落語「五十四帖」の舞台を行く
   

 

 八代目 桂文治の噺、「五十四帖 」(ごじゅうよんじょう)より


 

 村崎式部というある大藩の祐筆を務めていた男。のっぺり、おっとりとした美男子で同僚たちから「源氏蛍の君」と仇名されていた。
  式部は品行方正だったが、ひょんなことから吉原に通い始めて、大見世の玉屋の中将という花魁にぞっこんに惚れられてしまった。
  式部は中将を身請けして女房にしたが、「祐筆の身分で遊女を嫁にするとは不届き千万」と、上役たちの怒りを買って藩から追放されて浪人の身の上となった。

  式部は町内の手習いの師匠となって生計を立てている。夫婦仲もよかったのだが、色男の式部に手習いに来ている近所の菓子屋の十五になる娘お美代(お蝶)が夢中になってしまった。そのうちに二人は人の噂に立つような仲になり、女房もやきもちを焼き始めた。

  ある日、式部が反物の仕立てを菓子屋の娘に頼もうと言ったもんだから、女房の怒りが爆発、夫婦喧嘩になった。
 母親の止めるのも聞かずに、反物からそこらにある物を手当たり次第、はては源氏物語五十四帖の本までも式部めがけて投げつけてきた。さすがにおっとりしている式部でも頭にきたが、そこは手習いの師匠で、「もうもう縁を桐壺(きりつぼ)と、思うておれど箒木(ははきぎ)が、蜻蛉(かげろう)になり日なたになり、澪標(みをつくし=身を尽くし)て乙女(お止め)になるゆえ、須磨(すま)しておれど、向こうの橋(=菓子)姫と情交があるの、明石て言えと、いらざることを気を紅葉賀、もう堪忍が奈良坂や、この手拍子の真木(=薪)柱で、空(=打つ)蝉にするぞ」、

 女房 「そりゃあ、あんまりのこと夕顔でござんす。早蕨(さわらび=童・わらべ)みたいな橋姫(菓子姫)と、御法破りの浮気舟(浮舟)、手習いと偽っての薄雲隠れ、二人で胡蝶胡蝶(こちょこちょ)したる東屋(四阿・あずまや)を突き止めて明石したるからは、この真木(薪)柱で空蝉(うつせみ)にしてくれようぞ。紅梅(頭(こうべ))を垂れて覚悟めされよ・・・」。

  まだまだ続くようだが、いつ取っ組み合いの喧嘩に発展するかも知れない。見かねた母親が隣のかみさんに仲に入ってくれと救援を頼んだ。

 「まあまあ、いつも大変ですねえ。式部さんも式部さんなら、ご新造さんもやきもちが過ぎるせいか、始終苦情(四十九帖)が絶えませんねえ」、「いえ、五十四帖でございます」。

 



ことば

五十四帖源氏壽語六(ごじゅうよんじょう げんじすごろく);『源氏物語』の最初の帖・桐壺を振り始めとし、最後の帖・夢浮橋まで五十四枚の絵札を巡る双六です。中央の上がりは美しい干菓子の数々。各札には、巻の名前と源氏香、巻名にちなんだ絵が描かれています。
  双六の絵には、桐壺には桐、夕顔には夕顔の花、葵には葵の葉など直接的なものを描いているものと、松風では光源氏と明石の上を結ぶ琴から、琴柱と琴爪の袋を描くといったように内容や言葉からの連想で描いたものがあります。このことからも当時の人々がいかに『源氏物語』をよく知っていたかがわかります。
  このように絵双六という遊びの世界にも、源氏物語は素材としてよく取り入れられています。『偐紫田舎源氏』に描かれた挿絵から生れた「源氏絵」といわれる錦絵を各コマに取り入れたものや、源氏五十四帖の巻名に、源氏香という香木をあてる遊びから生れた図を伴ったものも多くあります。また一見すると双六のようですが、源氏絵合の名で、紙面に記された巻名や源氏香の上に札を置いていく遊びもありました。しかし残念ながら現在では札が失われているケースがほとんどで、すべて完全な状態で残っているものは少ないようです。

 

 五十四帖源氏壽語六、絵札。 

  

  土佐光起筆『源氏物語画帖』より 「朝顔」第20帖。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。

村崎式部(むらさき しきぶ);源氏物語の作者・紫式部をもじった名前。
 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりです。当時は紙が貴重だったため、紙の提供者がいればその都度書き、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』が完成した。
 なお、源氏物語は文献初出からおよそ150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された。現存する絵巻物のうち、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20か国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれている。

 紫式部。土佐光起筆

中将(ちゅうじょう);噺の中の、大見世の玉屋の中将という花魁の名前。後に、身請けして師匠の女房になった人。

 光源氏の弟である宇治八の宮の三女。宇治の大君、中君の異母妹で、特に大君によく似る。母はかつて八の宮に仕えていた女房・中将の君(八の宮の北の方の姪)。
 頭中将は、『源氏物語』の登場人物の一人の通称としても使われている。この頭中将は、光源氏の年長の従兄に当たり、親友であり、義兄であり、恋の競争相手であり、また政敵でもあった。ただし、この場合の頭中将は固有名詞に近い形で使用されているが、『源氏物語』本文では、この人物は、年齢と経歴を積むにつれ、そのときどきの官職などで呼ばれており、一貫してこの名で呼ばれている訳ではない。彼が重要人物となる第4帖「夕顔」での官職が頭中将であったため、後世の読者からこう呼ばれている。その後、権中納言、右大将、内大臣を経て、最終的には太政大臣まで出世して、引退後の晩年は「致仕の大臣」(ちじのおとど)と呼ばれる。全54帖の第2帖「帚木」から第39帖「御法」まで登場する。

桐壺(きりつぼ);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第1帖。光源氏の誕生から12歳まで。
 どの帝の御代であったか、それほど高い身分ではない方で、帝(桐壺帝)から大変な寵愛を受けた女性(桐壺更衣)がいた。二人の間には輝くように美しい皇子が生まれたが、他の妃たちの嫉妬や嫌がらせが原因か、病気がちだった更衣は、3歳の皇子を残して病死する。これを深く嘆く帝を慰めるために、亡き更衣に生きうつしの先帝の皇女(藤壺)が入内し、新たな寵愛を得た。一方、皇子は帝のもとで育てられ、亡き母(桐壷更衣)に似ているという藤壺を殊更に慕う。帝は元服した皇子を臣籍降下させ源姓を与えて、左大臣家の娘(葵の上)の婿とする。彼はその光り輝くような美貌から光る君(光源氏)と呼ばれる。

箒木(ははきぎ);『源氏物語』五十四帖の、「桐壺」に続く第2帖。本帖とそれに続く「空蝉」・「夕顔」の三帖をまとめて「帚木三帖」と呼ぶことがある。
 光源氏17歳の夏。 五月雨の夜、光源氏のもとに、頭中将が訪ねてきた。さらに左馬頭(さまのかみ)と藤式部丞(とうしきぶのじょう)も交えて、4人で女性談義をすることになる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』(あまよのしなさだめ)と呼ばれる。「夕顔」巻には、「ありしあま夜のしなさだめの後いぶかしく思ほしなるしなじなあるに」とある。
 左馬頭は、妻として完全な女などない。家を治めるのは国よりもむずかしい。妻選びに苦労するのは好色からだけではないが、真実な心の女が望ましいといい、体験談として嫉妬深い女が左馬頭の指に食いつき、これに腹が立ち、かえりみなかった間に死んでしまった。嫉妬さえなければよい女であったのに惜しいという。つぎに、浮気な女には他に男がいて、それを見つけたので別れたという。結論としてそのときどきに必要な良識や判断があって、でしゃばらない謙遜している女がよいという。
 頭中将は、女性と付き合うなら「中の品」(中流)の女性が一番よいと前置きし、子までもうけた内縁の妻の話をする。その女は頭中将の正妻(弘徽殿女御の妹)の嫌がらせにあい、現在も行方がわからない、女児がいたため今も忘れられず、思い出すと悲しいと語る(後に内縁の妻が夕顔、子供が玉鬘だということがわかる)。

空蝉(うつせみ);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第3帖。帚木三帖の第2帖。名前の由来は、求愛に対して一枚の着物を残し逃げ去ったことを、源氏がセミの抜け殻にそえて送った和歌から。源氏17歳夏の話。
  空蝉を忘れられない源氏は、彼女のつれないあしらいにも却って思いが募り、再び紀伊守邸へ忍んで行った。そこで継娘(軒端荻=のきばのおぎ)と碁を打ち合う空蝉の姿を覗き見し、決して美女ではないもののたしなみ深い空蝉をやはり魅力的だと改めて心惹かれる。源氏の訪れを察した空蝉は、薄衣一枚を脱ぎ捨てて逃げ去り、心ならずも後に残された軒端荻と契った源氏はその薄衣を代わりに持ち帰った。源氏は女の抜け殻のような衣にことよせて空蝉へ歌を送り、空蝉も源氏の愛を受けられない己の境遇のつたなさを密かに嘆いた。 
 彼女のモデルは、境遇や身分が似ているため、作者(紫式部)自身がモデルではないかと言われている。

夕顔(ゆうがお);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第4帖。帚木三帖の第3帖。
 源氏17歳夏から10月。従者藤原惟光の母親でもある乳母の見舞いの折、隣の垣根に咲くユウガオの花に目を留めた源氏が取りにやらせたところ、邸の住人が和歌で返答する。市井の女とも思えない教養に興味を持った源氏は、身分を隠して彼女のもとに通うようになった。 可憐なその女は自分の素性は明かさないものの、逢瀬の度に頼りきって身を預ける風情が心をそそり、源氏は彼女にのめりこんでいく。
 あるとき、逢引の舞台として寂れた某院(なにがしのいん)に夕顔を連れ込んだ源氏であったが、深夜に女性の霊(六条御息所?)が現れて恨み言を言う怪異にあう。夕顔はそのまま人事不省に陥り、明け方に息を引き取った。
 夕顔の葬儀を終え、源氏は夕顔に仕えていた女官・右近から夕顔はかつて、頭中将の側室だった事を打ち明けられる。源氏はかつて「雨夜の品定め」で頭中将が語っていた、「愛した女人(常夏の女=なでしこ)が、北の方の嫉妬に遭い、姿を消した」その女人が夕顔であることを悟る。 さらに、姫君(後の玉鬘=たまかずら)が一人いる事を知った源氏は、右近に「姫君を引き取りたい」と切り出すが、惟光に制止された。騒ぎになる事を恐れ事を公にせず、しばらくしてから夕顔が暮らしていた家へ向かった源氏。しかし、夕顔の家はすでに無人だった。 
 18年後には彼女の娘の玉鬘が登場し、物語に色を添える。

紅葉賀(もみじのが);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第7帖。主人公光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いた巻。
 世間は朱雀院で開かれる紅葉賀に向けての準備でかまびすしい。桐壺帝は最愛の藤壺が懐妊した喜びに酔いしれ、一の院の五十歳の誕生日の式典という慶事をより盛大なものにしようという意向を示しているため、臣下たちも舞楽の準備で浮き立っている。
 ところが、それほどまでに望まれていた藤壺の子は桐壺帝の御子ではなく、その最愛の息子光源氏の子であった。このことが右大臣側の勢力、特に東宮の母で藤壺のライバル、また源氏の母を迫害した張本人である弘徽殿女御に発覚したら二人の破滅は確実なのだが、若い源氏は向こう見ずにも藤壺に手紙を送り、また親しい女官を通して面会を求め続けていた。
 一方で、藤壺は立后を控え狂喜する帝の姿に罪悪感を覚えながらも、一人秘密を抱えとおす決意をし、源氏との一切の交流を持とうとしない。源氏はそのため華やかな式典で舞を披露することになっても浮かない顔のままで、唯一の慰めは北山から引き取ってきた藤壺の姪に当たる少女若紫(後の妻になる紫の上)の無邪気に人形遊びなどをする姿であった。

  

 土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。

 翌年二月、藤壺は無事男御子(後の冷泉帝)を出産。桐壺帝は最愛の源氏にそっくりな美しい皇子を再び得て喜んだが、それを見る源氏と藤壺は内心罪の意識に苛まれるのだった。

須磨(すま);『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。第12帖。
 朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮に累が及ばないよう、自ら須磨への退去を決意する。左大臣家を始めとする親しい人々や藤壺に暇乞いをし、東宮や女君たちには別れの文を送り、一人残してゆく紫の上には領地や財産をすべて託した。 須磨へ発つ直前、かつて彼が葵祭りで勅使を務めた際に仮の随身として仕えていた事がきっかけで、源氏と親しくしていた尉の蔵人が現われ、「私もお連れ下さい」と随行を志願。彼もまた、源氏と親しくしていた事で官職を罷免されてしまったのだ。彼も供を許され、須磨へ行くことに。
 須磨の侘び住まいで、源氏は都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、淋しい日々を送る。

明石(あかし);『源氏物語』五十四帖の第13帖。上記「須磨」の続。
 須磨は激しい嵐が続き、光源氏は住吉の神に祈ったが、ついには落雷で邸が火事に見舞われた。嵐が収まった明け方、源氏の夢に故桐壺帝が現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。その予言どおり、翌朝明石入道が迎えの舟に乗って現れ、源氏一行は明石へと移った。
 入道は源氏を邸に迎えて手厚くもてなし、かねて都の貴人と娶わせようと考えていた一人娘(明石の御方)を、この機会に源氏に差し出そうとする。当の娘は身分違いすぎると気が進まなかったが、源氏は娘と文のやり取りを交わすうちに娘の教養の深さや人柄に惹かれ、ついに八月自ら娘のもとを訪れて契りを交わした。この事を源氏は都で留守を預かる紫の上に文で伝えたが、紫の上は「殿はひどい」と嘆き悲しみ、源氏の浮気をなじる内容の文を送る。紫の上の怒りが堪えた源氏はその後、明石の御方への通いが間遠になり明石入道一家は、やきもきする。
 晴れて許された源氏は都へ戻ることになったが、その頃既に明石の御方は源氏の子を身ごもっており、別れを嘆く明石の御方に源氏はいつか必ず都へ迎えることを約束する。

澪標(みをつくし);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第14帖。巻名は作中で光源氏と明石の御方が交わした和歌「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」に因む。
 光源氏28歳10月から29歳冬の話。 罪を許された光源氏は都に返り咲き、蟄居前の官位・右大将から大納言へ昇進。参内の日を迎えた。清涼殿へ行き、兄朱雀帝と3年ぶりに再会。兄弟水入らずの時を過ごし、その後東宮と再会。長男・夕霧は殿上童として東宮に仕えていた。
 東宮(冷泉帝)が元服を迎えたのを期に、朱雀帝は位を退いた。一方明石の御方は無事姫君を出産、源氏は将来后になるであろう姫君のために乳母と祝いの品を明石へ送るが、そんな源氏の姿に子のない紫の上は密かに嫉妬する。
 秋になり、源氏は住吉へ盛大に参詣した。偶然同じ日に来合わせた明石の御方は、そのきらびやかな様子に気おされ、改めて源氏との身分の差を思い知らされる。藤原惟光の知らせで御方が来ていたことを知った源氏は、声もかけられずに去った御方を哀れに思い、使いを送って歌を交わした。

薄雲(うすぐも);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第19帖。光源氏31歳冬から32歳秋の話。
 明石の御方は悩みぬいた末、母尼君の説得もあって姫君を源氏に委ねることを決断する。雪の日に源氏が姫君を迎えに訪れ、明石の御方は涙ながらにそれを見送った。二条院では早速盛大な袴着が行われ、紫の上も今は姫君の可愛らしさに魅了されて、明石の御方のことも少しは許す気になるのだった。
 翌年、太政大臣(頭中将と葵の上の父)が亡くなり、その後も天変が相次いだ。不安定な政情の中、3月に病に臥していた藤壺が37歳で崩御。源氏は悲嘆のあまり、念誦堂に篭って泣き暮らした。法要が一段落した頃、藤壺の時代から仕えていた夜居の僧が、冷泉帝に出生の秘密を密かに告げた。衝撃を受けた帝は、実の父を臣下にしておくのは忍びないと考え源氏に位を譲ろうとしたが、源氏は強くそれを退けた。 

少女(おとめ);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第21帖。「乙女」と表記されることもある。
 光源氏33歳の夏から35歳冬の話。 源氏の息子夕霧が、12歳で元服を迎えた。しかし源氏は夕霧を敢えて優遇せず、六位にとどめて大学に入れた。同じ年、源氏の養女斎宮女御が冷泉帝の中宮に立后する。源氏は太政大臣に、右大将(頭中将)は内大臣になった。
 夕霧は進士の試験に合格、五位の侍従となった。また源氏は六条に四町を占める広大な邸(六条院)を完成させ、秋の町を中宮の里邸とした他、春の町に紫の上、夏の町に花散里、冬の町に明石の御方をそれぞれ迎えた。

胡蝶(こちょう);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第24帖。玉鬘十帖の第3帖。
 光源氏36歳の春から夏の話。 3月20日頃、源氏は春の町で船楽(ふながく)を催し、秋の町からも秋好中宮方の女房たちを招いた。夜も引き続いて管弦や舞が行われ、集まった公卿や親王らも加わった。中でも兵部卿宮(源氏の弟)は玉鬘に求婚する一人で、源氏にぜひにも姫君をと熱心に請うのだった。
 翌日、秋の町で中宮による季の御読経が催され、船楽に訪れた公卿たちも引き続いて参列した。紫の上は美々しく装った童たちに持たせた供養の花を贈り、中宮と和歌を贈答した。
 夏になり、玉鬘の下へ兵部卿宮、髭黒右大将、柏木らから次々と求婚の文が寄せられた。それらの品定めをしつつ、いつか玉鬘への思慕を押さえがたくなった源氏は、ある夕暮れにとうとう想いを打ち明け側に添い臥してしまう。源氏の自制でそれ以上の行為はなかったものの、世慣れぬ玉鬘は養父からの思わぬ懸想に困惑するばかりだった。

真木柱(まきばしら);『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第31帖。玉鬘十帖の第10帖。玉鬘(たまかずら=源氏の養女)の結婚とそれにまつわる騒動を書く。巻名は髭黒の娘が詠んだ和歌「今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな」に因む。光源氏37歳の冬から38歳の初春の話。
 女官として出仕を控えていた玉鬘だったが、その直前に髭黒が強引に契りを交わしてしまう。若く美しい玉鬘を得て有頂天の髭黒を、源氏は内心の衝撃を押し隠して丁重に婿としてもてなしたが、無骨で雅さに欠ける髭黒と心ならずも結婚することになった当の玉鬘はすっかりしおれきりっていた。一方で実父の内大臣は、姉妹の弘徽殿女御と冷泉帝の寵を争うよりはよいとこの縁談を歓迎、源氏の計らいに感謝した。
 髭黒はその後玉鬘を迎えるために邸の改築に取り掛かるが、その様子に今はすっかり見捨てられた北の方は絶望し、父親の式部卿宮も実家に戻らせようと考える。髭黒もさすがにそれは世間体も悪いと引き止めたものの、いざ玉鬘のところへ出発しようとした矢先、突然狂乱した北の方に香炉の灰を浴びせられる。この事件で完全に北の方に愛想を尽かした髭黒は玉鬘に入り浸り、とうとう業を煮やした式部卿宮は、髭黒の留守の間に北の方と子供たちを迎えにやる。一人髭黒の可愛がっていた娘(真木柱)だけは父の帰りを待つと言い張ったが、別れの歌を邸の柱に残して泣く泣く連れられていった。
 やがて玉鬘は男子を出産し、その後は出仕することもなく髭黒の正室として家庭に落ち着いた。

紅梅(こうばい);『源氏物語』五十四帖の第43帖で匂宮三帖の第2帖。頭中将の子孫とその縁者の後日談。
 薫24歳の春のころの話。 故致仕大臣(頭中将)の次男は、このころには按察大納言(あぜちのだいなごん)になっていた。跡継ぎだった兄柏木亡き後、一族の大黒柱となっている。
 亡くなった先の北の方との間には二人の姫君(大君、中の君)がいた。今の北の方は、髭黒大臣の娘で故蛍兵部卿宮の北の方だった真木柱で、この間に男子(大夫の君)を一人もうけている。また、真木柱には故宮の忘れ形見の姫君(宮の御方)がいて、この姫君も大納言の邸で暮らしている。
 裳着をすませた三人の姫君たちへの求婚者は多かったが、大納言は、大君を東宮妃とすべく麗景殿に参内させており、今度は中の君に匂宮を縁付けようと目論んでいる。大納言は大夫の君を使って匂宮の心を中の君に向けさせようとするが、肝心の匂宮の関心は宮の御方にあるらしい。匂宮は大夫の君を通してしきりに宮の御方に文を送るが、宮の御方は消極的で結婚をほとんど諦めている。
 大君の後見に忙しい真木柱は、宮の御方には良縁と思うが大納言の気持を思うと躊躇してしまう。また、匂宮が好色で最近では宇治八の宮の姫君にも執心だとの噂もあって、ますます苦労が耐えないようだ。

橋姫(はしひめ);『源氏物語』五十四帖の巻名。第45帖。第三部の一部「宇治十帖」の第1帖にあたる。
 薫20歳から22歳までの話。 世の中から忘れられた宮がいた。桐壺院の八の宮(第八皇子)で、光源氏の異母弟である。冷泉院の東宮時代、これを廃し代わりに八の宮を東宮に擁立せんとの弘徽殿大后方の陰謀に加担させられたため、時勢が移るとともに零落していったのである。今は北の方に先立たれ、宇治の地で出家を望みながらも二人の姫君(大君、中君)を養育しつつ日一日を過ごしている。宇治山の阿闍梨から彼を知った薫は、その俗聖ぶりに強く惹かれ八の宮のもとに通うようになりますます傾倒してゆく。
 通い始めて3年目の秋、八の宮不在の宇治邸を訪れた薫は、有明の月の下で箏と琵琶とを合奏する姫君たちを垣間見る。屈託のない、しかも気品高く優雅な姫君たちに、薫はおのずと心惹かれる。

早蕨(さわらび);『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第48帖。第三部の一部「宇治十帖」の第4帖にあたる。
 薫(かおる=表向きは光源氏の次男)25歳の春の話。 宇治の里にまた春がめぐってきた。父八の宮も姉大君も亡くした中君の元に、父の法の師だった宇治山の阿闍梨から例年通り蕨や土筆が届けられた。中君は阿闍梨の心づくしに涙を落とす。
 匂宮は宇治通いが困難なので、二月上旬に中君を京の二条院に迎えることにした。後見人の薫は、中君のために上京の準備に心を配る。上京の前日、薫は宇治を訪れ、中君と大君の思い出を夜更けまで語り合った。匂宮の元へ移る中君がいまさらながら惜しく、薫は後悔の念に駆られた。老女房の弁は大君の死後尼になっていたが、このまま宇治に留まる決心をしていた。
 二月七日に二条院に迎えられた中君は匂宮から手厚く扱われる。これを知って、六の君と匂宮の婚儀を目論んでいた夕霧は二十日過ぎに末娘六の君の裳着を決行、薫との縁組を打診したが、薫の対応はそっけなかった。薫に断られた夕霧は「亡くなられた大君といい、生きている中君といい。当代きっての貴公子2人に想われるこの姉妹は…」と、宇治の姉妹に心を奪われ愛娘・六の君に興味を示さない薫と匂宮に不満を抱く。

東屋(あずまや);『源氏物語』五十四帖の巻名。第50帖。第三部の一部「宇治十帖」の第6帖にあたる。
 20歳を過ぎた浮舟は、左近の少将と婚約したが、財産目当ての少将は浮舟が常陸介の実子でないと知るや、実の娘である妹に乗りかえて結婚した。浮舟を不憫に思った中将の君は、彼女を二条院の中君のもとに預けに行く。ところが匂宮が偶然浮舟を見つけ、強引に言い寄ってきた。御所からの知らせで明石の中宮が倒れた事を知らされ、浮舟に未練を残しつつ出かけた匂宮。姉の夫に言い寄られるという出来事にいたたまれない思いの浮舟。騒ぎを聞き彼女の様子を見て、心を痛める中君。髪洗いを終え、女房に髪を梳かせながら彼女と絵巻物を読む中君。姉が生き返ったようだと改めて実感する。かろうじて事なきをえたが、浮舟の乳母からそれを聞いた中将の君は驚いて彼女を引き取り、三条の小家に隠した。
 秋九月、薫は浮舟が三条の隠れ家にいることを知り、弁の尼に仲立ちを頼んでその小家を訪れる。そして翌朝、浮舟を車で宇治に連れて行ってしまった。浮舟の不安をよそに、彼女に大君の面影を映し見る薫は、大君を偲びつつも浮舟の顔は亡き大君に瓜二つではあるが、教養は彼女とは比べ物にならないぐらい程遠いことから、今後の浮舟の扱いに思い悩むのだった。

浮舟(うきふね);『源氏物語』に登場する人物。第51帖。第三部「宇治十帖」後半の最重要人物の一人。
 浮舟は薫の手で宇治に囲われるが、彼の留守に忍んできた匂宮とも関係を持ってしまい、対極的な二人の貴人に愛される板ばさみに苦しむ。やがて事が露見し、追い詰められた浮舟は自ら死を決意したが果たせず、山で行き倒れている所を横川の僧都に救われる。その後僧都の手により出家を果たし、薫に消息を捉まれ自らの元に戻るよう勧められても、終始拒み続けた。 浮舟を再発見した薫を拒絶して、源氏物語は余韻の尽きない幕切れを迎える。

蜻蛉(かげろう);『源氏物語』五十四帖の巻第52帖。第三部の一部「宇治十帖」の第8帖にあたる。巻名は薫が宇治の三姉妹との因縁を想い詠んだ和歌「ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えしかげろふ」に因む。
 薫27歳のころの話。 浮舟の姿が見えないので、宇治の山荘は大騒ぎとなる。浮舟の内情を知る女房は、浮舟が宇治川に身を投げたのではと思い惑う。かけつけた浮舟の母の中将の君は真相を聞いて驚き悲しむ。世間体を繕うため、遺骸もないままにその夜のうちに葬儀を営んだ。そのころ石山寺に参籠していた薫は、野辺送りの後に初めて事の次第を知った。
 匂宮は悲しみのあまり、病と称して籠ってしまう。それを耳にした薫は、浮舟のことは匂宮との過ちからだと確信するが、浮舟を宇治に放置していたことを後悔、悲しみに暮れる。宇治を訪れた薫はここで浮舟の入水をはじめて知り、悲しみに沈む中将の君を思いやって、浮舟の弟たちを庇護する約束をして慰めた。薫は浮舟の四十九日の法要を宇治山の寺で盛大に営んだ。中君からも供え物が届けられ、浮舟の義父常陸介は、このときはじめて継娘の素性が自分の子たちとは比較にならないものだったと実感した。この事がきっかけで、常陸介は浮舟の異母弟・小君を薫の下で仕えさせる事を決断。薫は、それで娘を亡くした親の気持ちが慰められるのならと、小君を召し抱えた。

手習い(てならい);『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。第53帖。第三部の一部「宇治十帖」の第9帖にあたる。 この帖から登場する比叡山の高僧・横川の僧都(よかわのそうづ)は、当時の平安貴族に人気の高かった恵心僧都(源信)がモデルと言われ、終始人格者として描かれている。あと1帖で『源氏物語』完結となる。
 薫27歳から28歳の夏にかけての話。 匂宮と薫の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟は宇治川沿いの大木の根元に昏睡状態で倒れていた。たまたま通りかかった横川の僧都一行に発見されて救われる。僧都の80余歳になる母尼(ははあま)が、僧都の50余歳になる妹尼(いもうとあま)との初瀬詣で(長谷寺参詣)の帰途に宇治で急病を患ったため、看護のため僧都は山から下りてきていたのである。数年前に娘を亡くした妹尼は、浮舟を初瀬観音からの授かりものと喜び、実の娘のように手厚く看護した。
 比叡山の麓の小野の庵に移されてしばらくたった夏の終わりごろ、浮舟はようやく意識を回復する。しかし、死に損なったことを知ると、「尼になしたまひてよ」と出家を懇願するようになる。世話を焼く妹尼たちの前ではかたくなに心を閉ざし、身の上も語らず、物思いに沈んでは手習にしたためて日を過ごした。

 以上、『源氏物語』は、ウィキペディアによる加筆、削除。

 「源氏物語」の大あらすじ
 第1部(1~33帖)は主人公光源氏の愛の物語です。桐壺帝の子である光源氏は、幼い時に亡くした母に似ている後宮である藤壺、すなわち父の後妻に恋焦がれ、愛してしまいます。 源氏と藤壺の間には子どもが生まれるのですが、その子は桐壺帝の子として育てられました。さらに彼は、年上の葵の上との結婚、空蝉(うつせみ)、夕顔、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)と恋をし、まさに愛の遍歴のストーリーとなっているのです。 源氏は自分の政敵であった右大臣の娘、朧月夜(おぼろづきよ)と関係を持ったことから京を追われ、須磨での生活を余儀なくされましたが、そこで明石の君と出会います。 しかし右大臣が死んだ後は京に戻り、藤壺との子どもが冷泉帝となったことで勢いを盛り返し、六条院で栄華ある生活を送ります。
 第2部(34~41帖)では一転、源氏の苦悩の世界です。時の朱雀院が娘の女三宮を源氏に預けたため、源氏の本妻の立場にあった紫の上が病に伏してしまいます。 さらに女三宮は青年貴族の柏木と恋仲になって子どもを産み、そのことを知ってしまった源氏は老いていく自分の、過去の過ちへの反省心にさいなまれることになるのです。病気だった最愛の紫の上が死ぬに至り、ついに彼は出家することを決心しました。
 42帖の前に「雲隠」の題名だけ有ります。平安時代に巻名だけは残っていますが本文が無い。紫式部は書かなかったと思われます。この巻で、光源氏は8年の空白があり出家して、薨去(こうきょ)している。
 第3部(42~54帖)は源氏の死後の話で、最後の10帖の舞台は宇治へと移ります。ここでは源氏の孫たちと大君、中君の姉妹など、彼らを取り巻く女性との関係と苦悩が、光源氏よろしく息子、孫達が再び展開されます。

奈良坂(ならさか);奈良市市街地の北東部、奈良山丘陵東部の佐保(さほ)丘陵を越える坂道および集落名。
 坂は般若寺坂(はんにゃじざか)ともよばれ、この坂を越えて京へ通じる京街道の奈良坂越えは、西の歌姫(うたひめ)越えとともに古来京都への主要街道であった。現在奈良坂の東側を旧国道24号が走っている。街道沿いの奈良坂(阪)町は近世に形成された集落である。
 奈良や京都を中心とした地方では,主要な街道の坂道に相当数の貧窮民・流浪民が集住し,荘園領主(大寺社)の管下に統轄され,〈坂者(さかのもの)〉とか〈坂非人(さかのひにん)〉などと呼ばれながら雑業・雑芸に従事していたことが知られている。奈良坂や京都清水坂(きよみずざか)はその好例といえる。

祐筆(ゆうひつ);中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には「祐筆」、「右筆」という表記も用いられた。
 初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくなかった。そこで武士の中では、僧侶や家臣の中で文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。

吉原(よしわら);江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
 江戸時代以前から売春防止法が施行されるまで、日本では、江戸のみならず大坂や京都、駿府、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在した。それらの中でも吉原遊廓は最大級の規模を誇っていた。敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と魚河岸の日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていた。

  

 写真、遊郭入口にあった大門(おおもん)を背にして、メインストリートの仲之町(なかのちょう)を見る。春になると桜を主に安行(あんぎょう)から運んで植えたという。通りの左右に引手茶屋が並ぶ。右側奥に写る塔は、明治17年(1884)頃造られた角海老楼(かどえびろう)の時計塔。角海老楼は老舗ではなく、明治になってから勃興した振興の大見世だったので、楼上に大時計を乗せて名物とした。明治中期。 

大見世(おおみせ);遊郭には「大見世」、「中見世」、「小見世」とあった。違いは、まず、店の大きさです。間口と奥行きが違います。次に玄関横の格子が、大見世は大籬(おおまがき)、中見世は半籬(はんまがき)、小見世は小格子(こごうし)になっていました。 そして遊女の数と質の違いでしょう。花魁がいるのは大見世と中見世までです。花魁の中でもトップクラスは、茶屋を通して呼び出されるのを待っていましたので張見世をしませんでした。それ以下の花魁、その他は張見世をしました。この他に、最下位は河岸見世の蹴転(けころ)というのも有りました。落語「お直し」の舞台です。

■花魁(おいらん);噺の中では中将と呼ばれた花魁。
 遊女にはランクがあり、美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集めることが出来る女性であれば、遊女の中でも高いランクに登ることが出来た。遊女の最高のランクは宝暦年間まで太夫と呼ばれ、以下「局」「端」とされていたが、江戸の湯屋やそこで働く湯女を吉原に強制移転したさいに「散茶」(振らないで出る)が構成され、その後は花魁とよばれた。花魁は振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、気に入らない男性は、相手にしてもらえなかった。

浪人の身(ろうにんのみ);古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪(ふろう)とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した。そのため浮浪する牢人を浪人と呼ぶようになった。

手習いの師匠(てらないのししょう);寺子屋で読み書き・計算等を教えた師匠。
 寺子屋はまったくの私的教育施設であり、無学年制のフリースクールのように一定した就学年齢は存在せず、子は下はおよそ9-11歳から通い始め13-18歳になるまで学ぶなど、幅広い年代層の者がいた。 寺子屋は年齢による一斉入学・一斉進級ではなく、入学時期や進級時期について一般的な決まりはなかったが、地域や学校によって異なっていた。寺子屋への入学は家の慶事とされており、気候の良い春先の入学が多かった。進級も基本的に個人の能力に合わせて進級する仕組みだった。 卒業時期や修学期間も特に定まっていなかった。1校当たりの生徒数は、10-100人と様々であった。

 「寺子屋」 一寸子花里画。夫婦で子供を教えていますが、ワンツーマンです。

ご新造さん(しんぞう);武家や富裕な町家の妻女。のち、一般に他人の妻女、特に若妻をいう語。また、広く若い未婚の女性をもいう。この噺では、師匠の妻女。



                                                            2021年7月記

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