落語「袈裟御前」の舞台を行く
   

 

 笑福亭鶴光の噺、「袈裟御前」(けさごぜん)より


 

 え~、「奢る平家は久しからず」、よぉ申します。あれだけ隆盛栄華を極めておりました平家が、源氏に攻められまして、ワァ~ッと壇ノ浦の合戦に破れ、ことごとく西海の藻くずと消え去りましたのが西暦1185年。

 1185年、元暦二年三月の二十四日、給料日前。もぉ一日待ったら給料がもらえた。
 その時の源氏の総大将が皆さまよっくご存知の源頼朝(みなもとの よりとも)・・・。
 お父さんといぅ方が源義朝(みなもとのよしとも)といぅ方なんですてね。で、保元・平治の乱といぅ有名な戦い、その平治の乱に破れたんで、お父っつぁん共々あおり食って、この頼朝、伊豆へ流され、二十年間伊豆で暮らしてたんです。そこへやってまいりまして、ひつこく平家討伐を呼びかけ、ついに兵を挙げさしましたのが文覚上人(もんがくしょ~にん)。頼朝も最初もぉ嫌がってたんや。今さらそんな兵挙げてね、攻めて勝てるや負けるや分らん、面倒くさい。ところが、文覚上人、切り札としてお父さまの源義朝の頭蓋骨をそれへズボッと出して、「さぞ、お父上は無念でございましたでしょ~」。洒落ておりますな、「髑髏(しゃれこぉべ)」どこまでいくねん。昔はこぉいぅふぅに政治を左右するといぅ偉いお坊さんが多かったんですて。古くは弓削の道鏡(ゆげのどうきょう)、天海僧正、ロシアにまいりますと怪僧ラスプーチン。
 我々の先輩の噺家さんが、孫連れてお通夜へ行ったん。お通夜に孫なんか連れて行ったらいかんがな。お通夜てなシ~ンとして陰気で、中には泣いてる人もいてる。で、孫が分からんのでチョロチョロするんですね、こともあろぉに坊さんのお経に合わして、この孫が踊りだしよった。これはお爺ちゃんとしてはカッコつかん。坊さんがお経上げてる時にお爺ちゃん、孫に向こてこぉ言ぅたんや、「こら坊主、静かにせぇ」。ボンさんクルッと振り返って、「すんません、もぉすぐ終わりますよって」。坊さん脅かしてどないすんねん。

 文覚さんちゅうのはそんな生易しぃボンさんではございません。荒法師、修験者。なんでも伝説によりますと、呪文でもって空飛んでる鳥をバタバタ・バタバタ落としたと申します。呪文でもって鳥を落とした、このままいけば立派な鳥屋になってたんですが、世の中そぉはまいりません。十九歳のときに出家をいたしまして、和歌山の那智山に篭(こも)ること千日。冬の寒いときは首まで滝壷につかって呪文を唱え、また夏の暑いときには素っ裸でもって竹薮で暮らしながら呪文を唱えた・・・。これ、嘘やとお思いでしたらいっぺんね、竹やぶで夏、裸で暮らしてみなはれ、気持ちの悪いもんでっせ、何が出てくるや分からん。ヘビ・カエル・ムカデ・ゲジゲジ・ケムシ・ミズムシ・チャワンムシ・・・、夏ですからどんどん出てまいります。緊張の連続ですなぁ・・・、日本の夏、緊張の夏。
 そぉいぅ血の滲むよぉな修行をいたしまして、のちには京都の高雄山、紅葉の名所。ねぇ、あそこに神護寺といぅお寺があるんですが、あら和気清麻呂といぅ人が建てたやつを京都へ移した。ところがこれが見るもんがのぉてボロボロ。これを何とか修復・再興せねばならん。文覚上人そこら駆けずり回って、上層部と揉めて、「生意気なやっちゃ」といぅんで追放されて伊豆へ流された。
 そして頼朝を担ぎ出して平家討伐を企むといぅ坊さんですから、根性が座わっております。それもそのはず、この方は本名を遠藤盛遠(もりとぉ)と申しまして北面の武士。同僚に平清盛、のちの歌の名人西行法師なんかがおったと申します。盛遠が心動かされましたのが、これが袈裟御前といぅ絶世の美女、えぇ女。平家物語のあの辺の時代によぉ出てきまんなぁ、木曽(源)義仲の想い者が巴御前、義経の愛人が静御前、で、袈裟御前、別嬪・美人ばっかり。

 これ「美人とか別嬪」て、噺家が言ぅとあんまり感じんので、講釈流に申しますと、「芙蓉の眦(まなじり)、丹花(たんか)の唇、沈魚落雁(ちんぎょらくがん)、閉月羞花(へぇげつしゅ~が)の装い。ひとたび笑えば国を傾け、まった怒れば悪鬼外道も退散をいたし、秋の七草、室の梅、しなだれかかる藤の花。艶態にして質素なり、華麗にして幽玄、ちょこまかしてよいちょこなり」。これもっと分かりやすぅ言ぃますとね、「立てばシャクヤク座ればボタン、歩く姿がユリの花、しなだれかかるフジの花、いっぺん下からツキミソォ」ちゅうぐらい。どこで知り会ぉたかといぅと、高貴なお方の寄り集まり、まぁハイソサエティー、ブルジョワのパーティですね。そこで盛遠がたくさんの中から美女を見つけたんで目が合ぉて、そのときに盛遠がニコリと微笑む、それに合わして袈裟御前がニコリ。
 さぁ、こぉなりますと寝ては夢、起きては現(うつつ)幻の、煩悩の犬追えども去らず、菩提の鹿招けど来たらず、夜毎に募るこの思い。何とか素性を手のもんに調べさしますと、これが世間狭い、伯母の娘、従妹やったんですなぁ。「しもた、子どもの時分にツバ付けときゃよかった・・・」と思てもそのときはもぉあとの祭り、今や源渡(みなもとのわたる)といぅ人の妻に・・・。普通やったらスパ~ッと諦めんねんけど、エリートといぅのは挫折知らんでしょ、今までズ~ッと思い通りにきてる。とぉとぉ片思いが高じて、袈裟御前に詰め寄った、「こりゃ袈裟、おとなしく我が思いをかなえさせッ。さもなくば、そのほぉの母親は殺し、自らは腹掻っさばいて死ぬ覚悟。どぉじゃッ」。不適切なる関係を迫ったわけでございます。さて、ここで問題でございます。母親の命と引き換えに不倫を強要されました袈裟御前は、果たしてどのよぉに対処したでありましょ~か?
 次の三つの中からお答えください。
 その1.貞女両夫にまみえず、頑として首を縦に振らなかった「嫌でございます」
 その2.まぁ一回ぐらいえぇやろ。黙っときゃ分かれへんねんし「まぁえぇやろ、どぉぞ」
 その3.お互いに妥協案を話し合う、半分だけ譲歩した。つまり、袈裟御前は体を与えずに、キッスだけで堪忍してもろて、その代わりお母さんは殺さずに半殺しにしてもらう。

  さぁ、この三つのうちどれでしょ~か? 残念ながらこん中に正解はございません。袈裟御前はこのよぉに答えました。「わたくしは夫のある身でございます。いっそのこと、夫を亡きものに。さすれば、あなた様のみ心に沿えましょ~。今晩、八つの鐘を合図に当屋敷に忍び込み、東より二つ目が夫の寝所にございます。先に休ませておきますゆえ、洗い髪を頼りに夫をお討ちくださいませ」。何ちゅう悪い女や・・・、夜叉、鬼、悪魔、エクゾシスト、オーメン、野村沙知代・・・。実際はせやないんですよ、本当は自分がその身代わりに寝て殺されよ~といぅ腹ですねん。そぉすると、お母さんの命は助かる、夫に不貞を働いたことにならん、盛遠の気も済む。一石三鳥といぅことで、まさに貞女の鑑、これぞ大和撫子。

  さてその夜、八つの鐘と申しますと午前二時のことを申します。鐘を合図に盛遠が屋敷に忍び込んだ。教えられました部屋の前までやってまいりまして、静かに戸をばス~ッと開けますと、中はもぉ真っ暗闇。抜き足、差し足、忍び足、洗い髪手がかりに、ここぞとばかり刀を抜き放ちますと、ズバッ!切り落とした首をば小脇に抱えまして、ツツツツ、ツツツツ~ッと表へ出て月明かりにかざして見る。「アァ~ッ!」これが何と源渡の首と思いきや、愛しぃ恋しぃ袈裟御前の首。「あぁ~ッ、しまった、そぉであったのか・・・」。もともと頭のえぇ方、全てを悟りました遠藤盛遠、これからは袈裟御前の霊を弔うがために、家も捨て、武士も捨て、名も文覚と改めまして、月もろともに旅をする。
 そして前人未踏といぅ、三十一日間といぅ断食を成功さした。えらいことでんなぁ、三十一日間、一切物食わなんだやで。三十二日目になったらもぉ腹減ってしゃ~ない、「ここまで修行したからにゃ、もぉよかろぉ」と、弟子が差し出した朝ご飯、「あぁありがたい、久しぶりや」と、食べよぉと思たんですが、なんぼ食べよと思ても、ご飯が口からパッ、パッと飛び出る。
 「おかしぃな?」食べれない、お腹はグゥグゥいぅ。「お腹は減ってんのに何でこない朝ご飯が食べられへんのかいな?」と思て、よぉ考えたらそれもそのはず・・・。
  今朝のご膳が祟ってた。といぅ「袈裟御前」といぅお噺、どぉも・・・ 。 

 



ことば

■「源平盛衰記」に登場する源渡(みなもとの-わたる)の妻。 従兄(いとこ)の遠藤盛遠(もりとお。のちの文覚(もんがく))に横恋慕されてなやみ、みずから計って盛遠に殺される。このため夫の渡も盛遠も出家したという。この説話は江戸時代、浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎の題材となった。題名は阿都磨(あとま)。

 

 恋塚浄禅寺(京都市南区上鳥羽岩ノ本町93)、 袈裟御前ゆかり恋塚と、京都六地蔵の「鳥羽地蔵」の寺。

 

 恋塚(袈裟御前の首塚)。 北面の武士、遠藤盛遠が人妻の袈裟御前に横恋慕する話で、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『地獄門』のもとになった。右隣に「恋塚碑」も立つ。また一説には、寺の近くの池に棲んでいた大鯉が、夜毎に妖怪として現われたので退治して埋めた「鯉塚」ともいわれる。落語『袈裟御前』、後ろの地蔵堂の小野篁(おののたかむら)の作という「鳥羽地蔵」は「京都六地蔵」の一つ。

 上記2写真は、坂道街道「鳥羽街道」より引用。

二代目笑福亭鶴光(しょうふくてい つるこ/つるこう); 1948年1月18日(72歳)。上方落語家、ラジオパーソナリティ。上方落語協会顧問、落語芸術協会上方真打。松竹芸能所属。本名、小林(こばやし) 幸男(ゆきお)。血液型はO型。出囃子は『春はうれしや』。桂三枝(現:六代目桂文枝)、桂春之輔(現:四代目桂春団治)と同期。別名は「エロカマキリ」「Mr.オールナイトニッポン」。弟子には笑福亭学光(しょうふくてい がっこ)らがいる。
 右写真、鶴光。

源 頼朝(みなもとの よりとも);(久安3(1147) -建久10(1199).1.13.) 鎌倉幕府初代将軍 (在職 1192~99) 。武家政治の創始者。義朝の3男。母は熱田大宮司季範の娘。妻は北条時政の娘政子。平治元(1159) 年の平治の乱に敗れて伊豆に流されたが、治承4 (1180) 年以仁王 (もちひとおう) の命を受けて平氏追討の兵をあげた。東国武士の糾合に成功して東国に支配権を確立、鎌倉を本拠とし、次いで源義仲および平氏を滅ぼして天下を平定した。文治元(1185) 年守護・地頭設置の勅許を得て武家政治の基礎を固め、建久元(1190) 年上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年征夷大将軍を拝して名実ともに武家政権としての幕府を開いた。これにより、朝廷と同様に京の都を中心に権勢を誇った平家政権とは異なる東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。落馬が原因(他説有り)で鎌倉で死去。

源 義朝(みなもとの よしとも);平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。

袈裟御前(けさ ごぜん);平安末期の伝説上の女性。北面の武士源渡の妻。母は衣川。院の北面の武士遠藤盛遠に誤って殺され、盛遠は出家して文覚(もんがく)と称した。この事件は、盛遠に恋慕された袈裟が、夫の身代わりとなって殺されたものと解されて、その貞節ぶりが伝承されてきた。

遠藤 盛遠(もりとう)《源平盛衰記》に、長谷観音に申し子して生まれたが早く孤児となり、幼児期より〈面張牛皮(めんちようふてき)〉な乱暴者であったという。元服後、北面武者となったが、《平家》の読本系諸本では、渡辺橋の供養のとき、渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し、強引に奪おうと夫を討つつもりが、袈裟の計らいでかえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに18歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し、異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。

 ある日、袈裟御前の前に一人の男性が現れます。 それは、遠藤盛遠(えんどうもりとお)という武士でした。 盛遠は、上西門院に仕える北面の武士で、袈裟御前の従姉妹です。 袈裟御前の美しさに盛遠は、一目惚れし、彼女の母に二人との間を取り持つように迫ります。 この盛遠の行動に困惑した袈裟御前は、ある妙案を思いつきます。 それは、「夫の源渡が寝ているところを襲って、亡きものにしてくれたら、あなたのもとに参ります」と盛遠に伝えることでした。 そこで、この話を聞いた盛遠は、源渡が寝ているところを襲います。そして、源渡が寝ている布団をはいでみると、そこには動かなくなった袈裟御前が横たわっていました。 そう、彼女は、夫の身代りになって死ぬことを選んだのです。 盛遠は、自分の行為の愚かさを恥じて出家し、袈裟御前の菩提を弔うために恋塚寺(京都市伏見区下鳥羽城ノ越町132)を建てました。 この出家した遠藤盛遠が、後に怪僧と呼ばれることになる文覚(もんがく)なのです。以後、文覚上人を参照。

 右図、教導立志基12 袈裟御前 小林清親画 松本平吉版 源渡の妻 大判竪絵  

文覚上人(もんがく しょうにん);(保延5年(1139年) - 建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。
  摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。 京都高雄山神護寺(京都市右京区梅ヶ畑高雄町5)の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。 のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。 また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する。 頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに元久2年(1205)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。

源渡(みなもとの わたる);遠藤盛遠の同僚、北面の武士。袈裟御前の夫。袈裟御前死後、母親と共に出家した。

奢る平家は久しからず;平家没落の様子を記した「平家物語」の有名な一節。落語「平家物語」に詳しい。

平治の乱(へいじのらん);平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変。
 保元(ほうげん)の乱の後、後白河法皇をめぐって藤原通憲(みちのり)(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と、信頼は源義朝(よしとも)と結んで対立。信頼らは清盛の熊野参詣(さんけい)中挙兵、法皇を幽閉し、通憲を殺した。しかし帰京した清盛に敗れ、信頼は斬罪、義朝は尾張(おわり)で殺された。義朝の子頼朝も伊豆に流され源氏は一時衰退、1167年清盛は太政大臣となり平氏は全盛をきわめた。

伊豆へ流され;流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(りゅうけい、るけい)、配流(はいる)ともいう。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれることもある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇のように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。佐渡、隠岐、伊豆大島などに配流となった。源頼朝は伊豆半島の付け根に流された。 

髑髏(しゃれこうべ);風雨にさらされ、白骨になった人間の頭蓋骨。しゃりこうべ。どくろ。野晒(のざら)し。

弓削の道鏡(ゆげの どうきょう):文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。
 孝謙天皇に寵愛されたことから、天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられた。『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。しかし、これらは平安時代以降になって唱えられるようになったもので、信頼の置ける一次史料で確認することはできない。
 江戸時代には『道鏡は すわるとひざが 三つでき』という川柳が詠まれた。
 こうした巨根説について、樋口清之は「道饗」と「道鏡」が混同され、道祖神と結びつけられたために成立した、としていた。
 熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」という民話がある。

天海僧正(てんかい そうじょう);(天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。 徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
 元和2年(1616)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年4月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。
 その後三代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。寛永20年(1643)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。 天海は生前に日本での一切経(大蔵経)の印刷と出版を企図。慶安元年(1648)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。天海によるこれらの経典の出版は日本の印刷文化史上、最も重要な業績の一つと言われている。天海が作製させた膨大な木製活字(天海版木活字)は26万個以上が現存している。

 ある時、将軍・家光から美味な柿を拝領した。天海はこれを食べると種をていねいに包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと、「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。数年後、家光に天海から柿が献上された。家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたという。

怪僧ラスプーチン;グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(露:Григорий Ефимович Распутин グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチン、ラテン文字転写:Grigorii Efimovich Rasputin、1869年1月21日(ユリウス暦1月9日) - 1916年12月30日(ユリウス暦12月17日))(47歳没)は、帝政ロシア末期の祈祷僧。シベリア、トボリスク県ポクロフスコエ村出身。 奇怪な逸話に彩られた生涯、怪異な容貌から怪僧・怪物などと形容される。ロシア帝国崩壊の一因をつくり、歴史的な人物評は極めて低い反面、その特異なキャラクターから映画や小説など大衆向けフィクションの悪役として非常に人気が高く、彼を題材にした多くの通俗小説や映画が製作されている。

荒法師(あらぼうし);荒々しい僧。乱暴な僧。また、荒行をする法師。

修験者(しゅげんじゃ);修験道の行者。多くは髪をそらず、半僧半俗の姿に兜巾(ときん)をいただき、篠懸(すずかけ)・結い袈裟(げさ)を掛け、笈(おい)を負い、念珠や法螺(ほら)を持ち、脛巾(はばき)をつけ、錫杖(しゃくじょう)や金剛杖を突いて山野を巡る。山伏。験者(げんざ・げんじゃ)。

  

 日本各地の霊山で修行し、その修行によって積まれた功徳によって世界を救おうと願う宗教です。山に籠り修行をするため、山伏などと呼ばれていた時代もありました。日本三大修験道とも呼ばれている大峰山(奈良)、出羽三山(山形)、英彦山(福岡・大分)は今でも修験者が多い3つの霊山(霊場)で有名です。

出家(しゅっけ);師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コミュニティ(サンガ)に入ること。落飾(らくしょく)ともいう。在家(ざいけ)と対比される。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん,サマナ)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。

和歌山の那智山(わかやまの なちさん);和歌山県那智勝浦町にある「那智山」は、ユネスコ世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の熊野エリアにあり、平安時代から多くの参詣者が訪れた信仰の山です。神と崇められる那智の滝を中心に、熊野那智大社や、西国三十三所第1番札所の那智山青岸渡寺など多数の世界遺産を有しています。

 

高雄山(たかおさん);京都市右京区梅ヶ畑高雄町5番地、神護寺(じんごじ)。紅葉の名所(下写真)
 平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていないため、いまだ確認されていないが、その発願は和気清麻呂がかねて宇佐八幡大紳の神託を請うた時、「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を読誦して一伽藍を建て、万代安寧を祈願せよ」というお告げを受け、その心願を成就するためと伝えられ、寺名もそこに由来している。

  

和気清麻呂(わき きよまろ);上記神護寺の創建者。私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900m以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。
  愛宕五寺または愛宕五坊と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになるが、清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。
 神護寺は最澄、空海の活躍によって根本道場としての内容を築いていったが、正暦五年(994)と久安五年(1149)の二度の火災にあい、鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た文覚は、生涯の悲願として神護寺再興を決意するが、その達成への道はとても厳しかった。
 上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ元以上の規模に復興された。
 神護寺沿革史より

北面の武士(ほくめんのぶし);院御所の北面(北側の部屋)の下に近衛として詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。
 従来、院の警護を担当していた武者所は機能を吸収され、北面武士の郎党となる者も現れてその地位は低落した。また白河法皇は北面武士を次々に検非違使に抜擢し、検非違使別当を介さず直接に指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行した。平正盛・忠盛父子は北面武士の筆頭となり、それをテコに院庁での地位を上昇させていった。
 落語「西行」に出てくる、西行もここの武士であった。

平清盛(たいらの きよもり);平安時代末期の日本の武将で公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。
 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

西行法師(さいぎょう ほうし);(1118-1190)平安末期から鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清(のりきよ)。法号、円位・大宝房など。もと北面の武士。二十三歳で出家。陸奥から四国・九州までを旅し、河内の弘川寺で没す。生活体験のにじむ述懐歌にすぐれ「新古今集」では集中最高の九十四首が入集。家集「山家集」聞書「西公談抄」。
  花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。
  最晩年、以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日(新暦3月16日頃)、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。
  『ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ』 (山家集)
  『ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比』 (続古今和歌集)
  花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のこと。
 落語「西行」に詳しい。

 西行桜(さいぎょうざくら);京の春、西行は桜のために邪魔されることを嘆き
 「花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」
と詠む。 西行が桜の木陰で寝ていると桜の精が現れ「どうして桜にとががあるものか」と反論される。

  右上図:「西行法師富士山を眺める」 三代豊国筆 『双筆五十三次』町田市立国際版画美術館監修。 晩年の文治2年(1186)、奥州へと旅に出ます。この時、富士山を詠んだのが、
  『風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな』

 落語「鼓ヶ滝」より孫引き

巴御前(ともえ ごぜん);(生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。字は鞆、鞆絵とも。『平家物語』によれば源義仲に仕える女武者。『源平闘諍録』によれば樋口兼光の娘。『源平盛衰記』によれば中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の姉妹で、源義仲の妾。武勇すぐれた美女で、源義仲に嫁し、武将として最後まで随従。夫の戦死後は和田義盛に再嫁し、その敗死後、尼となって越中に赴いたという。巴御前。生没年未詳。

静御前(しずか ごぜん);源義経の愛妾。京都の白拍子。磯禅師の女。俗に静御前という。容姿艶麗、歌舞をよくした。義経と吉野山に訣別、捕えられて鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮で源頼朝・北条政子らを前にして義経恋慕の舞を舞った。能の「吉野静」、「二人静」、「船弁慶」に作られ、また歌舞伎などにも多く脚色。生没年未詳。

御前(ごぜん);貴人に対する敬称。江戸時代、大名・旗本などをその臣下から言った敬称。また、大名・貴族などの奥方の敬称。

芙蓉の眦(ふようの まなじり);芙蓉の花のような美しい顔だち。芙蓉の目尻。

丹花(たんか)の唇;美人の唇の赤く美しいたとえ。

沈魚落雁(ちんぎょ らくがん);(「荘子」に、人間が見て美しいと思う人でも魚や鳥はこれを見て恐れて逃げるとあるのを、後世、魚や鳥も恥じらってかくれる意に転用して) 美人の容貌のすぐれてあでやかなこと。

■閉月羞花(へいげつ しゅうか);「羞」は恥らうという意味から、月も恥じて隠れてしまい、花も恥じるほどの美しい女性という意味。羞花閉月ともいう。

秋の七草(あきのななくさ);ハギ、オバナ(ススキ)、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、アサガオの七種の草本で、日本の秋の花を代表するものとされる。だれが選定したという記録はないが、《万葉集》に載せられた山上憶良の7種の花の短歌にこの順序で詠まれているものを指すのがふつうである。これらのうち、アサガオは日本の植物ではなく、熱帯アジアの原産で、奈良時代にはすでに日本に移入されており、広く栽培されていたらしいが、憶良の歌にいうアサガオはキキョウのことであるとされている。

室の梅(むろのうめ);温室で、春や夏の花を冬に早咲きさせること。室咲とは、本来は春に咲く花の盆栽や切り枝を、冬に土蔵造りの室に入れて 炉火を焚き、温めて早く咲かせること。昔は主に梅で、花の咲く姿と香りを新年から楽しんでいた。

しなだれかかる藤の花;香りが強く、たおやかに咲く藤は古来から女性らしさの象徴と考えられてきました。対して厳格で力強い印象の松は男性らしさを表現した樹木とされ、日本画や古典文学ではしばしば藤と松がセットで登場します。下村観山(しもむらかんざん)の屏風絵『老松白藤』(下図)は精緻な描写が見事です。『枕草子』では「めでたきもの」として「色合ひ深く、花房長く咲きたる藤の花、松にかかりたる」と語られています。男性にしなだれかかる女性の姿が目に浮かんでくるようです。

下村観山 (1873-1930(明治6-昭和5))、大正10年 紙本金地・彩色・屏風(6曲1双)各167.9x373.0 山種美術館蔵

夜叉(やしゃ);一般にインド神話における鬼神の総称であるとも言われるが、鬼神の総称としては他にアスラという言葉も使用されている(仏教においては、アスラ=阿修羅は総称ではなく固有の鬼神として登場)。 夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニー と呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう。

野村沙知代(のむら さちよ);プロ野球監督である野村克也の妻として知られる。 出生名は伊東 芳枝(いとう よしえ)であり、沙知代に改名したのは1976年。 愛称は「サッチー」。これは『タモリの笑っていいとも!』で共演した中居正広から「サッチー」と名付けられたという。虚言癖、万引癖などがあり困ったチャンであったらしい(wiki)。

一石三鳥(いっせきさんちょう);一石二鳥、一つのことをして、二つの利益を得るたとえ。一つの行為や苦労で、二つの目的を同時に果たすたとえ。一つの石を投げて、二羽の鳥を同時に捕らえる意から。今では、ここから「一石三鳥」「一石四鳥」などという語も使われる。
 この噺では、袈裟御前本人が死ねば、そうすると、お母さんの命は助かる、夫に不貞を働いたことにならん、盛遠の気も済む。一石三鳥ということで、まさに貞女の鑑、これぞ大和撫子。

 


                                                            2021年2月記

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