落語「一眼国」の舞台を行く
   

 

 林家彦六の噺、「一眼国」(いちがんこく)


 

 昔は本所の方に見世物小屋が多く有った。ここを向両国と言い、回向院を中心に見世物小屋がビッシリ並んでいた。木戸銭だけ取ればあとは関係ないと言う見世が多かった。「歯が二つで、眼が三つだ」、入ってみると下駄が置いてあった。「八間の大灯籠、八間の大灯籠」と言うからどんなに立派な灯籠かと入ると、こちらへと言って裏口に放り出してしまう。「表から裏まで八間で『通ろう、通ろう』」と追い出される。こんな所を歩いていると銭を無くしてしまう。

 六部を家に呼んで、香具師が「日本国中歩いているから、珍しい話や奇妙な話を聞いたり見たりした事があるだろう。それを教えて欲しい。バカバカしい見世物ではお客が離れていく。ヘビが双頭で生きているのや、ニワトリの足が8本あったとか、アヒルの首が逆に付いているのは無いか」、「さようですね。私は存じ上げません」、「食事をご馳走するから」、「でも、分かりませんね」、「お前さんは正直すぎるよ。何日も逗留しても良いし、食事も出すのに。せっかく呼び込んだのだから、この食事だけでもして下さい」、「それではいただきます」。バカ正直はいけねぇ、人から聞いたがとか、こんな話しが有るとか、言ってくれたら、それが糸口になって話が広がるのに、とぼそくさボヤいていた。
 「食事をしながら考えていたら、奇妙な話を思いだしました。一度だけおっかないことに出合いました。私の出合ったのは一つ目です」、「それって、生きているんだろう。何処で」、「正確な住所は分かりませんが、江戸から北に120~30里行った所に大きな原があって、暗くなり始めたが人家も無く宿を探すにも何も無い。野宿かと心細くなりました。原の中央に大きな榎木がありまして、鐘の音が聞こえると、生暖かい風が吹いてきて『おじさん、おじさん』と言う声が聞こえました。嬉しかったですね、子供がいれば近くに人家があります。その子供は4~5歳ぐらいの女の子、のっぺらぼうで額の中央に眼が一つ。その子が手招きをしている。恐ろしさの余り、後も振り返らず逃げてきたが、この時の怖さが一番恐かった」。話を聞いて驚いた。聞き返して、大喜びの太夫さん、大当たりを取って大金持ちになるだろうと、六部に感謝、送り帰した。

 その日の内に用意して出掛けた。広い原に出ると榎木が一本生えていた。半信半疑で榎木に近づくと「おじさん、おじさん」と呼ぶ声が聞こえた。見ると話に聞いた一つ目だった。太夫さん、子供を小脇に抱きかかえて逃げだそうとしたら、子供はビックリして悲鳴を上げた。口を押さえたがもう遅かった。
 ボラがなり、早鐘が撞かれて、大勢の人が出てきたが、多勢に無勢捕まって代官所に連れて行かれた。お白州に引き出されよく見ると役人達は皆、一つ目であった。追いかけられた大勢の百姓達も同じように一つ目であった。
 「一つ目の国に迷い込んだようだが、こんなに大勢の人は要らない。一人でイイのだが」、奉行のお調べになった、「拐(かどわ)かしの罪は重いぞ。面(おもて)を上げい。御同役ご覧なさい。不思議だ、こやつ二つ目だ。調べは後回しだ。早速見世物小屋に出せ」。

 



ことば

東両国(ひがしりょうごく);隅田川に架かる両国橋の東詰め(墨田区両国)。東両国広小路(向両国)といいます。西側を西両国広小路(中央区東日本橋)と言い、東側より広く賑やかであったので、単に両国広小路と言った。錦絵は花火の上がる両国橋から東両国を見ています。高さがある見世物小屋や回向院の屋根が見えます。国貞画 江戸東京博物館蔵。

回向院(えこういん);墨田区両国2-8。明暦3年(1657)に開かれた浄土宗の寺院です。(上写真:山門)
 江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
 地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として賑をきわめました。 そして江戸後期になると勧進相撲の定場所がここに定められ、明治末期までの七十六年間、“回向院相撲”を築いた。

六部(ろくぶ);「六十六部」の略。法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。室町時代に始まるという。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者。

「六十六部」 明治中期 バックの橋は日光・神橋 「古い写真館」朝日新聞社 落語「花見の仇討ち」より

香具師(やし);祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露天で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。明治以降においては、露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする人を指し、的屋(てきや))とも呼ばれる。

江戸から北に120~30里;1里は約4km。江戸から480~520km。ざっと青森近辺になります。それは遠いが、今まで一眼国の噂すら聞いたことが無い。

榎木(えのき);雌雄同株で、高さは20m以上、幹の直径は1m以上になる。枝が多く、枝ぶりは曲がりくねっている。根元で数本に別れていることもある。樹皮は灰黒褐色。直径5~6mmの球形の果実をつける。熟すと橙褐色になり、味は甘く食べられる。江戸時代には1里塚には良く目印に植えられた。右写真:榎木。

太夫さん(たゆう);見世物小屋の主人。主役。一座の座元のこと。

代官所(だいかんしょ);江戸時代に江戸幕府直轄の領地(支配所、天領)に設置され、代官が派遣されて統治を行う役所のこと。江戸時代においては、幕藩体制が確立していたこともあり、代官所の規模はその支配地域と比べて比較的小さかった。幕末の五条代官所(南大和7万石)では、代官1人、幕臣の手付3人、お抱えの手代10人(士分)しかいなかったという(他に下働きの足軽、中間はいる)。また、在地の有力者を代官に任命する場合は、専用の代官所は設置せず代官の居宅を代官所として使用し、代官の補佐役も家族や使用人など在地の者が兼任した。
 幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲であることが多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年-1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという。



                                                            2015年3月記

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