落語「真田小僧」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「真田小僧」(さなだこぞう)


 

 「氏より育ち」と言って、育て方は難しいものです。「孟母は家を三度転じたり」、と言うように子供のために環境を考え三度も転宅をしたという。

 長屋の一人息子は、何か言いたげに火鉢の灰をかき回している。「外に行って遊んでこい」と言うのを、お茶だそうか、肩揉もうかと殊勝なことを言う。「親孝行したいのなら、黙って外に遊びに行ったらいい」。「行くのには・・・」、「子供はハッキリ言いな」、「小遣いおくんな~」、「ハッキリ言いやがったな~。今日の分は貰ったんだろ」、「もらったから明日の分貸してよ」、「明日になったら小遣い無いだろう」、「明日になったら明後日(あさって)の分借りちゃうもォ」、「明後日になったら」、「しや明後日の分借りてしまうもん」、「ドンドン借りていったら判らなくなるだろう?」、「そこが付け目だ」、「ダメだ」。
 「どうしても呉れないのなら、考えがあるぞ」、「悪さ考えてるな。水溜まりで転んでくるんだろ」、「それはおっ母さんだ。お父っつあんには、植木引っこ抜いちゃう」、「お前だな。若芽摘まんでしまったのは」、「じゃあ~、おっ母さんに貰うからいいや」、「おっ母さんのオアシはお父っつあんが預けてあるんだ。だから『オアシをやるな』と言えば上げないよ」、「そうかなぁ、『言い付けちゃうぞ』と言えば驚いて呉れちゃう」、「それって何だ」、「お父っつあんの居ないとき、おっ母さんの好きな人が来たと言ったら直ぐに呉れちゃう」、「チョットこっちに来い。俺の居ないときに何が有ったんだ」。
 「有ったんだとは甘いな」、「話せば小遣いやる」、「小遣い呉れれば話す。話して、小遣いやらないと言われても、話返せとは言え無い。寄席だって、木戸銭は先に払う」、「1銭やるから話をしろ」、1銭と聞いて不承不承話を始めた、「お父っつあんが成田のお不動様にお詣りに行ったとき、メガネしてステッキ持った人が尋ねてきた。おっ母さんは『家の人が居ないからお上がりなさいよ』と手を取って部屋に上げた」。1銭のキレ場はここまでで、もう2銭呉れたら続きを聞かせると言い、懐から追加を巻き上げて、「おっ母さんは10銭呉れたよ。『表に行って遊んでお出で。しばらく帰って来ちゃダメだよ』と言うから遊びに行っちゃった」、「バカヤロウ。そん時は家に張り付いているんだ」、「直ぐ帰ってきたら、入口の障子が閉まっているんだ。指で穴開けて覗いた。そしたら、布団が引いてあって、その男の人がおっ母さんの・・・、3銭おくれよ」、「やな野郎だな。キレ場作って」、「これからが一番イイところなんだ。3銭呉れたら全部話をするよ」、子供のペースになって3銭出すことになって、「障子を開けると、横町の按摩さんが肩揉んでたんだ。アリガトウ」、と飛んで行ってしまった。

 おかみさんが湯から戻ってきた。6銭ふんだくられた話をしたら、知恵が付いたと言うが、親父は悪知恵だという。
 「同じ知恵でも、真田三代記に出てくる、与三郎という子供は十四歳の時、お父っつあんや家来一堂が危ないときに命を助けた。武田勝頼という人が天目山で討ち死にするとき、信州上田に真田安房守昌幸が助太刀に来る途中で敵の軍勢に取り囲まれてしまった。敵は大勢で味方は少ないし、旅の戦だから兵糧が尽きてしまう。見苦しい死に方をするなら城を枕に討ち死にしようとした時、その子供で与三郎が『父上、これ位で驚くなかれ。願わくば我に永楽通宝の旗を六流れ許してくれたらこの囲みを解いて落ち延びてみましょう』と願った。真田の紋は”二つ雁金”で”六連銭”は敵の松田尾張守の旗印で、息子が敵の旗印を持つのは何か策があろうと許した。この旗を持って大道寺駿河守に夜討ちを仕掛けた。松田尾張守と大道寺駿河守は、敵同士でも仲が良くないと子供心にも判っていた。同士討ちになり、その戦の最中真田軍は信州に落ち延びた。与三郎は真田幸村となって大坂方の軍師になった。このため東軍は散々苦労をすることになったが、最後は策も尽きて薩摩に落ちたと言う」。
 「家のあの子もこの位にはなれるかしら」、「何言ってんだィ」。

 「おっかぁ、見ろよ帰ってきた」、「どこだい?」、「戸袋の陰で耳だけ出して、こっちの話を聞いているんだ」。
 「上がれ」、「ゴメンね。お父っつあん怒っているからイヤだ」、「怒っていないから上がれ」、「怒っているよ。じゃ~、笑ってごらん」、「子供にあやされてるよ」。「さっきの6銭ここに出せ」、「無いよ。講釈聞いてきたから・・・」、「何聞いてきた」、「真田三代記」、「やだよ。今言っていた話だ。長い話だ、覚えているところだけでも言ってみな」、先程話していた真田幸村の武勇伝をスラスラと話してみせた。「良く覚えたな。許してやるから外に行って遊んでこい」、「お父様にお聞きしたい」、「気持ち悪いな。何だ」、「紋てナ~ニ。家のは?」、「紋て言うのは印だ。我が家は”カタバミ”だ」、「六連銭って何あに?」、「銭が3個横に並んで、二列有る。おっかぁ、銭出せ」、銭を並べて六連銭の旗印に並べた。「何だ簡単だ。やらしてみて」、その銭を持って逃げだした。
 「待てマテ、それで講釈聞きに行くのか」、「薩摩芋を買って食べるの」、
「家の真田もサツマに落ちた」。 

 



ことば

孟母は家を三度転じたり;孟母三遷(もうぼさんせん)。子供の教育のためにはよい環境を選ばなくてはならないという教え。孟子(もうし)の母は初め墓地の近くに住んでいたが、孟子が葬式のまねばかりして遊ぶので市場の近くに越した。すると今度は商人のまねをして遊びまわる。そこで学校のそばに引っ越すと、ようやく礼儀作法のまねごとをするようになった。孟子の母はその地こそ我が子にふさわしいとして居を定めたという、『列女伝・母儀』の故事に基づく。

永楽通宝(えいらくつうほう);明の永楽帝の時に作られた銭。室町時代に大量に日本に輸入され、江戸時代初期まで流通した。(右写真)
 永楽通宝は、永楽銭とよばれ、形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は銅製、貨幣価値は1文として通用したが、日本では天正年間以降永楽通宝1枚が鐚銭(びたせん)4文分と等価とされた。慶長13年(1608)には通用禁止令がだされ、やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた。なお、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には銀)に切り替えられていた。一方、日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。

真田三代記(さなださんだいき);真田昌幸、真田幸村、真田幸泰(通称大助)の真田家三代の興亡を主題とした講談。幕末近くに成立した実録体小説をもとにしており、講談ではなかでも幸村の大坂の役の奮戦が中心となっている。ことに地雷火を仕掛けたり、徳川家康を追い詰める話は有名である。最後に幸村親子は豊臣秀頼を奉じて薩摩へ落ち再起を図ることになる。塙(ばん)団右衛門、後藤又兵衛、木村重成等の〈英雄〉が登場するのも特色の一つである。なお、これらの話から発展して、のち《真田十勇士》《猿飛佐助》の長編講談も生まれている。

 「絵本・真田三代記・初編」挿絵 柳水亭種清 編輯;橋本楊洲 画 真田一徳斎子息並びに諸将へ軍法を示す。
早稲田大学図書館蔵

真田 信繁(さなだ のぶしげ);(永禄10年(1567年)一説に永禄13年2月2日(1570年3月8日)とも ~ 慶長20年5月7日(1615年6月3日) 一説に寛永18年(1641年)とも) 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られている。江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込んだ。後世に江戸幕府・諸大名家の各史料にその勇将振りが記録され、それらを基に軍記物や講談や小説、真田三代記などが創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。
 伝説では、元和元年(1615年)5月7日、享年四十九で死去したものとされるが、影武者が何人も居たとの伝承があり、そのため大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたという俗説がある。
 「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」
というわらべ歌が流行したという。当時の人々の心情が流行り歌になったのだろうとも見られる。その為墓所が各地にある。 

六連銭(ろくれんせん);家紋の一つで六枚の銭を図案化したもの。真田家の家紋として知られる。六文銭。円生は「りくれんせん」と発音していました。
右図の紋。

二つ雁金(ふたつかりがね);雁が2羽飛んでいるのを図案化した家紋。真田家の元の紋。

  

カタバミ;カタバミのハート型の葉文様を紋にしたもの。真田小僧の家の紋。日本十大家紋は、藤紋、木瓜紋、桐紋、鷹羽紋、柏紋、茗荷紋、橘紋、蔦紋、沢瀉紋、そして片喰紋。親父さんはお尻が三つ並んだ紋だと言っています。

  


幸村薩摩落ち伝説』 http://sanadasandai.gozaru.jp/itsuwa/yukimura/yukimura-08.htm 

慶長20年(1615)5月7日、幸村は家康の本陣を三度にわたって強襲するが家康を討ち取ることは出来ず、疲れ切った身体を休めて居るところを越前松平家鉄砲頭・西尾久作(仁左衛門)に討ち取られた。享年四十九。
 しかし、幸村は大阪城中では死なず、城の抜け穴を通って脱出、嫡男・大助幸昌とともに豊臣秀頼を護って薩摩藩(鹿児島県)へ落ち延びたという伝説がある。 

天目山(てんもくざん)の戦い;甲州征伐(こうしゅうせいばつ)は、天正10年(1582)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野(こうずけ)へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。真田昌幸がここに駆けつける途上敵に囲まれ絶体絶命に瀕したとき息子・幸村の機転で難を逃れた。

 天正10年(1582)3月7日諏訪の新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。
 3月11日、勝頼一行は天目山の目前にある田野(たの)の地で滝川一益(かずます)軍に対峙する。勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。 しかし、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子・妻・桂林院殿は自害し、長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久兄弟、秋山紀伊守、大熊朝秀らも殉死した。
 これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『小桜韋威鎧』(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた)を着せ、そのあと父子で自刃したという。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、菅田天神社(かんだてんじんしゃ=山梨県甲州市塩山)に納められた(鎧の詳細調査では埋められた形跡は確認されていない)。勝頼父子の首級(しゅきゅう=討ちとった首)は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首(きょうしゅ=斬罪に処せられた人の首を木にかけてさらすこと)された。

 信長は駿河国を経て富士山を遊覧し、4月21日安土に凱旋。
 6月2日織田信長は本能寺で明智光秀に討たれる。武田滅亡から約3ヶ月後の出来事だった。

 「天目山勝頼討死図」 歌川国綱画 右上の武将が勝頼、その後自刀する。

成田山(なりたさん);御不動さんで有名な千葉県にある成田山新勝寺。落語「寝床」に詳しい。



                                                            2015年11月記

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