落語「冬の遊び」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「冬の遊び」(ふゆのあそび)より


 

 もぉ滅んでしもてましたよぉな、ごくお古い噺をひとつ、お付き合いいた だきます。

 ある年の夏、今年も新町の道中といぅので、堂島あたりからもずいぶんお金が出とぉります。堂島の旦那が四、五人連れで新町橋をヒョイッと渡りますと、もぉその当日のことでっさかい、い~っぱいの人間が歩いてます。今日はもぉ、松の位の大夫の顔が手近なところでタダで見られるといぅんやさかい、大勢詰めかけてる。人込みを分けながらこぉ歩いて行きますと、何しろその辺はいっぱいの人です。三味線の音は聞こえてくる、常と違ごぉて何とも言えん、一段と陽ぉ気なこってございます・・・。 

 (下座から陽気な三味線太鼓が入る)♪ 「あぁ押さんよぉに、押さんよぉに・・・、はぐれんよぉにな、手ぇ引ぃたげなはれや、はぐれたらいかんさかいにな。もぉじき道中が始まりまっせ」、「直(じき)・・・、旦那ッ、ジキッ!」、「おぉ、一八やないか」、「へぇ、どちらへお出かけで? はぁ、吉田屋はん、分かりました、あとで・・・」、「あぁ、あとで来いよ」。
 この連中(れんじゅ~)、吉田屋の表へ立ちまして、「まぁ、お越しやす」、「えらい賑やかやなぁ」、「はぁ、もぉ今日は朝からキリキリ舞いさしてもろとりまんねん」、「わしらが通れる座敷があるかい?」、「何をおっしゃるやら、もぉどないお客さん混んでも、旦さん方のお座敷はちゃんと取ってございますがな。まぁお暑いこと、いえいえ、あのお二階のほぉはな、瓦が照り付けてかえって焼けとりまっさかい、下のお座敷、奥のが取ってございます、どぉぞお上がりを・・・、♪ これ、松の間へご案内ぁ~いッ・・・」、「へぇ~~~え」。
 「やっぱりなんやなぁ、ここへ来るとスッとするなぁ。下は籐筵(とぉむしろ)、簾戸(すど)で簾(すだれ)、庭にはザブザブ水が打ったぁる。ホンに二階は瓦が焼けてる、こっちのほぉが風さえ通ったら涼しぃ、身内へ汗が収まるよぉな、さすが新町の吉田屋やなぁ」、「常やん、まぁ足崩し、今日はもぉゆっくりしょ~。ド~ンと構えよ」。
 それへ、ズッと突き出しが運ばれる、お酒が出てくる、馴染みどころが、「旦さんおおきに、お越しやす・・・、おおきに、お越しやす・・・」、「もぉ芸妓連中も太鼓持ちも、そない呼ばいでもえぇわ、大夫を呼んでんか」、「へッ?」、「栴檀(せんだん)大夫、ちょっと」、「何を言ぅたはりまんねんな、今日は道中だっしゃないかいな」、「えッ! 今日、道中?」、「最前、わてなぁ、ちょっと用があって会所行ったついでに覗いてみましたら、まぁどんな立派か、知盛(とももり)の扮装、見事に出来上がりました。今日は傘止(かさどめ)だんねやで」、「知盛になるちゅうて言ぅとったが、今日かい?」、「はぁ」、「まぁ何でもえぇがな、呼んでッ」、「よぉそんな・・・、栴大(せんだい)さん、今、道中にかかったはりますねんで」、「かめへんがな」、「何もそんな無茶なことおっしゃったかて・・・、道中はあんた、お奉行さんのほぉから、ちゃ~んとお定書(さだめがき)が来まんねがな、日ぃから時刻から、道筋までちゃ~んと決まってんのに、そんなわけにいけしまへんがな」、「馴染みの客がここへ来て『栴檀大夫を呼べ』といぅのが、それが呼べんちゅうのんかいな・・・、あぁそぉ・・・」、「今、道中の最中・・・ 」、「去(い)のか。新町へ来て大夫も呼んでもらえんのやったら、いななしゃ~ないやないかい・・・、お仲、ちょっとその煙草入れとってくれ」、「ちょっと待っとくれやす」、「こ、こらッ! 煙草入れ持ってどこ行くねんッ!? 」。

 「あの、姐さん、お富さん」、「何やいな、お仲?」、「堂島のジキ、それが、『もぉ帰る』言ぅてはりまんねん」、「帰る? 何でやのん?」、「『栴大さん、呼べ』言わはりまんねん」、「何を言ぅてんねやいな、今、道中が始まったとこやないか」、「さぁ、そない言ぅたん。ほな、『道中?知らんなぁ、とにかく呼んでくれ』いぅて、この煙草入れ」、「ちょっと、こっちかしなはれ・・・ 」。
 「とにかく、お座敷へお戻りを」、「戻ってどぉすんねん?」、「かましまへん、栴大さん連れて来ます」、「連れて来る? おい、今聞きゃ道中の最中(さなか)やそぉやないか、それ、連れて来るっちゅうのんかいな? 番所からお役人も出張ってはんねや」、「わたいが必ずもろて、こちらへご挨拶に伺わせまっさかいな」、「ほほぉ、呼んでくるっちゅうのんか?」、「へぇ、吉田屋のお富だっせ、座敷お戻りやす」、「あない立派に言ぅとぉんねん、ほな戻ったろか・・・」。

 パッと表へ飛び出します。前掛け外してクルクルッと丸めて袂へポイ。カラカラカラ・・・、通りのほぉへ出てまいりますといぅと、大勢群集雑踏しとぉります。行列はちょ~ど突き当たりの辻を曲がってこっちへかかって来たところ、「お~い、来た来たきた、来たがな! あぁ~立派やなぁ」・・・。
 ♪ 一番先頭の屋台、腕利きの芸者連中が三味線を弾ぃてます。次の屋台、こらまた鳴物(なりもん)方で、ちょっと若い子ぉやら舞妓なんか交えて「ポンッポンッ、オ~ッ、ヤァ~ッ」鼓打ってるやつがある、笛を吹いてるやつがある。次の屋台、世話役連中が乗ってますわ、新町の廓の役付き、今で言ぅたらまぁ役員さんてな連中がかたまって。そのあとから大夫の行列がズ~ッと続きまして、一番終いは傘止、こら値打ちを持ったもんですなぁ。知盛の格好をした栴檀大夫。その後ろの屋台、これは商売人連中が、「オ~ッ、ヤァ~ッ」やってまいります。
 「ちょっと退(ど)いとくなはれ、ちょっとどいとくなはれ、ちょっと通しとくなはれ」、「通られへんッ」、「吉田屋のお富だんねん」、お富さん、拳骨を固めてパンパン、パンパン・・・、前へ出てしまいますといぅと、「ちょっと行列止めとぉくなはれ」、「何を言ぅねやいな、お富はん?」、「皆さん方ちょっと、新町の一大事!」、チョン、チョ~ンと柝(き)が入る。大夫さんの近所には太鼓持ちがズッと付いとりまして、ところどころに拍子木ぶら下げて、前から鳴ってきたらチョンチョ~ン、また後ろへチョンチョ~ン、お終いまでピシィ~ッ、止まってしもた。

 「お富、何事やねんおい? 行列止めるやなんて」、「堂島の栴大さんのこれ、ヤンチャ四、五人連れて見世(うち)みえてまんねやがな」、「それでどないしてん? 」、「それで、『栴大さん呼べ』言ぅたはんねや」、「無茶言ぃないなおい、お役人出張って行列やっててそんなもん呼べるかいな」、「『道中知らん、聞ぃてないなぁ』、堂島へ挨拶に行かはりましたんやろなぁ? 行かなんだんか?」、「これはお前、吉田屋がしくじりだけで済むんならえぇで、堂島がへそ曲げて、『新町へは行かんとこ』ちゅなこと申し合わされたら、つぶれてまうやないかい・・・。これどないしたらえぇねん?」、「どぉもこぉも、しょがおへん。こぉなったら栴大さん、ちょっと貸しとくなはれ」、「無茶言ぃないなおい、こんなもん時刻から道筋まで決まったぁるねんで」、「しょ~がおまへんがな、こぉなったら。栴大さん急に病気やとかなんとか、そこうまいこと言ぅてお役人その辺の茶屋へ連れ込んで、腕利きの芸者連中ぐるりザァ~ッと取り巻いて、いっ時だけ頼んますわ」、「おい、手ぇの空いてるもん皆集まれッ!」、大勢で人垣をこしらえまして、その中へ大夫を取り囲むよぉに・・・、先頭にお富、「吉田屋のお富だすッ!」、「おい、さっきの手荒いのんが来たで、退(ど)きやどきや」ザ~ッと道がついた。

 「ジキ、大夫さんお連れしました」、「おッ、お富よぉやりよったなぁ、んッ、万々(ばんば)胸に入れとこ。さぁ、入って! お~いッ、なんか腰掛けるもん持ってこい、そこへ据え。太夫座られへんがなこんな格好してんねや・・・。いやぁ、出にくいところをよぉ出てくれたが、どぉや見てみぃな、やっぱり松の位の大夫ともなりゃ、大したもんやなぁ。何枚着てんねんそれ? え、八枚? おい、こんな分の厚い綿の入ったもん八枚重ね着で、汗一つかいてないやないか、恐れ入ったなぁ・・・。栴大への心中立てじゃ、わしらこんな格好してんのん面目ない、皆、冬の着物に着替え~ッ!」、芸者、太鼓持ちは、大慌てで綿の入った冬物に着替えます。
 「さぁ、心中立てじゃ、冬の遊びをしょ~」、なんか言ぅてるところへ、さっきの一八が遅れ馳せながら飛び込んで来た。「旦那、えらい遅なりまして。まッ、これはまぁ栴大さん、お立派なこって! ん? 今、道中の最中だっしゃないか、よぉまぁこんなところまで出て来られましたなぁ。さすがはジキ」、「一八、おい・・・、向こ先の見えん芸人やなぁ。見たら分かるやろ、大夫、八枚重ね着してんねや。大夫への心中立てで、皆、冬の装束着てんねん。何じゃいお前は? パタパタバタバタ扇子、蝉の羽みたいなもん着やがって、何が暑いねん。お前みたいな向こ先の見えん芸人はもぉ今日限り贔屓にせんわ、いねッ!」。

 「え、えらいこっちゃ・・・、お帳場はん」、と泣き込んで、袷の着物を重ね着して、色々と知恵を付けて貰った。着物を着すぎて歩かれなくなった。「皆で運んだれ、運んだれ」、大勢でザザザザ、ザザァ~ッ・・・。

 「旦さん、先ほどは・・・」、「ぶほッ!見てみ、一八、えらい格好して入って来たで、化けもんやがなまるで」、「厳しぃ寒さでんなぁ、新町中ツララが五寸ほど下がっとりまんねん。最前、乞食が二人、凍え死にしよりました。この寒い中を、まぁあんさん方、大胆すぎるわ。簾吊って、こんな簾戸はめて・・・、何で唐紙入れなはらん?」、「ホンに! こら一本やられたなぁ。あぁよしよし、早いこと唐紙に入れ替え!」、『はぁ~』、用意して待ってまっさかい、ザザザザ、ザザァ~ッ、締め切らしてしもた。「これで冬景色になったな、これでえぇやろ」、「まだあかん、そんなあんた、小っちゃな煙草盆で煙草吸ぅてなはる、そんなもんではあかん。今日のよぉな寒さ、宣徳の火鉢に火ぃ盛って、ここへ持ち込みなはれ」、「ホンに、火鉢が無いと格好付かんなぁ」、「火鉢持ってきて、旦さんのそばへガ~ンとあてがうよぉに・・・」、「わしら困らしやがんねんこいつ、ほな、これでえぇか」、「まだあかん、まだあかん」、「何があかんねん?」、「前に並んでる料理何だんねんそれ? 冷奴やスズキの洗いやそんなもんではあかん、鍋にしまひょ。グラグラグラ~ッとなんか雑炊でも炊いて、とりあえず茶碗蒸し」、「お~お~、えげつないことになってきたでおい。ほなまぁ、茶碗蒸でも、え? もぉできてる? 早いなぁおい。これでえぇか?」、「旦さん方なぁ、特に冷え性が多いさかい、お一人前に懐炉三つずつ」、「もぉえぇっちゅうねん、えらい目に合わしやがんねん。まぁまぁ、あと万々ご祝儀ものじゃ、こっち来いこっち来い。しかし一八、なかなかえぇこと言ぅたがな。でや、その格好でひとつ踊れッ」、「そんな無茶言ぃなはんな」、「何や冬らしぃもん弾き」、「ほな『御所のお庭』でも、ほな地方はん頼んまっさ・・・」。
 ♪ 「動かれへんがなこんなもん・・・、こけかけたら、支えてや」、「見てみぃ、あいつ手が動かへんがな、あまりの寒さで手がかじかんどぉねやがなおい。ちょっと火鉢のそばへ来て、その懐へ懐炉三つほど入れたれ!」、「無茶苦茶や」、皆、面白がって首筋から懐炉をグイ、グイグイ。さすがの一八たまらんよぉになって、「助けとくなはれぇ~」ドタ~ッ横倒しになると慌てて帯をほどいてバラバラバラ、着物を脱ぎ捨てると庭へボ~ンと飛び降りた。井戸のそばへ行くと頭から水をザバ~ッ、ザブ~ッ。「おぉ、やっとぉる・・・、何じゃいその真似は?」、「へぇ、寒行の真似をしとぉります」。

 



ことば

色街(いろまち);色街のおうわさで、色街と言ぃましても毎度申しあげますよぉに、つまり女郎(じょ~ろぉ)買いのほぉと、芸者遊びのほぉとはまるきり違うわけでございますが。やっぱりピンからキリまであるもんでして、言ぃ方もいろいろありますなぁ。遊女やとかね、花魁(おいらん)やとか、浮かれ女、遊び女、なんかこぉ上品に聞こえますわなぁ。パンパン言ぅたら、何やこぉいまだにどぉもイメージがガラッと違う。あぁいぅ街に立ってるよぉなんでも、江戸時代からやとかいろんな言ぃ方がある。明治の頃には末頃に淫売といぅ言葉が流行ったんですなぁあれ。淫売婦て、これ警察の言葉らしぃんですが、そやから淫売ちゅうのは当時はえらい新しぃ言葉やったんです。
 難波(なにわ)橋のところに夕涼み、夏になるといろんな物売り店が出て、氷屋がこぉその時分のことでカキ氷でね、「こぉ~り、こぉり、い~っぱい五りん、こぉ~り氷、一杯五厘」売ってまんねやなぁ。ほな、女ごがこぉ、縄付きで引っ張られとぉる。「おい、あれ女ごが五人くくられて行てるが・・・?」、「あれ、淫売屋が上がりよったんや」、「あの五人、淫売か?」、「あぁ、い~んばい五人、淫売五人」、「どぉなんねや?」、「こぉりゅ、拘留」ちゅう、呑気な噺がありました。こらまぁ、明治時代の噺でございますがな。

 ●辻君、夜鷹、総嫁(そぉか);夜の街に立って営業している淫売女、江戸時代からいろんな言ぃ方がある。

 ●大阪の遊廓の特徴;京都や東京の花街と比較すると、大阪の花街は「芸妓」本位の花街(遊廓)と「娼妓」本位の遊廓との共存割合が高く、しかも後発の花街(松島・飛田など)ほど娼妓本位の傾向にあった。江戸から明治、大正、昭和初期にかけて芸妓、娼妓が置屋(妓楼、関西では「屋形」と呼ぶ)からお茶屋、貸席(貸座敷)へ出向く「送り込み」と、直接商売する「居稼」(てらし)という制度が存在していた。しかし、近代における花街の制度の変化に伴い芸妓、娼妓が分離し芸妓のみの花街と娼妓のみの遊廓が生まれてくるようになった。

太太夫(たゆう);いろんな言ぃ方がございますが、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町。この三つは大夫といぅ名前で呼ばれる女性がおったわけですなぁ、格がだいぶ上なんです。この三つだけが官許の廓やそぉで、あとはみなもぉえぇかげんなとこやったんですなぁ、事後承諾みたいな形で営業してた。この三つだけは威張ったもんです。この大夫が「松の位の大夫職」とかなんとか言ぃますが、江戸では「おいらん」と呼びますなぁ、難しぃ字ぃ書くんですなぁ「花魁(かかい)」と書く、花の魁(さきがけ)と書く。あんまり買ぉてると鼻の先のほぉから欠けてくる。鼻の先欠け、えぇ名前ですなぁあれ。娼妓といぅ言ぃ方もありますなぁ、「娼妓(しょ~ぎ)」女偏に日ぃを二つ重ねる。金銀がなかったら差せないからや、いろんなこと言ぃます。どぉもこぉ字ぃの講釈も難しなってまいりましたが・・・。なんであの「おいらん」てなこと言ぅのかといぅと、あれは江戸の言葉で「おいらの大夫さん」といぅとっからきたんやそぉです。で、京都の島原行きますと、「こったいさん」と言ぃますなぁ。あれも聞ぃてみると「こちの大夫さん」といぅことが「こったいさん」と、こぉなった。「こったいさん」と「おいらん」とはえらい言葉が違うが、意味いぅたらみな、「うちの大夫さん」ちゅうことなりますんや、面白いもんですなぁ。で、大阪の新町にはそぉいぅ呼び名があったんかなかったんか知りませんが、伝わってはおりませんよぉで。この三つが威張ってました。

 ●江戸の吉原;廓と言えば江戸では吉原を指します。新吉原(浅草に移った後の吉原)は、江戸の北にあったところから北州、北里とも呼ばれました。俗にお歯黒ドブに囲まれた土地で、総坪数二万七百六十坪有りました。ドブには跳ね橋が九カ所有りましたが、通常は上げられていて大門が唯一の出入り口でした。大門から水戸尻まで一直線の道路を仲の町と言い、その両側には引き手茶屋が並んでいました。
  仲の町の右側には、江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目が、左側には伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目が並んでいました。なかでも、江戸町一、二丁目、京町一、二丁目、角町を五丁町と呼んでいました。揚屋町には元吉原当時の揚屋が並んでいました。また、酒屋、寿司屋、湯屋が有り、裏には芸者達が住んでいました。
  この五丁町の入り口には、それぞれ屋根付き冠木門の木戸がありました。また、各町の路の中央には、用水桶と誰(た)そや行灯が並んでいました。
  江戸町一丁目の西河岸を情念河岸と呼ばれました。また、江戸丁二丁目の河岸を別名羅生門河岸とも呼ばれました。志ん生の落語「お直し」の舞台です。
  廓の四隅にはそれぞれ稲荷神社が祀ってあります。大門を入って右側に『榎本稲荷社』、奥に『開運稲荷社』、羅生門河岸奥に『九郎助稲荷社』、戻って『明石稲荷社』があって、その中でも九郎助稲荷社が名が通っていました。明治29年頃、この四稲荷と衣紋坂にあった吉徳稲荷が併合され、吉原神社となりました。現在はお歯黒ドブが無くなって、水戸尻を越えた右側に社殿を構えています。
  吉原遊女3千人と言われていたが、安永、天明の頃は三千人を切っていたが、寛政になると三千を越えて四千人台に突入します。
  『江戸吉原図聚』 三谷一馬画より吉原略図。 落語「万歳の遊び」より孫引き

   

 上図、天才絵師・葛飾北斎の三女、葛飾応為筆 「吉原格子先之図」

  

 上図、「青楼二階の図」 歌川国貞画 文化10年(1813)3月 江戸東京博物館蔵

 ●京の島原;豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
  島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を催したとき、優れた傾域を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。下京区花屋町通大門西入上之町。

 ●大阪の新町;大坂夏の陣の翌年、1616年(元和2年)に伏見町の浪人とされる木村又次郎が江戸幕府に遊廓の設置を願い出た。候補地となった西成郡下難波村の集落を道頓堀川以南へ移転させ、1627年(寛永4年)に新しく町割をして市中に散在していた遊女屋を集約し、遊廓が設置された。
 大阪には、江戸時代から新町、堀江、北新地、南地(現在のミナミ)の4つの大きな花街があり、昭和初期まで隆盛を極めていたが、戦後は大阪経済の低迷や後継者難などで凋落が続き、現在「花街」として辛うじて機能しているのは北新地と南地のみである。
 大阪における花街の歴史は京都の嶋原に模して作られた新町から始まる。商業の町として発展してきた大阪(当時は「大坂」と呼ばれた)には随時して非公認の花街が神社仏閣、芝居小屋の付近で誕生した。現在、北新地、南地の繁華街は江戸時代からの生き残りである。非公認の遊女のいた妓楼は「泊茶屋(とまりちゃや)」と呼ばれた。天保の改革などで複数の花街が整備され、明治に入って数箇所の花街を統廃合して松島遊廓が誕生し、大正に難波新地の火災により飛田遊廓が開設され、今里、住吉などの芸妓のみの花街が誕生していった。
 新町遊廓は大阪最古の花街で、江戸時代には大阪唯一の幕府公認の花街であった。地名の由来は、大阪中の花街を集めて一つの新しい町にしたことから。江戸の吉原、京都の嶋原と並ぶ三大遊廓の一つだったが、娼妓より芸妓の数が上回っていた。嶋原から移った夕霧太夫が主人公の歌舞伎『廓文章』はこの花街が舞台である。『廓文章』の舞台のひとつである揚屋の「吉田屋」は大阪大空襲による焼失まで嶋原の「角屋」と共に現存していた。『浪花踊』が上演された新町演舞場はのちに大阪屋本社ビルとなったが、同社の移転により解体された。「砂場そば」の発祥の地でもある。

 上、「大阪名所 新町廓 太夫の道中」。 季節は春、右隅に「吉田屋」の見世が見える。

 ●松の位の大夫職;古代中国で、秦(しん)の第一世皇帝。紀元前221年中国史上最初の統一国家を築き、万里の長城を増築した「始皇帝(しこうてい)(前259~前210)」と言う方がおります。この方が外出した折、にわかに、夕立が降って来ました。あいにくと雨具の用意はありません。しかし、始皇帝は、そばにあった松の木の下で雨宿りをし、濡れずにすんだのです。これに感激した始皇帝は、「感心な松である」と言う事で、その松の木に「五位」と言う、高位な位階を授けたのです。
  そんな逸話から、売れている高級花魁は「松の位の太夫」となのります。太夫は「五位」です。つまり始皇帝から「五位」の位を授かった「松」と同じです。したがって、高級花魁を「松の位の太夫職」などと評する様になったのです。

道中(どうちゅう);道中といぅことをいたします「花魁道中」今度の今年の「顔見世」に「籠釣瓶(かごつるべ)」が出るそぉですが、あら歌右衛門十八番の八ツ橋大夫、ちょっとこぉ男衆(おとこし)の肩へ手ぇ乗せてね、打ち掛け、豪華なものを着まして嫣然(えんぜん)と笑う。大きな下駄履いてね、八文字といぅやつを踏みます。あんなもん履いてるさかい、なんぼも道はかどりまへんわ、道中ちゅうたかてここからそこ行くぐらいの話だ、大層な名前付けたもんで。あの廓の中を回るだけのはなしなんですが、ひとつのデモみたいなもんで、大勢がタダで見られるちゅうんで押しかけたわけ。島原にももちろん道中がございますし、大阪の新町にも道中がある。三つだけかいなぁと思てたら、こないだ聞ぃたら明治時代には祇園にも娼妓さんがおって、やっぱり道中をやったちゅう、祇園の道中があったちゅうこと聞ぃて、わたしビックリしたんですがなぁ、あっちでもこっちでもやっとったらしぃですなぁ。まぁひとつのショーですわなぁあれ。ちょっと短い距離ですが、あん中を時間をかけて練り回るわけなんです。大層なもんでございますが。これがこの、事情があって大阪の新町、よそもぉたいがい花時、新町も春先やったのが、何かの事情で天保時分には夏の暑い盛りに変更させられまして、明治になってからまた花時に変わったよぉでございますが、幕末頃いっぺんは暑い盛りにこれがあった。ずいぶん金がかかります。新町がよそと違うところは、仮装行列のよぉな扮装をやった。よそはみなあの打ち掛け姿で八文字踏んで歩くだけですが、大阪は羽衣の天女になるとか、牛若丸になったり、尉と姥(じょ~とんば)になったり、静御前になったり、歌舞伎の登場人物になったり、みな扮装をして練り歩いたもんらしぃんでございます。

 東京・浅草での花魁道中。2012.04.15 浅草観音裏 一葉桜まつりにて

 ●八文字;この道中の際に花魁が行う特殊な足の運びが「外八文字」と「内八文字」で、多くの風習同様、この外八文字も京都の習慣を模したものです。
 ・ 内八文字(うちはちもんじ) 京都の道中は、内八文字という歩行方法でした。 外側に足を踏み出す外八文字と異なり、内側に足を踏み出す方法です。 江戸吉原においても、元吉原~明暦の頃までは内八文字で行っていました。
 ・ 外八文字(そとはちもんじ) 明暦の頃出現した勝山という遊女が行ったのが始めといわれています。 伝承によるとかなり男勝りの人物であったらしく、それまでおしとやかに内側に踏み出していた八文字の足を外側に踏み出し、かなり大胆な歩き方で評判をとったとあります。
 現在、歴史関係の催し物で行われている外八文字は、かなり装飾過剰で、当時のものとはかなり異なっています。 天保年間あたりから、基本の外八文字の習慣が崩れだし、次第に現在の外八文字に変化していったと言われています。

ジキ;そら、雑喉場(ざこば)かて、天満の市かて、船場の旧家かて、みなお金持ちはたくさんいたはりまっしゃろが、新町で派手にアホみたいに金を使こぉてくれるのは、やっぱり堂島の米相場師。直(じき)とこぉ呼んだんですな、相場師のことをね。ジキ、なかなかこら値打ちのあった言葉やそぉですが。
 で、大阪にこぉいぅことに非常にお金をかけてくれる客筋(スポンサー)といぅと、一番の得意先は堂島で、米相場ですな。こらひと晩で大分限(だいぶげん)が出来上がるかと思うと、百万長者が乞食同然になったりする、恐い。日本国中の米の値段を大阪の堂島で決めてた時代、威張ったもんですなぁ。(米朝)

 ●(じき);堂島の米相場の店の主人のこと。ジカ(直接)に取引のできるもの。大阪ことば事典

 ●雑喉場(ざこば);大阪市西区にある大阪最大の魚市場。江戸時代には堂島の米市、天満の野菜市と並んで、上方三市の一つとして繁栄した。起源は 15世紀末と伝えられる。元和4 (1618) 年上魚屋町に移転、冥加金を納めて魚市場の特権を得たが、河口に遠いため鮮魚の取引に不便で、鷺町に出張所を設置、雑魚 (ざこ) 類の取引で栄えたので、雑喉場の呼び名が発生した。その後問屋、株仲間などを結成したが、明治2 (1869) 年雑喉場生魚商社を設立、株仲間を改め、鑑札制度の組合を組織。大阪中央卸売市場が設立された昭和初期まで存続。

  

 浪花名所図会 「雑喉場 魚市の図」 広重画

 ●天満の市(てんまのいち);1653年(承応2年)、京橋片原町から天満の淀川沿岸に青物市場が移転し「天満青物市場」が誕生した。この市場は西成郡難波村など城下南郊の近郊農村が開設しようとした市場や新興の堀江にできた市場などから挑戦を受けるものの、長年大坂の青果取引を独占する官許市場として繁栄し、周囲には野菜などに関わる商家が多く集まった。天満堀川沿いは造り酒屋や乾物問屋などが軒を連ねた。
 天満の地名は当地に鎮座する大阪天満宮の転訛による。日本三大祭のひとつに数えられる天神祭、南端の大川に架かる浪華三大橋(天満橋・天神橋・難波橋)で知られる。

 「天満市之側」 『摂津名所図会』巻之四上より 

 ●船場の旧家(せんばの きゅうけ);大阪の商業の中心地船場。その旧家ともなると、金持ちも多くいたでしょう。

 ●米相場師(こめ そうばし);江戸時代、米相場の参加者は幕府から免許を受けた米商人に限られていたが、明治に入って株式や生糸など市場が整備されるにつれ、現物商品を扱わず、取引所で投機的売買のみを行う者は「相場師」と呼ばれるようになり、財閥を形成するほどの巨額の利益を得る者も現れる。明治大正期から昭和に至るまで、相場師は金融市場を巡る多くのドラマの主人公とされ、また大衆小説の主人公ともなって、世間の耳目を集めた。
 日本では近世初期、すでに大坂堂島の米会所で、投機取引が発達し、相場師が出ている。1816年(文化13)ころの《世事見聞録》には、米相場は大坂堂島が日本第一の根元で、そこには相場師という強勢なものが多くいて、ひとりで米10万石から100万石ほどを売買したりして、器量くらべ、運くらべをして勝負を決めていた。

 ●大分限(だいぶげん);財産・資産のほど。財力。また、財力のあること。金持ち。ぶげん。「分限者」

 以上、ここまでの本文(明朝体)は米朝のマクラより。

 

一八(いっぱち);落語の中では太鼓持ちを一八と呼ぶ。

籐筵(とぉむしろ);籐で編んだむしろ。とむしろ。畳、フローリングなどの上敷きに用いる敷物。肌感触が良く夏場はべとつかず冷感を呼ぶ。通年洗面所や脱衣室に使われる。

簾戸(すど);ごく簡単に言うと簾(すだれ)をはめ込んだ建具のことで、別に「夏障子」「葦戸(よしど)」「葭障子(よししょうじ)」「御簾戸(みすど)」とも呼ばれています。エアコンの無い時代 衣類の衣替えと同様、六月になると障子や襖(ふすま)のかわりに取り替えて、暮らしを夏向きに整えます。簾が強い光を遮ってくれるため、室内は涼しく、簾の隙間から入る風はゆるやかに吹き抜け、目にもすがすがしい風情が一層涼しさを感じさせてくれます。中から外の景色は見えますが、外から室内は見えません。採光と通風を確保し、プライバシーも守る。

 

 上、簾戸をはめ込み、畳の上に籐筵を敷いた夏の装いをした室内。

(すだれ);細い割り竹やアシなどを何本も並べ、糸で編みつないだもの。部屋の仕切りや日よけなどに使う。

突き出し;居酒屋で最初に出される料理は関東ではお通し、関西では突き出しと呼ばれる。 お通しの語源は、客の注文を通すということからきたもの。 突き出しは、客の注文とは無関係に出すことからその名がついたと言われる。 お通しは店によっては断ることもできるようだが、店側にとっては席料の意味もある。

馴染みどころ;普段贔屓にしている芸者や太鼓持ち達。

知盛(とももり);平知盛は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。
 平安時代末期の武将。清盛の子。母は時子。平治元年 (1159) 8歳で従五位下となる。治承元年(11
77) 従三位。同4年挙兵した源頼政を宇治川の戦いで破った。寿永元年(1182) 従二位権中納言。翌年源義仲に追われて、一門とともに西走、解官された。同3年一ノ谷の戦いに奮戦したが、敗れて屋島に逃れた。翌文治元年 (1185) 屋島で源義経に敗れ 、次いで長門壇ノ浦の合戦にも敗れ、安徳天皇はじめ一門の女性とともに入水した。謡曲『舟弁慶』や浄瑠璃『義経千本桜』 (大物浦の場) などの主役で知られる。

 上、「壇ノ浦 知盛」 歌川国芳画  壇ノ浦で大敗し水中に碇を巻き付け没する知盛。

■傘止(かさどめ);花魁道中の行列を作って廓の中を進んできます。お囃子の屋台や役員が乗った屋台に続き太夫さん達の行列が続きますが、その最後尾が傘止めと言って、落語と同じで最後に出る人は一番の売れっ子です。そこに栴檀(せんだん)大夫が位置を占めています。

舞妓(まいこ);古くは「舞子」と書き、かつては9 - 13歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していた。現在では中学卒業後でないとなれない。 通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」として、だらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪(長く垂れ下がった簪は一年目のみであり、以後は次第に花が大きくなる)を挿す。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2~3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1 - 4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟替えして芸妓になる時期は20歳前後の場合が多い。

心中立て(しんじゅうだて);男女がその愛を守り通すこと。また、その証拠を示すこと。この噺では、旦那が栴檀(せんだん)大夫のプロ根性に惚れ込んで、太夫と同じように厚着の冬の遊びを始めた。

お帳場はん;商店や旅館、料理店などで、勘定や帳付けや客が支払いを行う場所。通常、客と最も対面しやすい玄関付近にあり、古くは三方を結界と呼ばれる二つ折り、または三つ折りの細かい帳場格子(竪格子、衝立格子)で囲い、その内側で店主や番頭が帳付けなどの事務を執り行っていた。そこに座している旦那か、番頭を言う。

袷の着物(あわせの きもの);着物の仕立て方のひとつで胴回りや裾、袖部分に裏地をつけて仕立てたものになります。裏地があることで見た目に重量感がでる。裏地がついていて風を通さないため、10月から5月頃の気温の低い時期に着るのに適しています。
 落語の世界では、真冬には綿入れを着て、温かくなったら綿を抜いて袷で着て、夏になったら、裏地をはがして単衣で着ると言います。1枚の着物がオールシーズンタイプに着られると言います。でも、冬に向かっていくときはどうするのでしょうか。

ツララ(氷柱)が五寸ほど下がっとりまんねん;真冬、軒先から下がったしずくが棒状の氷になったもので、それが5寸(約15cm)の長さに伸びた寒さ。

宣徳の火鉢(せんとくの ひばち);宣徳銅とは中国明時代の皇帝・宣徳帝が宣徳3年(1428)に鍛冶局を設置し諸外国の金属を集め鋳造した合金のひとつで主成分は銅と鉛からなる真鍮です。 日本は当時室町時代、中国の美術工芸品が唐物と呼ばれ好まれた時代です。そこから転じて日本では真鍮製の器物を宣徳と呼ぶようになります。 ただ宣徳銅は真鍮といいますが厳密には現在の胴と鉛の合金ではなく、明がタイから輸入した真鍮に日本から輸入した赤胴を混ぜて作った合金になり、いわば不純物の入った真鍮となりそれが逆に味わいのある風合いとして評価されています。 宣徳銅は火鉢の他、香炉や仏器などにも用いられました。そして「大明宣徳年製」という銘はそれ自体でブランド的な役割を果たすこととなります。 宣徳火鉢は本来は宣徳年間に製造された銅製火鉢ですが、その後の中国清朝でもそれを模した火鉢など銅器が作られ江戸時代になると日本でもその潮流が見受けられます。 火鉢は手あぶり火鉢と呼ばれる小型の火鉢です。銅製の手あぶり火鉢は茶道具のひとつとしても重宝されております。宣徳銅製の火鉢は宣徳火鉢と言われ、中には銀象嵌が施された火鉢など中国骨董を感じさせる美術工芸品として愛用されました。

 

 上、「宣徳の火鉢」

冷奴やスズキの洗い;冷奴(ひややっこ)は、豆腐を使った料理の一つ。奴豆腐(やっこどうふ)、略してやっこともいう。主に、酒の肴や夏向きの料理として食べられる。 冷やした豆腐(絹ごし豆腐、木綿豆腐の双方が使用される)の上に薬味を載せたり、調味料を使用して食べる日本の料理である。 豆腐は数センチメートル角か、あるいは近年は一人分の大きさの直方体に切る。冬には湯豆腐。
 洗いと言えば、鯉とスズキ。カレイやマゴチもなかなかですが、夏はやっぱりスズキの洗い。今あげた魚たちは、独特の臭いと脂があります。それを洗い流して、コリコリした食感と旨味だけを引き出すのが『洗い』です。スズキの産卵期は冬ですが、身質が美味になるのは夏ですので、旬は6月~8月まで。
 どちらも夏に旨い食べ物です。

鍋で雑炊(なべでぞうすい);鍋は冬の食べ物。と言ったら鍋好きの人には怒られます。鍋を食べ終わったら、その出汁で、ご飯を入れて、溶き卵を入れて完成。難しく考えないで、最後まで鍋を楽しみ、茶碗に盛ったら刻みネギと海苔を手でほぐして入れたら、料亭気分です。熱々をフウフウ良いながら食べるのは、やはり冬の食べ物。

茶碗蒸し(ちゃわんむし);茶碗蒸しは、日本料理の一つで、卵を使った蒸し料理であり、また汁物の一種ともされる。茶碗の中の熱々の料理をすくって食べるので身体が温まります。夏でも旨いが、冬に食べたら最高。

寒行の真似(かんぎょうのまね);厳しい寒さを耐えることによって自己を鍛え、祈願する修行。節分までの寒の30日間、水垢離(みずごり)・誦経・念仏、あるいは寒参りなどを行う。一八はその水垢離の真似をした。真夏だと気持ちよかったでしょう。

『御所のお庭』(ごしょの おにわ);端唄。
♪ 御所のお庭に 右近の橘 左近の笹々 ふくふく らんららんら   右大臣 左大臣 サササ 緋の袴はいたる 官女官女たちたち  
♪ 雪はちらちら 子供は喜ぶ 大人はかじける 犬奴(いぬめ)は 飛び上がる   雪をこかして サササ 箒で掃くやら  屋根の雪ゃ さおでかく  
♪ 今の通りの 羅生門には 茨木童子という鬼住んでナー    渡辺の綱の兜を サササ 掴んで舞い上がる       太刀引き抜いて腕(かいな)斬る

 源頼光という大将が大江山の鬼どもを退治したが、その家来の中で四天王の一人といわれた渡辺の綱が、京都の羅生門で悪鬼をみつけ、刀でその片腕を斬り落したが、鬼は逃げた。綱は各地をめぐり、遂に奥州の姥ケ懐の里まで十人余りの従者とともにやって来た。
 その時、綱は、先に切って落とした鬼の片腕を、石で造った長持に隠しおいたが、その鬼は綱の伯母に化けて綱を尋ねて、「今、世間で評判の鬼の腕を見せてくれ」としつこく頼み 綱が止むなく長持のふたを少しあけた隙にその片腕をさらい、囲炉裏の自在鈎を伝ってその上にのぼり天井の煙出しから外に逃げ出した。
 綱が刀を抜いて追いかけた所、鬼は小川を越えようとしてすべって石に左手をついたが起き上って、遂に逃げてしまった。その時、手をついた跡が石に手型として残ったという。

地方はん(じかたはん);三味線や太鼓、小鼓(こつづみ)、笛(能管(のうかん)、篠笛(しのぶえ))などのお囃子を演奏したり、唄を担当する芸妓を地方といいます。舞台やお座敷で舞の伴奏をしたり、長唄の弾き語りからお座敷遊びの盛り上げ役まで、お座敷には欠かせません。

  


                                                            2021年3月記

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