落語「真田小僧」の舞台を行く 三代目三遊亭金馬の噺、「真田小僧」(さなだこぞう)
■孟母は家を三度転じたり;孟母三遷(もうぼさんせん)。子供の教育のためにはよい環境を選ばなくてはならないという教え。孟子(もうし)の母は初め墓地の近くに住んでいたが、孟子が葬式のまねばかりして遊ぶので市場の近くに越した。すると今度は商人のまねをして遊びまわる。そこで学校のそばに引っ越すと、ようやく礼儀作法のまねごとをするようになった。孟子の母はその地こそ我が子にふさわしいとして居を定めたという、『列女伝・母儀』の故事に基づく。
■永楽通宝(えいらくつうほう);明の永楽帝の時に作られた銭。室町時代に大量に日本に輸入され、江戸時代初期まで流通した。(右写真)
■真田三代記(さなださんだいき);真田昌幸、真田幸村、真田幸泰(通称大助)の真田家三代の興亡を主題とした講談。幕末近くに成立した実録体小説をもとにしており、講談ではなかでも幸村の大坂の役の奮戦が中心となっている。ことに地雷火を仕掛けたり、徳川家康を追い詰める話は有名である。最後に幸村親子は豊臣秀頼を奉じて薩摩へ落ち再起を図ることになる。塙(ばん)団右衛門、後藤又兵衛、木村重成等の〈英雄〉が登場するのも特色の一つである。なお、これらの話から発展して、のち《真田十勇士》《猿飛佐助》の長編講談も生まれている。
「絵本・真田三代記・初編」挿絵 柳水亭種清 編輯;橋本楊洲 画 真田一徳斎子息並びに諸将へ軍法を示す。
■真田 信繁(さなだ のぶしげ);(永禄10年(1567年)一説に永禄13年2月2日(1570年3月8日)とも
~ 慶長20年5月7日(1615年6月3日)
一説に寛永18年(1641年)とも) 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られている。江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込んだ。後世に江戸幕府・諸大名家の各史料にその勇将振りが記録され、それらを基に軍記物や講談や小説、真田三代記などが創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。
■六連銭(ろくれんせん);家紋の一つで六枚の銭を図案化したもの。真田家の家紋として知られる。六文銭。円生は「りくれんせん」と発音していました。
■二つ雁金(ふたつかりがね);雁が2羽飛んでいるのを図案化した家紋。真田家の元の紋。
■カタバミ;カタバミのハート型の葉文様を紋にしたもの。真田小僧の家の紋。日本十大家紋は、藤紋、木瓜紋、桐紋、鷹羽紋、柏紋、茗荷紋、橘紋、蔦紋、沢瀉紋、そして片喰紋。親父さんはお尻が三つ並んだ紋だと言っています。
慶長20年(1615)5月7日、幸村は家康の本陣を三度にわたって強襲するが家康を討ち取ることは出来ず、疲れ切った身体を休めて居るところを越前松平家鉄砲頭・西尾久作(仁左衛門)に討ち取られた。享年四十九。
■天目山(てんもくざん)の戦い;甲州征伐(こうしゅうせいばつ)は、天正10年(1582)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野(こうずけ)へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。真田昌幸がここに駆けつける途上敵に囲まれ絶体絶命に瀕したとき息子・幸村の機転で難を逃れた。
天正10年(1582)3月7日諏訪の新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。
信長は駿河国を経て富士山を遊覧し、4月21日安土に凱旋。
「天目山勝頼討死図」 歌川国綱画 右上の武将が勝頼、その後自刀する。
■成田山(なりたさん);御不動さんで有名な千葉県にある成田山新勝寺。落語「寝床」に詳しい。
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