落語「猫と金魚」の舞台を行く
   

 

 八代目橘家円蔵の噺、「猫と金魚」(ねこときんぎょ)


 

 「番頭」、「へぃ」、「困ってるんだ。家の金魚がなくなるんだ」、「私、食べませんよ」。「隣の猫が来て食べちゃうんだ」、「隣の猫が来て金魚食べると、私が怒られるんですか。私と猫が怪しい関係だというのですか。だったら、隣の家に怒鳴り込んで弁償してもらえば良いでしょ」、「隣同士でいさかいもしたくない」、「だったら、家の金魚が隣の猫を食べても怒鳴られないのですか」、「そんな例えはない。冬の寒いとき、金魚鉢にお湯を入れたのはお前だろう」、「それ以来金魚は赤い」。
 「私の言うとおりにして欲しい。金魚鉢を猫がとどかない高いところに置いて欲しい」、「・・・お風呂屋の煙突の上はどうでしょう」、「ひっぱだくよ。金魚という物は観るものだ。煙突の上では観られないだろう」、「双眼鏡で見たら如何ですか」。
 「だめだ。家の湯殿の棚の上に金魚鉢を移しておくれ」、「やりました。で、金魚はどうしましょう」、「金魚どうした?」、「縁側でピチピチしています」、「金魚でもめてんだ。金魚を棚の上に上げとくれ」、「で、金魚鉢はどうしましょう」、「なんで金魚鉢と金魚を別けるんだ。分からない奴だから一から十まで言うと、金魚鉢に水入れて金魚入れて、湯殿の棚の上に置いておくれ」、「置きました。しかし、棚と窓の高さが同じです。窓が開いていたんです。その向こうに猫がいて、私と目が合ったので、私が目をそらせました。猫は金魚鉢の横に座ってチャッチャッと水をかき回しているんですが、私一存で猫を追い払うか、ご主人に報告した方がイイか悩んでいます」、「犬・猫は一度懲らしめると二度とやらないと言うから懲らしめておくれ」、「戦争に行って助かったのに、猫で死んだら取り返しが付きません」、「もう良い。定や」、小僧を呼んだ。
 「頭の寅さん呼んで来ておくれ」、「急ぎでしたら車で行きましょうか」、「斜前なんだから、走って行きなさい」。

 「忙しかったんだろ。寅さん」、「今、カカァと一緒に飯を食っていた。『久しぶりだね』と言う。俺はおかず食いだから秋刀魚の開きしかないのは気に入らないし、大根下ろしの大根もない、醤油もない。生意気言うなと取っ組み合いの喧嘩になって親戚や仲人が間に入って仲直りして、三月目だねと話をしているところに小僧さんが来たのですが、何か御用ですか」、「長い話だね。頼みがあるんだが・・・」、「旦那の所に出入りの私です。何でも言い付けて下さい。火の中に飛び込めと言えば飛び込むし、水の中に飛び込めと言えば飛び込みます。クビが欲しいと言えばスパッと差し上げますが、帰りは送って下さい。前が見えませんから。私に恐いものはありません。寅と言うだけ、加藤清正とサーカスだけが恐いだけです。何かありましたか?」、「猫を捕まえて欲しい」、「何匹ですか。一匹だけですか。食べるんですか」、「今、湯殿の中にいるから・・・」、「3日ばかりお時間を下さい。足場組んで若い者4~5人連れてきて、それからやります」、「お前恐いんだろう」、「そんな事ありません」。
 で、寅さん湯殿に入っていった。やってるよ。ドタンバタンと派手な音がしている。キャ~と言う悲鳴が聞こえて、ザブンだって、猫が落ちたのだろうと思っていたら「タスケテ~」。猫が落ちたんじゃないよだ。見に行くと寅さんがずぶ濡れになっていた。
 「私はもう猫には敵わない」、「強い寅さんだろう。どうして・・・」、「名前は寅でも猫には敵わない。この通り濡れネズミになりました」。
 

 



ことば

新作落語;芸術家・高見沢路直(のちの漫画家・田河水泡)が「高沢路亭」のペンネームで書き上げた。高沢路亭は収入のために創作落語を大日本雄辯會講談社の雑誌『面白倶楽部』に売り込み、同誌で連載。世界初の専業落語作家となっていた。 同作は読み物として書かれ、実演を前提としていなかった。しかし初代柳家権太楼がこれを高く評価し、高沢に高座での実演を了承してほしい旨の手紙を送った。高沢は快諾した。以降、権太楼はこれを持ちネタとするだけに留まらず、この演目を「初代柳家権太楼の自作」と公表していた(後者の件については、高沢の了承を取っていない)。 初代権太楼の死後かなり経って、放送局が、この演目の本当の作者が田河水泡であることを突き止め、著作権料を支払うために田河に連絡をとった。田河は放送局に対し、著作権料は全額、権太楼の遺族(再婚相手と遺児)に廻してもらって、権太楼の霊へのはなむけとしてほしい、と伝えた。
 原作者は当時まだ漫画家ではなかったが、まさにマンガ的な話である。 原作には、冒頭部に長々と別のセリフがある。現在の「番頭さんや、金魚どうしたい?」、「私ゃ食べませんよ」という冒頭の形に刈り込んだのは最初の演者である初代権太楼自身と考えられている。 原作には、金魚の品種は高級魚のランチュウであると明記されており、このことで金魚が食べられるのを嫌がり、神経質になる主人の心情も理解できるわけだが、落語ではその描写は省かれている。
ウイキペディアより

 

 金魚を狙っているわけでは無く、ポヤ~って温かいのでお気に入りの場所です。

田河水泡(たがわすいほう);(明治32年(1899)2月10日-平成元年(1989)12月12日)90歳没。本名、高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、さまざまなキャラクターグッズが作られるなど社会現象となるほどの人気を獲得した。昭和44年(1969) 紫綬褒章受章。昭和62年(1987)勲四等旭日小綬章受章。

 昭和4年(1929)、『目玉のチビちゃん』連載開始と前後して結婚。同作の連載終了後、『のらくろ』の執筆に取り掛かる。同作の執筆のきっかけは、結婚後犬を飼い始めた事により、昔写生中に見た陽気な真っ黒な犬を思い出し、あの犬が今どうなっているか気になったので描いてみたというものである。設定を軍隊にすることにより、自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げていった。同作は主人公の階級が上がるたびにタイトルが変わっていくという実験的な作品でもあったが、爆発的な人気を獲得。戦前としては異例の長期連載となった。また、いわゆるのらくろグッズが市場に溢れることになり、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立した作品とも言える。1941年に打ち切られるものの、その影響力は凄まじく、幼い頃の手塚治虫はのらくろを模写し、技術を磨いていたという。
 水泡の内弟子に『サザエさん』の長谷川町子。他に通いの弟子『あんみつ姫』の倉金章介、『猿飛佐助』『ドロンちび丸』の杉浦茂、滝田ゆう、山根青鬼・山根赤鬼、森安なおや、伊東隆夫、野呂新平、ツヅキ敏、永田竹丸などがいる。

 平成10年(1998)に水泡の遺族は、水泡の遺品を生地の隣区である江東区に寄贈した。公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」(江東区森下3-12-17)1階を、水泡の常設展示館「田河水泡・のらくろ館」として、ここで常設展示されている。
 当地は生地の至近でもある。水泡に関する唯一の展示館。左写真。 

金魚
 

 左;琉金。 右;ランチュウ。原話のランチュウで上から見ると美しさが分かる金魚です。江戸川金魚フェアで

猫と金魚
 

ウイキペディアより

双眼鏡(そうがんきょう);2個の望遠鏡の光軸を平行に並べ、両眼で同時に遠景を拡大して見る光学器械。倍率は普通7~8倍が見易い。

湯殿(ゆどの);浴室。風呂場。

一から十まで;はじめからおわりまで。何から何まで。すべて。バカか無知で無い限り、聡明な者なら一を聞いて十を知ります。

(かしら);一群の人の長。統領。特に、鳶職・左官などの親方。この話では鳶職の頭。建築現場では足場上や高所作業をする職人集団で、火災時は火消しとして働く。普段はお得意さんの店から半纏をもらっていて、その店専属の何でも屋にもなっています。

加藤清正(かとうきよまさ);(1562~1611)安土桃山時代の武将。尾張の人。豊臣秀吉の臣。通称虎之助と伝える。賤ヶ岳七本槍の一。文禄・慶長の役で勇名を馳せ、関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有。朝鮮半島出兵に際して、虎退治したので有名。

 「加藤清正の虎退治」 月岡芳年画

濡れネズミ;虎のように強くても、ネズミになってしまったら、猫には敵わない。



                                                            2016年8月記

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