落語「有馬のおふじ」の舞台を行く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「有馬のおふじ」(ありまのおふじ)より


 

 ある大店の旦那が上方へ行って、有馬出身のおふじという小湯女(こゆな)と馴染みになった。連れ帰って浅草馬道に囲っておいた。

 これに気付いた本妻が、「別に一軒持たせては費用が掛かりますから、家へ連れていらっしゃいまし」と申し出て、おふじを家に連れ帰った。こうして妻妾むつまじく生活をしていた。
 しかし、おふじの方ではかえって本妻の気遣いが心苦しくなって上方へ帰してもらった。
 翌年の5月晦日のこと、旦那が権助を供に連れて出掛けて行ったが、権助だけが帰って来た。「旦那は馬道のおふじさんへ回りました」と言う。本妻は、「大阪へ帰ると言っておきながら、まだ馬道に囲っていたのか」とカンカン。胸ぐらを掴んで、権助にまで当たり始めるので、権助は、「馬道は富士横町のお富士様へ参詣に行ったのだ」 と説明。奥さんは、納得したが、怒ったことが恥ずかしいので、旦那には内緒にしてくれるようにと頼んだ。
 「言いやしねーが、おっ恐かねえもんでがす」、「なにかえ」、「おふじさんの話をしたら、お前様の顔が蛇のようになった」。  

 



ことば

お富士さん;6月1日が富士山山開きで、その前日から富士神社は参詣で賑わう。富士詣でが大流行したが、どうしても行けない人や女性のために各地に富士山に模した山を築き、富士神社が創建された。江戸に有る各所の浅間神社もその1つで、現在の台東区浅草にもある。6月1日はお山開きで富士参詣の土産として、麦わら細工の蛇を買うのが風習であり、これを知らないと落ちも分からない。
 浅草のお富士さん(浅草富士浅間神社)は、台東区元浅草五丁目3番地にあります。浅草寺北側からここまでの町並を富士下と良い、初夏には植木市が開かれることで有名です。

 1615(慶長20)年の6月1日(太陽暦の7月9日)に江戸に雪が降り、天変地異を恐れた人々が本郷に富士神社を建立し、それから6月1日を例祭と定めた。「お富士さん」は駒込富士神社(文京区本駒込五丁目7番)のこと。江戸時代には富士信仰のため登山する「富士講」が組織されていました。実際に富士詣りに行けない善男善女のため、最初、本郷の地に富士の形を模した築山を築き、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)から木花咲耶姫を勧請して創建。これが戦国末期の天正元年(1573)のことでした。 その後、寛永5年(1628)ごろに現在地駒込に移転して、今も参詣が絶えません。元の地を元富士(冨士浅間神社=文京区本郷7丁目2−6)と言い、本郷の東京大がある南側で、元富士警察にその名をとどめています。
 落語「羽団扇」に写真があります。富士塚の説明は、落語「富士詣り」に有ります。

  

上写真、駒込富士神社。
 

 浅草浅間神社の由緒
 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
 創建年代は不明だが、「浅草寺志」所収「寛文11年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文11年(1671)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約2mほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。

 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各地の富士講講院たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治6年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
 本殿は、平成9・10年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治11年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
 これら、本殿・諸資料・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成11年3月、台東区有形民俗文化財に指定された。 祭礼は、毎年7月1日の「富士山開き」が著名で、また、5・6月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。
(台東区教育委員会掲示より) 


浅草浅間神社所蔵の文化財
 浅間神社は富士山信仰にもとづく神社で、江戸時代は、富士講信者の活動拠点となりました。 浅草の浅間神社は、江戸初期の寛文11年(1671)までに当地に勧請されており、現在に至るまで、浅草や蔵前付近の人々の信仰をあつめてきました。
 浅間神社には、192点に及ぶ資料群が現存し、建築物・礼拝対象物・祭祀用具等に分類できます。建築物のうち、本殿は土蔵造りで、明治11年の造営です(平成9・10年の改修工事で外観のみ新たに漆喰塗をほどこしています)。土蔵造りの神社は、江戸から明治時代には江戸・東京の各地にあったようですが、現在ではほとんど見ることができません。
 礼拝対象物では、江戸初期制作の「木花咲耶姫命坐像」、慶応3年(1867)銘の「銅造猿倚像」、江戸末期と思われる「五行御身抜」(富士講の本尊)など、江戸時代のものが現存しています。さらに、祭祀用具では、富士山頂の様子を描いた安政5年(1858)銘「富士山絶頂図」、明治時代奉納の「鏡・鏡台」や、富士講の幟旗である「マネキ」等があります。
 また、境内地は盛土となっていますが、江戸初期までの浅間神社は、こうした盛土上に勧請する場合が多かったようで、江戸初期以前に勧請された浅間神社の景観をよく伝えています。 区内に現存する富士信仰・富士講に関する資料は希少で、浅間神社資料群はとても貴重です。 
 浅草浅間神社本殿并びに諸料付境内地 (平成10年度指定)(台東区登載文化財)
 

  

 上写真、浅草浅間神社。

水木辰之助(みずきたつのすけ);歌舞伎(かぶき)俳優。初世(1673―1745)が著名。大坂生まれで、歌舞伎の半道方斉藤新八の子。名優大和(やまと)屋甚兵衛の甥(おい)で、のち女婿(じょせい)となった。大和屋牛松、鶴川(つるかわ)辰之助の名を経て水木と改名。若衆方から若女方となる。『娘親の敵討』(1691)、『水木辰之助餞振舞(たちふるまい)』(1695)の湯女(ゆな)有馬のお藤で評判をとり、女方四天王の一人となる。槍踊(やりおどり)、猫の所作や、変化(へんげ)舞踊の初めともいえる『七化(ななばけ)』を上演するなど、とくに舞踊で三都に名声を得た。しかし31歳で引退した。水木帽子、水木結びの名を残す。槍踊は,宝井其角によって〈煤掃や諸人がまねる槍踊〉と詠み残される。

有馬温泉(ありまおんせん);

 兵庫県神戸市北区有馬町(摂津国)にある日本三古湯の温泉。林羅山の日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた。瀬戸内海国立公園の区域に隣接する。豊臣秀吉も通っていた大公の湯も有る。
 有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。
  温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています。
  有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています。
 釈日本紀によると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から2年後の大化3(647)年10月11日から大晦日還幸までの82日間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり滞在されたとの記述があります。

 地質的には、活断層である有馬-高槻構造線の西端にあるため、地下深くまで岩盤が割れており、その割れ目を通って地下深くから温泉水が噴出している構造。 泉質は湧出場所により異なり、塩分と鉄分を多く含み褐色を呈する含鉄塩化物泉、ラジウムを多く含む放射能泉、炭酸を多く含む炭酸水素塩泉の3種類がある。 それぞれ、湧出口では透明だが、空気に触れ着色する含鉄塩化物泉(赤湯)は「金泉(きんせん)」、それ以外の透明な温泉は「銀泉(ぎんせん)」と呼ばれている。ただし、泉源により成分は若干異なる。 なお、「金泉」、「銀泉」という名称は、有馬温泉旅館協同組合の登録商標となっている。
  温泉街は六甲山地北側の紅葉谷の麓の山峡の標高350m - 500mに位置している。大きな旅館やホテルは温泉街の周辺や少し離れた山麓、山中にある。 また、有馬温泉で「○○坊」と名の付く宿が多いのは、建久2年(1191)に、吉野の僧坊、仁西上人が熊野十二神将に準えて建てられた有馬十二坊と呼ばれた坊舎にあやかったものとされる。 2010年(平成22年)から会員制リゾートが進出したことで、ホテルや旅館が1,300室から1,600室へと2割以上増加し、競争の激化が予想されている。

馬道(うまみち);むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。(台東区教育委員会の説明板より)
 馬道は、浅草寺東側に接する道で、その道に接する町が過去馬道○○町と言いました。この道は北に進めば山谷堀(現在は埋め立てられて公園になっています)に突き当たります。それが日本堤で左に曲がれば、吉原の入り口見返り柳があります。
 吉原通いの通り道の一つがこの「馬道」です。落語「付き馬」でも説明されているとおり、浅草寺の角で馬子さんが客待ちしていて、ここから吉原まで遊客を送り届けた。そこからこの道を馬道というようになった、と言われるが、まえの説明にもあるとおり、吉原が出来るずーっと以前からこの名称はあった。落語家の言うことは真に受けてはいけない。

小湯女(こゆな);年若い湯女(ユナ)。摂津名所図会有馬には、「十三四歳より十八九までの若女…、これを小湯女といふ」。
 昔、有馬に湯女という人達がおりました。仁西上人が有馬を再興して十二坊を建てた時に、湯女を置いたと伝えられていますが、何時頃から在ったのかわかりません。 各宿屋に親湯女と小湯女がいて、それぞれに決まった名前がつけられています。しごとはお客様が湯に入る時の世話をしたり、酒宴の座で踊ったり唄ったり歌を詠んだり囲碁やお話の相手をしたり、各所めぐりをしたりして、もてなしたそうです。秀吉時代には扶持米をいただいていたそうです。
右写真、有馬温泉の芸者。

5月晦日(5がつみそか);お富士様の縁日は、植木市で昔の祭日は5月晦日(みそか)と6月朔日(ついたち)で明治以降は富士山の山開きが7月1日になったので、6月晦日と7月朔日にも行われるようになった。合計4日間の珍しい祭日となっている。 縁日になると、周辺の道路に色々物売りが出、明治以降は六郷家の下屋敷跡を中心に植木市が立つようになり、ちょうど入梅の時で植木を移植するのに最好期 にあたり、お富士様の植木市で買った木はよくつくと言い伝えられ、次第に盛んとなった。現在では5月・6月の最後の土日に柳通りを中心に植木屋がならび、時ならぬジャングルを現出している。ちなみに平成20年の浅草警察署の調査では4日間の人出は延30万人と云われている。

富士横町(ふじよこちょう);現在の台東区浅草五丁目3にある富士権現(浅草富士浅間神社=浅草警察署前。隣の富士小学校に名が残る)は、富士山を形取った小山があった。往来からここまでの小径を富士横丁と言い、一帯を富士下と言った。

 

上写真、浅草浅間神社より見る富士横町。正面突き当たりが浅草寺です。

麦藁蛇(むぎわらへび); 右写真。浅草お富士さんの麦藁細工の蛇は、宝永年間(約250年前)駒込の百姓喜八という人が夢告により、疫病除け、水あたりよけの免府としてひろめてから、霊験あらたかと評判になり、浅草でも出されるようになった。

  「 富士土産舌はあったりなかったり」 古川柳

 雑踏で麦藁蛇についている赤塗りの附木で出来た舌をどこかに落としてしまったという意味の句で、参詣者のにぎわいがわかる。昭和初期頃までは境内において植木市の風物として頒布されていたが、戦後には姿を消してしまった。
 そもそも蛇という生き物は、古来日本において水神である龍の使い(仮の姿)であると考えられ、水による疫病や水害などの災難から守ってくれると信仰されていた。 水は人間の生活に決して欠かせない命の源であり、蛇をモチーフにした麦藁蛇を水道の蛇口や水回りに祀ることにより、水による災難から守られ、日々の生活を無事安泰に過ごせるとされている。
 この度、この失われかけた風習・文化を保守し、後世に継承していくことを目的として、麦藁蛇を浅草富士浅間神社の御守りとして再現する運びとなった。5月6月の植木市と、元旦から1月3日までの間に頒布をおこなっている。
 浅草富士浅間神社より

 


 
                                                             2020年7月記

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