落語「五十四帖」の舞台を行く 八代目 桂文治の噺、「五十四帖 」(ごじゅうよんじょう)より
■五十四帖源氏壽語六(ごじゅうよんじょう げんじすごろく);『源氏物語』の最初の帖・桐壺を振り始めとし、最後の帖・夢浮橋まで五十四枚の絵札を巡る双六です。中央の上がりは美しい干菓子の数々。各札には、巻の名前と源氏香、巻名にちなんだ絵が描かれています。
五十四帖源氏壽語六、絵札。
土佐光起筆『源氏物語画帖』より 「朝顔」第20帖。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。
■村崎式部(むらさき しきぶ);源氏物語の作者・紫式部をもじった名前。
紫式部。土佐光起筆
■中将(ちゅうじょう);噺の中の、大見世の玉屋の中将という花魁の名前。後に、身請けして師匠の女房になった人。
光源氏の弟である宇治八の宮の三女。宇治の大君、中君の異母妹で、特に大君によく似る。母はかつて八の宮に仕えていた女房・中将の君(八の宮の北の方の姪)。
■桐壺(きりつぼ);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第1帖。光源氏の誕生から12歳まで。
■箒木(ははきぎ);『源氏物語』五十四帖の、「桐壺」に続く第2帖。本帖とそれに続く「空蝉」・「夕顔」の三帖をまとめて「帚木三帖」と呼ぶことがある。
■空蝉(うつせみ);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第3帖。帚木三帖の第2帖。名前の由来は、求愛に対して一枚の着物を残し逃げ去ったことを、源氏がセミの抜け殻にそえて送った和歌から。源氏17歳夏の話。
■夕顔(ゆうがお);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第4帖。帚木三帖の第3帖。
■紅葉賀(もみじのが);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第7帖。主人公光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いた巻。
土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。
■須磨(すま);『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。第12帖。
■明石(あかし);『源氏物語』五十四帖の第13帖。上記「須磨」の続。
■澪標(みをつくし);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第14帖。巻名は作中で光源氏と明石の御方が交わした和歌「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」に因む。
■薄雲(うすぐも);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第19帖。光源氏31歳冬から32歳秋の話。
■少女(おとめ);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第21帖。「乙女」と表記されることもある。
■胡蝶(こちょう);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第24帖。玉鬘十帖の第3帖。
■真木柱(まきばしら);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第31帖。玉鬘十帖の第10帖。玉鬘(たまかずら=源氏の養女)の結婚とそれにまつわる騒動を書く。巻名は髭黒の娘が詠んだ和歌「今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな」に因む。光源氏37歳の冬から38歳の初春の話。
■紅梅(こうばい);『源氏物語』五十四帖の第43帖で匂宮三帖の第2帖。頭中将の子孫とその縁者の後日談。
■橋姫(はしひめ);『源氏物語』五十四帖の巻名。第45帖。第三部の一部「宇治十帖」の第1帖にあたる。
■早蕨(さわらび);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第48帖。第三部の一部「宇治十帖」の第4帖にあたる。
■東屋(あずまや);『源氏物語』五十四帖の巻名。第50帖。第三部の一部「宇治十帖」の第6帖にあたる。
■浮舟(うきふね);『源氏物語』に登場する人物。第51帖。第三部「宇治十帖」後半の最重要人物の一人。
■蜻蛉(かげろう);『源氏物語』五十四帖の巻第52帖。第三部の一部「宇治十帖」の第8帖にあたる。巻名は薫が宇治の三姉妹との因縁を想い詠んだ和歌「ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えしかげろふ」に因む。
■手習い(てならい);『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。第53帖。第三部の一部「宇治十帖」の第9帖にあたる。
この帖から登場する比叡山の高僧・横川の僧都(よかわのそうづ)は、当時の平安貴族に人気の高かった恵心僧都(源信)がモデルと言われ、終始人格者として描かれている。あと1帖で『源氏物語』完結となる。
以上、『源氏物語』は、ウィキペディアによる加筆、削除。
「源氏物語」の大あらすじ
■奈良坂(ならさか);奈良市市街地の北東部、奈良山丘陵東部の佐保(さほ)丘陵を越える坂道および集落名。
■祐筆(ゆうひつ);中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には「祐筆」、「右筆」という表記も用いられた。
■吉原(よしわら);江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
写真、遊郭入口にあった大門(おおもん)を背にして、メインストリートの仲之町(なかのちょう)を見る。春になると桜を主に安行(あんぎょう)から運んで植えたという。通りの左右に引手茶屋が並ぶ。右側奥に写る塔は、明治17年(1884)頃造られた角海老楼(かどえびろう)の時計塔。角海老楼は老舗ではなく、明治になってから勃興した振興の大見世だったので、楼上に大時計を乗せて名物とした。明治中期。
■大見世(おおみせ);遊郭には「大見世」、「中見世」、「小見世」とあった。違いは、まず、店の大きさです。間口と奥行きが違います。次に玄関横の格子が、大見世は大籬(おおまがき)、中見世は半籬(はんまがき)、小見世は小格子(こごうし)になっていました。
そして遊女の数と質の違いでしょう。花魁がいるのは大見世と中見世までです。花魁の中でもトップクラスは、茶屋を通して呼び出されるのを待っていましたので張見世をしませんでした。それ以下の花魁、その他は張見世をしました。この他に、最下位は河岸見世の蹴転(けころ)というのも有りました。落語「お直し」の舞台です。
■花魁(おいらん);噺の中では中将と呼ばれた花魁。
■浪人の身(ろうにんのみ);古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪(ふろう)とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。
対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。
■手習いの師匠(てらないのししょう);寺子屋で読み書き・計算等を教えた師匠。
「寺子屋」 一寸子花里画。夫婦で子供を教えていますが、ワンツーマンです。
■ご新造さん(しんぞう);武家や富裕な町家の妻女。のち、一般に他人の妻女、特に若妻をいう語。また、広く若い未婚の女性をもいう。この噺では、師匠の妻女。
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