落語「竹の水仙」の舞台を行く 桂歌丸の噺、「竹の水仙」(たけのすいせん)
■講談の『左甚五郎伝(ひだりじんごろうでん)』をもとにした落語です。左甚五郎は江戸初期の大工・彫刻師で、日光の『眠り猫』など各地に名品を残しています。謎の多い人物なので、さまざまな逸話が講談で作られ、それが浪曲や落語へと伝わりました。元の噺が講談ですから、各所で矛盾点や場所の設定が違います。これ程大きく違いが出る噺は落語として珍しい事です。
■左甚五郎(ひだりじんごろう);医者黒川道祐が著した『遠碧軒記』には、「左の甚五郎は、狩野永徳の弟子で、北野神社や豊国神社の彫物を制作し、左利きであった」と記されているので、彼が活躍した年代は、1600年をはさんだ前後20~30年間と言うことになります。
落語に登場する左甚五郎は、一本の竹から彫った水仙に水をやると花が開く、「竹の水仙」は有名だが、これは、宿賃もなしに豪遊してしまう、だらしない大酒呑み甚五郎が、宿賃の代わりに彫ったものです。また、落語「ねずみ」、「三井の大黒」、「叩き蟹」にも登場しこの噺のマクラで、飛騨高山の人と言っています。 甚五郎の素姓について、その七世の孫、左光挙は以下のような考鉦をしています。
* 禁裏(きんり);宮中、皇居、御所、禁中、など、みだりにその中に入るのを禁ずる意。
人によっては、左甚五郎はいなかったと言います。複数の人が重なって一人の甚五郎になったとも言います。のちの講談、歌舞伎で一人歩きを始めてしまった人物かも知れません。
■左(ひだり);官職を左右に分けたときの左方。日本では通常、右より上位とした。「左の大臣(おとど)」。
■駿河町の三井(するがちょうのみつい);現在の中央区日本橋室町にある三越本店。
■運慶作の恵比寿様(うんけいさく えびすさま);運慶(?ー1223)鎌倉初期の仏師で、日本彫刻史上にもっとも有名な作家。父は定朝(じょうちょう)五代目と称する慶派の康慶(こうけい)。当時は京都に根拠を置く院派、円派が貴族階層の信任を受けて勢力があり、興福寺に所属し、奈良を中心とする慶派は振るわなかったが、運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、その情勢を逆転させるに至った。壮年期には奈良の興福寺の造仏により、仏師としての僧綱位(そうごうい)も法橋(ほっきょう)から法眼(ほうげん)、法印(ほういん)へと上り、晩年には主として鎌倉幕府関係の仕事を手がけるなど、運慶の制作は造仏の盛んだった当時でも例のないほどで、実力もさることながら、人気のほどが察せられる。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、文献上では多いが、確実な遺品として現存するのは奈良円成寺大日如来(だいにちにょらい)像(1176)、静岡願成就院阿弥陀(あみだ)如来・不動・毘沙門天(びしゃもんてん)像(1186)、神奈川浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像(1189)、高野山(こうやさん)不動堂の八大童子像(1197)、奈良興福寺北円堂弥勒(みろく)・無著(むじゃく)・世親(せしん)像(1212ころ)、快慶と合作の東大寺金剛力士像(1203)にすぎない。没年は貞応(じょうおう)2年12月11日と伝える。
歴史的に時代背景が正しいとすれば、運慶は1200年頃活躍した仏師です。甚五郎は1600年頃の番匠です。400年後に依頼してきたのでしょうか。
恵比寿様:七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。古くから漁業の神でもあり、後に留守神ともされた。戎さん(えべっさん)と関西では言われる。
鎌倉時代(1185年頃-1333年)の天才仏師運慶が創った恵比寿像。三井に問い合わせても現存しないとの返事。噺の中の創作物なのでしょう。
■神奈川宿(かながわしゅく);東海道五十三次の品川、川崎、そして3番目の宿場。武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった。付近には神奈川湊があった。
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていった。
右上図:「東海道五十三次内 神奈川」広重画。左側の海は埋め立てられて、横浜市の街並みが広がっています。
歌丸は宿場を神奈川宿にしていますが、 小さんも、また、他の噺家さんも宿は、藤沢宿を舞台にしています。ま、こちらの方が本寸法かも知れません。大名は長州萩の藩主毛利公が通りかかります。小さんは100両で売ります。
本寸法の「藤沢宿」 東海道五十三次 広重より
■本陣(ほんじん);戦国時代以前の日本においては、戦場において大将が位置する本営を指す軍事用語。ここから出た用語で、江戸時代以降の宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿舎の名称。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣があった。
大名行列を組んで国から江戸に向かっていると(その反対の時も)、本陣は宿泊の時に使うものですから、朝早く噺の宿の前を通って、本陣に入ると言うことは、夜通し歩いて来て宿に入ったとしか考えられません。そんな事は通常考えられません。本陣を出たあとに宿の前を通って竹の水仙を見た後、旅立つのであれば納得です。家来は走って行列に追いつきその話をして、戻って行くのなら分かります。
■2両3分3朱(2りょう3ぶ3しゅ);金貨の単位は4進法で、1両=4分、1分=4朱です。宿の勘定書は2両3分3朱でしたから、1朱はチップとして足せば3両になります。5日でこの値段は高すぎますが、酒と浜で上がった高級魚をいただいていたら、寿司屋と同じで時価になったのでしょう。
■番匠(ばんじょう);関西で大工のことを言う。中世日本において木造建築に関わった建築工のこと。木工(もく)とも呼ばれ今日の大工の前身にあたる。
■孟宗竹(もうそうだけ、もうそうちく);はアジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種である。種名は冬に母の為に寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなむ。別名江南竹、ワセ竹、モウソウダケ。
日本のタケ類の中で最大で、高さ25mに達するものもある。葉の長さは4~8cmで、竹の大きさの割には小さい。枝先に8枚ほどまで付き、裏面基部にはわずかに毛がある。春に黄葉して新しい葉に入れ替わる。竹の幹は生長を終えると、木と同様に太くなっていくことがない代わりに、枝が毎年枝分かれしながら先へ伸びる。木での年輪の代わりにこの節数を数えるとその竹の年齢を判定できる。年を経ると稈の枝分かれ数が多くなり、葉が増えた結果、稈の頭が下がる。67年に1度花が咲くとされるが、この事を証明する記録はわずか2回しかない。写真:孟宗竹。
■刑部(ぎょうぶ);日本の律令制における役職。
■細川越中守(ほそかわえっちゅうのかみ);細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第三代肥後熊本藩主。熊本藩細川家四代。第二代藩主細川光尚(光利)の長男。
吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。
越中ふんどしの由来;名前の由来には越中富山の置き薬の景品で全国に普及したことに由来する説や、越中守だった細川忠興が考案者とする説、大阪新町の越中という遊女が考案したとする説など、複数の説がある。 江戸時代にも存在していて、隠居した武士、肉体労働を伴わない医者や神職、僧侶、文化人、商人の間で用いられていた。 越中褌が本格的に普及したのは明治末期頃から。 明治6年(1873)に徴兵令が制定され、徴兵された成人男子に軍隊が官給品として支給し、使用を義務付けたことで一般化するようになった。
■竹に花を咲かせると、寿命が縮まる;竹の寿命は種類にもよりますが、数十年~百数十年と言われています。竹は寿命を迎えると稲に似た花を咲かせて枯れます。
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