落語「勉強」の舞台を行く 三代目三遊亭金馬の噺、「勉強」(べんきょう、清書無筆)より
■清書無筆(せいしょむひつ);原話初出しは元禄14年(1701)、京都で刊行された、露の五郎兵衛・作「新はなし」の中に載っている「まじなひの札」。ついで、その50年後の宝暦2年(1752)、上方で刊行の笑話本「軽口福徳利」に載っている「疫神の守(やくじんのまもり)」です。
宝暦2年の「疫神の守」は「まじなひの札」の改作とみられ、ほとんどそっくりです。実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられます。
もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われます。
明治27年には二代目小さんによる 類話「無筆の女房」の速記も見られる。また、明治28年の二代目(禽語楼)小さん、明治29年の三代目小さん師弟の、ほとんど同時期の速記が残ります。
二代目小さんの速記が「百花園」に掲載された明治28年は、日清戦争終結と同時に、東京でコレラが大流行の年。もっともこの年ばかりではなく、維新後は約5年おきに猛威を振るっています。さすがに安政のコロリ騒動(1858年(安政5年)から3年にわたり大流行、10万人の死者とも)のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。
江戸時代は寛文3年(1663)、四代将軍家綱の頃、悪い病気が流行して、八百八町をその名のように震え上がらせたのが、当時瘧(おこり)と言った、今のマラリアであった。その時の仏様のお告げは次のようであった。「草藪を焼き払い、ドブさらいをして綺麗な水が流れるようにし、町角の用水桶の水も取り替えて、お薬師さまをお迎えし、どんどんお線香を焚きなさい」。要するにヤブ蚊退治をしたわけで、流行病も間もなく消えるがごとく静まった。300年前の話です。
■八頭(やつがしら);子芋が分球しないため、親子もろともひとつの塊になるタイプです。小芋が出来ると小芋同士がくっついてゴツゴツの親芋になります。その姿が、頭が八つ固まっているように見えることからヤツガシラと名づけられ、「八頭」や「八つ頭」と書かれます。
■地理(ちり);私は大好きなのですが鍋のことではありません。
■交通(こうつう);交通という経済活動は、物を移動する必要性という交通需要とそれを移動させる交通労務の供給の上に成立するとされる。交通は移動の対象から旅客交通と貨物交通に分けられる。旅客交通における交通需要としては、日常的な通勤・通学・通院・ビジネスなどから観光まで様々なものがある。また、交通は移動の場所から陸上交通、水上交通、航空交通に分けられる。
■北海道が鮭、青森が林檎だ、静岡が蜜柑、浜松がワサビ漬けと鰻だ、名古屋がうどんだ;どれも食べ物の産地ですが、出荷量から言うと、
■防火週間(ぼうかしゅうかん);春と秋の年二回有って、消防庁は「全国火災予防運動」といいます。春は3月1日から3月7日までの1週間で、秋は11月9日から15日までの1週間です。「全国火災予防運動」の名称が使用されるようになったのは昭和28年(1953)から。1952年は「全国大火撲滅運動」と呼ばれていた。
■御神酒(おみき);神や天皇に供える酒の尊称。「みき」を供えたことは、『日本書紀』巻5をはじめ『万葉集』その他の古典に散見する。神酒、御酒(みき)、大神酒(おほみき)などとも記され、「おほ」も「み」も美称を表す接頭語。現在は一般に清酒をこれにあてるが、もとは濁酒で、宮中の新嘗祭(にいなめさい)や伊勢(いせ)神宮の祭祀(さいし)には、古来、白酒(しろき)と黒酒(くろき)が供えられている。黒酒は常山(くさぎ)の灰を入れてつくる。清酒と濁酒を白酒と黒酒にあてることもあり、醴酒(こさけ)(一夜酒(ひとよざけ))も神酒として供えられる。『延喜式(えんぎしき)』では、神酒を醸造するために造酒司(みきづかさ)が置かれていた。
■武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい);(武藏坊辨慶、生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけであり、『平家物語』では義経郎党として名があるのみで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
■加藤清正(かとう きよまさ);(永禄5年6月24日(1562年7月25日)~
慶長16年6月24日(1611年8月2日))安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。別名虎之助(とらのすけ)
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。
■め組の辰五郎(たつごろう);新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800)? - 明治8年(1875)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜の妾となる。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来する。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日)という説もある。
■死んだはずだよお富さん;与話情浮名横櫛 切られ与三郎とお富の恋物語。おっとりした若旦那・与三郎は、木更津海岸で美しいお富を見染め、たちまち二人は恋に落ちます。しかしお富は、妾の身。逢引が見つかって与三郎は、身体に34ヵ所の刀傷を受けて海に簀巻きにされ放り出されます。お富は海に身を投げますが、救いあげられ、江戸に売られ、人の世話で何不自由なく暮らします。数年後、身を持ち崩した与三郎が仲間の蝙蝠安とゆすりに行った源氏店で、なんと、お富の家に。互いに死んだと思っていた二人は、再会に驚いて・・・というのが筋書きです。
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