落語「勉強」の舞台を行く
   

 

 三代目三遊亭金馬の噺、「勉強」(べんきょう、清書無筆)より


 

 学校から帰ってきた子供が机の前で背中を丸くしている。宿題をやっているが、親父が後ろから分からないことがあったら聞きな、と言うが子供は鼻も引っかけない。

 親は長い間生活しているから物事が分かり、子供より先に生まれている。親より子供が先に生まれるのは八頭ばかりだと反撃を喰らった。理屈ばかりでなく、「今やっているのは何だ」、「地理。チリって何だか判る?」、「大好きだ。寒くなると、毎晩チリだ。鯛ちり、鱈ちり、ふぐちり・・・」、「鍋と間違えてる~。だから聞いても駄目なんだ。交通って分かる?」、「何?」、「東海道線、北陸線、東北線、中央線・・・。お父さん知ってるの有る?」、「天保銭に扁桃腺」。「産物を聞いて分かる?」、「北海道が鮭、青森が林檎だ、静岡が蜜柑、浜松がワサビ漬けと鰻だ、名古屋がうどんだ」、「食べる物ばっかり知っている。えらいな、どうして北海道の鮭を知っているの?」、「お弁当のおかずだもの」。
 「歴史聞いて分かる?」、「レキシ(轢死)なら分かるよ。列車にひかれたんだろ」、「昔の人のことだよ」、「それなら分かる。ていこう秀吉だ」、「それは、太閤秀吉だ」、「信長は秀吉の家来だ」、「間違っている。秀吉が信長の家来だよ」、「どっちかが家来だと思っていた」、「他には知っている?」、「徳川家康、武蔵坊弁慶、加藤清正、め組の辰五郎、死んだはずだよお富さん」、「お富さんなんか、歴史に出て来ないよ。算数は?」、「それは何だ」、「算術と言えば分かるかな」、「分かるよ。大晦日の翌日だろ」、「元日と間違えてら~」、「算術とは掛けたり引いたりするんだ」、「あ、車屋だな」、「2と2を足すと4。それが5つ有ると20なんだ」、「そのぐらい分かるよ2と2で4だろ」、「ダメだよ。蟹みたいに指出しちゃ。そのぐらいなら暗算でしなくちゃ」、「そうだよ、安産は大切だ。だから水天宮さんにお詣りするんだ」、「僕のやっているのは分数」、「臭そうな物やってるな」。
 「後は何やってるんだ」、「書き方」、「そんな事まで教えるのか、背中の掻き方」、「字の書き方。百の足と書いてムカデ」、「そうだよ。百の足で百足だよ、50の足と書いてゲジゲジだ」、「足の袋と書いてタビ」、「頭の袋でシャッポ」、「獣偏に瓜で、キツネでしょ」、「獣偏にキウリで、カッパだ。分からない字があったら何でも聞きな。直ぐ作ってやるから」、「泥編にのたくると書いて、ミミズだ。竿編に突っ張ると書いて、船頭だ。掃き溜め編に蹴散らかすと書いて、ニワトリだ」、「デタラメばっかりなんだもん。では木を並べて書くと何て読むの?」、「外行って遊んで来な。・・・それは拍子木だ」、「林だよ」、「そうだよ、拍子木が鳴って、ハヤシ(囃子)になるんだ」、「お芝居と勘違いをしているんだから。では、林の上に木を乗せると?木が三つだよ」、「きが三つだと御神酒(オミキ)だ」、「デタラメばかりで。森だよ」、「上に乗せるんだろ、モリ(蕎麦のモリ)だよ。汁を掛ければカケだよ」。
 「もう聞かないよ。この頃火事が多いんだってね」、「火の用心に気を付けな」、「今、防火週間なんだって、先生が『防火週間、火の用心』と書いて見えるところに張っておきなさいと言われた。方々の家に書いて張ってあるよ。お父さん書いて」、「お前が書け」、「主(あるじ)が書かなくては」、「主で無くても良いよ。ワラジでも良いよ。寝ちゃいな、明日書いとく」、「まだ明るいよ」、「良いから寝ちゃいな」。

 「そこで笑っているのはオッカアだな」、「そんな難しい字を請け合って」、「夜逃げするか。子供を連れて」、「あの子が言っていただろう。方々の家で書いて張ってあるって。湯の帰りに剥がしてきて、家に張ったら」、「そうか、湯に行ってこよう」、と言うことで、湯屋の帰りに一枚剥がして家の門口に張った。
 朝、子供を起こし、「眠いなって言っていないで早く学校に行きな」、「今日は日曜日だ。学校に行ったって誰も居ないよ」、「空いてていいや」。
 「昨日頼んだの、書いておいてくれた?」、「書いたよ。こっちに来い、こっちだ」、「これかい」、「どうだ上手いだろ」、「な~んだ、『ダンサー募集』としてあら~」。

 



ことば

清書無筆(せいしょむひつ);原話初出しは元禄14年(1701)、京都で刊行された、露の五郎兵衛・作「新はなし」の中に載っている「まじなひの札」。ついで、その50年後の宝暦2年(1752)、上方で刊行の笑話本「軽口福徳利」に載っている「疫神の守(やくじんのまもり)」です。
 「まじなひの札」は、ケチでそそっかしい男が、家々の戸口に貼ってある、判読不能の厄病除けのまじない札を見て、自分も欲しくなり、夜中に近くの家から盗み出します。隣人に見せると「これは貸家札だよ」と言われ、へらず口で「それは問題ない。疫病も空家と思って、入ってこないから」。

 宝暦2年の「疫神の守」は「まじなひの札」の改作とみられ、ほとんどそっくりです。実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられます。
その「清書無筆」の概略は、
 無筆の父親、子供の清書を見て、読めないくせに読めるふりをして、いろいろ文句を言っている。そのうち子供に「今風邪が流行っているので、何処の家でも『三株金太郎宿』と書いた紙を表に張っている。これは風邪の神を捕まえた強い人の名前だから、家も書いて張ってくれ」とせがまれた。困った父親は、湯に行った帰りに他所のを剥がして持って帰り、我が家に張っておいた。翌朝息子に「何だ~、『貸家』の札じゃないか」と言われ、「これを貼っておけば、疫病神も空き家だと思って入ってこない」。

 もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われます。 明治27年には二代目小さんによる 類話「無筆の女房」の速記も見られる。また、明治28年の二代目(禽語楼)小さん、明治29年の三代目小さん師弟の、ほとんど同時期の速記が残ります。
 三代目(先代)三遊亭金馬は、昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作し、張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにして、いかにもその時代らしいモダン風俗を取り込んでいました。先代林家三平もこの噺を三代目金馬から教わり、同じ内容で演じていますが、題名は「清書無筆」です。

  二代目小さんの速記が「百花園」に掲載された明治28年は、日清戦争終結と同時に、東京でコレラが大流行の年。もっともこの年ばかりではなく、維新後は約5年おきに猛威を振るっています。さすがに安政のコロリ騒動(1858年(安政5年)から3年にわたり大流行、10万人の死者とも)のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。
右図:上野の両大師で出している護符。玄関に張っておくと、病気の神が来ないと言います。

 江戸時代は寛文3年(1663)、四代将軍家綱の頃、悪い病気が流行して、八百八町をその名のように震え上がらせたのが、当時瘧(おこり)と言った、今のマラリアであった。その時の仏様のお告げは次のようであった。「草藪を焼き払い、ドブさらいをして綺麗な水が流れるようにし、町角の用水桶の水も取り替えて、お薬師さまをお迎えし、どんどんお線香を焚きなさい」。要するにヤブ蚊退治をしたわけで、流行病も間もなく消えるがごとく静まった。300年前の話です。
 江戸は本郷薬師(文京区本郷4-2)の言い伝えより。右写真も

八頭(やつがしら);子芋が分球しないため、親子もろともひとつの塊になるタイプです。小芋が出来ると小芋同士がくっついてゴツゴツの親芋になります。その姿が、頭が八つ固まっているように見えることからヤツガシラと名づけられ、「八頭」や「八つ頭」と書かれます。
 全体に入り組んだ形をしているため、皮を剥くのがとても面倒なサトイモです。ごく僅かに分球した子イモ(孫イモ)ができ、それは「八つ子」と呼ばれています。旬は正月を挟んで寒い時期。

地理(ちり);私は大好きなのですが鍋のことではありません。
 「地理」は、日本の学校で設置されている、「人間の生活に影響を与える地域的、社会的な構造」を学ぶための科目。自然環境や産業環境などを含む環境を学習対象としている。小学校および中学校においては、歴史や公民と並び、社会科の一分野である。高等学校においては、最近は「地理歴史科」という教科の中の一科目となっており、「地理A」「地理B」に細分されている。

交通(こうつう);交通という経済活動は、物を移動する必要性という交通需要とそれを移動させる交通労務の供給の上に成立するとされる。交通は移動の対象から旅客交通と貨物交通に分けられる。旅客交通における交通需要としては、日常的な通勤・通学・通院・ビジネスなどから観光まで様々なものがある。また、交通は移動の場所から陸上交通、水上交通、航空交通に分けられる。
 交通機関は交通の手段・方法として整備された体系を交通機関または交通システムと呼ぶ。交通機関は、人間社会の発達に従って、より高度な手段を提供するように発達してきた。逆に交通機関における技術革新が人間社会の姿を大きく変化させてきた側面もある。

北海道が鮭、青森が林檎だ、静岡が蜜柑、浜松がワサビ漬けと鰻だ、名古屋がうどんだ;どれも食べ物の産地ですが、出荷量から言うと、
野菜:北海道、茨城県、千葉県、以上出荷量3位まで(農林水産省調べ)
ミカン:愛媛県、静岡県、和歌山県、東京都で取り扱う取扱量上位3県(農林水産省調べ)
リンゴ:青森県、長野県、東京都で取り扱う取扱量上位2県(農林水産省調べ)。青森、長野で独占状態。
うどん:生産量では、生うどん香川県、愛知県、埼玉県。茹うどんでは、香川県、埼玉県、東京都。どちらも香川県がダントツ。(全国製麺協同組合連合会調べ)。名古屋はどちらかというと、帯状の”きしめん”です。
:北海道がダントツ1位。2位以下は東北及び北陸各県合わせて、北海道の半分以下です。(独立行政法人水産総合研究センタ-調べ)
:鹿児島県(6838t)、愛知県(4918t)、宮崎県(3167t)までが上位3位。(日本養鰻漁業協同組合連合会調べ)10年以上前からランキングは変わっていません。浜松と言っていると遅れています。
ワサビ漬け:わさび漬けが世に出回り始めたのは、明治22年に東海道線が開通し、静岡駅でお土産品として販売されてからです。 特に昭和23年から30年かけては爆発的な人気を誇り、お土産として全国区になり、「わさび漬けといえば静岡」と言われるようになりました。2位以下不明。

防火週間(ぼうかしゅうかん);春と秋の年二回有って、消防庁は「全国火災予防運動」といいます。春は3月1日から3月7日までの1週間で、秋は11月9日から15日までの1週間です。「全国火災予防運動」の名称が使用されるようになったのは昭和28年(1953)から。1952年は「全国大火撲滅運動」と呼ばれていた。
 1930年3月7日に大日本消防協会により「防火運動」として近畿地方で実施された。「防火運動」の盛況を受けて同年12月1日、関東地方でも「防火デー」として火災予防の啓発活動が実施された。

御神酒(おみき);神や天皇に供える酒の尊称。「みき」を供えたことは、『日本書紀』巻5をはじめ『万葉集』その他の古典に散見する。神酒、御酒(みき)、大神酒(おほみき)などとも記され、「おほ」も「み」も美称を表す接頭語。現在は一般に清酒をこれにあてるが、もとは濁酒で、宮中の新嘗祭(にいなめさい)や伊勢(いせ)神宮の祭祀(さいし)には、古来、白酒(しろき)と黒酒(くろき)が供えられている。黒酒は常山(くさぎ)の灰を入れてつくる。清酒と濁酒を白酒と黒酒にあてることもあり、醴酒(こさけ)(一夜酒(ひとよざけ))も神酒として供えられる。『延喜式(えんぎしき)』では、神酒を醸造するために造酒司(みきづかさ)が置かれていた。
日本大百科全書(ニッポニカ)より
 決して「キ」が三つあるからではありません。本来神様にお供えしたお下がりのお酒を指します。神様に物をお供えしてお参りをすると、神様の霊力がそのお供え物に宿ります。お酒をお供えしてお祭りをすれば、霊力の宿ったお酒、すなわち御神酒になります。これを後から頂けば、神様の霊力が直接体内に入ることになるのです。

武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい);(武藏坊辨慶、生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけであり、『平家物語』では義経郎党として名があるのみで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
上図:「御曹子牛若丸・武蔵坊弁慶」 一鵬斎芳藤画

加藤清正(かとう きよまさ);(永禄5年6月24日(1562年7月25日)~ 慶長16年6月24日(1611年8月2日))安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ) 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。
 朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残るが、本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている。
 かつて「日乗様」「日乗居士」と呼ばれていた清正は、「清正公」「清正神祇」と尊称されるようになって神格化が進み、本妙寺・浄池廟は「せいしょこ(清正公)さん」として、民衆の清正信仰の中心的存在となった。江戸にも清正公が祀られている。

め組の辰五郎(たつごろう);新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800)? - 明治8年(1875)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜の妾となる。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来する。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日)という説もある。
 浅草という繁華で名を売ったこともあり没後は小説・講談・歌舞伎、テレビ番組のキャラクターに至るまで数多くのフィクションの題材とされている。歌舞伎の神明恵和合取組で有名なめ組の喧嘩(文化2年(1805))の当事者め組の辰五郎は別人である。ウィキペディアより

死んだはずだよお富さん;与話情浮名横櫛 切られ与三郎とお富の恋物語。おっとりした若旦那・与三郎は、木更津海岸で美しいお富を見染め、たちまち二人は恋に落ちます。しかしお富は、妾の身。逢引が見つかって与三郎は、身体に34ヵ所の刀傷を受けて海に簀巻きにされ放り出されます。お富は海に身を投げますが、救いあげられ、江戸に売られ、人の世話で何不自由なく暮らします。数年後、身を持ち崩した与三郎が仲間の蝙蝠安とゆすりに行った源氏店で、なんと、お富の家に。互いに死んだと思っていた二人は、再会に驚いて・・・というのが筋書きです。
  木更津を舞台に「切られ与三郎」と「お富」、そして「蝙蝠安」がからむ歌舞伎の名狂言・与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)は、嘉永6年(1853)、江戸中村座で八代目市川団十郎が初演し、大当たりをとりました。 落語「お富与三郎」より



                                                            2015年11月記

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