落語「叩き蟹」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円窓の噺、「叩き蟹」(たたきがに)より


 

 日本橋の袂にある餅屋に、子供が餅を盗もうとしたところを、そこの主人に取り押さえられてしまった。親が居たら出てくるように言っているが、誰も名乗り出ない。そこに旅人が野次馬の輪の前に出たかったので、親のふりして前に出た。折檻するのは可哀相だと掛け合うことになった。
 子供の話を聞くと、子供の親は大工で、仕事場で怪我をしてそこから毒が入って身体が動かなくなってしまった。おっ母さんは子供を産んで体調崩し寝たっきりになっている。兄弟の中で年上だから近所の使いっ走りをして食いつないでいたが、その仕事もここのところ無かった。水ばかり飲んでいたが、この前を通ると美味しそうなので、つい手が出てしまった。
 「親孝行でも他人の物は盗んではいけないよ」、「分かった」、「おじさんが一緒に謝ってあげよう」。
 「自分の子供は可愛いが、他人の子は憎いか?」、「けじめを付けるんだ」、「だったら、一切れ餅をあげなさい。家に持って帰れば両親は床から出て、手を合わせて感謝するよ。病気が治るかも知れない」、「そんな、坊主みたいな事はヤダね」。「では、私が勘定を払ったらお客だね」、「誰が払ったって客だ」、「では、さっさと持って来い」。
 「自分が食べたくて、手を出したんじゃないから、食べたくない」、「両親と兄弟の分は後で用意する。食べなさい」、子供は3皿食べて、お土産を7皿分包ませて100文になった。しかし、その100文が無かった。そのカタ(担保)に小半刻でカニを彫って、名も告げずに立ち去った。
 駄作だと思って貰い手もいないカニを、主人は煙管で悔し紛れに甲羅を叩いた。つ・つ・つ・・・と横に這っていった。何回やっても這っていく。俺にも叩かせろと行列が出来た。一皿買って一叩き、店は大繁盛。

 2年後、カニを彫った旅人が店にやってきた。百文返して、あのカニは餅屋にあげた。あのときの坊やの消息を聞いた。
 「チョット、お待ち下さい。吉公(よしこう)こっちに来な」、「へ~ぃ・・・、あッ!カニのおじさん」。
 「両親は元気か」、「・・・あの時、餅屋のおじさんが家に見舞いに来てくれたんです」、「私からも、礼を言うぞ」、「行くと、医者にも診せていないというので、診せるとお袋さんは直ぐ治りましたが、お父っつあんの方は手遅れでした・・・。その為、この吉公がここで修行したいと言い出して、今では一人前になって、あっしも楽が出来るようになりました。これも、みんな貴方様のお陰です」。
 「お父っつあんは大工だったよね。どうして後を継がなかったんだい」、「ん、お父っつあんの死に様見ていたから・・・、今、餅屋で修行しているの。おじさん左甚五郎でしょ。お父っつあんが言っていたよ名人だって」、「どの道も同じだよ。魂を込めることだ」、「私の作った『切り餅』と『黄金餅』食べてくれない」、「いいよ。持って来な。これが『黄金餅』か。2年ぶりだな・・・。うん、旨いよ」、「嬉しいな。切り餅も食べてくれないかな。どっさり切ってきたから」、「全部は食べられないから、取りあえず、一切れ。ん・・・、繋がっているぞ。まだ修行が足りないぞ」、「スイマセン。包丁持ってきます」。
 これを聞いていたカニが、横につ・つ・つと這ってきて・・・、
「(両手の指を鋏の形にして)使ってくださいな」。

 



ことば

■カニ(蟹);熱帯から極地まで、世界中の海に様々な種類が生息し、一部は沿岸域の陸上や淡水域にも生息する。成体の大きさは数mmしかないものから、脚の両端まで3mを超すタカアシガニまで変化に富む。箱形にまとまった頭胸部に5対の歩脚(胸脚)があり、このうち最も前端の1対が鉗脚(かんきゃく:はさみ)となる。触角は2対あるが、どちらもごく短い。腹部は筋肉が発達せず、頭胸部の腹面に折り畳まれる。ただしそれぞれ例外もある。
 多くのカニが「横歩き」をするが、ミナミコメツキガニは前歩き、アサヒガニ科やカラッパ科のカニは後ろ歩きをする。クモガニ科とコブシガニ科のカニは七個の節からできている脚の各節が管状で、前後左右へ自由自在に動くことができる。また横歩きしか出来ない種類でも回転で弱らせる(目を回す?)と暫く縦歩きをする。

  

写真左から、沢ガニ、ワタリガニ、タラバガニ(蟹と言われるがヤドカリの仲間)。

日本橋(にほんばし);東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋。日本の道路元標があり、日本の道路網の基点となっている。 現在の橋は明治44年(1911)3月、19代目として架橋されたルネサンス様式の石橋二連アーチ橋です。橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一、装飾様式は妻木頼黄、装飾制作は渡辺長男による。親柱に刻まれた「日本橋」、「にほんはし」の文字は最後の将軍徳川慶喜公の筆による。1972年、橋の中央にあった道路元標柱は橋の北側に移され、プレート状の「日本国道路元標」が埋め込まれた。その文字は佐藤栄作元首相の筆になる。同じ物が2枚作られ、一つは橋の中央に、もう一枚は橋の北側に飾られた。
 路面電車を通すことが決まっていた路面はわずかにアーチを描き、橋脚と橋台は山口県産の名石、側面は真壁石、アーチ部分と道路の表面は稲田石で、内部は、最も荷重のかかる両端がコンクリートで、さほど荷重のかからない中央部分が煉瓦。大正の大震災にも、大戦の戦災にも落橋せず、推定寿命1000年程度。
 1999年に米寿を祝い、国の重要文化財に指定された。

 

写真上:日本橋南から神田方向を見る。左下:欄干の麒麟。右下:北側から八重洲方向を見る。

 熈代照覧より江戸の日本橋北詰。さぁ~、餅屋を探してください。

左甚五郎(ひだりじんごろう);左甚五郎は江戸初期の大工・彫刻師で、日光の『眠り猫』など各地に名品を残しています。謎の多い人物なので、さまざまな逸話が講談で作られ、それが浪曲や落語へと伝わりました。
 前回「竹の水仙」の甚五郎についての詳細を読んでください。

餅屋(もちや);餅を搗(つ)き、それを売る店。16世紀に餅売りという女性の振売りがあった。餅は自家で搗いた。17世紀には餡(あん)餅屋や餅菓子屋が大都市に現れた。多く餅搗きをする餅師の営む店であった。のちには餅搗きを抱えたり雇ったりする店もできた。そこでは一般の需要に応じて賃餅もした。20世紀、明治時代後期になるとおもに餅菓子屋といい、自家製造のほか、菓子問屋から仕入れる純然たる商人もできた。

 「団子屋」 三谷一馬画 江戸見世屋図聚より 舞台の餅屋もこの様な風情で有ったのであろう。

黄金餅(こがねもち);落語「黄金餅」を連想しますが、噺の成立当初は寺社の祭礼などで売られる縁起物の粟餅(あわもち)で、これは餅が黄金色(=黄色)をしていることが由来で、落語とは直接の関係はありません。
 落語では黄金を取り出して餅屋を始めたので、または縁起を担いで黄金餅としたのでしょう。ですから、黄色っぽい色の餅であって、レシピも具体的な内容もありません。
 もち米の品種から来ている餅で、もち米の王様と言われる新潟産の「こがねもち米」は、もち米の6割を占め、もち米の最高級ブランドとして流通しています。餅にした際のコシや伸び、舌触りの滑らかさ、もっちりとした歯ごたえが特徴で、餅に最適の米とされています。煮崩れしにくいことも特徴の一つです。
左下写真:東名高速海老名サービスエリアの黄金餅。

  

切り餅(きりもち);のし餅を食べよく四角に切った餅。上右写真。

煙管(きせる);江戸時代に形成されたたばこ文化の特徴のひとつに、「細刻み(ほそきざみ)をきせるで吸う」ことがあげられます。なぜ、葉たばこを細く刻むようになったかは、諸説ありますが、毛髪のように細く刻むという例は、外国には見られません。細刻みの技術の発達につれて、きせるは火皿が小さくなり、持ち運びに便利なように短くなりました。それに加え、金属部分に彫刻をし、羅宇(らう)に蒔絵(まきえ)を施すなど、装飾性が見られるようになりました。雁首(がんくび)と吸い口が金属で、羅宇(らう)には竹を用いた一般的な形の他に全体が金属の「延べ(のべ)きせる」も見られます。また木・陶器・ガラス・石なども素材とされました。

小半刻(こはんとき);1刻は約2時間で、その半分ですから1時間。その半分の30分は四半刻と言います。この単位が当時の最小時間単位です。



                                                            2015年11月記

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