落語「箒屋娘」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「箒屋娘」(ほうきやむすめ)より


 

 若旦那の部屋を久しぶりに番頭が訪ねた。
 「ご無沙汰をしております。今は何をなさっておりましたか」、「本を読んでいました」、「本を読んでいますと何か良いことでも・・・ありますか?」、「番頭さんのお言葉とも思えません。仁義五常の道が判ります」、「昔の人は上手いこと言いましたな、”論語読みの論語知らず”とな。親に心配掛けるのが一番親不孝だと言います。先日も世間を見なさいと言ったら、物干しに上がって『あ~あ、世間は広い』とおっしゃったようですな。家にばかり居ないで外に出なさい。今日これからです」、「これからですかぁ~」、「今日は天気も良いですから、住吉さんにご参詣申し上げなさい」。
 若旦那のお供をさせるため丁稚の亀吉を呼んで、お弁当を持たせ、百両の金を持たせ、お茶屋にでも上がってドンチャン騒ぎ、全額使い切ってこないと宿りも無くすと脅かした。亀吉は2~3両なら使い切るが百両は出来ないと心配。だが、番頭は足りなければ一千両でも二千両でも後から持ち出すという。7~80人の奉公人に見送られ外に出た。

 住吉街道の道中は賑やかなことです。(賑やかにお囃子が入る)あまりに人出が多いので、「この人達がいなくなるまで、ここで待とう」、「若旦那、そんな事言ってたらいつまで経っても住吉さんには行けません。私に付いて来て下さい」。街道には色々な物売りがいて『雀逃がし』てやって下さい、と声が掛かった。「その雀全部逃がしてやって・・・。ほーら逃げていった。いくらや?これで少しはお金が減った」。乞食が大勢集まって物乞いを始めた。「1文でなく1朱やるから、とんぼ返りをやってごらん。目が見えないといった奴まで目を開けて飛んでいる」。
 天下茶屋を通り越して、住吉さんが近づいてきますと、赤前掛けという茶店がずらーっと並んでいます。呼び込みにつられ亀吉が茶店に入ると、店のおなご衆は、若旦那の器量好しをウワサし合っている。「何でも取りなさい」、「ぼた餅を」、「ぼた餅と言わず、おはぎと言いなさい」、「そのおはぎのぼた餅、幾皿でも・・・。若旦那には美味しいお茶を・・・」。
 床几に腰掛けていると向に、十七八の娘で脂っ気の無い髪をグルグルと巻いて杉の箸で止めて、継ぎ接ぎだらけの着物ですがサラッとした物を着て、尻の切れたわら草履を履いています。ホウキ、ササラ、タワシ、等を下げて道行く人の袖にすがって売っています。「父が長患いで難儀をしています。どうぞお買い求め下さい」、「触るな。これから住吉さんに行くんだ。汚れる」。「父が長患いで難儀をしています」。
 「亀吉、あすこにいる箒屋さんをここに来て貰って・・・。ダメだったらこちらから行くからと、伝えて来て」、「ハイ。・・・今こちらに来てくれます」。「その品物全部買わせていただきます」、「アリガトウございます。早く売れたら、父の看病が出来ます。ありがとうございます」、「亀吉、お金・・・」、「いくらでも」、「3両も、これではお釣りが御座いません」、「お釣りは良いので、お父様に何か・・・」、「父は訳の無いお金を貰いますと、私が叱られますので・・・」、「それでは、ここに私の所と名前を書いておきましたから、ご不審があれば、お使いをお寄越し下さい。直ぐ私が参ります」、「アリガトウございます」、それを見送る若旦那。店を出て娘の後を追います。

 日本橋は長町裏、当時は寂しいところで長屋がズラリと並んでいます。「若旦那帰りましょう。恐い所に入って来ましたな。犬が入って来たら(食べられて)出て来たことが無い、と言う所ですよ」。
 そこにラオ屋が入って来た。煙管を渡してその陰から部屋の中を覗くと、何も無い四畳半。真っ白な髪の痩せ細った父親が煎餅布団にくるまって寝ています。娘は父親の容体を心配しながら売り上げを見せると、3両。「こっちに来なされ」、「はい」。火吹き竹のような腕で、娘の襟元を締め上げ、「人様の物を盗んでまで生きていたくは無いのだ」、「違います」、「1分や2分くれる人はあるだろう。3両もくれる人は居ない」、「ここに書き付けが有ります」、「なになに、大阪船場安土町三丁目木綿問屋相模屋宗兵衛伜宗三郎。そうか間違いは無いだろう。これから行って代金は貰って、残りのお金を返してきなさい」。それを見ていた若旦那、父親も親なら娘も偉いと感心しています。
 ラオ屋が「出来ましたが、真鍮やと思っていたら(金)無垢でんな」、「(若旦那は娘を見て)無垢やナ~」、「ホンマの無垢だすな」、「ホンマの無垢やナ~」、「彫りの顔が良いだすな」、「顔が良いな~」、「目が良いだすな」、「目が良いな~。可愛らしい目」、「旦那、煙管が出来ました」、「亀吉お金を」、「お金ならナンボでも」、「若旦那、駆け出してはいけません」。

 店に帰ってきた。「若旦那様お帰りなさい」、「番頭さん、亀吉は?」、「店に出ております」、「ササラやタワシはお店の人にお土産です。親にはホウキを残りは貴方にあげます」、「アリガトウございます」。
 「私は家内を貰うことにしました」、「それは親御さんもお喜びでしょう。丹波屋さんからお世話になった・・・」、「アレとは違います」、「それでは紀伊國屋さんから・・・」、「それも違います」、「では?」、「長町裏」、「長町裏?」、「十七八で箒屋さんです。お父様は長患いですから引き取って・・・。もし、ダメだというのでしたら死にます」、「チョット待って下さいよ」。亀吉を呼ぶと仔細が判りました。
 旦那様に相談すると、番頭さんに一任するという。しかし、親類が全く承知しません。若旦那は「死んでしまう」の一点張りで、親戚も納得させ、亀吉を連れて長町裏に案内をさせます。
 様子を探りますと、いやぁ~、ご近所で評判のよろしいこと、よろしいこと。「群鶏の一鶴」とでも申しましょ~か、さっそく申し入れましたが「釣り合わないのは不縁の基」と断わられてしまいます。さ~それから、親旦那から番頭、親戚一同いろいろ頼みに行きまして、やっとのことで得心をさせました。さっそくこっちへ引き取りたいと申しましたが「いや、わしはイヤじゃ」と、言うことを聞いてはくれません。それからお医者さまをそれからそれへと遣わしましたが、天命とでも申しましょ~か、可愛い一人娘の身の振り方が定まりまして安心をしたのでございましょ~、あの世へ と旅立ちをいたします。

  忌明け(いみあけ)を待ちまして、いよいよご婚礼。さぁ、お二人の仲はよろしゅ~ございます。やがてご懐妊。十月十日満ちまして玉のよおな男の子が生まれました。
  親旦那も安心をなさいましてご隠居。若旦那が二代目相模屋宗兵衛をお次ぎになりまして、益々繁盛いたしました。という、おめでたい一席でございます。

 



ことば

オチ;現在の噺では、素直な説明で終わりを迎えますが、明治の後半頃までは、ちゃんとオチがありました。
 番頭さんが、堅物の若旦那に遊びに行けと諭す部分で、番頭さんが若旦那に枕絵(春画)を見せる件を仕込んでおきます。婚礼が済んで一夜明けると、嫁が帰ってしまいます。番頭さんが若旦那に夕べどんな事をしたのかと尋ねると、若旦那がこの様にやったと枕絵を指さしたのが、茶臼(女性上位)。「若旦那、最初っからこんな事をしたらあきまへん。相手はほうき屋の娘だす、逆さにしたら帰りまんがな」、と言うオチです。
 江戸から昭和中頃まで、長居をするお客を帰らせるおまじないとして、ほうきを逆さに立てる、またその部分に手拭いを姉さん被りにすると言う俗信があった。このほうきを逆さにすると帰ると言う見立てなのですが、俗信がだんだん廃れて、知られなくなるのと、良い噺なのに、落ちがすごい「バレ噺」なので敬遠され、今回のような形のエンディングになったようです。ほうきそのものが姿を消すとこの俗信も使うことが出来ません。まさか掃除機を逆さまにしても意味が分かりません。円盤形の掃除機をひっくり返しても、亀がひっくり返ったようで、また、足癖の悪い家人が引っかけたように思われるだけです。生活の道具が変わってくると、その俗信もすたれていきます。下駄を投げて天気予報を占うこともなくなりました。

住吉大社(すみよしたいしゃ);大阪市住吉区住吉2-9にある神社。全国に約2,300社ある住吉神社の総本社であるほか、下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の一社。また毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名で、三が日の参拝客数は、毎年200万人を超えます。 別称として「住吉大神宮(すみよしのおおがみのみや)」ともいい、神社で授与される神札には「住吉大神宮」と書かれている。また、地元では「すみよしさん」または「すみよっさん」と呼ばれる。

 

 住吉神社 

1文でなく1朱;江戸中期までは1朱で銭250文です。乞食にしてみれば250倍の貰いですから目の色が変わるのは当然です。1両は4分、1分は4朱。4進法です。1両=銭4000文。

住吉街道(すみよしかいどう);新興都市の大坂と既存都市の堺を結ぶ、住吉参詣を兼ねた道路「住吉街道」として整備された。紀州街道の堺以北の区間はこの住吉街道がほぼそのまま踏襲されている。
 国道26号線で、大坂城下高麗橋または日本橋(大阪市中央区) - 今宮村(大阪市浪速区) - 天下茶屋(大阪市西成区) - 住吉村(大阪市住吉区)=住吉神社をつないでいます。

天下茶屋(てんかじゃや);お茶屋さんの屋号ではなく、現・大阪市西成区に現存する地名で一~三丁目まであります。南海本線・高野線に天下茶屋駅があります。現在ではほぼ全域が住宅地となっており、大阪の典型的な下町のひとつとみなされている。住吉神社は南海線の天下茶屋駅から南3駅で住吉大社駅前にあります。
 この地は、古代には「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の茂った鄙びた土地だった。そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、千利休の師にあたる武野紹鷗だった。以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになった。 天正年間 (1573–92) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。そして三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した関白・豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えた。そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったという。

ぼた餅とおはぎ;もち米とうるち米を混ぜたものを(または単にもち米を)蒸すあるいは炊き、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに餡をまぶした食べ物。米を半分潰すことから「はんごろし」と呼ばれることもある。
 ぼたもち(牡丹餅)とおはぎ(御萩)の関係は諸説あり、
 春のものを「ぼたもち」、秋のものを「おはぎ」とする説。 語源については、それぞれ、「ぼたもち」については牡丹の花に似せてこれを見立てたものであるとする説があり、「おはぎ」については萩の花が咲き乱れている様子に見立てたものであるとする説がある。その上で春のものは「ぼたもち」、秋のものは「おはぎ」と名前が異なっているだけであるとする説がある。
  また、もち米を主とするものが「ぼたもち」、うるち米を主とするものが「おはぎ」であるとする説。餡(小豆餡)を用いたものが「ぼたもち」、きな粉を用いたものが「おはぎ」であるとする説。その他の説では 「ぼたもち」は、ぼたぼたした感じに由来するという説。 『物類称呼』(1775年)では「おはぎ」は「女房詞」であるとする説。等々・・・。
 基本的には同じ物なので、季節や作り方に関係なく「おはぎ」と呼ぶことが多い。

五常(ごじょう);儒教で、人の常に守るべき五つの道徳。
 [白虎通情性]仁・義・礼・智・信。
 [孟子]父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。
 [書経舜典、伝]父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝。

雀逃がし;供養のため、捕らえられた生き物を放してやる放生会(ほうじょうえ)のひとつ。殺生を戒める仏教の教えにより,魚鳥など生きものを放って肉食や殺生を戒める儀式。慈悲の実践を意味する。日本では旧8月15日に行われた京都の石清水八幡宮の放生会が有名で,宮中の節会に準じた。
 落語家さんによっては供養にはならないと言います。それは「大きさによって値段が違い、懐に合ったものをよって買うから」、買われなかった動物は怒ります。似たような噺が東京にも有ります。「後生鰻」です。亀を逃がしても竜宮城には絶対行けません。

ササラ;細かく割った竹を束ねたもの。飯器などを洗うのに用いる。大きな物では、札幌の路面電車が除雪のために走らせるのが、ササラ電車。
右写真:「ささら」

薮入り(やぶいり);かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日。1月16日と7月16日がその日に当たっていた。7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言う。
 藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。また、遠方から出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだ。奉公人達は年の休みはこの休みしかなく、藪入りを楽しみに働いていた。落語「藪入り」にもその情景が描かれている。

赤前掛け(あかまえかけ);赤前垂れ(あかまいだれ)。京阪地方の色茶屋の仲居や、料理屋、旅籠屋の下女などが、昔はみなこの赤い前垂れをしていた。やがて赤前掛けという名詞となった。
右写真:お給仕の赤前掛け

長町裏(ながまちうら);箒屋娘の住んでいる長屋。現在の浪速区日本橋三丁目~五丁目。南海電車難波駅の東側で、紀州街道(堺筋)沿いは宿屋街で、その裏手にあった。当時は亀吉も言う極貧困長屋街。

ラオ屋(らおや);『らう屋』、または『らお屋』とも読む。かつては、羅宇(吸い口と火皿の間にある竹)のヤニ取りやすげ替えを生業とする露天商があって、羅宇屋と呼ばれていた。小型のボイラーから出る蒸気で羅宇を掃除し、その際に鳴る「ピー」という笛にも似た音が特徴的であった。ラオ屋は戦後に急激に数を減らし昭和39年には東京で4軒だけとなった。そして最後の羅宇屋は、浅草寺門前で営業していたが2000年頃に廃業した。が、ここ最近背負子スタイルの羅宇屋で復活している。落語「紫檀楼古木」でラオ屋を説明しています。
 右写真:「ラオ屋」 実際に使われていた物で、たばこと塩の博物館展示品

船場(せんば);大阪市の中央区部、東西をかつての東・西横堀川、北と南を大川および長堀川によって囲まれた東西1km、南北2kmに長い長方形の地。現在は北浜や御堂筋などを含む問屋街・金融街。大阪市の中心業務地区にあたる。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。

安土町三丁目(あづちちょう3ちょうめ);木綿問屋相模屋さんがあるところ。上記船場の一部の町。本町通りの一本北が安土町通り、心斎橋筋の東で、地下鉄本町駅東側。

木綿問屋(もめんどんや);木綿が日本で本格的に栽培されるようになったのは、戦国時代初期(15世紀末期)とされ、本格的な流通市場の形成はそれ以後のことになる。江戸時代に入ると、木綿の生産量の増大とともに庶民の衣料の原料としても用いられるようになり、各地の生産地あるいは消費地に木綿問屋が成立した。江戸時代前期には木綿の生産地または集積地にて生産地の荷主と消費地の注文主との間を仲介して商品の管理を行って口銭や蔵敷料を受け取る荷受問屋が、後期には自己資本にて生産地から木綿糸や織物を仕入れて染色などの加工を行って仲買人や小売商に販売する仕入問屋が発展した。
 大坂には西国各地で生産された木綿を受け入れるために生産国単位の引請問屋と江戸など東国各地に出荷するための江戸積木綿問屋が存在した。大坂の代表的問屋組織は三所綿問屋で、諸国から大坂に流入する実綿、繰綿を荷受けし、また各地の買継問屋に販売し、安永元年(1772)株仲間が成立した。

群鶏の一鶴(ぐんけいのいっかく);多くの人の中で、特にすぐれている者。何のとりえもない人々の中に一人だけ優れた人物が混じっていること。掃き溜めに鶴。



                                                            2016年4月記

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