落語「竹の水仙」の舞台を行く
   

 

 桂歌丸の噺、「竹の水仙」(たけのすいせん)


 

 甚五郎は師匠の所で充分力を付けて、京の玉園に預けられた。京の御所から変わった物を彫るように依頼があったので、甚五郎に彫らせることになった。その時彫った物が「竹の水仙」で大層お褒めを得て、「左」官を許された。その為、日本全国に名が広まったが、そんな事で自慢するような男でなく、京でブラブラしていた。江戸の駿河町の三井の番頭が、運慶作の恵比寿様に対になるような大国の彫り物を依頼された。100両で引き受け30両の前金を受け取った。しかし、仕上がり日は約束できなかった。
 玉園の許しを得て、見聞を広めることは良いことだと、30両の金を持って、寄り道回り道をして江戸の手前、東海道は神奈川宿に着いたときには無一文になっていた。客引きが大勢出ていたが、薄汚れた着物では誰も呼び止めなかったが、宿も終わりの頃声が掛かったので、大黒屋金兵衛の宿に決めた。一日3升の酒を飲み魚は旨い物があるであろうからまかせて、宿賃は出発時でイイというので、長逗留と決めた。静かな2階の部屋に通された。

 亭主は納得していたが、奥を預かる女将さんは黙っていない。この辺でひとまず精算して貰えと、亭主を焚きつけた。勘定書きを見せると2両3分3朱では安いので、甚五郎が1朱足して3両にして渡すと言うが掛け声ばかりで、現金が出ない。出ないはずで金は無い「文無し」であった。金兵衛さん怒ったが無い袖は振れない。番匠だと聞いて棚を吊れと言えば落ちるから駄目だという。
 支払いの算段はついているので裏の立派な竹藪に切れるノコギリを持って一緒に来るように頼んだ。孟宗竹をいくつか切らされた金兵衛さん、それを持って2階に。
 その竹で「竹の水仙」を彫り上げて夜の夜中金兵衛さんを呼んだ。宿は朝が早いもの、夜中に起こされ不機嫌に上がってきた。
 見ると竹っぺらの先に丸い物が付いている。「竹の水仙」だと言う。寸胴の竹の花生けに水をイッパイ入れてさしておいて、宿の目立つところに掛けて売り物と紙に書いておくと、買い手が付く。付いたらそれで払う。朝日が差してきて、それに日が差すと、ツボミが開いて立派な花になった。香りも回り中に広がり何ともイイ香りに包まれた。

 早朝に、熊本藩主細川越中守の行列が通ったが、殿様の駕籠が大黒屋の前で止まって竹の水仙を眺めていた。御側用人の大槻刑部(ぎょうぶ)を呼んで、あの水仙を求めてこいと言い付けて、行列は本陣に・・・。残された刑部は硬いだけで世事が分からない。
 大黒屋に入り値段交渉をすると、2階に上がって金兵衛さんが聞くと2文や2朱では渡せない。指二本出して、200両だという。下に降りて刑部に正面切って言えないので、指二本出した。200両だと言ったら「足元見るのもいい加減にしろ」と金兵衛さんを殴って怒って出て行ってしまった。
 甚五郎は「表に立っていろ。あの御用人は、すぐに顔を真っ青にして戻ってくるから安心しろ。戻ってきて、頭を下げて『売ってくれ』と言う」、「ホントかな~」。

 こちらは本陣。刑部は、本陣で休んでいた越中守に「買わずに戻ってまいりました」、「ところでいくらであった」、指を二本出すと「2万両か」と話が合わない。すると、越中守は「200両なら安い。あの竹の水仙は、今世に名を轟かせる名人・左甚五郎が創った貴重なものであり、あの他には京の御所にしかない。また甚五郎は、いくら金を積まれても、気が向いた時にしか創らない」と言う。それを刑部が「200両は高い」として帰ってきたことに越中守は激怒し、「もう一度宿屋に行き、もし買えなかった場合は切腹、お家断絶を命ずる」と言ったため、刑部は大あわてで宿へと走った。

 主人は戻ってきた刑部に売り切れの紙を出して、「さっき一発叩かれたから、値段は300両になった」と言い、それでも買いたいと言うので訳を尋ねると、「お主も分からないのか。あの人は甚五郎先生である」と、言い残し作品を持って帰っていった。
 驚いたのは宿屋の夫婦。二人で甚五郎に謝りに行った。「あの竹の水仙は300両で売れました」、「?200両と言ったはずだが・・・。そうか私が製造者、亭主が商売人、200両で仕入れて300両で売るのは商い人の常識。100両はそちらに。こちらから50両は宿賃と迷惑料です」。
 「お願いがあるのですが・・・、神奈川中の竹を仕入れますから、竹の水仙を、こてこてに創ってください」、甚五郎軽くいなして、「竹に花を咲かせると、寿命が縮まる」。

 



ことば

講談の左甚五郎伝(ひだりじんごろうでん)』をもとにした落語です。左甚五郎は江戸初期の大工・彫刻師で、日光の『眠り猫』など各地に名品を残しています。謎の多い人物なので、さまざまな逸話が講談で作られ、それが浪曲や落語へと伝わりました。元の噺が講談ですから、各所で矛盾点や場所の設定が違います。これ程大きく違いが出る噺は落語として珍しい事です。
 落語ではこの後、江戸に出てきた甚五郎は日本橋のたもとにあった餅屋で餅を盗もうとした男の子を救い、文無しなので叩き蟹を彫り、その蟹が動くので、それを見たさに千客万来。落語「叩き蟹」に描かれています。
 その後、大工の政五郎の家に厄介になります。その噺は「三井の大黒」です。その後仙台まで足を延ばし、ねずみ屋に逗留し落語「ねずみ」の噺になっていきます。日光では眠り猫を彫り、江戸の寛永寺では龍の彫り物を創ったと言われています。

左甚五郎(ひだりじんごろう);医者黒川道祐が著した『遠碧軒記』には、「左の甚五郎は、狩野永徳の弟子で、北野神社や豊国神社の彫物を制作し、左利きであった」と記されているので、彼が活躍した年代は、1600年をはさんだ前後20~30年間と言うことになります。
 一方、江戸時代後期の戯作者山東京伝の『近世奇跡考』には、「左甚五郎、伏見の人、寛永十一甲戌年四月廿八日卒 四一才」とあり、寛永11年(1634)に41才で亡くなったとすれば、『遠碧軒記』より少し後の年代の人となります。
 また、四国には左甚五郎の子孫を名乗られる方が居り、墓も存在します。
 広辞苑によると、江戸初期の建築彫刻の名人。日光東照宮の「眠り猫」などを彫り、多くの逸話で知られるが、伝説的人物と考えられる。一説に播磨生れ、高松で没した宮大工、伊丹利勝(1594~1651)を指す。

 落語に登場する左甚五郎は、一本の竹から彫った水仙に水をやると花が開く、「竹の水仙」は有名だが、これは、宿賃もなしに豪遊してしまう、だらしない大酒呑み甚五郎が、宿賃の代わりに彫ったものです。また、落語「ねずみ」、「三井の大黒」、「叩き蟹」にも登場しこの噺のマクラで、飛騨高山の人と言っています。
 政談ものでも名奉行はみな大岡裁きと決まっているように、名彫刻は、みな名人・左甚五郎作となってしまったのでしょう。張り型(落語「四つ目屋」)までこしらえたのですから、スゴイ名人!

 甚五郎の素姓について、その七世の孫、左光挙は以下のような考鉦をしています。
 甚五郎は文禄3年(1594)播磨国明石に生まれた。幼名を刀禰松(とねまつ)といい、父は足利義輝の臣伊丹左近尉正利であった。13歳のとき、上京して伏見の禁裏*大エ棟梁、遊左(ゆさ)法橋**与平次に弟子入りした。その後、師とともに紀州根来寺の再建にあたり、同地に3年数か月を過ごしたことがあった。根来出身説はここから出たらしい。元和元年(1615)江戸に出て日光東照宮、芝の台徳院廟***、上野寛永寺の造営に従事して今日にのこる彫刻の数々を手掛けた。しかし、江戸城西の丸地下道の工事に参加したため、機密のもれることをおそれる幕府の手によって暗殺されかけたが、反対に刺客を倒し、老中土井利勝のはからいで寛永11年(1634)讃岐高松藩主生駒高俊のもとに身をよせることとなった。高松藩では、大工頭をつとめ、宗恵と号した。同17年、生駒氏改易となってからは京に帰って大工の棟梁となり、法橋の位を得た。その後再び高松松平氏の棟梁に迎えられて慶安4年(1651)五十七歳で同地に没したという。
 また一説には、甚五郎は飛騨の匠出身の名工で四国とは無縁だったともいう。しかし、これはのちの脚色による甚五郎説話に導かれた説らしい。
 文芸のうえで甚五郎と飛騨の匠を結びつけたものとしては、石川雅望の『飛騨匠物語』(文化5年刊)がある。本書は左甚五郎の神技を伝えた俗伝に『今昔物語集』、『更級日記』の説話をからませた作品で、甚五郎伝説を小説化した代表作というべきものである。 
出典「高松藩にいた名工左甚五郎」(特集「人物往来」昭34・7)
「日本伝奇伝説大事典」角川書店より引用。

 * 禁裏(きんり);宮中、皇居、御所、禁中、など、みだりにその中に入るのを禁ずる意。
 ** 法橋(ほうきょう);僧位で法眼の次の位、律師に相当する。五位に准ずる。中世・近世には医師・画家などにも与えられた。1873年(明治6)廃止。法印→法眼→法橋
 *** 芝の台徳院廟;芝増上寺に埋葬された、二代将軍秀忠(台徳院)廟のこと。台徳院宝塔は戦災で焼失したため、正室・崇源院(俗に”お江”さんのこと)宝塔(石塔)に合祀されている。整備縮小して一ヶ所に集められ、門より向かって右最奥部にある(通常非公開)。戦災で焼ける前は、日光・東照宮陽明門のような立派な門の内に廟が有った。その門の彫刻などを担当したのでしょう。
 この項、落語「ねずみ」より引用。

 人によっては、左甚五郎はいなかったと言います。複数の人が重なって一人の甚五郎になったとも言います。のちの講談、歌舞伎で一人歩きを始めてしまった人物かも知れません。

(ひだり);官職を左右に分けたときの左方。日本では通常、右より上位とした。「左の大臣(おとど)」。

駿河町の三井(するがちょうのみつい);現在の中央区日本橋室町にある三越本店。
右図:熈代照覧より、駿河町の呉服屋・三井越後屋。

運慶作の恵比寿様(うんけいさく えびすさま);運慶(?ー1223)鎌倉初期の仏師で、日本彫刻史上にもっとも有名な作家。父は定朝(じょうちょう)五代目と称する慶派の康慶(こうけい)。当時は京都に根拠を置く院派、円派が貴族階層の信任を受けて勢力があり、興福寺に所属し、奈良を中心とする慶派は振るわなかったが、運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、その情勢を逆転させるに至った。壮年期には奈良の興福寺の造仏により、仏師としての僧綱位(そうごうい)も法橋(ほっきょう)から法眼(ほうげん)、法印(ほういん)へと上り、晩年には主として鎌倉幕府関係の仕事を手がけるなど、運慶の制作は造仏の盛んだった当時でも例のないほどで、実力もさることながら、人気のほどが察せられる。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、文献上では多いが、確実な遺品として現存するのは奈良円成寺大日如来(だいにちにょらい)像(1176)、静岡願成就院阿弥陀(あみだ)如来・不動・毘沙門天(びしゃもんてん)像(1186)、神奈川浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像(1189)、高野山(こうやさん)不動堂の八大童子像(1197)、奈良興福寺北円堂弥勒(みろく)・無著(むじゃく)・世親(せしん)像(1212ころ)、快慶と合作の東大寺金剛力士像(1203)にすぎない。没年は貞応(じょうおう)2年12月11日と伝える。
  運慶の作風は、康慶に始まる写実主義を推し進め、平安末期の形式化した貴族趣味的な像に対し、男性的な風貌(ふうぼう)、堂々たる体躯(たいく)、深く複雑な衣文(えもん)線、自由な動きをもつ姿態などに特色があり、かつ天平(てんぴょう)以来の彫刻の古典をその作品に総合している。これが当時の武士階級に喜ばれ、幕府をはじめ諸豪族の注文も多かった。彼の子の湛慶(たんけい)、康勝、康弁、および康慶の弟子快慶などが、彼のあとも引き続いて活躍し、鎌倉時代前半の彫刻界は運慶中心の慶派の時代でもあった。彼の作風は関東の彫刻にも大きな足跡を残し、いわゆる鎌倉地方様式も、この運慶様を基としている。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より

 歴史的に時代背景が正しいとすれば、運慶は1200年頃活躍した仏師です。甚五郎は1600年頃の番匠です。400年後に依頼してきたのでしょうか。
呉服店「越後屋」が創業したのが1673年で、伊勢商人・三井家の三井高利が江戸本町一丁目(現在の日本銀行辺り)に、創業。
 運慶作の作品は後年買い求めたとしても、越後屋が甚五郎に直接依頼に来る事は考えられません。

恵比寿様:七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。古くから漁業の神でもあり、後に留守神ともされた。戎さん(えべっさん)と関西では言われる。
右:ヱビスビールのラベルデザインより

 鎌倉時代(1185年頃-1333年)の天才仏師運慶が創った恵比寿像。三井に問い合わせても現存しないとの返事。噺の中の創作物なのでしょう。

神奈川宿(かながわしゅく);東海道五十三次の品川、川崎、そして3番目の宿場。武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった。付近には神奈川湊があった。 神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていった。
落語「宿屋の仇討ち」に神奈川宿を詳しく解説しています。

右上図:「東海道五十三次内 神奈川」広重画。左側の海は埋め立てられて、横浜市の街並みが広がっています。
右下:神奈川宿青木町の大黒屋。右下に本陣石井。その右側に漁師町の表示があります。甚五郎も満足するような魚が揚がったことでしょう。

 歌丸は宿場を神奈川宿にしていますが、 小さんも、また、他の噺家さんも宿は、藤沢宿を舞台にしています。ま、こちらの方が本寸法かも知れません。大名は長州萩の藩主毛利公が通りかかります。小さんは100両で売ります。
 喬太郎は鳴海の大増屋佐兵衛宿でと言っています。大名は同じ毛利公です。
上方では、大津の宿は近江屋佐兵衛という宿屋で、大名は肥後熊本の細川越中守様です。

 本寸法の「藤沢宿」 東海道五十三次 広重より
 藤沢は6番目の宿駅で江ノ島への分岐点、手前に江ノ島弁財天への鳥居が有り、正面山の上に遊行寺が描かれています。藤沢宿は境川に架かった橋を渡った街並みがそうです。現在は橋の手前左側が街の中心で、JR藤沢駅や市役所が有って賑わっています。

本陣(ほんじん);戦国時代以前の日本においては、戦場において大将が位置する本営を指す軍事用語。ここから出た用語で、江戸時代以降の宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿舎の名称。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣があった。

 大名行列を組んで国から江戸に向かっていると(その反対の時も)、本陣は宿泊の時に使うものですから、朝早く噺の宿の前を通って、本陣に入ると言うことは、夜通し歩いて来て宿に入ったとしか考えられません。そんな事は通常考えられません。本陣を出たあとに宿の前を通って竹の水仙を見た後、旅立つのであれば納得です。家来は走って行列に追いつきその話をして、戻って行くのなら分かります。

2両3分3朱(2りょう3ぶ3しゅ);金貨の単位は4進法で、1両=4分、1分=4朱です。宿の勘定書は2両3分3朱でしたから、1朱はチップとして足せば3両になります。5日でこの値段は高すぎますが、酒と浜で上がった高級魚をいただいていたら、寿司屋と同じで時価になったのでしょう。
 現在の貨幣価値に直して、1両は約8万円、1分=2万円、1朱=5000円となるでしょう。また、宿代は通常相部屋で1泊2食付き150~300文(1両=5000文として、1文=16円)、2400~4800円です。300文の部屋に入っても5日で1500文、約10倍の請求ですから、これは高い酒肴代です。
 喬太郎は3両3分2朱ですが、14日分ですから、日に2万2千円位です。
 小さんは3日分の宿賃と酒代が3分3朱だと言います。1朱足すと1両で、現在の価格で8万円。一泊3万円弱。

番匠(ばんじょう);関西で大工のことを言う。中世日本において木造建築に関わった建築工のこと。木工(もく)とも呼ばれ今日の大工の前身にあたる。
 中世の建築工匠。古代の木工(こだくみ)、近世の大工(だいく)にあたる。奈良時代に官営工房に勤務する工匠や雑役労働力を上番匠丁(じょうばんしょうちょう)と称したことに由来するが、古代の番匠は多様な分野の工匠の総称であり、1265年(文永2)の『若狭(わかさ)国惣田数(そうでんすう)帳』にみえる番匠が、木工に限定されるようになった早い用例である。番匠集団は大工(だいこう)、引頭(いんとう)、長(おさ)、連(つれ)の四階層によって作業組織を編成したため、指揮工を意味する大工の語も、中世から番匠の同義語として併用されており、近世には番匠にかわって大工が建築工匠の一般的な呼称となった。
日本大百科全書(ニッポニカ)より

孟宗竹(もうそうだけ、もうそうちく);はアジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種である。種名は冬に母の為に寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなむ。別名江南竹、ワセ竹、モウソウダケ。 日本のタケ類の中で最大で、高さ25mに達するものもある。葉の長さは4~8cmで、竹の大きさの割には小さい。枝先に8枚ほどまで付き、裏面基部にはわずかに毛がある。春に黄葉して新しい葉に入れ替わる。竹の幹は生長を終えると、木と同様に太くなっていくことがない代わりに、枝が毎年枝分かれしながら先へ伸びる。木での年輪の代わりにこの節数を数えるとその竹の年齢を判定できる。年を経ると稈の枝分かれ数が多くなり、葉が増えた結果、稈の頭が下がる。67年に1度花が咲くとされるが、この事を証明する記録はわずか2回しかない。写真:孟宗竹。
 タケノコは4月頃に地下茎から発芽する。このタケノコは大型で肉厚で柔らかく、えぐみが少ないため食用に供される。 稈は物理性が劣るので繊細な細工物の素材としてはマダケに劣るが、花器、ざる、かご、すだれ、箸の他、鉄製品やプラスチック製品が普及するまでは建築材料、農業資材、漁業資材などとして用いられる。

刑部(ぎょうぶ);日本の律令制における役職。
 旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい); 全国有数の上級武家屋敷としての格式を持つ、熊本県指定重要文化財。 細川刑部家(ほそかわぎょうぶけ)(別名長岡刑部家)は細川家三代(肥後藩初代にあたる)忠利(ただとし)公の弟、刑部少輔興孝(ぎょうぶしょうゆうおきたか)が正保3年(1646)に2万5千石を与えられ興したものです。 興孝は延宝6年(1678)に子飼(こかい)にお茶屋をつくり、後に下屋敷とし、その後も造作を続け一門としての格式を整えました。刑部家は代々「刑部」か「図書(ずしょ)」を名乗り、家禄1万石で活躍しました。 明治4年(1871)熊本城に鎮西鎮台(ちんぜいちんだい)が置かれ、城内の武家屋敷は城外に出るよう命令があり、刑部家は子飼に移り下屋敷を本邸としました。 旧細川刑部邸は建坪三百坪(990平方メートル)で、蔵が付属した長屋門(ながやもん)を入ると、唐破風(からはふ)の御玄関、ついで御客間から入側造り(いりかわづくり)の表御書院(おもておんしょいん)、二階建ての「春松閣(しゅんしょうかく)」とつづき、別棟に書斎の付いた茶室「観川亭(かんせんてい)」や御宝蔵(ごほうぞう)などを備え、全国有数の上級武家屋敷としての格式をもっています。 昭和60年(1985)に熊本県指定重要文化財に指定されています。現在の旧細川刑部邸は平成2年から4ヶ年をかけ、子飼から熊本城内三の丸(さんのまる)に移築したものです。
熊本城公式ホームページより。

細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ);細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第三代肥後熊本藩主。熊本藩細川家四代。第二代藩主細川光尚(光利)の長男。 吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。
 旧熊本藩主・細川家第十八代当主の細川護熙(もりひろ)さんは第79代総理大臣経験者です。

越中ふんどしの由来;名前の由来には越中富山の置き薬の景品で全国に普及したことに由来する説や、越中守だった細川忠興が考案者とする説、大阪新町の越中という遊女が考案したとする説など、複数の説がある。 江戸時代にも存在していて、隠居した武士、肉体労働を伴わない医者や神職、僧侶、文化人、商人の間で用いられていた。 越中褌が本格的に普及したのは明治末期頃から。 明治6年(1873)に徴兵令が制定され、徴兵された成人男子に軍隊が官給品として支給し、使用を義務付けたことで一般化するようになった。

竹に花を咲かせると、寿命が縮まる;竹の寿命は種類にもよりますが、数十年~百数十年と言われています。竹は寿命を迎えると稲に似た花を咲かせて枯れます。
オチは、竹に花を咲かせる=寿命が尽きるということに引っ掛けたサゲ。



                                                            2015年11月記

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