っても良いかぃ」、「どうぞ」、見ていると人馬一体、戻ってくると、「ありがとう。3時間走っても汗もかかないんだ。本当にもらっても良いのかぃ。何かお礼は?」、「要らないよ」。

 関羽はお礼がしたかったが、その機会が無かった。そのうち曹操の83万の軍隊と袁紹(えんしょう)の軍隊が対峙した。袁紹の部将顔良と文醜にやられて顔色を失っていた曹操。「それでは、袁紹の部将顔良の首を取ってこようか?」、「頼んだよ」。見事部将顔良の首を取って曹操の陣に戻ってきた。
 「貴方は天下一の豪傑だな」、「私は一番では無い。張飛(ちょひ)は天下一番だな。敵の100万の軍勢でも、一人で乗り込んで、めぼしい大将の首を取ってきたんだ。これは強いよ」、「今どこに居るの」、「千葉県銚子。今はどこに居るか分からない」。
 これは、大ウソ。一人で行って取れるわけが無い。しかし、関羽のような豪傑が言うと本当のように聞こえる。「張飛が来たら逃げるんだよと、教え込んでいた。劉備玄徳が再び軍を立てて押し出したが張飛も関羽も居ないので、負け戦が続いていた。それを聞いた曹操は、今の内に叩いておこうと軍を出した。それを聞いた張飛と関羽は劉備玄徳の軍にはせ参じた。曹操は勝利を確信していたので、偵察だけを出していた。逃げ残っていた一人とみて、「何処の誰だ?」、「劉備玄徳の張飛だ」、「逃げろッ」と、本隊に逃げ帰った。

 「何で逃げて行ったのかな。ま、イイや」と、劉備玄徳の陣に入った張飛。劉備玄徳は大喜び。「何で名乗ったら敵は逃げたんでしょうね」、「それは、関羽が天下一の豪傑は張飛だと言いふらしたんだろう」、「今度の戦で使ってみよう」、「関羽の兄貴はウソが上手いな」。

 「やぁ~やぁ、遠からん者は音に聞け、近くに寄って目にも見よ、我こそは劉備玄徳の義弟張飛なりッ!」、「出たッ」と兵士達は逃げた。それも一人や二人では無い、83万の大群が逃げて大混乱。「もっと、やってやろうかな。張飛、張飛」、「わ~ワァ~ワ」、「張飛、張飛」、「わ~ワァ~ワ」。
 まるで赤子をあやすように敵を追っ払った。それで日本でも赤ん坊をあやすときに、「チョウシ、チョウシ、わ~ワァ~ワ」と、言うようになった。 三国志というお話しでした。

 



ことば

五代目 春風亭 柳昇(しゅんぷうてい りゅうしょう);1920年〈大正9年〉10月18日 - 2003年〈平成15年〉6月16日)、東京府北多摩郡武蔵野村(現: 東京都武蔵野市)出身。本名、秋本 安雄(あきもと やすお)。ペンネーム、林 鳴平。数々の新作落語を創作した。出囃子は『お前とならば』。

 太平洋戦争中は陸軍に召集され、歩兵として中国大陸に渡ったが、敵機の機銃掃射で手の指を数本失っている。利き手をやられたため、元の職場に復職することもできず途方に暮れていたところ、戦友に六代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で生活のために柳橋に入門して落語界入り。 手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動して成功を収めた。数は少ないが古典落語のネタも持っており、『雑俳』や『お茶漬け』(茶漬間男)等を演じた。 年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として、地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け、まさに生涯現役の噺家であったが、高座やテレビ出演での挙措に衰えが囁かれるようになった矢先の2003年6月16日、胃癌のため82歳で死去。

三国志(さんごくし);魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書。撰者は西晋の陳寿(233年 - 297年)。 後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。 「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。

 中国、後漢滅亡後、三国時代の魏(ぎ)、呉(ご)、蜀 (しょく→蜀漢) の三国が鼎立(ていりつ)した時代。黄巾の乱を契機として後漢王朝の支配力はまったく失われ、各地に群雄が起ったが、華北を平定した曹操、江南に拠る孫権、蜀 (四川) に入った劉備による三国鼎立の大勢が次第に輪郭を明らかにしてきた。延康1 (220) 年曹操が死亡するとその子丕(ひ)が跡を継ぎ、後漢の献帝の譲りを受けて即位し、国号を魏といった。これが魏の文帝である。翌年劉備は成都で帝位につき、国号を漢(かん)といった (普通それを蜀、蜀漢という) 。孫権もまた黄竜1 (229) 年建業で皇帝の位につき、国号を呉といった。ここに三国鼎立が確立した。のち魏王朝の実権は司馬氏に移り、司馬昭は景元4 (263) 年漢を滅ぼした。昭の子炎 (→武帝) は泰始1 (265) 年魏の皇帝の譲りを受けて晋の国を建て、ここに三国時代は幕を閉じた。帝は大康1 (280) 年呉を滅ぼし、天下を統一した。この時代は豪族勢力の進展が著しく、天下が3つに分裂したのもこれと関連がある。三国ともに財力を確保するため屯田に力を注ぎ、兵力確保のため兵士の家に永代兵役の義務を負わせる制度を設けた。魏の九品官人法の設定、清談の流行などはこの時代において特に注目されるものであった。

* 九品官人法(きゅうひんかんじんほう);中国、魏晋南北朝時代の官吏任用制度で、隋代に科挙が行われるまで続いた。九品中正法とも。220年魏の文帝の時に始まるという。地方に地方官とは別に中正の官を置き、官吏志望者を1〜9等に分けて中央に報告させ、中央ではそれに応じて1〜9品の官職に望ある者を任じたため、家柄によって官の高下が決められる弊害を生じ、貴族連合政権が形成された。
* 清談(せいだん);中国の魏晋時代に知識人の間に流行した老荘風の高踏的な哲学議論をいう。晋代の「竹林の七賢」の清談は特に有名。 また、世俗を離れた、趣味・芸術・学問などの高尚な話。

関羽(かんう);( ~219)右図。三国の蜀漢の武将。字は雲長。諡は忠義侯。山西解の人。劉備・張飛と義兄弟の約を結ぶ。容貌魁偉、美髯(ビゼン)を有し、義勇をもってあらわれ、劉備を助けて功があり、のち魏・呉両軍に攻められ呉の馬忠に殺された。後世各地に廟(関帝廟)を建てて祀った。
 徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。建安3年(198年)、曹操が呂布を破ったとき、関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された(『華陽国志』劉先主志)。また、このとき関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶ることを曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。建安4年(199)、劉備は曹操を裏切り徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。このとき、劉備は小沛に戻り、関羽が下邳(かひ)の守備を任され太守の事務を代行した。
 建安5年(200)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受け、敗れて袁紹の元に逃げると、関羽は曹操の捕虜になった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し、顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。
 曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分の下に長くとどまるつもりはないと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたところ、関羽は劉備を裏切ることはないことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去るつもりであることを述べた。そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。 顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。
  名馬赤兎馬(せきとば)
については呂布の死後曹操が持っており、降伏した関羽の心を得るべく譲ったことになっている。曹操からの贈り物は二夫人への贈り物を含め全て封印した関羽であるが、「この馬は一日に千里を駆けると知っております。今幸いにこれを得たならば、もし兄者(劉備)の行方が知れました時、一日にして会う事が出来ましょうぞ」として唯一これを受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する。 『三国志演義』によると赤兎馬は稀代の名馬で、一日に千里を駆けることができた。「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意とも。

 燕人張飛(えんぴちょうひ);張飛(ちょう ひ、拼音: Zhāng Fēi ヂャン フェイ、生年不詳 - 章武元年(221年)6月)右図は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。字は益徳。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。
 後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは下述の通り中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。
 同郡に住む劉備が黄巾の乱に臨んで義勇兵を集めようとした時、他所から流れてきた関羽と共にその徒党に加わり、その身辺警護を務める事となった。以後は関羽と共に劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなり、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという。
 劉備が皇帝に即位した直後の詔勅では、張飛のことを古代の召虎に喩えて、その武勇を賞讃している。また、曹操の参謀であった程昱らから「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」さらに「1人で1万の兵に匹敵する」と、郭嘉も同様に張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いていると、董昭は関羽、張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきであると、また劉曄にも「関羽と張飛の武勇は三軍の筆頭である」と評されており、孫権軍の重鎮である周瑜からも「張飛と関羽を従えれば大事業も成せる」と評されるなど、その武勇は天下に広く評価されていた。 ただ、張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には敬意をもって応対したものの、身分の低い者、兵卒などには暴虐であった。多すぎる死刑の数と、いつも兵士を鞭打ってその当人を側に仕えさせていることを、劉備からは常々注意されていた。しかし張飛は改める事ができず、ついに死に直結する事態を招くこととなった。

 建安13年(208)、荊州牧の劉表が死去し、曹操が荊州へ進軍すると劉備は江南へと逃げた。曹操は昼夜をかけてこれを追い、当陽県の長坂まで到着した。劉備は曹操がやってきたと聞くと妻子を棄てて逃走し、張飛は20騎ほどを従えて殿軍を引き受けた。張飛は川に拠って橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえて「俺が張飛だ、死にたい奴からかかって来い!」と曹操軍に向け呼ばわったところ、誰もあえて近づこうとしなかった。これによってついに劉備は落ち延びる事ができた(長坂の戦い)。

 『三国志』蜀志「劉巴伝」が注に引く『零陵先賢伝』によると、庶民(当時の用語では庶人)上がりの張飛が士大夫の劉巴の下に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生を受けたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして一兵卒(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった。士大夫と庶民との間に、厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える。

 張飛を「ちょうひ」でなくて「ちょうし」と発音する江戸なまりをギャグの元としているため、オチでは張飛→銚子になっています。

曹操孟徳(そうそう もうとく);曹操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))右図は、後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。 羅漢中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。

  曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ太尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子将(許劭)は、「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。 20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉・頓丘県令・議郎を歴任した。 洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。
 その任期中に、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。 光和7年(184)、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、皇甫嵩や朱儁とともに黄巾軍に大勝し、その功績によって済南の相に任命された。済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。
 曹操は家柄や品行ではなく、才能のある人材を積極的に登用することを求めた。建安15年(210)に布告した「求賢令」では、呂尚や陳平のエピソードを挙げ、「才能を重視し、家柄や過去にこだわらず、当時身分の低かった専門職の人々も厚く用いる(唯才是挙)」という登用姿勢を打ち立てている。また『世説新語』軽詆篇によると、荊州の劉表は荷車は引けないが大食の巨大な牛を所有していて、それを自慢していた。だが曹操は荊州を征服した際、その牛を「どんなに大きくても役に立たないのでは意味が無い」と見なし、屠殺して宴の肴にしてしまったという。

劉備玄徳(りゅうび げんとく);劉備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))右図は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。 黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。
 劉表から新野城(現在の河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望にて撃破した。しかし、劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかったため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は劉表に受け入れられなかった。
 この頃(建安12年(207年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。 劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。
 劉備が逃亡すると、劉琮配下や周辺の住民十数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。 その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、娘は曹操に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。 殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉表の長子・劉琦の軍と合流した(長坂の戦い)。
 そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。 赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。 劉備の荊州牧就任後、劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。
 『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、また部下に張飛を殺され呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。図、中央劉備。

袁紹(えん しょう);(? - 建安7年5月21日(202年6月28日))右図は、中国後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るう。最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。
  『三国志』の編者である陳寿は、「袁紹の威容は堂々としており、名声は天下に轟き、河北に割拠した」と前置きしながらも、やはり同じく群雄であった劉表とをまとめて「しかし、外面は寛大に振舞いながら内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた。また、優れた人物がいても用いることができず、忠言を聴いても実行できなかった。長子を廃して庶子を後継ぎにしようと考え、礼儀を捨て個人の情を重んじた。だからその死後、子孫が困窮し、領地を失ったのは当然であった」と評している。曹操や孫権の後継争いの際にも、袁紹と劉表は悪しき前例として言及されている。

顔良(がんりょう); 顔良とは、後漢時代の袁紹軍の武将。
 文醜と共に袁紹軍の猛将コンビと知られる。 官渡の戦いにおける曹操軍との戦いにおいて当時曹操軍の客将となっていた関羽に討たれる。相当の手練であり、曹操軍も関羽以外では歯が立たなかったほどである。 関羽に討たれたのは正史にもあるが、演義では劉備が当時袁紹軍にいたため、油断した顔良がのこのこ近づいて、一刀の元に斬られたとある。 イケメンだったかどうかは定かでは無いが、名前の字体が「顔良(=顔が良い、イケメン)」だったり、コンビの片割れの名前が「文醜」だったこともあり、イケメン・ブサメンコンビとして今日知られるようになった(?)

文醜(ぶんしゅう); 文醜とは、後漢時代の袁紹軍の武将。
 顔良と共に袁紹軍の猛将コンビとして知られる。官渡の戦いにおいて、曹操軍と戦い、顔良が討たれた後に、輜重を囮とした策に引っ掻かり、配下の騎馬軍勢が物資の略奪に夢中で態勢を乱している所を伏兵の攻撃を受け乱戦の最中にあっけなく戦死した。関羽に討たれたとあるのは演義である。また顔良と義兄弟と契りを結んでいたのも演義の創作である。
 演義では身の丈8尺、獬豸(かいち、伝説上の神獣)のような顔をした人物とされている。公孫瓚との戦いの折りに公孫瓚を追い詰めるものの趙雲に阻まれる場面もある。曹操軍に討たれた際も張遼、徐晃の名将二人を一度は退けており、猛将の名に恥じない戦いぶりを見せた。

栗毛で、四白流れ星;馬の体中が茶色で栗のような色を栗毛。胴体が栗色で、たてがみと尻尾だけ黒いのを鹿毛(かげ)。全部黒いのをアオと言います。白い馬はあし毛、と言います。一白は足首に一本だけ白くなった馬、二本を二白、三本を三白、四本を四白。星というのは眉間のところにテニスボール位の丸い毛が生えているのを言い、鼻の下まで白くなったのを流れ星と言います。(柳昇の説明)

義兄弟(ぎきょうだい);義によって誓い合って、兄弟の交わりを結んだ者。ここでは劉備、関羽、張飛の3人を言う。

リクルートの株;1988年(昭和63年)6月18日に発覚した贈収賄事件。 リクルートの関連会社であり、未上場の不動産会社、リクルートコスモス社の未公開株が賄賂として譲渡された。贈賄側のリクルート社関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす、大スキャンダルとなった。 当時、第二次世界大戦後の日本においての最大の企業犯罪であり、また贈収賄事件とされた。
 1988年6月18日に川崎駅西口再開発における便宜供与を目的として川崎市助役へコスモス株が譲渡されたことを朝日新聞が『川崎市助役へ一億円利益供与疑惑』としてスクープした。当時再開発が行われていた明治製糖川崎工場跡地の再開発事業であるかわさきテクノピア地区に関して、本来容積率が500%のところを800%に引き上げて高層建築を可能とさせるのが目的であったと報道された。

千葉県銚子(ちばけん ちょうし);三国志の張飛のことを、柳昇は江戸訛りで「ちょうし」と発音している。その為、張飛と銚子が混同されています。

 銚子市は、千葉県北東部の海匝(かいそう)地域に位置する市。関東地方および千葉県最東端。市域は利根川下流および河口の南岸で、銚子ジオパーク、海岸部は水郷筑波国定公園に指定されている。醤油など醸造関連遺産は近代化産業遺産、港町の歴史的町並みは日本遺産に認定されている。
 古くから港町として栄え、日本一の水揚げ量である特定第3種漁港の銚子漁港を有する。また、利根川の河川舟運で栄えた醤油の五大名産地の一つ。最上醤油の銘柄を持つヤマサ醤油が本社を置くことで知られる。 江戸時代には利根川水運が開発されたことにより、銚子の醤油醸造を中心に醸造業、水産業、流通業が盛んで、古くは江戸に運ぶ利根海運の交易都市として発展した。 犬吠埼や屏風ヶ浦など全国有数の景勝地をもつ観光都市の側面もある。犬吠埼は日本一早い初日の出スポットとして知られており、1月1日未明から早朝にかけて約5万人が訪れる。遮るものもなく雄大な海岸線はかつて数々の文人、墨客が訪れ、「文豪の地」として親しまれていた。海岸線沿いは歌碑、詩碑が多く立つ。 温暖な海洋性気候であり、避暑地や避寒地に適した気候となっている。気候を生かした農業も盛んで、露地野菜や果物が栽培されている。
 *特定第3種漁港;利用範囲が全国的な漁港のうち、水産業の振興のためには特に重要であるとして政令で定められた漁港。略称は「特三」。本州と九州にのみ分布し、全国に13港ある。日本国内には2、914の漁港があり、そのうち「特三」は13港と、全体の0.45%を占めるに過ぎないが、漁獲高は全体の約30%を占める。
 上図:歌川広重画『六十余州名所図会 下総銚子の濱外浦』。
 落語「花筏」の舞台になって有名な銚子の写真が見られます。

やぁ~やぁ、遠からん者は音に聞け、近くに寄って目にも見よ、我こそは・・・;講談で使われる言葉だが・・・。
 昔の武士が戦場で名乗りをあげるときの決まり文句、あるいは、昔の武士はこのように言っていたと見てきたようなウソをいう講釈師がでっちあげた名乗りの前口上。
 「やあやあ」とまず叫んで周りの者の注意を引き、続いてこの文句を述べる。意味は「遠くにいる者はいまから大声で名乗るからよく聞いておけ、近くにいるなら目でもよく見よ」といったところ。武士が戦闘の主役になったころ、軍隊のリーダーは自軍の先頭に立ってこう叫び、自分のプロフィールを述べて、敵軍のリーダーとの一対一の決闘を望んだという。相手の大将がわけのわからないことを叫んでいる間、兵士たちは間抜け面をしてそれを聞いていたわけで、あまり頭のよいやり方とは思えず、時代が下ると、そんなのんきな騎馬戦も姿を消し、長い槍を持ったひとかたまりの歩兵がわめきながらが、攻めてくるといったようなシビアで恐ろしい戦闘法が主流となった。
 中国を制覇した元のフビライ軍が、13世紀の後半、二度に渡って日本に攻め込んできたとき日本軍は、武士の名乗りなどおかまいなく攻め込んでくる愛想のない敵方のやり方に苦戦したというが、そもそも日本語で叫んだって向こうさんにはわかるわけがなく、そのあたりは日本の武士だって空気を読んでいたはずであり、史書を詳細に調べれば、向こうがじゃんじゃん攻めてくるのにいちいち名乗りを上げてから戦いを始めるほど日本の武士もおバカでなかったことは知れるのである。
(笑える国語事典)

偵察(ていさつ);(英:reconnaissance)は、敵などの情報を能動的に収集すること。受動的である監視の対義語。基本的には密かに行われる活動である。 軍事用語として用いられるが、そこから派生して一般においても「相手の情報の収集」の意味で用いられる。



                                                            2020年6月記

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