落語「愛宕山」の舞台を行く 八代目桂文楽の噺、「愛宕山」(あたごやま)
■流行歌『コチャエ節』;「♪お前待ち待ち蚊帳の外 蚊に喰われ はぁコリャコリャ 七つの鐘の鳴るまでも 七つの鐘の鳴るまでも コチャエ コチャエ お前は浜のお奉行様 潮風に吹かれてお色が真っ黒け 白ても黒てもかまやせぬ コチャエ コチャエ 吹かれてお色が真黒け コチャエ コチャエ」 天保年間の「羽根田節」が元となって、明治4年に東京で流行した。
■かわらけ投げ(かわらけなげ、土器投げ、瓦投げ);厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器の酒杯や皿を投げる遊び。
京都市の神護寺が発祥の地とされる。以後、日本各地の高台にある花見の名所などで、酒席の座興として広まったとされる。
下写真;「かわらけ」
■飛鳥山(あすかやま);北区王子一丁目-1、JR王子駅南側にある公園。徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った。
園内に佐久間象山の桜賦碑、老農・船津伝次平の碑などがある。
「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(25.7m)よりも低い山ではないかとして、2006年に測量を行い、実際に愛宕山よりも低いことを確認したとしている(25.4m)。北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが採択されなかった。
落語「花見の仇討ち」に詳しい。
飛鳥山、左;土器投げが行われていた北側の崖。下にはJRが走り再開不可能。右;標高の積石。
■東京の愛宕山(あたごやま);港区愛宕にある丘陵。一帯の愛宕神社境内には、三等三角点があり、25.7mの標高が記録されている。天然の山としては東京23区内最高峰。ただし、あくまでも「自然地形でなおかつ山と呼ばれるものの中では最高」ということです。23区西半部の大半は標高30mを超える台地(武蔵野台地)であり、最高地点は練馬区南西端の約58m。また人造の“山”の最高峰は新宿区戸山二丁目戸山公園内の箱根山(44.6m)です。
■愛宕山(あたごさん);山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。
火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。
明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。また、茶店では疲れた客への甘味として、しん粉 (うるち米の粉を練って作った団子) が振舞われていた。
昭和4年(1929)から同19年(1944)にかけては、京福電気鉄道嵐山本線嵐山駅から参詣路線として、愛宕山鉄道とケーブルカーが存在した。また、愛宕山にはホテルや山上遊園、スキー場が設けられて比叡山同様の山上リゾート地となっていたが、戦時体制下でこれらは撤去された。戦後は復旧されなかった。
参詣といえども登山に等しく、天候により真夏以外は朝夕寒かったり山上が雲の中に入って濃霧に覆われる時もあるので防寒具や雨具が必要な時もある。また、千日詣りの日(の表参道)を除いて参道には夜間の照明は殆どない。往復で4~5時間掛かる為、午後から山に登ると下山するまでに日没になってしまい、外灯が殆ど無いため懐中電灯を装備していないと遭難状態となる事があるので、注意が必要。
愛宕山の山頂は924mであるが、一般人は立ち入りできない。代わりに北方約400mにある三等三角点「愛宕」(890.06m)に行くと、京都方面の眺望が広がる。
三等三角点「愛宕」(890.06m)より比叡山を望む眺望。愛宕山登山より
■愛宕神社(あたごじんじゃ);京都府京都市右京区にある神社。旧称は阿多古神社。全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は「愛宕さん」とも呼ばれる。
■桂米朝によると文の家かしく(後の三代目笑福亭福松)に稽古を付けてもらった際、「この噺はウソばっかりなので実際に愛宕山へ行ったら演じられなくなる」と教わった。
戦前、このネタを得意としたのが三代目三遊亭圓馬であった。大阪出身で江戸で長らく修業したこともあり、江戸弁と上方弁とを自由に使い分けることができた。「愛宕山」では東京から来た旦那、京都弁の芸妓、大阪弁の幇間と3つの異なる言葉を見事に演じ分け、奇蹟のような芸であった (近年は古今亭菊之丞がこの形で演じている)。桂文楽にこのネタを教えたのも圓馬である。なお文楽は戦後十代目金原亭馬生に稽古を付け、馬生はその後膝を悪くしやらなくなってからは実の弟の三代目古今亭志ん朝に稽古を付け、志ん朝の十八番になった。
昭和40年代、桂米朝が東京で「愛宕山」を演じたとき、傘で飛び降りる個所で、熱演のあまり傘の柄に見立てていた扇子を遠くに飛ばしてしまった。米朝は小判を拾うしぐさを演じながら、「あ、こんなとこにも落ったある」と立ち上がって扇子を拾い、何食わぬ顔で噺を続け、客席から大きな拍手を受けた。
■幇間(ほうかん);別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」となったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。
■賀茂川(かもがわ);京都府を流れる一級河川・淀川水系鴨川の高野川合流地点より上流部における名称。
■下賀茂に上賀茂(しもがもにかみがも);下賀茂神社。京都市 左京区下鴨泉川町59。賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
■桂川(かつらがわ);京都府を流れる淀川水系の一級水系。京都府京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する。左京区広河原、左京区花脊を南流するが、花脊南部で流れを西へと大きく変える。京都市右京区京北地区を東西に横断し、南丹市日吉町天若の世木ダム、同市日吉町中の日吉ダムを経由、以降は亀岡盆地へと南流する。亀岡市の中央部を縦断し、保津峡を南東に流れ、嵐山で京都盆地に出て南流、伏見区で鴨川を併せ、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる。
■清水さん(きよみずさん);清水寺。京都市東山区清水1丁目294。山号を音羽山。本尊は千手観音、開基は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。
■小判(こばん);小判1枚=1両。30枚で30両。10両盗むと首が飛ぶ時代の30両です。これを大金と言います。現在に換算して約300万円ぐらいですから、目の色が変わります。
■80尋(80ひろ);1尋は両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。縄・水深などをはかる長さの単位。1尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)。80尋は120~150m(東京タワーの大展望台1Fの高さ145m)。
■嵯峨竹(さがだけ);
嵯峨野の竹林の中で最も有名なのが、野宮神社から大河内山荘へと至る道です。いつもよりゆっくりと歩く事で、風が運ぶ竹の香り、隙間から注ぐ日差しが感じられます。時間の感覚を忘れ、ただ目の前を歩く。それだけで自然に溶け込む心地よさが味わえます。
2015年8月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |