落語「馬の田楽」の舞台を行く
   

 

 桂文生の噺、「馬の田楽」(うまのでんがく)より


 

 馬方さんが二山も三山も越えて味噌樽を運んで来た。着いたので手綱を縛って、回りで遊んでいた子供達に悪さをしないように頼んで、店に入っていった。馬は足を踏みならし、長い面をふくれっ面している。見たくないからと障子を閉めてしまった。それにしても店主は小一時間出て来ない。裏の畑で種まきしていたが途中で止められないので、店番頼んで安心して今戻った。
 「味噌は先月取ったばっかりだから、間違いであろう」、「そんな事は無い。判取り帳に書いてある」、「あ~、これは三河屋だな。丸に三だから。家は四角に三だから違う。番頭がいけない、話ながら書くから縦棒の後が丸くなっちゃうんだ」、「本当だ。丸三だ。馬に食べさせて貰っているから、お茶は後にして、帰り道によるよ」。

 出てみると馬がいない。「便所にでも行ってるかな」、「馬が便所に行くか」、「味噌樽2丁も積んで駆け出したら背骨痛めてしまう。早く見つけて、荷物下ろしてやれ・・・」。
 そこで遊んでいる子供に聞いた。「かろやんがいけないんだ。『馬の股ぐらくぐらないか』と言うから『恐いからイヤだと言ったら』、向こう側にくぐって『来れないだろう』と言うので目をつぶってくぐった。向こうに行ったり、こっちに来たりしていたら、鬼ごっこになった」、「そんな所で鬼ごっこするでない」、「そこに桶屋の子が来た。背が高いから止めろと言ったが、上手く向こう側にくぐり抜けた。馬の使わない足があるよね。その足は上がったり降りたりしていて、上がったときにくぐれと言ったが、野郎下がったときに顔を殴られ、怒ったが、通行止めのところをくぐったんだからしょうが無いと、尻尾の毛を抜くことにした。おらもほしいので抜いたが大人しかった。馬子さんに見付かると怒られるから、沢山抜いて逃げようと、皆でいっぺんに抜いたら、馬が駆け出して行った」、「そんな悪さをするんでね~。で、どっちに行った」、「おらぁ、目をつぶっていたから分からない」。早く見つけなければと、探しに行った。

 土手の上に人が居るので聞いてみた、「朝の4時から草むしりをしていたが・・・、作男の倍やったので明日の釣りの準備をと、天気を見にここに来たが、最近の天気は良く当たる。新聞の天気だけれども、一日遅れで届くので予報にならない。自分で判断するより無いので、今土手に上がってそれを見ていたら、お前さんが『馬を見なかったか』というが、おら今来たばっかりだから分かんない」。
「分からないなら分からないと言えば良いのに。馬は遠くまで行ってしまっただろうな」。

 茶屋の婆さまに聞けば分かるだろうと思って聞いたが、耳が遠いので要領をえない。「おらんとこの馬知らないか」、「ウマいものと言っても何も無いな。トコロテンは売り切れてしまったし、芋なら有るから串に刺して味噌でも付けるか」、「芋の田楽の話じゃない。おらん所の馬だよ」、「そうか。身体も丈夫で、耳も良く聞こえる」。

 そこに酔った虎十がやって来た。「われ、馬知っているか」、「ん?お前知らないのか。馬ってのは、四つ足で顔が長い動物でヒヒヒ~ンと鳴くだ」、「おらんとこの馬だ」、「お前んとこの馬だって変わりなかんべさ。丸にイの字の腹掛けして峠を越えている」、「馬の形を聞いてんんじゃねぇ、背中に味噌付けた馬を知らねえか、と聞いてんだ」、
「味噌つけた馬だってぇ、ハハハ、おらぁ、この歳になるまで、馬の田楽は食ったこたぁねえ」。

 



ことば

桂 文生(かつら ぶんしょう)は、落語家の名跡。当代は落語協会のホームページには三代目と記載されています。三遊亭文生を含めると過去7人前後の文生が存在する。上方落語には同じ読みの「桂文昇」という名跡があります。
 三代目桂 文生(かつら ぶんしょう、1939年8月23日 - )は、宮城県石巻市出身の落語家。落語協会所属。出囃子は『あほだら経』。本名は平 稔(たいら みのる)。宮城県小牛田農林高等学校卒業。文京区春日町交差点の角に住む。右写真。
 1974年 真打に昇進し、三代目文生を襲名。 1984年 桂文朝、桂南喬、そして弟子桂扇生とともに落語芸術協会を脱退し、落語協会に移籍し五代目柳家小さん門下へ。 2006年 文化庁芸術祭優秀賞。
 独特の節回しと語り口が、東北地方の訛りと重なって、聞き手を咄の世界に違和感なく誘っています。秋田での公開放送の音源ですが、場内割れんばかりの笑いの渦に囲まれ、楽しい落語を満喫しています。

田楽(でんがく);「田楽焼き」の略、豆腐などに練り味噌を塗って焼いた料理。豆腐に串を打ったところが田楽を舞う姿に似ているところからいう。味噌に木の芽をすり込んだものを木の芽田楽という。落語「味噌蔵」に詳しい。

マクラから
 先輩が言うにはお客さんの顔を見て「目付きの悪いお客さんが多いときは」泥棒の噺を、「目尻の下がったお客さんが多いときは」艶っぽい噺を、「ボーッとしたお客さんが多いときは」バカの話をしなさい。と、教えられてきましたが、今日は動物の噺です。頭の良い猿が居て、飼い主の真似をそっくり真似ているので、自分が居ないときは何をしているのかと思って、部屋に猿を残し鍵穴から部屋を覗くと、猿も鍵穴からこちらを見ていた。

馬方さん(うまかた);馬背で人や荷物を運ぶ業者。馬子(まご)ともいい、中世では馬借(ばしゃく)といった。
 車両輸送の未発達だった日本では、陸上の運輸は主に牛馬の背に頼ってきた。そして交通の要路に、公人の往来や貢租などの輸送のため、古くは駅馬制、下っては伝馬の制度が設けられた。沿道の人民に「人馬出役」が賦課されてきた歴史は久しいが、専門自営の「馬方」が宿駅問屋のもとに生じてくるのは、中世の「馬借」の類が最初で、商品流通の発展に裏づけられての発生であった。室町期には京都―北陸間、奈良―大坂間など陸路の要所に馬借の集団があって、もっぱら荷駄運送の業にあたり、ときには「土一揆(どいっき)」の主動力にさえなった。近世に下ると国内交通がにわかに活発になり、街道・宿駅の制も整ってきたので、主要街道の宿場町には荷継問屋の統制下、多くの馬方が集められた。そしておもに公用に徴発されてきた宿場農民の駄背輸送をやがてしのぎ、駕籠(かご)かき、歩荷(ぼっか)、牛追いなどとともに陸上交通運輸の主役になっていく。一方、脇往還(わきおうかん)や峠越しの山道にも、山間農民の「馬方稼ぎ」が盛んになっていった。近世の道中物文芸でも街道筋の馬方風俗は欠かせぬ題材となり、また馬方宿、馬方茶屋の類は近世宿場の特徴的な風物でもあった。明治期に入り、道路の整備に伴い車両輸送がしだいに本格化していくが、自動車導入前は「荷馬車挽(ひ)き」の形で馬方稼ぎはなお久しく重要な役割を務め、鉄道路線に外れた街道を走る乗合馬車の「馬手」もまた馬方の新しい転身であった。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より

 「冨嶽三十六景 武州千住」 北斎画 奥州街道の起点(第一宿)千住の水門の場です。

判取り帳(はんとりちょう);受け取り印、認め印を貰う帳面。江戸時代から商家、商店などで用いられた商業帳簿の一種。大福帳の半分ぐらいの大きさで、金品を受取ったという証拠に先方に印を押させるもので、後日の紛争を避ける目的をもっていた。1枚物と違って綴じてあるので紛失の心配がなく、広く用いられた。
 この噺の判取り帳は、納品書と受取書が一緒になった物なのでしょう。

作男(さくおとこ);田畑の耕作に従事する雇人のこと。この語は文芸作品などにしばしば登場するが、各地の農村における実際の使用例はあまり知られておらず、意味は必ずしも明確ではない。農業労働に従事する雇人を大別すると、主家に住み込む奉公人と自分の家から通う日雇になるが、作男はばくぜんと両者を含む言葉とするのが通例である。ただ地方によっては、特定の家に出入りしてその家の農作業や雑事に従事し、なにかにつけてその家から物質的給付をうけるような、主従関係的な人物を作男という所もある。

トコロテン(ところてん);(心太または心天、瓊脂)は、テングサやオゴノリなどの紅藻類をゆでて煮溶かし、発生した寒天質を冷まして固めた食品。それを「天突き」とよばれる専用の器具を用いて、押し出しながら細い糸状(麺状)に切った形態が一般的である。右写真。
 全体の98-99%が水分で、残りの成分のほとんどは多糖類(ガラクタン)である。ゲル状の物体であるが、ゼリーなどとは異なり表面はやや堅く感じられ、独特の食感がある。腸内で消化されないため栄養価はほとんどないが、食物繊維として整腸効果がある。 関東以北および中国地方以西では二杯酢あるいは三杯酢をかけた物に和辛子を添えて、関西では黒蜜をかけて単体又は果物などと共に、東海地方では箸一本で、主に三杯酢をかけた物にゴマを添えて食べるのが一般的とされる。また、醤油系のタレなどで食べる地方もある。

腹掛け(はらがけ);馬の腹に腹掛けをして、馬の腹の保護と馬の持ち主の証とした。腹掛けのトレードマーク。

  

 左、「東海道五十三次の内 藤沢」部分 広重画 腹掛けした馬から積み荷を降ろし、計量を待っている。
 右、「熈代照覧」より日本橋の味噌屋・太田屋 上赤味噌大安売りの看板が掛かり、味噌樽が2丁ある。 



                                                            2015年11月記

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