落語「命」の舞台を行く
   

 

 三升家小勝の噺、「」(いのち)より


 

 昔と違って芸者衆も変わりました。お座敷が掛かると電車で通ってきますので、勤め人と何ら変わりません。自分も稽古を積んで芸者屋の一軒でも持ちたいというのが、今では、スポンサーを見つけてバーを持ちたい、と変わってしまった。稽古は厳しく、口うるさい姉さん方が居たものです。

 「秀丸さん、今何をしているの」、「小説を読んでいます」、「図書館ではないんだから、お客さんのとこを回って、顔を売ってらっしゃい」、「では、行って来ます」。「照菊が見えないが・・・」、「奥で寝間着を縫っています」、「寝間着なんか縫っていないで、皆を追い越すぐらい稽古でもすれば良いが、裁縫なんかしていたらダメだよ。どうしてそんなに針が好きなんだい」、「前に病院勤めしていたとき、外科の看護婦したもんで」。「ただいま」、「花子かい。今まで何処に行ってたんだい」、「踊りの稽古が終わって、汽車を見てたんです。1時間待つと田舎に通じる汽車が来るので待ったたんです。鉄橋から乗り出して見送っていたら、カンザシを汽車の屋根に落としてしまったんです」、「そんな事してたら良い芸者にはなれませんよ」、「ならなくても良いんです。私はカンザシになりたいんです。汽車に乗って家族の所に行きたいんです」。

 「ゴメンよ」、「頭(かしら)じゃないの。珍しいわね。二階に上がって頂戴。婆や、頭の好きな料理を見繕って、私の分と二人前、それからお酒とね・・・」、「しばらくと言ったって、来るたびに小言を言っているからやなんだ。聞きづらいから足が遠のくんだ」、「芸者止めて頭と早く一緒になりたいから、言ってるのよ」。
 「そうだ、一遍聞こうと思ってたことだが、下に居る『留めさん』と『亥のさん』よ。芸者屋に男が居たんじゃ商売がやりにくいと言うだろ。二人も置くなんてど~ゆう事なんだ」、「留めさんは父親の染め物屋を手伝って貰ったとき高い干し場からオッコって、腰を打って動けなかった。家に置いておいたがお父っつあんが亡くなったが、出て行けとも言えないので、ここに置いているのよ。亥のさんは屋根屋の職人で家の台所を直して貰っているときに、落ちて動けなくなったのよ」。
 「ついでだから聞くけど、二の腕に巻いている包帯。ついぞしていないのを見たことが無いが・・・、それはどうしたんだ」、「子供の時分疱瘡をして、バッテンのような傷が付いているの。みっともないから包帯で隠しているの」、「話しをしていたらお酒が冷えちゃった。暖かいのを頂戴」。
 「お姉さん、お座敷が掛かったんですけど・・・」、「頭が来ているんだから、見番ではなく、直に見世に行って身体が悪いからと断って来て」、「ダメだよ。仕事を断わっちゃ。行ってきな。そうそう隠居が将棋をしたいと言っていたので、行ってくるよ」。

 将棋を指していると芸者屋から使いの者が飛んできた。「大変です。姉さんが風呂場で倒れてしまったんです」、隠居に断りを入れて戻ってきたが、医者が言うには脳溢血で事切れているという。部屋に移したが、包帯がビチョビチョで可哀相だから取り替えてあげようと、外してみると。「疱瘡の跡じゃない。彫り物がしてある。『亥之吉命』・・・ん?、亥のさん、これは亥のさんの事じゃないのかぃ」、「頭、スイマセン。4年前まで姉さんと・・・」、「そうかい。俺より先輩だ。何も知らないで罪作りなことしたな」、「いえ、カタワ同然ですから」。「ん?こっちにも彫り物があるよ。命のところは分かるが名前がハッキリ分からないな~。『なに命』なんだろうな」、「頭スイマセン」、「留さんどうしたんだい」、
「それは、亥のさんの3年先輩の私の命で御座います」。

 



ことば

三升家 小勝(みますや こかつ)は、落語家の名跡。当代は八代目。初代から四代目までは三升亭 小勝(みますてい こかつ)と名乗っていたが、五代目の時に亭号を「三升家」と改めた。升の字は舛とも書く。 「三升」とは歌舞伎役者市川團十郎家の定紋(右図)であり(三入子升)、歴代の小勝一門も三升の紋を使用している。初代小勝が七代目市川團十郎と交流があり、三升の紋を借りて「三升亭」の亭号を名乗ったとされるが、近年では紋などは勝手に使ったという説が有力になっている。

・初代三升亭小勝 - (生没年不詳)初めは歌川國八といい木戸芸者とも絵師ともいわれる。初代三遊亭圓生の弟分となり、三遊亭小勝、尾上小勝を経て三升亭小勝となった。7代目團十郎や3代目尾上菊五郎の声色をよくしていた。本名、享年ともに不詳。門下には初代三升家勝次郎、しげ次(後の二代目三遊亭圓生)、小遊(後の二代目竹林亭虎生)、
・二代目小勝、初代瀧川鯉かんらがいた。甥は初代立川善馬。二代目三升亭小勝 - 四代目小勝の養父。本名は富沢常吉。
三代目三升亭小勝 - (みますてい こかつ、1845年4月(弘化2年)4月 - 1921年(大正10年)10月21日)は、江戸出身の落語家。本名は青山 吉松。 二代目瀧川鯉かんの門下で鯉かく、二代目三升亭小勝の門下で小常となり1874~5年頃に三代目小勝を襲名。1887年末頃に一旦引退し新橋で芸者屋を営んでいてそこへ娘が新吉の名で出勤しその新吉がある客との間に出来たのが有島武郎(小説家)と心中した波多野秋子だという(四代目三升亭小勝の息子である伊志井寛の書簡による。)。20年以上ブランクの末、大正の初め頃に70歳を超えて三代目柳家小さんの門で柳家三楽となり再勤したがいくばくも活躍はしなかった。「セルロイドの象」というあだ名があったが由来はわかっていない。
・四代目三升亭小勝 - 通称「狸の小勝」。伊志井寛の父、石井ふく子の祖父、石井希和の曽祖父。元は二代目春風亭柏枝。本名は石井清兵衛。
・五代目三升家小勝 - 歌舞伎役者から様々な職歴(パリ万博随行など)を経て落語協会会長に。著書「私の生い立ち漫談」。元は春風亭柳條。本名は加藤金之助。
 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社より

三代目三升亭小勝?;この音源はポリドール「NHK落語名人選24」(CN6524)より取っています。そのテープによると『三代目』となっていますが、間違いではないでしょうか。
 NHKは1925年(大正14年。翌年に昭和と年号が変わります)に日本で初めて放送業務を開始した。三代目は1921年(大正10年)10月21日に亡くなっているので、音は残せません。また当時はNHKでも生放送で録音技術が未発達の頃で、音は残っていません。
 全く同じ音源で同じポリドールから出ている、 「NHK落語名人選97 六代目 三升家 小勝 ”二人酒・命”」、(右図)では『六代目』となっています。こちらが時代背景からして正しいのではないでしょうか。でも、残念ながら、六代目を生で聞いていませんので、確証は取れません。
 しかし、「糀谷の師匠」と呼ばれていて、遊廓の中に住んでいたと、マクラの中で噺をしていますので、間違いはありません。また、『水道のゴム屋』の音を聞くと同じ人物で、『六代目』小勝に間違い有りません。

 インターネットの世界では、この間違った情報が、正しいかのように大手を振って闊歩しています。ポリドールが出した音を三代目と表記して売り出したため、その後そのまま認知されてしまったものです。ご注意を・・・。

六代目三升家小勝(みますや こかつ、1908年8月3日 - 1971年12月29日);東京出身の落語家。本名、吉田 邦重。生前は落語協会所属。出囃子は『井出の山吹』。通称「右女助の小勝」「糀谷の師匠」。
 1930年3月、叔父の友人「中村さん」の紹介で、曲芸の春本助次郎を通じて八代目桂文楽に入門。文楽の「文」と中村の「中」から一字ずつ取って「桂文中」と名乗り、常磐亭で初高座。1931年3月、「桂文七」で二つ目に昇進する。1936年5月にキングレコード専属となり、最初の吹き込みレコードを発売。このレコードに収録された自作の新作落語『水道のホース屋(のちの『水道のゴム屋』)』がヒットする。1937年(昭和12年)5月、「二代目桂右女助」を襲名、真打昇進。明るくスマートな芸風で、高座でもレコードでも人気を博す。 太平洋戦争中2度応召に遭い、寄席の高座やレコードの吹き込みも中断された。戦後も新作落語を高座にかける一方、古典落語にも力を入れ、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌と並んで「両刀使い」と称された。 1956年3月、「六代目三升家小勝」を襲名。襲名披露興行中の1956年4月、右手にしびれを感じて軽い脳溢血に陥る。東宝演芸場での襲名披露には半分の日程を残して出演できなくなり、落語家として致命傷というべき言語障害に苦しむ。必死のリハビリの末、同年6月に高座復帰するも、右女助時代の気力と体力を取り戻すことはできず、師匠・文楽が1971年12月12日に没してからわずか17日後の同月29日、後を追うようにして死去。享年六三。

芸者(げいしゃ);諸芸をもって、歌舞や三味線などで酒席に興を添えるのを業とする女性。芸妓。男では太鼓持ち。幇間(ホウカン)。男芸者。

姉さん(ねえさん);芸者屋の女主人を呼ぶときの呼称。バーやスナックではママ。料亭や日本旅館では女将(おかみ)と呼ぶ。

カンザシ;【簪】(カミサシ(髪挿)の音便)
 女性が頭髪に挿す装飾品。前に挿すのを前挿、後ろに挿すのを後挿という。種類が多い。日本髪に挿す飾り物

   

 左:カンザシいろいろ。 右:「三十二相 ”しとやかそう”」月岡芳年画 花魁のカンザシは凄い。

(かしら);一群の人の長。統領。特に、鳶(トビ)職・左官などの親方。

疱瘡(ほうそう);天然痘の俗称。または、種痘およびその痕のこと。いもがさ。もがさ。
 種痘が普及するまで、疱瘡はもっとも恐ろしい厄病とされていた。後遺症として痘痕(あばた)が残りやすいので、高知県などでは「どんな器量よしでも厄(疱瘡)が済むまではなんともいえない」といって恐れ、軽く済むように祈願した。沖縄の宮古(みやこ)島では疱瘡前の生児は預かり者だといい、これを経過して初めてわが子になったと伝えている。疱瘡を人生儀礼のごとく扱っている地方もある。
  疱瘡は疱瘡神という厄神(やくじん)のしわざとし、この神を祀(まつ)る習俗も多い。高知県では昭和初期までは、種痘をすると、疱瘡神を祀る吊(つ)り棚をつくり、3~4日間、棘(とげ)のある赤い魚と赤飯を供えた。棚は両端を剣先のように削り、厄神除(よ)けとした。戸口、縁側、便所など、境界を表す場所に吊り、かならず赤い御幣(ごへい)を立てた。赤色呪力(じゅりょく)によって悪霊を追い払うという心意である。1888年(明治21)ごろ喜界島(鹿児島県)に疱瘡の流行したとき、金だらいやブリキ缶などを持ち出し、一斉にホーホーと叫びながらこれらをたたいて村境まで疱瘡神を追って行ったという。江戸時代の紀行文にも、流行時には村境に注連(しめ)をはったり、大きな音をたてて侵入を防いだとあるが、いずれも悪霊を追放する習俗である。
日本大百科全書(ニッポニカ)より

見番(けんばん);芸者屋の取締りをする所。また、芸妓の取次ぎや玉代(ギヨクダイ)の精算などをする所。現在はここで踊りや三味線などの稽古をします。右写真:向島花柳界の見番(向嶋墨堤組合)。

脳溢血(のういっけつ);脳出血。脳の血管が破綻して出血し、脳組織の圧迫・破壊を来す疾患。高血圧・動脈硬化によるものが最も多い。発作的に起り、頭痛・意識消失・悪心・嘔吐・痙攣(ケイレン)などを来し、出血部位により種々の神経症状を呈する。予後は出血の部位・大きさにより異なるが、しばしば半身不随などの後遺症を残す。

二の腕(にのうで);肩と肘(ヒジ)との間。上膊。

亥之吉命(いのすけ いのち);好きな男(女)の名前を二の腕に彫り込んで、普遍の愛を誓い証明した。
 遊郭などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現し起請する手段として、上腕に相手の年の数のほくろを入れたり、「○○命」といった入れ墨を施す「起請彫(きしょうぼり)」と呼ばれた表現方法が流行した。

右図:風俗三十二相『いたそう』 月岡芳年画 東京国立博物館蔵。 二の腕に愛人の名前を彫っています。痛そうですね。


                                                            2016年7月記

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