落語「冬の遊び」の舞台を行く 桂米朝の噺、「冬の遊び」(ふゆのあそび)より
■色街(いろまち);色街のおうわさで、色街と言ぃましても毎度申しあげますよぉに、つまり女郎(じょ~ろぉ)買いのほぉと、芸者遊びのほぉとはまるきり違うわけでございますが。やっぱりピンからキリまであるもんでして、言ぃ方もいろいろありますなぁ。遊女やとかね、花魁(おいらん)やとか、浮かれ女、遊び女、なんかこぉ上品に聞こえますわなぁ。パンパン言ぅたら、何やこぉいまだにどぉもイメージがガラッと違う。あぁいぅ街に立ってるよぉなんでも、江戸時代からやとかいろんな言ぃ方がある。明治の頃には末頃に淫売といぅ言葉が流行ったんですなぁあれ。淫売婦て、これ警察の言葉らしぃんですが、そやから淫売ちゅうのは当時はえらい新しぃ言葉やったんです。
●辻君、夜鷹、総嫁(そぉか);夜の街に立って営業している淫売女、江戸時代からいろんな言ぃ方がある。
●大阪の遊廓の特徴;京都や東京の花街と比較すると、大阪の花街は「芸妓」本位の花街(遊廓)と「娼妓」本位の遊廓との共存割合が高く、しかも後発の花街(松島・飛田など)ほど娼妓本位の傾向にあった。江戸から明治、大正、昭和初期にかけて芸妓、娼妓が置屋(妓楼、関西では「屋形」と呼ぶ)からお茶屋、貸席(貸座敷)へ出向く「送り込み」と、直接商売する「居稼」(てらし)という制度が存在していた。しかし、近代における花街の制度の変化に伴い芸妓、娼妓が分離し芸妓のみの花街と娼妓のみの遊廓が生まれてくるようになった。
■太太夫(たゆう);いろんな言ぃ方がございますが、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町。この三つは大夫といぅ名前で呼ばれる女性がおったわけですなぁ、格がだいぶ上なんです。この三つだけが官許の廓やそぉで、あとはみなもぉえぇかげんなとこやったんですなぁ、事後承諾みたいな形で営業してた。この三つだけは威張ったもんです。この大夫が「松の位の大夫職」とかなんとか言ぃますが、江戸では「おいらん」と呼びますなぁ、難しぃ字ぃ書くんですなぁ「花魁(かかい)」と書く、花の魁(さきがけ)と書く。あんまり買ぉてると鼻の先のほぉから欠けてくる。鼻の先欠け、えぇ名前ですなぁあれ。娼妓といぅ言ぃ方もありますなぁ、「娼妓(しょ~ぎ)」女偏に日ぃを二つ重ねる。金銀がなかったら差せないからや、いろんなこと言ぃます。どぉもこぉ字ぃの講釈も難しなってまいりましたが・・・。なんであの「おいらん」てなこと言ぅのかといぅと、あれは江戸の言葉で「おいらの大夫さん」といぅとっからきたんやそぉです。で、京都の島原行きますと、「こったいさん」と言ぃますなぁ。あれも聞ぃてみると「こちの大夫さん」といぅことが「こったいさん」と、こぉなった。「こったいさん」と「おいらん」とはえらい言葉が違うが、意味いぅたらみな、「うちの大夫さん」ちゅうことなりますんや、面白いもんですなぁ。で、大阪の新町にはそぉいぅ呼び名があったんかなかったんか知りませんが、伝わってはおりませんよぉで。この三つが威張ってました。
●江戸の吉原;廓と言えば江戸では吉原を指します。新吉原(浅草に移った後の吉原)は、江戸の北にあったところから北州、北里とも呼ばれました。俗にお歯黒ドブに囲まれた土地で、総坪数二万七百六十坪有りました。ドブには跳ね橋が九カ所有りましたが、通常は上げられていて大門が唯一の出入り口でした。大門から水戸尻まで一直線の道路を仲の町と言い、その両側には引き手茶屋が並んでいました。
●京の島原;豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
●大阪の新町;大坂夏の陣の翌年、1616年(元和2年)に伏見町の浪人とされる木村又次郎が江戸幕府に遊廓の設置を願い出た。候補地となった西成郡下難波村の集落を道頓堀川以南へ移転させ、1627年(寛永4年)に新しく町割をして市中に散在していた遊女屋を集約し、遊廓が設置された。
上、「大阪名所 新町廓 太夫の道中」。 季節は春、右隅に「吉田屋」の見世が見える。
●松の位の大夫職;古代中国で、秦(しん)の第一世皇帝。紀元前221年中国史上最初の統一国家を築き、万里の長城を増築した「始皇帝(しこうてい)(前259~前210)」と言う方がおります。この方が外出した折、にわかに、夕立が降って来ました。あいにくと雨具の用意はありません。しかし、始皇帝は、そばにあった松の木の下で雨宿りをし、濡れずにすんだのです。これに感激した始皇帝は、「感心な松である」と言う事で、その松の木に「五位」と言う、高位な位階を授けたのです。
■道中(どうちゅう);道中といぅことをいたします「花魁道中」今度の今年の「顔見世」に「籠釣瓶(かごつるべ)」が出るそぉですが、あら歌右衛門十八番の八ツ橋大夫、ちょっとこぉ男衆(おとこし)の肩へ手ぇ乗せてね、打ち掛け、豪華なものを着まして嫣然(えんぜん)と笑う。大きな下駄履いてね、八文字といぅやつを踏みます。あんなもん履いてるさかい、なんぼも道はかどりまへんわ、道中ちゅうたかてここからそこ行くぐらいの話だ、大層な名前付けたもんで。あの廓の中を回るだけのはなしなんですが、ひとつのデモみたいなもんで、大勢がタダで見られるちゅうんで押しかけたわけ。島原にももちろん道中がございますし、大阪の新町にも道中がある。三つだけかいなぁと思てたら、こないだ聞ぃたら明治時代には祇園にも娼妓さんがおって、やっぱり道中をやったちゅう、祇園の道中があったちゅうこと聞ぃて、わたしビックリしたんですがなぁ、あっちでもこっちでもやっとったらしぃですなぁ。まぁひとつのショーですわなぁあれ。ちょっと短い距離ですが、あん中を時間をかけて練り回るわけなんです。大層なもんでございますが。これがこの、事情があって大阪の新町、よそもぉたいがい花時、新町も春先やったのが、何かの事情で天保時分には夏の暑い盛りに変更させられまして、明治になってからまた花時に変わったよぉでございますが、幕末頃いっぺんは暑い盛りにこれがあった。ずいぶん金がかかります。新町がよそと違うところは、仮装行列のよぉな扮装をやった。よそはみなあの打ち掛け姿で八文字踏んで歩くだけですが、大阪は羽衣の天女になるとか、牛若丸になったり、尉と姥(じょ~とんば)になったり、静御前になったり、歌舞伎の登場人物になったり、みな扮装をして練り歩いたもんらしぃんでございます。
東京・浅草での花魁道中。2012.04.15 浅草観音裏 一葉桜まつりにて
●八文字;この道中の際に花魁が行う特殊な足の運びが「外八文字」と「内八文字」で、多くの風習同様、この外八文字も京都の習慣を模したものです。
■ジキ;そら、雑喉場(ざこば)かて、天満の市かて、船場の旧家かて、みなお金持ちはたくさんいたはりまっしゃろが、新町で派手にアホみたいに金を使こぉてくれるのは、やっぱり堂島の米相場師。直(じき)とこぉ呼んだんですな、相場師のことをね。ジキ、なかなかこら値打ちのあった言葉やそぉですが。
●直(じき);堂島の米相場の店の主人のこと。ジカ(直接)に取引のできるもの。大阪ことば事典
●雑喉場(ざこば);大阪市西区にある大阪最大の魚市場。江戸時代には堂島の米市、天満の野菜市と並んで、上方三市の一つとして繁栄した。起源は
15世紀末と伝えられる。元和4 (1618) 年上魚屋町に移転、冥加金を納めて魚市場の特権を得たが、河口に遠いため鮮魚の取引に不便で、鷺町に出張所を設置、雑魚 (ざこ) 類の取引で栄えたので、雑喉場の呼び名が発生した。その後問屋、株仲間などを結成したが、明治2 (1869) 年雑喉場生魚商社を設立、株仲間を改め、鑑札制度の組合を組織。大阪中央卸売市場が設立された昭和初期まで存続。
浪花名所図会 「雑喉場 魚市の図」 広重画
●天満の市(てんまのいち);1653年(承応2年)、京橋片原町から天満の淀川沿岸に青物市場が移転し「天満青物市場」が誕生した。この市場は西成郡難波村など城下南郊の近郊農村が開設しようとした市場や新興の堀江にできた市場などから挑戦を受けるものの、長年大坂の青果取引を独占する官許市場として繁栄し、周囲には野菜などに関わる商家が多く集まった。天満堀川沿いは造り酒屋や乾物問屋などが軒を連ねた。
「天満市之側」 『摂津名所図会』巻之四上より
●船場の旧家(せんばの きゅうけ);大阪の商業の中心地船場。その旧家ともなると、金持ちも多くいたでしょう。
●米相場師(こめ そうばし);江戸時代、米相場の参加者は幕府から免許を受けた米商人に限られていたが、明治に入って株式や生糸など市場が整備されるにつれ、現物商品を扱わず、取引所で投機的売買のみを行う者は「相場師」と呼ばれるようになり、財閥を形成するほどの巨額の利益を得る者も現れる。明治大正期から昭和に至るまで、相場師は金融市場を巡る多くのドラマの主人公とされ、また大衆小説の主人公ともなって、世間の耳目を集めた。
●大分限(だいぶげん);財産・資産のほど。財力。また、財力のあること。金持ち。ぶげん。「分限者」
以上、ここまでの本文(明朝体)は米朝のマクラより。
■一八(いっぱち);落語の中では太鼓持ちを一八と呼ぶ。
■籐筵(とぉむしろ);籐で編んだむしろ。とむしろ。畳、フローリングなどの上敷きに用いる敷物。肌感触が良く夏場はべとつかず冷感を呼ぶ。通年洗面所や脱衣室に使われる。
■簾戸(すど);ごく簡単に言うと簾(すだれ)をはめ込んだ建具のことで、別に「夏障子」「葦戸(よしど)」「葭障子(よししょうじ)」「御簾戸(みすど)」とも呼ばれています。エアコンの無い時代
衣類の衣替えと同様、六月になると障子や襖(ふすま)のかわりに取り替えて、暮らしを夏向きに整えます。簾が強い光を遮ってくれるため、室内は涼しく、簾の隙間から入る風はゆるやかに吹き抜け、目にもすがすがしい風情が一層涼しさを感じさせてくれます。中から外の景色は見えますが、外から室内は見えません。採光と通風を確保し、プライバシーも守る。
上、簾戸をはめ込み、畳の上に籐筵を敷いた夏の装いをした室内。
■簾(すだれ);細い割り竹やアシなどを何本も並べ、糸で編みつないだもの。部屋の仕切りや日よけなどに使う。
■突き出し;居酒屋で最初に出される料理は関東ではお通し、関西では突き出しと呼ばれる。 お通しの語源は、客の注文を通すということからきたもの。 突き出しは、客の注文とは無関係に出すことからその名がついたと言われる。 お通しは店によっては断ることもできるようだが、店側にとっては席料の意味もある。
■馴染みどころ;普段贔屓にしている芸者や太鼓持ち達。
■知盛(とももり);平知盛は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。
上、「壇ノ浦 知盛」 歌川国芳画 壇ノ浦で大敗し水中に碇を巻き付け没する知盛。
■傘止(かさどめ);花魁道中の行列を作って廓の中を進んできます。お囃子の屋台や役員が乗った屋台に続き太夫さん達の行列が続きますが、その最後尾が傘止めと言って、落語と同じで最後に出る人は一番の売れっ子です。そこに栴檀(せんだん)大夫が位置を占めています。
■舞妓(まいこ);古くは「舞子」と書き、かつては9 -
13歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していた。現在では中学卒業後でないとなれない。
通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」として、だらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪(長く垂れ下がった簪は一年目のみであり、以後は次第に花が大きくなる)を挿す。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2~3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1 -
4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟替えして芸妓になる時期は20歳前後の場合が多い。
■心中立て(しんじゅうだて);男女がその愛を守り通すこと。また、その証拠を示すこと。この噺では、旦那が栴檀(せんだん)大夫のプロ根性に惚れ込んで、太夫と同じように厚着の冬の遊びを始めた。
■お帳場はん;商店や旅館、料理店などで、勘定や帳付けや客が支払いを行う場所。通常、客と最も対面しやすい玄関付近にあり、古くは三方を結界と呼ばれる二つ折り、または三つ折りの細かい帳場格子(竪格子、衝立格子)で囲い、その内側で店主や番頭が帳付けなどの事務を執り行っていた。そこに座している旦那か、番頭を言う。
■袷の着物(あわせの きもの);着物の仕立て方のひとつで胴回りや裾、袖部分に裏地をつけて仕立てたものになります。裏地があることで見た目に重量感がでる。裏地がついていて風を通さないため、10月から5月頃の気温の低い時期に着るのに適しています。
■ツララ(氷柱)が五寸ほど下がっとりまんねん;真冬、軒先から下がったしずくが棒状の氷になったもので、それが5寸(約15cm)の長さに伸びた寒さ。
■宣徳の火鉢(せんとくの ひばち);宣徳銅とは中国明時代の皇帝・宣徳帝が宣徳3年(1428)に鍛冶局を設置し諸外国の金属を集め鋳造した合金のひとつで主成分は銅と鉛からなる真鍮です。
日本は当時室町時代、中国の美術工芸品が唐物と呼ばれ好まれた時代です。そこから転じて日本では真鍮製の器物を宣徳と呼ぶようになります。
ただ宣徳銅は真鍮といいますが厳密には現在の胴と鉛の合金ではなく、明がタイから輸入した真鍮に日本から輸入した赤胴を混ぜて作った合金になり、いわば不純物の入った真鍮となりそれが逆に味わいのある風合いとして評価されています。
宣徳銅は火鉢の他、香炉や仏器などにも用いられました。そして「大明宣徳年製」という銘はそれ自体でブランド的な役割を果たすこととなります。
宣徳火鉢は本来は宣徳年間に製造された銅製火鉢ですが、その後の中国清朝でもそれを模した火鉢など銅器が作られ江戸時代になると日本でもその潮流が見受けられます。
火鉢は手あぶり火鉢と呼ばれる小型の火鉢です。銅製の手あぶり火鉢は茶道具のひとつとしても重宝されております。宣徳銅製の火鉢は宣徳火鉢と言われ、中には銀象嵌が施された火鉢など中国骨董を感じさせる美術工芸品として愛用されました。
上、「宣徳の火鉢」
■冷奴やスズキの洗い;冷奴(ひややっこ)は、豆腐を使った料理の一つ。奴豆腐(やっこどうふ)、略してやっこともいう。主に、酒の肴や夏向きの料理として食べられる。
冷やした豆腐(絹ごし豆腐、木綿豆腐の双方が使用される)の上に薬味を載せたり、調味料を使用して食べる日本の料理である。
豆腐は数センチメートル角か、あるいは近年は一人分の大きさの直方体に切る。冬には湯豆腐。
■鍋で雑炊(なべでぞうすい);鍋は冬の食べ物。と言ったら鍋好きの人には怒られます。鍋を食べ終わったら、その出汁で、ご飯を入れて、溶き卵を入れて完成。難しく考えないで、最後まで鍋を楽しみ、茶碗に盛ったら刻みネギと海苔を手でほぐして入れたら、料亭気分です。熱々をフウフウ良いながら食べるのは、やはり冬の食べ物。
■茶碗蒸し(ちゃわんむし);茶碗蒸しは、日本料理の一つで、卵を使った蒸し料理であり、また汁物の一種ともされる。茶碗の中の熱々の料理をすくって食べるので身体が温まります。夏でも旨いが、冬に食べたら最高。
■寒行の真似(かんぎょうのまね);厳しい寒さを耐えることによって自己を鍛え、祈願する修行。節分までの寒の30日間、水垢離(みずごり)・誦経・念仏、あるいは寒参りなどを行う。一八はその水垢離の真似をした。真夏だと気持ちよかったでしょう。
■『御所のお庭』(ごしょの おにわ);端唄。 源頼光という大将が大江山の鬼どもを退治したが、その家来の中で四天王の一人といわれた渡辺の綱が、京都の羅生門で悪鬼をみつけ、刀でその片腕を斬り落したが、鬼は逃げた。綱は各地をめぐり、遂に奥州の姥ケ懐の里まで十人余りの従者とともにやって来た。
■地方はん(じかたはん);三味線や太鼓、小鼓(こつづみ)、笛(能管(のうかん)、篠笛(しのぶえ))などのお囃子を演奏したり、唄を担当する芸妓を地方といいます。舞台やお座敷で舞の伴奏をしたり、長唄の弾き語りからお座敷遊びの盛り上げ役まで、お座敷には欠かせません。
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