落語「愛宕山」の舞台を行く
   

 

 八代目桂文楽の噺、「愛宕山」(あたごやま)


 

 東京では山遊びがありませんが、山遊びと言えば京都です。松茸狩りや菜種狩りなどがそうです。

 「一八、今日はあの愛宕山(あたごさん)に連れて行ってやる」。一八は空元気で付いてきた。「私は江戸っ子ですよ。あんな山の一つや二つ『朝飯前』です」と胸を張っているが、旦那に「良い言葉ではないので使うのを止めろ」と注意された。山道に入ると、酔っ払いが喧嘩をしている。それを見て一八は一句「さわらびの握りこぶしを振り上げて 山の頬ずら春風と拭く」、「上手い句だな。一八、ところで『さわらび』とは何だ」。一八答えられずにモゴモゴしている。「さわらびとは『早蕨』で、蕨の出始めのことだ。盗み句だな」。女どもは摘み草をしていて先に進めない。一八には繁八を付けて帰らないようにと監視役とした。
 「俺が登れないと思っているな」と自力で登り始めた。「歌を歌って登ってやら~、『♪お前待ち待ち蚊帳の外 蚊に喰われ はぁコリャコリャ 七つの鐘の鳴るまでも う~ 七つの鐘の鳴るまでも コチャエ コチャエ お前は浜のお奉行様 潮風に吹かれてお色が真っ黒け 白ても黒てもかまやせぬ コチャエ コチャエ』」。声はゼイゼイ、歌もなくなり息絶え絶え。「まだとば口です」。繁八にお尻を押されてまた登り始めた。ヒイヒイいいながら旦那にやっと追いついた。「一八、頂上は後三倍はあるんだ。朝飯前か」、「昼飯後です」。

 茶屋のある見晴台に立って見ると、「良い景色ですね。鴨川が見えますね。下賀茂に上賀茂ですね。うねった川が桂川。あの塔が清水さん。あんな所に的が有りますよ」、「土器(かわらけ)投げの的だ。見せるから見ておけ」。的に当てる見事な腕裁き。「朝飯前」と一八がやっても全く当たらない。上手い人は塩せんべいを投げて当てるが、逆に重い小判を投げて当ててみる。懐から小判30枚を取り出して投げ始めた。「およしなさい。もったいない」、「お前らを連れてくる方が、無駄で、よっぽど勿体ない」。30枚投げきってしまった。

 小判は拾った者のものだと言われて、一八は考えた。茶屋で聞くと谷の深さは80尋(ひろ)、山を廻ると4里と28丁、傘を借りて落下傘代わりに飛び降りようとするが、なかなか飛べない。旦那の言葉で繁八が一八の背中をドンと突くと谷底目がけて降りていった。怪我無く降りきった。

 小判を見つけてかき集め30枚全部回

収した。「全部お前にやるぞォ~」、「アリガトウございます~」、「どうやって上がってくる~」、飛び降りることばかりに気が行って、上がって来ることは何も考えていなかった。「欲張り~」、「オオカミに食われて死んじまえ~」、「先に行っちゃうぞ~」、「チョット待って下さ~ぃ」。
 一八チョット考えていたが、素っ裸になって絹物の羽織、着物、肌襦袢、帯を細く切り裂き、ヒモをない始めた。「オオカミが出るんならシャレにはなりませんよ。待って下さいよ~」。紐の先に石を結び、長い嵯峨竹を見つけ、その先に投げると、石が絡みついた。ヒモを全身の力でたぐり寄せ、竹が満月のようにたわむと、前の岩をパーンと蹴ると、竹がシュルシュルシュルと伸びて旦那たちが待つ崖の上に着地、「旦那、ただ今」。
 「偉いやつだな。恐れ入ったよ。一八、生涯贔屓にしてやるぞ」、「アリガトウ存じます」、「金は?」、「あ~~ぁ、忘れてきた」。
 

挿絵:「愛宕山」 三井永一画 文春デラックス11月号日本の笑いより



ことば

流行歌『コチャエ節』;「♪お前待ち待ち蚊帳の外 蚊に喰われ はぁコリャコリャ 七つの鐘の鳴るまでも 七つの鐘の鳴るまでも コチャエ コチャエ お前は浜のお奉行様 潮風に吹かれてお色が真っ黒け 白ても黒てもかまやせぬ コチャエ コチャエ 吹かれてお色が真黒け コチャエ コチャエ」 天保年間の「羽根田節」が元となって、明治4年に東京で流行した。

かわらけ投げ(かわらけなげ、土器投げ、瓦投げ);厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器の酒杯や皿を投げる遊び。 京都市の神護寺が発祥の地とされる。以後、日本各地の高台にある花見の名所などで、酒席の座興として広まったとされる。 下写真;「かわらけ」

 

 噺の舞台、京都愛宕山の「かわらけ投げ」は、過日行われていたが、現在行われていない。
 東京では北区の飛鳥山、同名の港区・愛宕山でも行われていた。が、どちらも現在行われていない。

飛鳥山(あすかやま);北区王子一丁目-1、JR王子駅南側にある公園。徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った。 園内に佐久間象山の桜賦碑、老農・船津伝次平の碑などがある。 「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(25.7m)よりも低い山ではないかとして、2006年に測量を行い、実際に愛宕山よりも低いことを確認したとしている(25.4m)。北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが採択されなかった。 落語「花見の仇討ち」に詳しい。

 

 飛鳥山、左;土器投げが行われていた北側の崖。下にはJRが走り再開不可能。右;標高の積石。

東京の愛宕山(あたごやま);港区愛宕にある丘陵。一帯の愛宕神社境内には、三等三角点があり、25.7mの標高が記録されている。天然の山としては東京23区内最高峰。ただし、あくまでも「自然地形でなおかつ山と呼ばれるものの中では最高」ということです。23区西半部の大半は標高30mを超える台地(武蔵野台地)であり、最高地点は練馬区南西端の約58m。また人造の“山”の最高峰は新宿区戸山二丁目戸山公園内の箱根山(44.6m)です。
 右写真:東京タワーの展望台から見る愛宕山。中央の白い建物が日本で最初にラジオ本放送をした、頂上にあるNHK放送博物館。その上方に愛宕神社。

愛宕山(あたごさん);山城・丹波国境の愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。 火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。

 明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。また、茶店では疲れた客への甘味として、しん粉 (うるち米の粉を練って作った団子) が振舞われていた。 昭和4年(1929)から同19年(1944)にかけては、京福電気鉄道嵐山本線嵐山駅から参詣路線として、愛宕山鉄道とケーブルカーが存在した。また、愛宕山にはホテルや山上遊園、スキー場が設けられて比叡山同様の山上リゾート地となっていたが、戦時体制下でこれらは撤去された。戦後は復旧されなかった。

 参詣といえども登山に等しく、天候により真夏以外は朝夕寒かったり山上が雲の中に入って濃霧に覆われる時もあるので防寒具や雨具が必要な時もある。また、千日詣りの日(の表参道)を除いて参道には夜間の照明は殆どない。往復で4~5時間掛かる為、午後から山に登ると下山するまでに日没になってしまい、外灯が殆ど無いため懐中電灯を装備していないと遭難状態となる事があるので、注意が必要。 愛宕山の山頂は924mであるが、一般人は立ち入りできない。代わりに北方約400mにある三等三角点「愛宕」(890.06m)に行くと、京都方面の眺望が広がる。

 三等三角点「愛宕」(890.06m)より比叡山を望む眺望。愛宕山登山より

愛宕神社(あたごじんじゃ);京都府京都市右京区にある神社。旧称は阿多古神社。全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は「愛宕さん」とも呼ばれる。
 火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の湯沸室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。

桂米朝によると文の家かしく(後の三代目笑福亭福松)に稽古を付けてもらった際、「この噺はウソばっかりなので実際に愛宕山へ行ったら演じられなくなる」と教わった。

 戦前、このネタを得意としたのが三代目三遊亭圓馬であった。大阪出身で江戸で長らく修業したこともあり、江戸弁と上方弁とを自由に使い分けることができた。「愛宕山」では東京から来た旦那、京都弁の芸妓、大阪弁の幇間と3つの異なる言葉を見事に演じ分け、奇蹟のような芸であった (近年は古今亭菊之丞がこの形で演じている)。桂文楽にこのネタを教えたのも圓馬である。なお文楽は戦後十代目金原亭馬生に稽古を付け、馬生はその後膝を悪くしやらなくなってからは実の弟の三代目古今亭志ん朝に稽古を付け、志ん朝の十八番になった。
 八代目桂文楽は晩年に狭心症のために医師からこのネタを演じる事を禁じられていたと言う。
 橘家円蔵は体調が悪いときや気が乗らないときはこの「愛宕山」をやるという。身体全体でやらなくてはいけないので手が抜けないからだという。

 昭和40年代、桂米朝が東京で「愛宕山」を演じたとき、傘で飛び降りる個所で、熱演のあまり傘の柄に見立てていた扇子を遠くに飛ばしてしまった。米朝は小判を拾うしぐさを演じながら、「あ、こんなとこにも落ったある」と立ち上がって扇子を拾い、何食わぬ顔で噺を続け、客席から大きな拍手を受けた。

幇間(ほうかん);別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」となったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。
 鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。 また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。
 専業の幇間は元禄の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。 現在では東京に数名(その中に、芸名・桜川 七太郎という若い女性が1名いる)しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963年に建立された幇間塚がある。
 幇間の第一人者としては悠玄亭玉介が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5~6年の修業を勤め、お礼奉公を1年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。 もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。
 芸者と同じように、芸者置屋(プロダクション)に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。 一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 落語の中で野だいこは、「鰻の幇間」、「野ざらし」、「居残り佐平次」等に出てくる。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。 幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。 噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。

賀茂川(かもがわ);京都府を流れる一級河川・淀川水系鴨川の高野川合流地点より上流部における名称。
 賀茂川(鴨川)は鞍馬川と合流後、北区上賀茂で京都盆地に出る。上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)脇を南南東に流れ、賀茂大橋(加茂大橋)手前で高野川と合流する。そこから京都市内を真南に流れ、四条大橋付近から南西へ流に振り、五条大橋から再度南下、九条高架橋を越えた後に南西へと流れを変え伏見区下鳥羽で西高瀬川と合流、そのまま桂川に注ぐ。また、中京区で西に高瀬川を分け、以南で並行して九条付近で再度合流する。

下賀茂に上賀茂(しもがもにかみがも);下賀茂神社。京都市 左京区下鴨泉川町59。賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
上賀茂神社。京都市北区上賀茂本山339。賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の一つとして登録されている。
 どちらも、賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。

桂川(かつらがわ);京都府を流れる淀川水系の一級水系。京都府京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する。左京区広河原、左京区花脊を南流するが、花脊南部で流れを西へと大きく変える。京都市右京区京北地区を東西に横断し、南丹市日吉町天若の世木ダム、同市日吉町中の日吉ダムを経由、以降は亀岡盆地へと南流する。亀岡市の中央部を縦断し、保津峡を南東に流れ、嵐山で京都盆地に出て南流、伏見区で鴨川を併せ、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる。

清水さん(きよみずさん);清水寺。京都市東山区清水1丁目294。山号を音羽山。本尊は千手観音、開基は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。
 清水寺は法相宗(南都六宗の一つ)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。



 舞台があるので有名。思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査によれば、実際に飛び降りた人が江戸時代1694年から1864年の間に234件に上り、生存率は85.4%であった。明治5年(1872)に政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで、下火になったという。

小判(こばん);小判1枚=1両。30枚で30両。10両盗むと首が飛ぶ時代の30両です。これを大金と言います。現在に換算して約300万円ぐらいですから、目の色が変わります。

80尋(80ひろ);1尋は両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。縄・水深などをはかる長さの単位。1尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)。80尋は120~150m(東京タワーの大展望台1Fの高さ145m)。

嵯峨竹(さがだけ);
 「清滝の水汲ませてやところてん」 芭蕉
清滝は愛宕山の登口にある滝。
 「涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹」 芭蕉

 嵯峨野の竹林の中で最も有名なのが、野宮神社から大河内山荘へと至る道です。いつもよりゆっくりと歩く事で、風が運ぶ竹の香り、隙間から注ぐ日差しが感じられます。時間の感覚を忘れ、ただ目の前を歩く。それだけで自然に溶け込む心地よさが味わえます。



                                                            2015年8月記

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