落語「橋の婚礼」の舞台を行く 柳家喬太郎の噺、「橋の婚礼」(はしのこんれい)より
■初代円遊作;三遊亭 圓遊(さんゆうてい えんゆう)。(嘉永3年5月28日(1850年7月7日) - 明治40年(1907年)11月26日。57歳没)は明治時代に活躍した江戸小石川小日向出身の落語家である。本名は竹内 金太郎(たけうち きんたろう)。この噺は彼の”新作”です。
■師匠(ししょう);太鼓持ち(たいこもち)のことを芸人の一人として、敬愛を込めて師匠と呼ぶことがあります。
■開橋式(かいきょうしき);架橋式。橋の渡り初め。鉄道・道路・電話など、交通・通信の機関や施設が完成して通じること。
■信長(のぶなが);織田 信長(おだ のぶなが)天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。
織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。
■秀吉(ひでよし);豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代、武家関白)太閤。三英傑の一人。
初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
■夢枕(ゆめまくら);夢枕に立つ、夢の中で神仏などが枕頭に現れて、ある事を告げる。
■両国橋(りょうごくばし);隅田川に架かる橋で、東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡し、国道京葉道路を渡す。長さ165.46m、幅員24m。竣工、昭和7年11月。
上写真、両国橋。都心方向を見る。
■吾妻橋(あずまばし);東京都台東区浅草と墨田区吾妻橋を結ぶ隅田川の橋。両国橋、新大橋、永代橋に続き4番目に、1774年(安永3)初めて架橋。現在の橋は1931年竣工。
写真、吾妻橋。墨田区側から浅草を見る。
■橋の精霊(はしの せいれい);万物の根源をなすという不思議な気。精気。 草木・動物・人・無生物・橋などの個々に宿っているとされる超自然的な存在。 肉体または物体から解放された自由な霊。
■思案橋(しあんばし);(民俗語) 渡るのに躊躇(チユウチヨ)すると伝えられる橋。以下は有名な橋。
江戸=(江戸初期)この橋の付近に元吉原の遊郭があり、この橋で行こうかやめようかと思案したところから呼ばれたという。 かつて東京都中央区小網町一丁目と二丁目との間にあった東掘留川に架けられていた橋。元和4年(1618)から明暦3年(1657)まで、元吉原の遊郭はこの橋の近くの日本橋葺屋町(現在の人形町の付近)に架けられていた。現在は川は埋め立てられ橋も無い。
■言問橋(ことといばし);隅田川に架かる橋で、向島一丁目3番から浅草七丁目1番まで言問通りを渡す。長さ161.2m、幅員22mの橋で、竣工、昭和2年9月。隅田川の吾妻橋の上流にあります。またこの上流には白鬚橋が架かります。
上写真、言問橋。この橋の正面に、スカイツリーが望めます。この上流(左)で、隅田川花火大会が行われます。
■白鬚橋(しらひげばし);隅田川にかかる橋で、明治通りを通す。西岸は荒川区南千住三丁目と台東区橋場二丁目を分かち、東岸は墨田区堤通一丁目と二丁目を分かつ。橋名は東岸にある「白鬚神社」に因む。なお、白「髭」(くちひげの意)と誤記されることがあるが、白「鬚」(あごひげの意)が正しい表記です。隅田川に架かる人道橋の桜橋を除くと言問橋の上流の橋です。関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の橋に木橋から、1931年に架け替えられた。橋長168.8m、
幅員22.1m。
上写真、白鬚橋。江戸時代~明治期、橋場は風光明媚なところで、有名人の別荘が多かった。
■眼鏡橋(めがねばし);
上写真、日本橋。現在の橋の上の高速道路は撤去が決まっていてる。
二重橋(にじゅうばし)は、東京都千代田区千代田の皇居内にある橋の通称である。正確には皇居正門から長和殿へ向かう途上、二重橋濠に架かる鉄橋のことで、本来の名称は正門鉄橋(せいもんてつばし)である。ただし正門鉄橋と正門石橋の二つの総称としても用いられている。手前の石橋は、江戸城の西丸大手橋があった位置にあり、明治20年(1887)の建造である。二連アーチ構造であることから俗称で眼鏡橋とも呼ばれ、「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多い。
皇居正門石橋。二重橋だと誤認されることがあるが、厳密には奥にある正門鉄橋が「二重橋」です。その二重橋から見た眼鏡橋
■千早振る神代も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは;小倉百人一首の在原業平が詠んだ和歌。
■業平橋(なりひらばし);業平橋は、大横川(現在は大横川親水公園として川は無くなっている)に架かる。
東駒形四丁目15番から業平一丁目17番までの長さ31.7m、幅員33mの橋。昭和5年8月竣工。現在も浅草通りを通し、交通量は多い。
名前の由来は、現在は無いが、江戸時代に在原業平を祀った寺が近くにあったので、この名が付いた。
上写真、業平橋。この右奥に志ん生が住んだというナメクジ長屋があった。
■料理番(りょうりばん);料理人。料理することを業とする人。
■俎橋(まないたばし);東京都千代田区にある靖国通り(東京都道302号新宿両国線)の橋。日本橋川上流に架かり、東側の神田神保町三丁目と、西側の九段北一丁目及び九段南一丁目を結ぶ。
上写真、俎橋。南側にある国道靖国通りとくらべると静かな通りに架かる橋です。
■心斎橋(しんさいばし);心斎橋はもともと長堀川に架かっていた橋の名前で、1622年(元和8年)に長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説であり、「心斎系譜」によると長堀川を開削した4名のうちの1人、岡田心斎が南北に橋を架けたことが名前の由来になっている。当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)、幅2間半(約4m)の木橋だった。
その後、1873年(明治6年)に本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わる。日本現存最古の鉄橋と言われている。
1909年(明治42年)には野口孫市の設計によって石造橋に架け替えられ、壮大な渡り初めが行われた。1962年(昭和37年)に長堀川が埋め立てられて撤去された。
心斎橋筋は、船場と島之内を分ける長堀川(現在は埋立てて長堀通)に架かっていた心斎橋(橋梁)に由来する。単に船場と島之内を繋ぐにとどまらず、道頓堀川にも戎橋が架けられ、なおかつ西横堀川(現在は埋立てて阪神高速1号環状線北行き)寄りの道であったことから、道頓堀の芝居小屋と下船場の新町遊廓を結ぶ道として賑わいを見せるようになり、今日に至っている。
■新橋(しんばし);町名の新橋は、汐留川(新橋川)に架かっていた「新橋」(東海道の橋)に由来する(現在の中央区銀座八丁目交差点南側)。
1710年(宝永7)ここに芝口御門が造られた事により新橋が芝口御門橋と改称された。また、この頃までに新橋地区は芝口一~四丁目・源助町など町屋として成立し、町奉行支配となった。1724年(享保9)芝口御門が消失。以後も門が再建されなかったため、芝口御門橋は再び新橋の名に戻った。昭和30年代 汐留川が埋め立てられて地名の由来となった橋の機能が消失。現在は埋め立てられた汐留川の上に商店街が並び、その上は高速道路となってしまい、銀座通りの上の高架橋は”銀座新橋”と言う名称になっています。新橋を渡った銀座八丁目博品館の裏通りが金春通りと言われ新橋芸者の多かった地です。
上写真、旧新橋が架かっていた所を横断する、銀座新橋。写真奥が銀座。
上写真、新橋芸者の本拠地、銀座八丁目金春(こんぱる)通り。
■柳橋(やなぎばし);東京都台東区(たいとうく)南東端の地区。地名は、神田川(かんだがわ)が隅田(すみだ)川へ流入する落口(おちぐち)に架けられた柳橋に由来する。現在地名は神田川北岸の台東区のみに残るが、対岸の中央区には明治初年以降元柳町の地名があった。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)から船遊びのための船宿が発生し、吉原・深川通いの船の発着所で、待合茶屋などの粋(いき)な遊び場、花街へと発展、明治、大正時代へと受け継がれた。新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。関東大震災にあったが復興し、赤坂と並ぶ料亭街として繁栄したが、1960年ごろからの堤防嵩上げなどによる景観の変化もあり、料亭街は消滅した。
上写真、夕闇迫る柳橋。橋の左側が花街の柳橋。茶色のビルが”亀清楼”約して亀精です。
■数寄屋橋(すきやばし);武士と町人の居住地を隔てる境界線にあり、見附と呼ばれる城門が置かれていた。明治維新後に城門は撤去され、関東大震災後の帝都復興事業によって、1929年(昭和4年)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられた(山口文象設計)。晴海通り (都道304号)が外堀を渡る位置にあり、北に有楽町マリオン(現・ルミネ)、西側に東急プラザ銀座店を臨む風景は東京の代表的な水辺の景観だった。
1958年(昭和33年)外堀が埋められ東京高速道路が建設されるのに伴い撤去された。その後、晴海通りを跨ぐ高速道路の橋は「新数寄屋橋」と名付けられた。
上写真、濠が埋め立てられて高速道路が出来て、その上にかけられた橋に”新数寄屋橋”の名が残る。
■枕橋(まくらばし);浅草から吾妻橋を渡り、川沿いに墨田区役所を回り込んでいくと、北十間川に架かった枕橋に出る。東武の高架橋をくぐると隅田公園に出ます。桜の時期は花見の客で混み合います。この橋からのスカイツリーは見応えがあります。
上写真、枕橋。橋の向こう側が隅田公園。桜の名所。東武の陸橋上には特急のスペーシアが抜けていきます。
上写真、枕橋上から眺める東京スカイツリー。ガード下は洒落た商店街になって、スカイツリーと一体感が生まれました。
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