■電車の運賃;電車とは東海道本線(旧国鉄)のことでは無く、東京市内を走る市電で、後の都電のことです。
1882年(明治15年) 6月 新橋~日本橋間に、鉄道馬車(東京馬車鉄道会社)が開通。
1903年(明治36年) 8月 新橋~品川八ツ山間に、路面電車開通(東京電車鉄道会社)。
〃 9月 数寄屋橋~神田橋間に、路面電車開通(東京市街鉄道会社)。
1904年(明治37年)12月 東京電気鉄道会社の土橋(新橋駅北口)~御茶の水間が開通。三社競合の時代到来
1905年(明治38年) 三社の路線は合計63キロにも達した。料金は三社とも3銭。
1906年(明治39年) 料金などの問題で三社合併。東京鉄道株式会社の誕生。
東京に民営三社による市内電車が誕生。 それぞれ異なる会社のため、乗り換え時に運賃が加算されるなど、発足時から運賃問題が生じていた。また、日露戦争での増税と高物価下での運賃値上げがあり、市民への影響は大きくなっていった。
現在の料金は170円。大正5年7月から5銭。大正9年6月から7銭(昭和18年6月まで)。昭和42年10月から昭和48年1月まで片道20円でした。
■文明開化(ぶんめいかいか);人知が開け、世の中が進歩すること。特に明治初年の近代化や欧化主義の風潮を言った。慶応4年勝海舟と西郷隆盛との間で江戸城引き渡しが無事済んだことで、江戸は戦火にならずに済み、天皇家という新しい主人を迎え日本の首都にとどまる。年号も明治と改まり、尊皇攘夷のはずが、一転して西洋文化を急激に取り入れ、新政府の下江戸も東京と名を変えて急激な西洋化が進む。
庶民の変化としては刀狩りから散切り頭へ、鹿鳴館のダンスパーティー、人力車の発明、自転車、暦が太陽暦となり、電気作用活動大写真、牛肉豚肉馬肉の鍋が出現、カフェーの出現、ビールと飲ませるビアホールの出現、西洋のスポーツの復興、特に野球、テニス、アイスクリーム、ラムネ、コーヒー、紅茶、等々新しい文化が押し寄せた。
・鉄道の開通は、日本初の鉄道路線である新橋駅 - 横浜駅(現桜木町駅)間が、明治5年9月12日(天保暦、翌年から採用されたグレゴリオ暦では1872年10月14日)の正式開業を迎える。開業時の全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘であったが、下等運賃でも米が5升半(約10kg)買える運賃であった。
「横浜海岸鉄道蒸気車図」 三代目広重画
明治7年(1874)5月11日には大阪駅 - 神戸駅間が開通した。ただしこの時は仮開業として扱われ、開業式がおこなわれたのは明治10年(1877)に京都駅まで延伸した時であった。
・電信の開設は、明治4年(1871)にはロシア極東部のウラジオストクから長崎に陸揚げされた海底ケーブルを用いた国際電信が開通した。この国際回線は、シベリア経由でヨーロッパまでつながっており、大西洋を渡り北米との電信も可能とした。
また、明治2年(1869)東京と横浜、大阪と神戸の2つだけだった国内回線も急ピッチで工事が進められ、明治6年(1873)には関門海峡を渡る海底ケーブルの設置で、東京と長崎を結ぶ回線が開通。東京と外国との電信が可能となった。その後も、東京から東北、北海道方面にも回線が敷設されており、明治8年(1875)には札幌まで開通。これにより、北海道から東京を経て、九州までつながる電信網ができあがった。
さらに明治13年(1880)頃には、日本の大都市を結ぶ電信網が完成。明治12年(1879)の記録では、有料の「官報」の取り扱いは9万通、無料の「事務報」などが8万通だったのに対して、企業や個人が利用する「私報」は148万通にも達した。明治23年(1890)頃には、全国の県庁所在地を網羅するほどに電信網は広がった。文明開化でもたらされた電信は、鉄道とともに近代日本の発展に大きく寄与した。
上図;吉原「角海老楼」ですが、右上に電線が走っていて、右隅の電柱には沢山の横木があります。当時は各電話機1台に線が1本必要でした。現在のように外皮が付いて束ねられた電線はまだありませんでした。電信の線は各家庭には来ていず、この線は電話線です。
■牛鍋(ぎゅうなべ);牛鍋は横浜発祥と言われている。横浜港が開港し、横浜に外国人居留地ができた。
そこで、外国の人々が食べていた牛肉に日本人が興味を持ち、食べ始めるようになったのが、幕末から明治初頭ということらしい。当時は、食べ慣れていない牛肉のくさ味を消すために、醤油や味噌を使い鍋で煮込むということをやってみたところ、あまりの美味しさに大流行したということのようだ。これが牛鍋の始まりとなる。
牛鍋とすき焼きの違いは何か?貴方分かりますか。その答えがここ「はまれぽ.com」。
・豚鍋(ぶたなべ);水を張った鍋に昆布を敷き、日本酒を入れた出汁に、豚肉、ホウレンソウ(または小松菜)を入れて煮込む。決まったレシピはなく、白菜、牛肉や鶏肉、シイタケや豆腐、春雨を入れても美味しい。
水を使わずに、清酒のみで煮る場合もある。牛鍋の牛が豚に変わっただけと思っていたら、いろいろあるようです。
・桜なべ(さくらなべ);馬肉を桜と言い、桜肉の鍋だから、馬肉鍋を桜なべと言います。味噌仕立てで牛鍋のようにして食べます。東京では深川の『みの屋』さんと、吉原の入口にある『桜なべ中江』さんが有名です。
右写真;中江の桜なべ。クセも無く美味いですよ。
■神田祭(かんだまつり);、東京都千代田区の神田明神で行われる祭礼。山王祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つとされている。京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本の三大祭りの一つにも数えられる。なお祭礼の時期は現在は5月の中旬だが、以前は旧暦の9月15日に行っていた。
江戸三大祭について「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と謳われたように、神田祭も元々は山車の出る祭りだったが、明治以降路面電車の開業や電信柱の敷設で山車の通行に支障を来すようになり、次第に曳行しなくなった。さらに関東大震災や戦災によって山車がすべて焼失した(但し山車に飾られていた人形や、明治期に売却されたという山車が関東各地に伝存する)。現在は山車に代って町御輿が主流となっている。
「神田祭の御輿」 2015.5大祭の時の宮御輿。
■淺草(あさくさ);東京都台東区の隅田川に接するおよそ東半分の地域とし、江戸・東京の下町を構成している地域のひとつ。浅草寺を中心に栄えた町で、北側には遊廓の吉原、芝居町の猿若町、南には浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置され札差(十八大通)が登場して賑わいを高めた。
明治に入って東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地区を近代的に公園化。それが東京初の都市公園とされる浅草公園となった。浅草公園を6つの区に分けたことから、『浅草公園六区』と呼称されるようになった。なお浅草公園周辺の最も賑わいを見せた繁華街を第六区と呼称する場合も多い。
明治に12階建ての凌雲閣(りょううんかく、右写真:江戸東京博物館蔵)が建てられ、新たに演芸場や劇場等が建ち、東京らしい文化の発信地として知られるようになった。関東大震災以降の興行界は松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。
現在は映画館はなく、JRAの場外馬券場、ボーリング場、浅草演芸場、パチンコ店や飲食店が並んでいます。
■ラジオ・テレビ;日本初のラジオ放送は、大正14年(1925)3月22日9時30分、社団法人東京放送局(JOAK:現在のNHK東京ラジオ第1放送。略称:AK)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(千葉大学工学部の前身)内に設けた仮送信所から発した。波長は375m(周波数800kHz)、空中線電力(出力)約220Wだった。当時の受信機の性能に比して出力が弱かったため、東京市内でないとよく聴こえなかった。
3週間の試験放送の後、逓信省の検査に合格し、3月22日に仮放送(仮施設からの正式な放送という意味)を開始し、7月12日に東京府東京市芝区(現在の東京都港区)の愛宕山からの本放送が開始された。これには改めて購入した出力1kWのWE社製送信機を使用した。
・テレビ放送開始;NHKは、昭和23年(1948)6月に、戦後初めてのテレビの公開実験を行い、1950年2月には技研内にテレビ実験局を開設して、11月からは毎週1日、3時間の定期的な実験電波を発射した。
昭和28年(1953)2月1日にNHKが、テレビの本放送を開始した。 NHKには、専用のテレビスタジオはまだ1つしかなかったが、使用した機器は、イメージオルシコンカメラを除き、すべて技研が設計した国産品であった。NHKが実験に着手して23年間、高柳健次郎が研究をはじめてほぼ30年が経過していた。本放送開始当日の受信契約数は、866件、うち都内の契約は664件。そのうち、482件がアマチュアによる自作の受像機であった。
民放の本放送開始の一番手は、日本テレビ放送網で、NHKと同じ昭和28年(1953)8月28日であった。
街頭テレビから、1959年は皇太子ご成婚の年でこの模様を見たいと、白黒受像機の普及が200万台を超えた。
右写真;1926年12月25日、浜松高等工業学校の高柳健次郎が電子式テレビ受像機(ブラウン管テレビ)の開発。撮像に機械式のニプコー円板を、受像に電子式のブラウン管を用いた。「イ」の字を表示させる。
写真:国立科学博物館での実験映像。右側のスクリーンの「イ」を撮影し左側のブラウン管で再現しています。
■女学生の袴姿(はかますがた);明治中期においては男性用の袴を着用するのは女性らしくないと反対されていましたが、明治32年(1899)には当時の女子の最高学府である「女子高等師範学校」(現・お茶の水女子大学)も袴を制服に採用。ここは袴の上に金属バックルのベルトをする特殊な装いが目立ちました。こうして、明治30年代半ばには、女学生=袴姿のイメージが確立されました。
当時の女学生というと、袴姿で束髪庇髪、自転車に乗っている「ハイカラさん」イメージがありますが、実はこれにはモデルがあります。それはプッチーニの「蝶々夫人」を当たり役としたオペラ女優、三浦環。彼女は明治33年(1900)、芝の自宅から上野の東京音楽学校まで、片道2里(約8km)の自転車通学をしたのです。当時まだ珍しかった自転車に乗って通学する女学生は評判となり、「自転車美人」と呼ばれて見物人も出たほど。さらに小杉天外は新聞小説『魔風恋風』で、「鈴の音高く、見はれたのはすらりとした肩の滑り、デードン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である。」(読売新聞 明治36年)
こうして女学生の活動的な衣服として認知され、ステータスを確保した。
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