落語「三十石」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「三十石」(さんじっこく)


 

 京都見物が済んで、伏見街道に出てきた江戸っ子二人。お土産に伏見人形を買って歩き始めたが足に豆が出来たので、何処かで休もうと言いだした。もう少しで夜船というのがあって、寝ている間に大坂に着くという船がある。それで行けば、大坂には遊ぶところがいっぱい有るから楽しみにしていろと励まされた。

 伏見の船着き場は大賑わい。「どちらさんもお下りさんやおへんかいな、お下りさんやおへんかいな。どちらさんもお下りさんやおへんかいな、お下りさんやおへんかいな・・・」、客引きが居たが、寺田屋を紹介されていたので、そこに入るというと「当家が寺田屋です。ところで何人さんですか」、「しじゅう二人だ」、「大勢さんで、ところで後の40人さんは?」、「誰も来ないよ。しじゅう二人で歩いているから始終二人だ」。
 相部屋に通されて、先客に挨拶しながら部屋に落ち着いた。「お客さんのワラジがえろうやれております。結んでおきましょうか」、「江戸っ子だい。そんなの、うっちゃっちゃっておきねぇ」、「お脚絆と足袋は」、「そんなのは・・・、ん、ホコリをはたいて、明日も履くよ」、江戸っ子は気が早いから、茶代と祝儀を出すと、茶代のお返しとして、清水焼の猪口を二つ持ってきて、主人が回りに聞こえるように麗々しく返礼の挨拶をした。
 入れ替わりに番頭が上がってきて、宿帳を付けるという。変名でなく、実の名前と所を申告して欲しいと願いつつ、書き出したが、江戸っ子が声を掛けた。「俺たちは江戸だ。浅草の花川戸、幡随院長兵衛だ。連れは助六」、「やんなるな。そちらは?」、「大坂船場今橋二丁目、鴻池善右ヱ門」、「鴻池さんは良く泊まられるので、知っていますが、ホンマの名前で」。「そちらの御出家さんは・・・」、「播磨国書写山、武蔵坊弁慶」。「そっちゃのお女中さんは」、「自らは小野小町。疑わしくば百人一首を読みましょか」、「自らという顔じゃ無いわ。塩辛みたいだ。あんさんは」、「大坂西トカエリ町、八文字屋徳兵衛、大宮右兵衛、福徳屋萬兵衛、大黒屋六兵衛、生酢屋藤兵衛、尾張屋喜三郎、鶴屋治右衛門、小言幸兵衛長屋中」、「チョット待って下さい。これみんな船待ちのお客さんですか」、「お婆が亡くなったとき来てくれた人達です」、「葬連の帳面だ」。番頭ブツブツ言いながら下に降りて行った。

 その内、配膳です。まだ蒸れていないご飯と、お汁のグラグラ煮え立ったものが出ます。宿と船頭との計略で、「船が出るぞー、船が出るぞー」と声が掛かりますが、お客に食べられないように時間を見計らって出します。慣れた人はお替わりをしてゆうゆうと出てきます。
 船頭さんは京阪神を行き来していますから、方言が混ざって、いけぞんざいな言葉を使います。「船を出すぞ~~、船を出すぞ~~」、「どなたさんもありがとうさんでございます。お忘れ物がございませんように。どなたさんもお静かにお下りやす。そのワラジに履き替えていただかいでも結構どす。そのまま下駄を履いて行ていただきましたら、焼き印が押しておすので、手前で回収しますので結構でおす」。「船を出すぞ~~、船を出すぞ~~。荷物も良く乗せたな。出すぞ~、出すぞ~」、「お女中さん一人だから乗せてやって下さい」、「乗れないよ、これ以上」。「お女中さんだったら良いよ」、「まず荷物だけ来たよ。荷物を頭の上に乗せておけよ。お女中はまだ来ないぞ」、「行ったよ」、お女中とはお婆さんだった。若い女性だと思っていたのが、当てが外れ、荷物はおかわ(携帯便器)であった。

 船が出ると川に向かって漕ぎ出します。三十石船は長さが5丈六尺・17m、胴の間の広いところが8尺3寸・2.5m、笹型の船で、ここで船歌を歌います。まだここに居るから乗り遅れたお客は乗せてやるという合図です。船賃は下りの倍額が上り賃だったと言います。それは、上りは綱を下ろして岸から引っ張った。宇治川が途中から淀川と名を変えた。それを船頭が6人で動かし、2丁の艪には4人が取り付いて漕ぎ下った。
 船玉さんに上げるお賽銭だと、乗客から賽銭を集め始める。
 「♪やれ~~ 伏見 中書島(ちゅうじょうじま)なぁ~ 泥島なぁ~れどよ~~(よ~~い) なぜに 撞木まちゃな 長薮の中よ~ (やれさよいよいよ~~い)」。
 この歌を聞きつけて、中書島の女郎屋からおチビ・江戸では豆どんが出てきて、橋の上に並んで、大坂での買い物をお願いした。
 「お客さんそこで何してる。『茶くれとか』、上げるための茶じゃ無いが、自分で探して飲みなされ、『邪魔くさい』だと、こっちだって邪魔くさいわぃ」。
 「♪やれ~~ お月さんでもな~ 博打をな~~さるよィ~ (よ~~い) 雲の間(あい)から長寺て~~ら~と~よ~~ィ (よ~~い) やれさよいよいよ~~い」。
 「お女中さん、何しているんだ。そうか、バリ(小用)はじくのか。船端にバリ掛けると船玉さんのバチが当たりますぞ。夜で誰も見ていないので、グッとまくって川に突きだしてやんなされ。う~・・色が白いな~」、見とれている内に船頭川にはまった。
 「♪やれ~~ 奈良の大仏さんをよ~ 横抱きに抱ぁ~いてよォ~ィ (よ~~い) お乳飲ませた乳母さんはどんな大きな乳母さんか 一度対面がしてみ~たい~よ~ィ (よ~~い) やれさよいよい よ~~い」。
 「寝たくても、歌を歌ってうるさくて寝られやしない。コトン、コトンと音がするが何だ」、「あれが淀の水車だ」。京都先斗町や大坂の人と隣り合わせになった。江戸っ子と見込んで頼まれた、「5里下ると枚方でくらわんか船が来るが、言葉も態度もえげつない。『酒くらわんか、餅くらわんか』と客と見ず、大阪弁で言っても聞かないので、関東弁でバリバリと言ってやって下さい」、「客に向かって『くらわんか』とはひどい。バンバンとひっぱたいてやるよ」、「手は出さなくて、言葉でやっつけて下さい」。

 「まだ時間はあるので、それまでナゾ掛けをしましょうか。例えば、一の字と言う題で、解らなければ『あげましょ』と言って下さい。もらって、感心な寺の小坊主と解きます。心は、辛抱すると住持(十字)になります」。「上手いね。『解らない?』、横棒の一の字に心棒の縦の棒を引くと十字になる」。「俺は二の字をいこう」、「あげまひょう」、「道楽もんの寺の小坊主と解く、辛抱しても住持にはなれない」、「むちゃくちゃいったらあきまへんがな」、「題を替えまして、イロハのイの字」、「あげましょう」、「これをもらって、茶の湯の釜と解く、心はロの上にある」、「これは上手い」、横から飛び入りが出た。「私はロの字をもらって、上唇と解く」、「心は」、「ハの上にある」。「そのハの字をもろうて、船頭さんの弁当箱と解く」、「心は」、「ニの上にある」。「そのニの字をもろうて」、「あげましょ」、「船で見る月見と解く」、「心は」、「ホの上にある」、「綺麗だな」。江戸っ子が俺もやると言い始めた。「俺はそのホの字をもらおう」、「あげましょ」、「もらうと、褌の結びっ玉だ」、「心は」、「ヘの上にある」。「今度はイロハニホヘトとかけて花盛りと解く」、「その心は」、「チリヌル前」、「綺麗だな」。「俺もやる。俺はヤケコエテだ」、「あげまひょ」、「お前とその後ろの男だ」、「その心は」、「マぬけにフ抜けだ」、「よしなよ。喧嘩になるよ」。

 枚方に着くと、船頭さん達は弁当を食べます。その時間にくらわんか船がチョコチョコやって来て、三十石船に乗り移りお客に物を売ります。「くらわんか、くらわんか。銭は無いのか」とそのえげつないこと。寝ている客を蹴飛ばしても知らん顔。江戸っ子二人は「そんな言い方せずに丁寧に物を売れ」と注意しますが「これが、くらわんか船の習わしだ」、ポカポカポカと頭を殴りつけると「そんな乱暴は・・・」、「江戸では気に入らないことがあると殴るのが習わしだ」、「この船ぐらい売れなくてもかまわない」と悪態をついて早々に引き上げていきます。先程の大坂の客も溜飲を下げて喜んでいます。

 「隣の人を見たら首が無い」と恐ごわ助けを訴えてきます。一緒に見ると、首が細くなって伸びている。「ろくろ首だ。絵では見たことがあるが本物は初めてだ。長くなるので首は細くなっている。急に脅かすと死ぬと言うから、脇の下をくすぐると戻るという。やってみようか」。そこでコチョコチョとくすぐると首が戻ってきた。「なんだんね」、「隣の人が青い顔をして飛んできたじゃないか」、「くらわんか船で何か買って腹の足しにしようかと思っていたら、あんさんがポカリとやったんで買えなかった。腹が減ってどうしようも無いので岸のうどん屋まで食べに行ってた。もう一膳食べようかなと思っているとき、コチョコチョとくすぐられたので戻ってきた」、「うらやましいな~。昔からどんな旨いものを食っても、舌三寸喉三寸と言って、六寸しか楽しめないものを、お前は幸せ者だ」、「ははは、二つええことはおまへんわ。薬飲んだときは長~いこと苦ごうおまんねん」。

 


★この「三十石」は56分の長講で、普通の落語の約2倍有ります。これだけ長いと後半だれてくるものですが、最後まで充実した噺運びです。疲れたのは書いている私の方です。通常は最後まで演じず、「う~・・・色が白いな~」、見とれている内に船頭川にはまった。あたりで切り上げるのですが、今回は「円生百席」より、フルバージョンを取り上げました。


ことば

三十石(さんじっこく);『三十石夢乃通路』(さんじっこくゆめのかよいじ)とも、京と大坂を結ぶ三十石舟の船上をおもな舞台とする上方落語の演目の一つ。本来は旅噺「東の旅」の一部であり、伊勢参りの最終部、京から大坂の帰路の部分を描く。現在は独立して演じられることが多い。
 大阪では明治初期の初代桂文枝が前座噺を大ネタにまで仕上げた。その後、二代目桂小文枝、五代目笑福亭松鶴が得意とし、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝、三代目桂米朝、二代目桂枝雀なども得意とした。東京では明治期に四代目橘家圓喬が上方から東京に移した。六代目三遊亭圓生が子供の頃に聴いた圓喬は、舟歌は歌っていなかったという。その後五代目三遊亭圓生が得意とし、六代目三遊亭圓生に受け継がれた。六代目圓生はこの話をより良く仕上げるために、五代目松鶴に教えを請うたという。また六代目圓生は舟歌の件りでいいノドを聴かせていたが、この舟歌の部分も五代目松鶴の教えによる部分が大きいという。
 主人公二人が京からの帰途、伏見街道を下り、寺田屋の浜から夜舟に乗り、大坂へ帰るまでを描く。
 「東の旅」シリーズは、東の旅発端 → 七度狐 → 鯉津栄之助 → うんつく酒 → 常太夫義太夫 → 軽業 → 軽業講釈 → 三人旅浮之尼買 → 軽石屁 → 矢橋船 → 宿屋町 → こぶ弁慶 → 三十石。
 戦前、5代目笑福亭松鶴が正岡容に語った内容によると、「三十石」の舟歌の場で楽屋にいる前座が銅鑼を鳴らすが、それには、宵と夜更け、明け方の三つの鳴らし方があり、出来ない者は他人の鳴り物一つ気を回さぬ未熟者がどうして自身の芸の修練が出来るかとの理由で、二つ目に昇進してもらえなかったという。
 ウイキペディアより

三十石船;伏見の寺田屋の看板からひろうと、江戸時代淀川を上下した客船で、乗客は、まず、船宿に入り食事をしてから乗船した。寺田屋も有名な船宿の一つで、この付近には多くの船宿が並んでいた。淀川は平安時代から船運が盛んで豊臣秀吉、徳川家康が過書船制度を定め、運賃や税金を設定し取り締まりもおこなった。船の大きさは二十石積から三百石積まで数百隻が、貨物や旅客を運んでいた。その内三十石船は、長さ約17m、巾2.5m、船頭4人、定員28名の旅客専用船で上りは1日または1夜、下りは半日または半夜で京・大坂を結んでいた。船賃は江戸中期で約50文、その後、上り148文、下り72文、ただし、これは座るだけの料金で、ゆったり座るには1.5人分、あるいは2~3人分を払うと仕切りと言って竿を横にして席を分けた。途中牧方に立ち寄った。そこでは船客に「くらわんか」と声を掛けながら餅を売りに来た。なお、三十石船は明治4年(1871)に廃止になった。

右写真;寺田屋。この前から三十石船が出た。
右下;外輪船の定期船。

過書船(かしょぶね);過所船とも書く。江戸時代に淀川を運航して京都―大坂間の貨物・乗客を運んだ川船。元来、広く過書(関所手形)を所持する船の称であった。慶長3年(1598)徳川家康により過書座の制が設けられ、それまで水運に従事していた淀船と、新設の三十石船とを包括し、河原与三右衛門(かわはらよざえもん)(のち角倉与一(すみのくらよいち))と木村宗右衛門(そうえもん)の両人が過書船奉行(ぶぎょう)に任命された。船の数は江戸経済の発展につれて多くなり、18世紀前期には淀上荷(うわに)船の二十石船507艘(そう)、三十石積み以上の船が671艘であった。この過書座支配下の船のうち、三十石積み以上の船を過書船とよんだ。このうち三十石船は客船である。普通、1艘の乗客約30人前後で、水夫(かこ)4人で運航し、貨物には米穀、塩、魚類、材木などがあった。所要時間は、流れをさかのぼる上り船で1日または一晩、下り船は半日または半夜で京都―大坂間を往復した。[柚木 学]『須藤利一編著『船』(1968・法政大学出版局)』
寺田屋で起きた事件とは、文久2年に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。 慶応2年に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。
蒸気船;明治5年頃から淀川に蒸気船が就航、蒸気船は第二次大戦の末期まで活躍していた外輪船であり、動力船として速いだけでなく、一度にたくさんの乗客を乗せられることから、人力に頼る三十石船は次第に蒸気船に置替えられ、明治10年頃には無くなった。

 

 左;広重画「三十石船」、手前の小舟がくらわんか舟。 右;同じく「八軒家」の船付き場。

伏見街道(ふしみかいどう);京都の五条通(京都市東山区)を北の始点とし、鴨川東岸を南下して、伏見(京都市伏見区)の京町通につながる街道である。豊臣秀吉によって開かれたといわれる。江戸時代から、京と港湾都市伏見とをつなぐ通運の道として、そして周辺名所を巡る観光の道として賑わった。また伏見から深草藤森神社までは西国大名の参勤交代の道ともなった。

下り;京都を中心として、そこから遠方に出ることを「下る」と言い、京都に向かうことを「上る」と言った。淀川の川下りとは意味が違う。

相部屋(あいべや);複数の旅人が同じ部屋を使うこと。旅人宿ではこれが普通であった。

清水焼(きよみずやき);京都府で焼かれる陶磁器。清水寺への参道である五条坂界隈(大和大路以東の五条通沿い)に清水六兵衛・高橋道八を初めとする多くの窯元があったのが由来とされる。京都を代表する焼物。
 五条通の大和大路通から東大路通(東山通)に至る区間の北側に所在する若宮八幡宮社の境内には「清水焼発祥の地」との石碑が建っており、毎年8月8日から10日の「陶器祭」では清水焼で装飾された神輿が出る。

京都伏見(きょうとふしみ);(現・京都市伏見区南浜町263)寺田屋から出船。(淀川を下り航程約40km)。

八軒家(はっけんや);(現・大阪市中央区天満橋京町1−1)天満橋南詰の西側。天満橋から天神橋までの大川の左岸は、大阪と京伏見を結ぶ水運の発着所であった。周辺に八軒の旅宿があったことから八軒家と言われるようになったという。

伏見人形(ふしみにんぎょう);稲荷山の土を使って造られる土人形。起源については諸説存在するが歴史的な資料が残っていないので詳細は不明。ただ、全国各地の土人形の原形となっている。

伏見稲荷(ふしみいなり);伏見稲荷大社、京都市伏見区深草薮之内町68番地。京都市伏見区にある神社。旧称は稲荷神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。 全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。

書写山(しょさざん);圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山にある寺院で、天台宗の別格本山である。山号は書寫山(書写山、しょしゃざん)。西国三十三所第27番。武蔵坊弁慶は一時期書写山で修行したとされており、机など、ゆかりの品も伝えられ公開されている。ただし史実である確証はない。 一遍、一向俊聖、国阿ら時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい);生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。 五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。
 弁慶は比叡山に入れられるが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。幼名鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも乱暴を繰り返して、播磨の書写山圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本ということころで、五条大橋(『義経記』では清水観音境内)で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経に返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。
 歌舞伎・勧進帳や弁慶の立往生での武勇伝が有名。

花川戸(はなかわど);台東区の東部に位置し、隅田川に接する。地域南部は雷門通りに接し、これを境に台東区雷門に接する。地域西部は馬道通りに接し、台東区浅草一丁目・浅草二丁目に接する。地域北部は、言問通りに接しこれを境に台東区浅草六・七丁目にそれぞれ接する。当地域中央を花川戸一丁目と花川戸二丁目を分ける形で東西に二天門通りが通っている。また地域内を南北に江戸通りが通っている。またかつて花川戸一帯は履物問屋街としても知られていた。現在でも履物・靴関連の商店が地域内に散見できる。他に商店とオフィスビルが多く見られるほか、駅から離れると住居も見られる地域となっている。
 助六や幡随院長兵衛が住んでいたという。

幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ);幡随院長兵衛(1614~1650)は、大河野(現佐賀県伊万里市大川野)の日在城主・鶴田因幡守勝の家臣・塚本伊識の子として慶長19年、相知町久保で生まれ、幼名は伊太郎といい、父に伴って江戸へ向かったが、下関にて父は病没、一人で上京(12、3才頃)、つてを頼って神田山幡随院に身を寄せ、後に幡随院長兵衛と名乗る。江戸の侠客の総元締めと言われ、庶民の英雄であった幡随院長兵衛の生き様は江戸の華と呼ばれ、「人は一代、名は末代の幡随院長兵衛・・・」の有名なセリフで歌舞伎や講談等で今でも演じられている。落語「鈴ヶ森」に詳しい。

助六(すけろく);歌舞伎の演目の一つの通称。本外題は主役の助六を務める役者によって変わる。 江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つで、その中でも特に上演回数が多く、また上演すれば必ず大入りになるという人気演目である。落語「助六伝」に詳しい。

鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん);江戸時代の代表的豪商の一つである大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前である。家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が大坂で一家を立てたのを初代とする。はじめ酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。明治維新後は男爵に叙せられて華族に列した。

小野小町(おののこまち);小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。
  「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」  『古今集』

船玉(ふなだま);船霊。船の守護霊。賽子・女の髪の毛・人形・五穀・銭などを神体として船中にまつる。ふなだまさま。また、船中でまつる守護神。摂津の住吉の神・水天宮・金毘羅権現など。船神。船霊神。

中書島(ちゅうしょじま);円生の発音は『ちゅうじょうじま』と発音していますが、地名として間違いと言うより、脇坂中書からきたと理解しています。文禄年間、中務少輔の職にあった脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだことから「中書島」の名前が生まれたとされる。中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった。現在、京都府京都市伏見区葭島矢倉町。川を渡った隣町が船付き場だった寺田屋があります。
 ここに有った中書島遊郭は創立当時(元禄時代)忽ち三十石船の船客らの人気を呼び全国的に有名になり、京都島原に次ぐものとなった。 全盛時には400人程の遊女がいたと言われてます。

撞木町(しゅもくちょう);撞木町遊廓があった京都市伏見区撞木町。町名は道路の形が撞木(しゅもく、T字形)に由来する。江戸時代、伏見街道付近に遊里(遊廓)が設置され、当時は「恵美酒町」(えびすちょう)と称された。元禄期、山科に隠居していた大石内蔵助が出入りし、「笹屋」という揚屋で遊興したと伝えられる。しかし、遊廓が小規模であり伏見港付近の柳町(のちの中書島)が栄えるようになり衰退するが忠臣蔵ゆかりの場所として知られていたため存続し、昭和33年(1958)3月、売春防止法施行によってお茶屋9軒、娼妓40名で遊廓は廃止された。撞木町は京都の花街(遊廓)で最も小さな規模だった。現在、遊廓時代の面影は無く、入り口には大門の石柱と石碑が残されるのみである。

奈良の大仏(ならのだいぶつ);東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏として知られる。 聖武天皇の発願で天平17年(745)に制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
 現存の大仏は像の高さ約14.7m、基壇の周囲70mで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重です。また、大仏が収まっている大仏堂も世界的な大きさを持っています。

の水車(よどのみずぐるま);旧淀城の脇に有ったこの水車、はじめて京見物にやってきた人にとっては名にのみ聞いていた見逃せない名所として、京都に帰る人にとっては降船準備のタイミングをはかる目印として、それぞれ機能していた。『都名所図会』が出版されたほぼ同時代に、諸国を漫遊した百井塘雨(ももいとうう)という人がいます。塘雨は見聞記『笈埃(きゅうあい)随筆』のなかで、淀の水車について触れています。すなわち、城内に水を汲(く)み入れるために作られた水車は二つ。いずれも庭の泉水に用いるのみで実益はなく、補修費ばかりが積もって山となる。ただ、古くからある名物なので、いまでも維持しているのだ、と。水上を往来する人びとのしるべは、名物であるがゆえに守られていたのです。
 当時山城国の人々から「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌にもうたわれた。
右上;三十石船。対岸に淀の水車が描かれている。

 北斎画 「雪月花の内淀川」 淀川を上り下りする三十石船。右側に淀城と水車が描かれている。

淀城(よどじょう);淀(よど)は、与杼、与渡、澱などとも書かれた。宇治川、桂川、木津川の三川合流地点であり、かつて東には巨椋池も広がっていた。標高11mの低湿地帯のため、水が淀んでいたことから淀と名付けられたという。交通・軍事上の要衝地であり、室町時代には納所に淀古城が築城された。江戸時代、現在地に新淀城が新城されている。京都防衛の意味が持たされていた。新淀城の旧跡地は、現在、淀城跡公園(1.7ha。京都市伏見区淀本町)になっており、本丸、天守台、二の丸、石垣、内堀などの遺構がある。
 江戸時代、1615年、大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、伏見城は破却され、拠点は大坂城に移された。その後、山城の警護の拠点として新たに築城されたのが淀城だった。
 城は17.53mの標高にある。当時の城の周囲は桂川、宇治川(淀川)、木津川の合流点にあり、これらの三川が天然の外堀となった。さらに、三重の堀・内堀、土居、曲輪(くるわ)、内高嶋などにより重層的に防御されていた。内堀の規模は長さ309間(506.1m)、幅13間(23.6m)、深さ1尺3寸(39.3cm)だった。
 木津川には淀大橋(長さ100間、181.8m)が架けられ、京坂街道に通じていた。反対側の宇治川(淀川)にも小橋が架けられていた。淀川には直径9間(16.4m)の巨大な水車が2か所(西南、北という)に設けられ、水車最上部から城内の園地に取水していた。(「淀橋本観桜図」)

先斗町(ぽんとちょう);京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。「町」と付くが地名としての先斗町はない。先斗町通については「先斗町通四条上る柏屋町」等、公文書(四条通地区地区計画:京都市都市計画局)にも使用されている。

枚方(ひらかた);江戸時代には京街道と共に淀川を利用した水運も盛んに利用されており、淀川を往来する舟運の要衝としても栄えた。京都の伏見港と大阪の八軒家を結ぶ客船である三十石船を初め大小様々な船が行き交い、枚方浜、樟葉浜、樋之上浜、渚浜、磯島浜などの船着場が設けられていた。枚方浜は鶴屋という船宿があった事から鶴屋浜とも呼ばれ、公用にも使われる重要な船着場だったという。 行き交う船に近づき餅や酒を売りつけるくらわんか舟が名物になったのもこの頃である。その様子は、シーボルト「江戸参府紀行」、十返舎一九「東海道中膝栗毛」、歌川広重(安藤広重)「京都名所之内 淀川」「六十余州名所図会 河内 牧方男山」を初め、多くの紀行文などに記されている。
右図;歌川広重画 「六十余州名所図会 河内 牧方男山」

森の石松;清水の次郎長の子分。代参の大任を果たした石松が、帰途大阪の八軒家から淀川を遡上して京都の伏見へ渡す三十石船に乗り込み、すしを肴に酒を飲んでいると、乗合衆の噂話が聞こえてくる。海道一の親分は誰かという話題に神田生まれの江戸っ子が次郎長の名を挙げたのがうれしくて石松は彼に酒と寿司を勧める。また、「東海道中膝栗毛」の弥次さんと喜多さんも、この三十石船に乗ったことで知られています。



                                                            2015年5月記

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