落語「叩き蟹」の舞台を行く 三遊亭円窓の噺、「叩き蟹」(たたきがに)より
■カニ(蟹);熱帯から極地まで、世界中の海に様々な種類が生息し、一部は沿岸域の陸上や淡水域にも生息する。成体の大きさは数mmしかないものから、脚の両端まで3mを超すタカアシガニまで変化に富む。箱形にまとまった頭胸部に5対の歩脚(胸脚)があり、このうち最も前端の1対が鉗脚(かんきゃく:はさみ)となる。触角は2対あるが、どちらもごく短い。腹部は筋肉が発達せず、頭胸部の腹面に折り畳まれる。ただしそれぞれ例外もある。
写真左から、沢ガニ、ワタリガニ、タラバガニ(蟹と言われるがヤドカリの仲間)。
■日本橋(にほんばし);東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋。日本の道路元標があり、日本の道路網の基点となっている。
現在の橋は明治44年(1911)3月、19代目として架橋されたルネサンス様式の石橋二連アーチ橋です。橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一、装飾様式は妻木頼黄、装飾制作は渡辺長男による。親柱に刻まれた「日本橋」、「にほんはし」の文字は最後の将軍徳川慶喜公の筆による。1972年、橋の中央にあった道路元標柱は橋の北側に移され、プレート状の「日本国道路元標」が埋め込まれた。その文字は佐藤栄作元首相の筆になる。同じ物が2枚作られ、一つは橋の中央に、もう一枚は橋の北側に飾られた。
写真上:日本橋南から神田方向を見る。左下:欄干の麒麟。右下:北側から八重洲方向を見る。
熈代照覧より江戸の日本橋北詰。さぁ~、餅屋を探してください。
■左甚五郎(ひだりじんごろう);左甚五郎は江戸初期の大工・彫刻師で、日光の『眠り猫』など各地に名品を残しています。謎の多い人物なので、さまざまな逸話が講談で作られ、それが浪曲や落語へと伝わりました。
■餅屋(もちや);餅を搗(つ)き、それを売る店。16世紀に餅売りという女性の振売りがあった。餅は自家で搗いた。17世紀には餡(あん)餅屋や餅菓子屋が大都市に現れた。多く餅搗きをする餅師の営む店であった。のちには餅搗きを抱えたり雇ったりする店もできた。そこでは一般の需要に応じて賃餅もした。20世紀、明治時代後期になるとおもに餅菓子屋といい、自家製造のほか、菓子問屋から仕入れる純然たる商人もできた。
「団子屋」 三谷一馬画 江戸見世屋図聚より 舞台の餅屋もこの様な風情で有ったのであろう。
■黄金餅(こがねもち);落語「黄金餅」を連想しますが、噺の成立当初は寺社の祭礼などで売られる縁起物の粟餅(あわもち)で、これは餅が黄金色(=黄色)をしていることが由来で、落語とは直接の関係はありません。
■切り餅(きりもち);のし餅を食べよく四角に切った餅。上右写真。
■煙管(きせる);江戸時代に形成されたたばこ文化の特徴のひとつに、「細刻み(ほそきざみ)をきせるで吸う」ことがあげられます。なぜ、葉たばこを細く刻むようになったかは、諸説ありますが、毛髪のように細く刻むという例は、外国には見られません。細刻みの技術の発達につれて、きせるは火皿が小さくなり、持ち運びに便利なように短くなりました。それに加え、金属部分に彫刻をし、羅宇(らう)に蒔絵(まきえ)を施すなど、装飾性が見られるようになりました。雁首(がんくび)と吸い口が金属で、羅宇(らう)には竹を用いた一般的な形の他に全体が金属の「延べ(のべ)きせる」も見られます。また木・陶器・ガラス・石なども素材とされました。
■小半刻(こはんとき);1刻は約2時間で、その半分ですから1時間。その半分の30分は四半刻と言います。この単位が当時の最小時間単位です。
2015年11月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |