落語「高砂や」の舞台を行く 五代目柳家小さんの噺、「高砂や」(たかさごや)
謡曲“高砂”高砂や この浦舟に 帆を上げて 四海(しかい)波静かにて 国も治まる時つ風
■相生の松(あいおいのまつ);雌株・雄株の2本の松が寄り添って生え、1つ根から立ち上がるように見えるもの。また、黒松と赤松が1つの根から生え出た松のこと。
松は永遠や長寿を象徴することから、相生の松は特に縁結びや和合、長寿の象徴とされる。「相生の松」とよばれる松は日本各地に点在するが、特に兵庫県高砂市の高砂神社の松が有名です。
現在の高砂市内にある高砂神社の社伝によれば、ひとつの根から雌雄の幹の立ち上がる「相生の松」が境内に生い出でたのは神社開創から間もない頃のことであったが、ある日ここに二神が現われ、「我神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げたところから、相生の霊松および尉(じょう)・姥(うば)の伝承が始まったとする。
俗謡に「おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」と謡うものがあり、これも『高砂』の尉・姥に結びつけて考えられている。俗説として、「百」は「掃く」、すなわち姥の箒を意味し、「九十九まで」は尉の「熊手」を表すのだという。
■仲人(なこうど);かつては「仲人は親も同然」という格言があるほど、仲人の影響力は強いものであったが、人間関係や時代背景の変化とともに仲人を設定する結婚式は減少傾向にあり、さらに平成不況による職場環境の激変(終身雇用体制の崩壊)を背景に1990年代後半を境として激減し、仲人を立てる結婚式は首都圏では1%だけとなり、最も多い九州地方でも10.8%に過ぎなくなった(ゼクシィ調査 2004年9月13日発表)。
結婚式場は、新郎新婦のいずれか(通常は新郎)の自宅や本家の屋敷などに親族や知人を招いて行われる。日本でもかつては極めて一般的な形式であったが、住宅事情の変化もあって、現在は一部の地方を除いてめったに行われることはない。この噺でも新郎の家で行われた。こうした宴は延々と夜遅くまで続く。地方によっては、2~3日続くことは珍しくはない。そこで、早く二人になりたいため、時間が決められた式場で行われるように簡略化されていった。
結婚式は、民俗学者の柳田國男著の『明治大正史』及び『婚姻の話・定本柳田國男集15』によると、少なくとも幕末から明治初期までの庶民による結婚式は、明治以降に確定した神前式の形式とは同じではなく、自宅を中心とし、婿が嫁方の実家でしばらくの間生活するという「婿入り婚」と呼ばれる形式であったとしている。この際、新婚生活の初日に嫁方の家で祝いの席がもうけられることがあったが、夜の五つ(現在で言うところの21時頃)から行われることが多かったという。同じく柳田によると、江戸時代であっても、同じ村内の者同士が結婚する場合には祝言が行われないか、あるいは簡素なものであったが、村外の者と結婚する例が増えてくるに従って形式が複雑化し、神前式に近いかたちになっていた、と述べる。また、庶民の結婚式の場合は、神職が吟ずる祝詞より、郷土歌や民謡、俗謡を歌うことが多かったとされる。
■目八分(めはちぶ。めはちぶん);目の高さよりやや下がったところ。また、神前や貴人に物を差し上げるとき、その高さにささげ持つこと。
小さんは鴨居の辺りを見るのがイイと言っています。八っつあんは「目九分というと壁の上だな、目十分というと天井で、十一分というと、ひっくり返るな」。
2015年2月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |