■青菜(あおな);過日、二代目桂枝雀が、終演後お客さんから「青菜ってどんな菜ですか?」と尋ねられて絶句。酒を飲みながら仲間と議論し、アンケートを取ろうと相談がまとまった。しかし、酔いが覚めると誰がそんな馬鹿馬鹿しいことをするか、とお流れになったという。
・青菜の候補としてまず上がるのは、ほうれん草(ほうれんそう);高温下では生殖生長に傾きやすくなるため、冷涼な地域もしくは冷涼な季節に栽培されることが多い。冷え込むと軟らかくなり、味がよりよくなる。東アジアにはシルクロードを通って広まり、中国には7世紀頃、日本には江戸時代初期(17世紀)頃に東洋種が渡来した。伊達政宗もホウレンソウを食べたという。19世紀後半には西洋種が持ち込まれたが、普及しなかった。しかし、大正末期から昭和初期にかけて東洋種と西洋種の交配品種が作られ、日本各地に普及した。ホウレンソウの「ホウレン」とは中国の唐代に「頗稜(ホリン)国」(現在のネパール、もしくはペルシアを指す)から伝えられた事による。後に改字して「菠薐(ホリン)」となり、日本では転訛して「ホウレン」となった。
・もう一つの候補は小松菜(コマツナ);江戸時代なかばまでは「葛西菜」とよばれていた。『大和本草』には「葛西菘(かさいな)は長くして蘿蔔(だいこん)に似たり」とあり、『続江戸砂子』では、菜葉好きが全国の菜葉を取り寄せたが「葛西菜にまされるはなし」と高く評価した。葛西菜が品種改良ののち小松菜になるが、『本草図譜』に描かれた葛西菜は現在の丸い葉のコマツナとは異なる。『青葉高』によれば小松川の椀屋久兵衛(1651年
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1676年)が葛西菜をコマツナに改良したというが、『江戸川区史』によれば椀屋久兵衛が評判の高かった葛西菜をわざわざ江戸から上方に取り寄せて人に振る舞ったという。椀屋久兵衛とは、数々の豪遊のあまり身を持ち崩し、浮世草子『椀久一世の物語』にもなった上方の豪商である。
・つまみ菜は如何でしょうか。もともとは大根、しろ菜、かぶ、小松菜、漬け菜などの若苗を生長させるため摘み取った(間引いた)もの。
東京が主産地で冬以外は一年中収穫でき市場にでまわります。
癖がないので誰でも食べられるのもいい。写真・右
・しろ菜;アブラナ科のつけ菜の仲間で、不結球ハクサイ類、巻かない白菜です。しろ菜は白菜と漬け菜を品種改良されたもので、関西の市場ではよく知られています。アクやクセが少なく、あっさりした食味が特徴で、しょうゆ、みそ等どんな調味料にも合います。昔から、煮もの、おひたし、ごま和え、浅漬け、炒め物など多彩に利用されており、食卓の一品には欠かせない野菜となっています。
つけ菜類の原産地は地中海沿岸で、日本には中国から入ってきたと言われています。古事記につけ菜の栽培が記載されており、当時すでに広く栽培されていたと推察されます。江戸時代から各地にしろ菜類はありましたが、大阪が起源のつけ菜(大阪しろ菜)としては、明治初期に天満付近が産地で、ここで多く作られていたことから、別名「天満菜」ともいわれています。
青菜と言ってイメージに登ってくるのが、ほうれん草と小松菜ですが、どちらも江戸・明治時代の旬は寒い時期でこの落語、夏には合いません。つまみ菜やしろ菜は通年食べられると言い、この野菜が浮上してきます。
しかし、ですよ。落語は誤りが無い伝承芸として認知されていますが、やはり人の子、作られたときに既に間違っていたか、伝承される内に間違ってしまったのか、どちらかではないかと私は思います。青菜とはどんな野菜か?という前に原点が違っている可能性もあるように思います。この噺「青菜」のナゾが聞き手をくすぐりますが、それはそれで楽しめばいい話です。アバウトすぎる私です。
■直し(なおし);「柳影(やなぎかげ。陰・蔭とも書く)」、京都では「南蛮酒」。アルコール度数約20度。焼酎に味醂を混ぜたもの。安くて悪い酒を飲みやすく「直す」ものを「直し酒」といったのに対して、味醂のものを「直し味醂」と呼んだ。上方で好まれた。
■鯉の洗い(こいのあらい);死んだ鯉の身は臭みが出るので、生きている鯉の身を、一口大にそぎ切りにして二分間ぐらい冷水で洗い、肉を縮ませ氷塊を添えて提供する。夏の料理として喜ばれ、酢味噌か芥子(からし)酢味噌を付けて食べる。洗いは歯触りの良さを楽しんで食す。川魚は刺身で通常食べないので、身に付着している虫を洗い流す意味も込めて、刺身では無く洗いとして出す。
■鰯(イワシ);日本で「イワシ」といえば、ニシン科のマイワシ(右写真)とウルメイワシ、カタクチイワシ科のカタクチイワシ計3種を指し、世界的な話題ではこれらの近縁種を指す。ただし、他にも名前に「イワシ」とついた魚は数多い。日本を含む世界各地で漁獲され、食用や飼料・肥料などに利用される。このため、海のお米とも言われる。
■この噺のマクラで使われる言葉で、蜀山人(しょくさんじん)が涼しさを言うのに、
・蜀山人=大田南畝(おおた なんぽ)天明期(1781-1789)を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。
・権助が言う気候の挨拶とは、教えられたとおり寒い時は「今頃、山は雪だんべ」、そのうち暑くなってきて、返答に困って「今頃、山は・・・、火事だんべ」。人から教わって自分の物になっていないと、この噺のように何処かでメッキが剥げます。
■手間取り(てまとり);手間賃をもらって雇われること。また、その人。
■九郎判官(くろう ほうがん);源義経のこと。左衛門尉だったことから。判官は輩行名で九郎は源義朝の九男だったことによる。古来この義経に限って「ほうがん」と読んでいたが、近年では「はんがん」も通用している。義経。幼名を牛若丸(うしわかまる)。身体はひ弱で女性のようだったと言います。
■鞍馬山(くらまやま);京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す。その鞍馬山の南斜面に牛若丸が育った鞍馬寺が位置します。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所。なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっている。
■武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい、生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日));平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
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