落語「高砂や」の舞台を行く
   

 

 五代目柳家小さんの噺、「高砂や」(たかさごや)


 

 お仲人さんは二人が上手く行っているときは良いのですが、そうでないと気が疲れます。
 表通りの御大家(たいけ)伊勢屋さんの結婚式に八っつあんはお仲人として招かれた。ご隠居さんの所で、八っつあんの衣装一式を借りたが、おかみさんの分は考えていなかった。その分の衣装も借りたが、あんな水気の無くなったカカアも連れて行くのは心外だとこぼした。「おかみさんだって構わないからで、化粧の一つでもしたらイイ女になるよ」、本当はこんな美人だったらと手に手を取って駆け落ちした仲であった。お仲人は式の最後にご祝儀と言って腹芸を見せなくてはいけない。その祝儀とは謡曲で”高砂や”をやらなくてはならない。八っつあんは全く分からないのでご隠居に謡ってもらった。

 姿勢を正して、白扇を持って、目は目八分と言って鴨居辺りを見るといい。
「♪高砂や この裏船にィ 帆を上げーてェ~~、とな」、「そんな、豚がぜんそくを患ったような」、自分でやってみると、全く声が出ない。「♪(都々逸風に)高砂や・・・」違うというので、もっと伸ばすと「た・か・さ・ご・や~~」それでは、花火になってしまう。もっと力んでやると、ハバカリに行って居るようだとダメがでた。どうしても上手くいかない。泣きが入って「仲人はこれをやらないとダメなのか」、「謡は皆出来るから、その後は御親類につけてもらう」。
 何かコツがあるのだろうと、聞くと「豆腐屋の売り声を真似れば良い」、八っつあん売り声をさんざんやったが謡いに入っていけない。何とか形をつけて、伊勢屋さんに出向いた。

 式の方はおかみさんが付いているので、滞りなく終わった。
 ここで祝儀を出すと言い、「豆腐ぃ~、これは口直しでこれから、♪高砂や この裏船に 帆を上げてェ」、謡にはなっていないが、歌詞は間違えずに出来た。声が掛からないので、何回も同じ所を謡った。「そこは聞きましたので、その次を」、「その先は御親類の方が・・・」、「親類一同不調法で」、「え?ダメなの」。出来ませんからその先を、と言われたので、「高砂や・・・帆を上げて」、「帆を上げっぱなしではイケマセンので」、「帆を下げて~」、「下げてはイケマセン」、「帆を上げて~」、泣き声になってきた。「その先を」、「♪高砂や この裏船に 帆を上げてェ」、「その先を」、泣きが入って、
「助け船ェ~」。

 



ことば

謡曲(ようきょく);おめでたい謡(うたい)として結婚式に欠かせない謡曲「高砂」は、室町時代に能を完成させ、謡曲の神様ともいわれる世阿弥元清の作品です。物語は阿蘇の神主友成が上京の途中に高砂の浦に立ち寄った際、相生の松の精である老人夫婦と出会うところから始まり、夫婦愛、長寿の理想をあらわした謡曲の代表作だといわれています。

謡曲“高砂”

高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐(いでしお)の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住の江に 着きにけり
はや住の江に 着きにけり

四海(しかい)波静かにて 国も治まる時つ風
枝を鳴らさぬ 御代なれや
あひに相生の松こそ めでたかれ
げにや仰ぎても 事も疎(おろ)かやかかる
代に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき
君の恵みぞ ありがたき


  能の高砂
 ワキ・ワキツレ「今を始めの旅衣(タビゴロモ)、今を始めの旅衣、日も行(ユ)く末ぞ久しき。」
 ワキ「そもそもこれは九州阿蘇の宮の神主友成(トモナリ)とはわがことなり、われいまだ都を見ず候ふほどに、この
    たび思ひ立ち都に上り、道すがらの名所をも一見せばやと存じ候。」
 ワキ・ワキツレ「旅衣、末(スエ)遥ばるの都路を、末遥ばるの都路を、けふ思ひ立つ浦の波、舟路のどけき春風
    の、幾日(イクカ)来ぬらん跡末(アトスエ)も。いさ白雲の遥ばると、さしも思ひし播磨潟、高砂の浦に着きにけり、
    高砂の浦に着きにけり。」
 シテ・ツレ「高砂の、松の春風吹き暮れて、尾の上(エ)の鐘も響くなり。」
 ツレ「波は霞の磯隠れ。」
 シテ・ツレ「音こそ汐(シオ)の満ち干(ヒ)なれ。」
 シテ「たれをかも知る人にせん高砂の、松も昔の友ならで。」
 シテ・ツレ「過ぎ来(コ)し世々は白雪の、積もり積もりて老いの鶴の、寝ぐらに残る有明の、春の霜夜の起き居に
    も、松風をのみ聞き慣れて、心を友と菅筵(スガムシロ)の、思ひを述ぶるばかりなり。訪れは、松に言(コト)問ふ
    浦風の、落ち葉衣の袖添へて、木蔭の塵を掻かうよ、木蔭の塵を掻かうよ。所は高砂の、所は高砂の、尾
    の上(エ)の松も年古(フ)りて、老いの波も寄り来るや、木(コ)の下蔭の落ち葉かく、なるまで命ながらへて。な
    ほいつまでか生(イキ)の松、それも久しき名所かな、それも久しき名所かな。」 
(広辞苑)

相生の松(あいおいのまつ);雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。また、黒松と赤松が1つの根から生え出た松のこと。 松は永遠や長寿を象徴することから、相生の松は特に縁結びや和合、長寿の象徴とされる。「相生の松」とよばれる松は日本各地に点在するが、特に兵庫県高砂市の高砂神社の松が有名です。

 現在の高砂市内にある高砂神社の社伝によれば、ひとつの根から雌雄の幹の立ち上がる「相生の松」が境内に生い出でたのは神社開創から間もない頃のことであったが、ある日ここに二神が現われ、「我神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げたところから、相生の霊松および尉(じょう)・姥(うば)の伝承が始まったとする。

 俗謡に「おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」と謡うものがあり、これも『高砂』の尉・姥に結びつけて考えられている。俗説として、「百」は「掃く」、すなわち姥の箒を意味し、「九十九まで」は尉の「熊手」を表すのだという。

仲人(なこうど);かつては「仲人は親も同然」という格言があるほど、仲人の影響力は強いものであったが、人間関係や時代背景の変化とともに仲人を設定する結婚式は減少傾向にあり、さらに平成不況による職場環境の激変(終身雇用体制の崩壊)を背景に1990年代後半を境として激減し、仲人を立てる結婚式は首都圏では1%だけとなり、最も多い九州地方でも10.8%に過ぎなくなった(ゼクシィ調査 2004年9月13日発表)。
 また仲人を立てる場合であっても形だけの仲人を設定するケースが大半である。形だけとは言え、婚約・結納・結婚式(結婚披露宴)などの重要イベントでは臨席と挨拶が求められるので、伝統的なしきたりについて相応の知識を仕入れておくのが一般的である。また婚姻届においては証人となることもある。
ウイキペディアより

 結婚式場は、新郎新婦のいずれか(通常は新郎)の自宅や本家の屋敷などに親族や知人を招いて行われる。日本でもかつては極めて一般的な形式であったが、住宅事情の変化もあって、現在は一部の地方を除いてめったに行われることはない。この噺でも新郎の家で行われた。こうした宴は延々と夜遅くまで続く。地方によっては、2~3日続くことは珍しくはない。そこで、早く二人になりたいため、時間が決められた式場で行われるように簡略化されていった。

 

 結婚式は、民俗学者の柳田國男著の『明治大正史』及び『婚姻の話・定本柳田國男集15』によると、少なくとも幕末から明治初期までの庶民による結婚式は、明治以降に確定した神前式の形式とは同じではなく、自宅を中心とし、婿が嫁方の実家でしばらくの間生活するという「婿入り婚」と呼ばれる形式であったとしている。この際、新婚生活の初日に嫁方の家で祝いの席がもうけられることがあったが、夜の五つ(現在で言うところの21時頃)から行われることが多かったという。同じく柳田によると、江戸時代であっても、同じ村内の者同士が結婚する場合には祝言が行われないか、あるいは簡素なものであったが、村外の者と結婚する例が増えてくるに従って形式が複雑化し、神前式に近いかたちになっていた、と述べる。また、庶民の結婚式の場合は、神職が吟ずる祝詞より、郷土歌や民謡、俗謡を歌うことが多かったとされる。 

目八分(めはちぶ。めはちぶん);目の高さよりやや下がったところ。また、神前や貴人に物を差し上げるとき、その高さにささげ持つこと。 小さんは鴨居の辺りを見るのがイイと言っています。八っつあんは「目九分というと壁の上だな、目十分というと天井で、十一分というと、ひっくり返るな」。



                                                            2015年2月記

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