落語「厄払い」の舞台を行く
   

 

 十代目柳家小三治の噺、「厄払い」(やくはらい)より


 

 与太郎さんが伯父さんの家に呼ばれてやって来た。仕事もしないでと小言を食らい、元手の要らない商売を紹介するという。厄払いという仕事は、銭と豆がもらえる。その為には口上を知らなければ、ご祝儀は出ない。そこで、口移しで教えてもらった。

 「『あ~ら、目出度いな目出度いな、今晩今宵のご祝儀に、目出度き事に払おうなら、まず一夜明ければ元朝の門(かど)に松竹注連(しめ)飾り、床(とこ)に橙(だいだい)鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年亀は萬年、東方朔(とうぼうさく)は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六つ、この三長年が集まりて、酒盛りいたす折からは、悪魔外道が飛んで出で、妨げなんとするところ、この厄払いが掻い摘まみ、西の海と思えども蓬莱山の事なれば須弥山(しゅみせん)の方へ、さら~り、さら~り』と言うんだ」。
 いくら口移しでも覚え切れないので、仮名書きで紙に書いて貰った。稽古してから出掛ければ良かったものを、寝過ごして外は暗くなっていた。

 「黙っていたってしょうが無い。どっかで聞いてみようかな。こんばんは・・・。あの・・・、厄払いですけれども、いかがです」、「もう、払ったよ。陰気な野郎だな」。
 「こんばんは・・・」、「は~い。どなた」、「厄払いですけれども・・・」、「もう払いましたよ」、「もう一度厄払いませんか」、「表に変なのが来ているよ。下駄無くならないかぃ」。
 表に出るとプロが「御厄払いましょ、厄払い。お年越しのご祝儀に、御厄払いましょ、厄払い」、「うまいなぁ、付いて行っちゃおぅ」、「付いてきちゃダメだ。商売にならない」、「そんな事無いよ。お前が厄払って、おいらが銭と豆を貰う」。追い払われたので、一人でやる事になった。

 「黙って歩いていたのでダメなんだ。さっきの商売人のようには行かないけれど・・・、目出度い厄払い。デコデコに目出度い厄払い。目出度い厄払いはどうですか」、おもしろい厄払いだと、ある商家に呼び入れられた。
 「前払いで・・・」、と貰ったが、開けてみて、「何だい、一銭五厘か。二銭くれるがいいや。大店でもやっぱりふところが苦しいか」、「変なこと言っちゃいけないよ」。伯父さんは食べちゃダメだと言ったが、豆をポリポリ食べて、お茶を貰って満足して、「さようなら」。
 「厄を払わなくてはダメだろう」、「忘れちゃった」、「早くやりな」、「やりますから、そこの障子締めて下さい。覗いては駄目ですよ。『あらめ うでたいな』荒布は茹でるのかな?あらで切るんだ、『あら、目出度たくなくないい』、ん?」、「目出度いので、やっておくれ」、紙に目を落とし、文章を棒読みにしている。
 仕切り直して「『まず一夜明ければ元朝の、門に松竹注連飾り、床に橙鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ』だんだん上手くなってきたぞ。『鶴は十年』」、「オイオイ、なんだ鶴は十年とは」、「・・・『千年だ』。十の上にノが有った。『か めは、・・・』違った亀だ、『亀は・・・ねん』、伯父さんは仮名ばかりだと言ったが、グチャグチャな字があるよ。表の店の暖簾と同じ字だ、聞いてみよう。少々お聞きします」、「早くやりなよ。萬(よろず)屋だよ」、「『亀は萬(よろず)年・・・』」。

 



ことば

小三治(こさんじ);十代目柳家 小三治(やなぎや こさんじ)は、重要無形文化財保持者=人間国宝です。

 前話、落語「長短」で小三治の事は細かく解説しています。今回は人間国宝について。
 古典落語については、 五代目柳家小さん(故人)、三代目桂米朝(故人)、十代目柳家小三治が指名されている。講談では一龍斎貞水(存命)が人間国宝です。
 写真;人間国宝に内定し会見する柳家小三治氏 (東京・丸の内) 2014/7/18 日本経済新聞より

 重要無形文化財;演劇,音楽,工芸技術,その他の無形の文化的所産で我が国にとって歴史上または芸術上価値の高いものを「無形文化財」という。無形文化財は,人間の「わざ」そのものであり,具体的にはそのわざを体得した個人または個人の集団によって体現される。
  国は,無形文化財のうち重要なものを重要無形文化財に指定し,同時に,これらのわざを高度に体現しているものを保持者または保持団体に認定し,我が国の伝統的なわざの継承を図っている。
  重要無形文化財の保持のため,国は,各個認定の保持者(いわゆる「人間国宝」)に対し特別助成金(年額200万円)を交付しているほか,保持団体,地方公共団体等の行う伝承者養成事業,公開事業に対しその経費の一部を助成している。
 《担当課:伝統文化課 総務係》 より

古典落語;中世の御伽衆【おとぎしゆう】や仏教の説教などの系譜に位置づけられる話芸であるが、その実質的歴史は、京の露【つゆ】の五郎兵衛【ごろべえ】、大阪の初代米沢彦八【よねざわひこはち】、江戸の鹿野武左衛門【しかのぶざえもん】ら十七世紀末に三都で活躍した職業的噺家【はなしか】達に始まり十八世紀末の上方・江戸双方での寄席創設を経て、東西で影響しつつも独自の発展を遂げ、幕末から明治にかけてほぼ現在のような形に大成したといわれる。
 鹿野武左衛門に始まる江戸の落語は、十八世紀後半の烏亭焉馬【うていえんば】の会咄を経て、初代三笑亭可楽【さんしようていからく】により寄席の芸能として確立した。その後天保の改革により大きな打撃を受けるが、幕末には再び復興し明治期の三遊亭円朝【さんゆうていえんちよう】・三代目柳家小さん【やなぎやこさん】らにより大成された。江戸っ子の気質を反映して、派手な演出を排し、手拭い・扇子のみでさまざまな表現を行う「素噺【すばなし】」の淡泊な味わいを特徴とする。
 一方上方の落語は、十七世紀末の京北野天満宮等での露【つゆ】の五郎兵衛【ごろべえ】、大阪生玉【いくたま】社の初代米沢彦八【よねざわひこはち】の辻咄【つじばなし】に始まり、十八世紀末初代桂文治【ぶんじ】により寄席の芸能として確立し、幕末から明治にかけて初代笑福亭吾竹【しようふくていごちく】・二代目桂文枝【ぶんし】・月亭文都【つきていぶんと】ら多くの名人により大成をみた。江戸の落語に比べ全体として派手で賑やかな演目が多く、下座【げざ】の囃子【はやし】を噺【はなし】の中に取り込む「ハメモノ」の演出や、見台【けんだい】を賑やかに叩いて演じる「入【い】れ込【こ】み噺【ばなし】」など、大阪弁の味わいとともに独自の特徴を有する。
 このように東西それぞれに特徴を有する古典落語は、磨かれた話術で一人の噺家がさまざまな人物を描きわけ独自の笑いの世界を構築するもので、高度な芸術的表現力を要するものであり、またわが国の代表的芸能の一つとして、芸能史上大きな価値を有するものである。
 文化庁ホームページより

厄祓いの時期(やくばらいのじき);地域によって異なるものの、「年の節目である新年正月元旦に行う」ケース(一番祈祷)、「年の節目を旧正月と考え、厄年の区切りも旧正月からとし、節分にあわせて行う」ケース(厄払い節分祭など)、「年始から節分までに行う」ケースが多く見られる。

 この噺の厄祓いは節分にあわせて行うので、クリスマスイブではありませんが、この日をはずしたら来年まで待たなくてはなりません。
 与太郎さんが心配していた祝儀は、江戸では十二文、明治では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。桂米朝ですらこの様なしきたりは知らないと言います。

節分(せつぶん);季節の節目のことを言います。各季節の始まりである立春、立夏、立秋、立冬の前日のことを指します。江戸時代以降では、立春(2月4日)の前日である2月3日を節分とする場合がほとんどで、旧暦では、立春が一年の始まり(元旦)だったとされています。つまり、2月3日の節分は、今で言うところの「大晦日(おおみそか)」にあたるわけです。節分の日には、神社やお寺で「節分絵」「節分祭」や「厄除け祈願祭」などが行なわれますが、これは、旧暦の大晦日にあたる2月3日に一年の厄を祓って新しい一年を迎えましょうという古くからの風習が今に残ったものです。

桂米朝のマクラより;年中行事が段々だんだん変わってまいりまして、この年越しの行事なんかも「節分」と言ぃますが、残ってんのは一般ではもぉ豆まきぐらいなもんで「福は内、鬼は外」なんか言ぅてね。
  成田山行きますとね、あれ「福は内」しか言ぃまへんねん「鬼は外、何で言ぃまへんねや?」言ぅたら「だいたい、成田山に鬼はおらんねや」言ぅた。そらまぁ、そぉいぅ理屈も成り立つなぁ、と思てね。
  わたしら覚えてますが、昔はこの年越しには「おばけ」といぅ行事があって、こら町の人もやりました、化けるんですなぁ。こら女の人に限ったもんで、もぉ七十といぅよぉなお婆さんがですな、可愛(かい)らしぃ桃割れに赤い手絡(てがら)かけたりしてね、娘さんに化けるといぅよぉな。そぉいぅ風に化けたもんでございます。派手な着物を着たり、また若い人はグッと地味な着物を着てみたり、これが花柳界なんかに残ってました。それからキャバレーやとか、あぁいぅところでもやってました、戦後しばらく経った時やりだしましてね。
  もぉこの頃あんまり見まへんなぁ、十年ぐらい前まではまだあったよぉに思います「節分・お化け大会」なんか言ぅてね、で、みんながいろいろに化けるんです。中にはもぉ、そのままで結構、といぅよぉな、まぁそぉいぅホステスもいたはるわけでございますけどな。

 江戸の方は芝居にでも出てきますわ、「三人吉三(さんにんきちざ)」大川端、お嬢吉三が夜鷹のおとせを川へ放り込んでね、カ~ッとこぉ見得を切りますなぁ、ボ~ンと鐘が入って「月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、冷てえ風もほろ酔いに 心持よくうかうかと・・・」
  あの有名な連ねが始まります。途中で「おん厄払いましょ、厄落とし」、こら、陰の方で言ぃまんねん。それを聞ぃて「ホンに今夜は節分か、落ちた夜鷹は厄落とし、豆沢山(まめだくさん)で一文の、銭と違って金包み、こいつぁ春から縁起がいいわぇ」、なんていぅ連ねがあるんです。  

厄払いの文句;米朝は「あぁ~ら目出度や、目出度やな、目出度いことで払おなら。鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は三千歳、東方朔(とぉぼぉさく)は九千歳(くせんざい)、三浦の大介(おぉすけ)百六つ。かかる目出度き折からに、如何なる悪魔が来よぉとも、この厄払いが引っ掴み、西の海へさらり、厄(やっく)払いまひょ」。

 小三治は、概略までしか演じていませんが、もう少しオチまではあります。
「ええ、亀はよろず年。東方」 ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出した。 「おい、表が静かになった。開けてみな」、 「へい。あっ、だんな、厄払いが逃げていきます」、 「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」。 お後がよろしいようで・・・。

三浦大助(みうらのだいすけ、おおすけ);三浦半島の豪族の嫡流が代々使った名前。平安末期の武将・三浦義明(1092-1180)のこと。 相模の有力豪族・三浦氏の総帥で、治承2(1178)年、 源頼朝の挙兵に応じましたが、石橋山の合戦で頼朝が敗北後、居城の衣笠城に篭城。一族の主力を安房に落とし、自らは敵勢を引き受け、城を枕に壮絶な討死を遂げました。石橋山の合戦のあと三浦大介義明は89歳で戦死しました。
 三浦の大介百六ツとは、三浦大介義明の十七回忌の時、源頼朝が大規模の供養をし、大介の享年八十九歳に十七回忌の十七を加へて百六ツと言ったのが始まり。実際に106歳まで生きたわけではありません。
右図:三浦大介義明像/菊池容斎画

東方朔(とうぼうさく);(とうほう さく、紀元前154年 - 紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。右図。
 朔を郎官に任命し、後は側近としてしばしば、武帝の話し相手を務めていた。気性の激しい武帝も東方朔と話せば上機嫌となり、金品を賜ったり食事の陪席を命じる事も度々であったという。 武帝に食事を招待されたときには、食べ残しの肉をすべて懐に入れて持ち帰ろうとして服を汚すのが常であり、下賜された銭・帛を浪費して、長安の若い美女を次々と娶り一年もたつと捨てて顧みないという暮らしをしていた。これは、采陰補陽という一種の修身法であったが、それを知らない同僚には狂人扱いされていたという。武帝はそれでも「朔に仕事をさせれば、彼ほどの仕事ぶりを示す者はいないだろう」と評価していた。
  西王母の長寿の桃を盗食して死ぬことを得ず、長寿をほしいままにし、仙人になったと伝える。

蓬莱山(ほうらいさん);古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるもの。

西の海(にしのうみ); 近世,災厄を追い込むという西方にある冥界(めいかい)。また、厄払いのこと。

須弥山(しゅみせん);古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山。インドで形成された宗教のうち、とりわけ仏教が中国や日本に、ヒンドゥー教がインドネシアなどに伝播するにともない、この世界観も伝播した。ジャワ島にはスメル山という名の山もあり、別名はマハ・メル山(偉大なるメル山を意味する)である。 仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と鉄囲山(てっちさん)があり、その間に八つの海がある。

与太郎さんだって、仮名ぐらいの字は読めます。十と千の間違いは言われてみれば分かりますが、萬までは分からなかった。明治に入っての文盲率から見たら、与太郎さんは以外に博識です。仕事のやり方だって、口上は教わりますが、どの様にやるかは教わっていませんので、自分で工夫して一軒ずつ訪問しています。声を上げながら街を流す事を覚え、常套句だけでは無く「デコデコの・・・」などの言葉を足したりしています。
 ただ、閃くまでに時間が掛かり、どっかネジが緩んでいるか欠落しているだけです。愛すべき与太郎さんです。



                                                            2015年10月記

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