落語「猫の恩返し」の舞台を行く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「猫の恩返し」(ねこのおんがえし)より。別名「猫塚の由来」


 

 八丁堀に棒手振りの魚屋金さんがいました。それが、友達の付き合いで博打に手を出して買い出しの金三両を取られてしまった。金さんの道楽は酒と猫が大好きで飼っていた。博打でとられて、やけ酒を猫の”コマ”と呑んでいた。「コマよ、正月二日の買い出しの金を三両取られてしまったんだ。『猫に小判』と言うこともあるから、三両何とかしてくれよ」。と言いながら寝てしまった。
 大晦日の晩ですから、周りは明るく、のどが渇いたので水瓶の水を飲んだ。「『酔い醒めの水千両と値が決まり』と言うように、旨い水だ」。寝床に戻ってみると小判が三枚置いてある。夜の明けるのを待って外に出ると、伊勢屋という質両替屋の番頭に小判を崩して貰って、湯に行って、酒を一升買って帰ってきた。

 「コマ、お前がこの小判持って来たんじゃないか。『ニヤオ~』と返事をしてやがら。恩にきるよ。これで買い出しに行けるんだ」。元日の酒を飲みながら、「助かったけれどよ~。三両くわえてくるなら、もう少しくわえて来いやぃ。金に困っていない家から持って来いや・・・。ウソだよ、そんな無理なことは言わないよ」、と寝てしまった。

 翌日の正月二日、正月から値切られるのはいやだから、金さんは仕入れた魚を掘留の戌亥(いぬい)という大店に持っていった。番頭が浮かない顔をしているので聞くと、「猫は恐いから飼わない方が良い」、「そんなことは無いですが・・・」、「大晦日の晩に三両が無くなったんだよ。店の者は知らないし、旦那は三両ぐらい良いと言っていたが・・・、元日の夜中ガタガタ音がするので、見に行ったら、用箪笥の鐶(かん)を口にくわえて大きな猫が引っ張っているんだ。錠がかっているから開かないだろう。で、ガタガタやっていたんだな。前の三両を盗んだのもあの猫だと思うから、店の者を起こして棒で叩いて殺しちゃったんだ」。

 「殺す気は無かったが、しょうが無いよな。旦那は回向院に葬ってやれと言われたので、これから行くところなんだよ、春早々からね~」、「見せてください。この猫ですか?」、「そうだよ。泥棒猫だよ。用箪笥に取り付くんだから・・・」、「オッ、コマッ。情けね~姿になって。これは私の猫です。番頭さん、博打で三両取られ買い出しにも行けなかったが、この猫が三両持って来てくれたんだッ。それで仕入れも出来たんだ」。
 旦那に言うと感心な猫だと、5両を持たされ回向院に行って、葬ってやった。そのコマのお墓は鼠小僧の隣に建てられたという。
 それからの金さんは酒も博奕もやめて一生懸命仕事に精を出すようになった。やがて大きな店をかまえたが、その店のことを誰いうとなく「猫金、猫金」と呼ぶようになって繁昌し、明治まで続いたとのこと。両国回向院に残っている猫塚の一席でした。  

 

 



ことば

藤岡屋日記(ふじおかやにっき);江戸時代末期の江戸を中心とした事件や噂などを須藤(藤岡屋)由蔵が、詳細に記録した編年体日記をまとめたもの。全152巻150冊。採録時期は文化元年(1804年)から明治元年(1868年)までの65年間に及ぶ。日記原本は、関東大震災で焼失した。
 藤岡屋由蔵は上野国藤岡出身で江戸へ赴き人足となった後、神田の御成道(おなりみち、現在の秋葉原周辺)で路上に筵を敷き、露天で古書店(貸本屋とも)を始める一方、江戸市中の事件や噂・落書などの記録に精を出し、それらの情報を諸藩の記録方や留守居役に提供して、閲覧料で生計を立てる情報屋のはしりとなった。そのため「御記録本屋」の異名を取ったという。
 『藤岡屋日記』は、大名旗本の屋敷替えや町触、幕政の記録、火災・飢饉などの被害状況(特に安政大地震は詳しい)、出開帳・芝居・見せ物などの評判、町民の噂、錦絵・瓦版などの出版物やその統制、殺人・強盗・喧嘩などの事件、さらには幕末期の軍事行動にいたるまで、江戸住民や出入りの武士などから集めた情報を詳細に記録しており、同時代を研究する上での貴重な史料となっている(ただ、桜田門外の変については一切記録がない。これは最初から記録されてなかったのか、現代に伝わるまでに散逸したのか定かでない)。藤岡屋由蔵はこれらの情報を各藩の江戸詰の武士などに有料で売買しており、情報屋の元祖とも言われる。

両国回向院;東京都墨田区両国二丁目8番にある寺。山号は諸宗山無縁寺回向院。墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。
 あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数ある。
 1768年(明和5年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。

回向院の「猫の恩返し」説明板によると、
 猫を大変かわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてきて、魚屋を助けます。
 ある日、猫は姿を消して戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋と共にその遺体を回向院に葬りました。
 江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。    墨田区

 猫塚は盗賊鼠小僧の墓の隣にあります。過日は、直に土の上に墓が置かれていたので、鼠小僧の墓と間違えられ、頭の部分は削られ小さくなってしまいました。今ではご覧のようにガラスケースの中に収まっていますので、安心です。施主名が「細川」と線香立てに彫られています。落語「猫定」に過去の猫塚の写真があります。

  

 左、猫塚。 右、鼠小僧次郎吉の墓。手前の白い墓石を削ってその粉を持っていると勝負事に勝てると言われます。この墓石の向かって左側に、猫塚があります。

八丁堀(はっちょうぼり);東京都中央区の地名で、旧京橋区にあたる地域内。現行行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目。江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年幕府によって、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになった。時代劇で同心が自分達を“八丁堀”と称したのはこれにちなむ。

棒手振り(ぼてふり);振売・振り売り・振売り(ふりうり)。近世までの日本で盛んに行われていた商業の一形態。ざる、木桶、木箱、半台、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで商品またはサービスを売り歩く様からこう呼ばれる。ぼてふり(棒手売)、におなじ。
 右図:「江戸の魚屋」三谷一馬画。江戸の棒手振りは前後に半台(はんだい)を下げて活きよい良くやって来ました。

猫に小判;貴重なものを与えても何の反応もないことのたとえ。転じて、価値のあるものでも持つ人によって何の役にも立たないことにいう。豚に真珠。

大晦日の晩(おおみそかの ばん);明日は元日という前の晩です。江戸時代の時間の感覚は朝、日が昇って初めて日にちが変わります。暗い内は前の日で、現在では元日になっていても、日が出るまでは前日の夜です。

水瓶の水(みずがめのみず);炊事、飲用水は瓶に水を溜めておいて、ひしゃくでくみ出して使います。毎回井戸まで出向くことはありません。
 右写真:長屋の入り口に置かれた、水瓶。左側の蓋の下にある手桶に井戸からの水をこの水瓶に入れておくのです。深川江戸資料館展示。

酔い醒めの水千両と値が決まり;酔い醒めの水は甘露の味。酔いざめの渇きに飲む水の味のうまいことをいう。

質両替屋(しちりょうがえや);質屋を兼ねた両替および金融を主な業務とする商店あるいは商人のこと。 外貨両替、金融などを扱う両替商が多く存在した。現代では主に、空港などで外貨の両替を行う店舗および窓口を指す。 江戸時代は貨幣は三貨制度で有ったので、金貨・銀貨・銭の交換にはその時点での交換比率で交換された。
 元禄13年(1700)に「金一両=銀六十匁=銭四貫文(4000文)」と改訂し、貢納金などに対してはこの換算率が用いられたが、一般の商取引では市場経済にゆだね、金一両、銀一匁および銭一文は互いに変動相場で取引されるのが実態であった。 交換には1~2%の手数料が掛かった。

用箪笥(ようだんす);身の回りの小物を入れておく小型のたんす。手箪笥。手近に置いて、手まわりのこまごました物を入れる小形の箪笥。洋箪笥とは違います。
右図:右側の茶箪笥より小さい仙台箪笥。製造元のホームページより。

(かん);金属製の輪。箪笥(タンス)の引き手、茶釜の取っ手、蚊帳の四隅の輪など。
 上図の引き手。通常両手で引くので、片側だけ引いたのでは、カギが有ってもなかなか開きません。

鼠小僧(ねずみこぞう);彼は義賊でもなんでもなかった、と言うのが今や通説です。
  残された罪状記録を見ると、ネズミ小僧こと無宿の次郎吉は芝居の中村座で木戸番をしていた貞治郎のせがれで、建具職人に弟子奉公をしたり、鳶の人足をしているうちに小遣い銭が欲しくなり、盗みを働く様になった。金銭の保管も戸締まりも用心深い町屋に比べ、武家屋敷は外回りこそ厳重に戸締まりしているけれど、塀を乗り越えてしまえば案外手薄だというので、もっぱら大名や旗本の屋敷の奥をねらった。鳶で鍛えた軽快な身のこなしが、ここで役に立っ ていた。
  諸説有るが、忍び入った回数は100回以上、盗んだ金は3000両あまり。そのほとんどを酒食遊興と博打に使い果たした。一度捕らえられ入れ墨の上、追放になったが入れ墨を消して、10年におよんで盗みを続けた。
  逮捕後、小塚原の刑場で獄門となった。南千住の回向院に胴体の墓があり、両国回向院に立派な墓(首塚)が有る。没年37歳、諸説あるが、墓には天保二年八月十八日 俗名中村次良吉(次郎吉の郎と良が違う) 「教覚速善居士」と彫られている。この墓石を削ってお守りにすると賭け事に勝てるという。その為、奥の本当の墓石の前に、削られて角の丸くなった、削っても良い墓石と削るための小石が置いてある。
  その年早くも、講談「鼠小僧次郎吉略来」で、もう義賊的な話になっていた。また、歌舞伎にも義賊として取り上げられ、人気になった。人気になったのは、鼠小僧では無く、お芝居の方です。

三両(3りょう)江戸時代の金貨幣の単位。1両=4分、1分=4朱。四進法です。3両は1両(小判一枚)の3倍(小判三枚)。現代の貨幣価値にしておおよそ1両=8万円です。
 右写真:慶長小判裏表。江戸東京博物館蔵。

猫の恩返し  文化十三年(1816)の晩春のことである。
  神田川のほとりに、福島屋清右衛門という魚屋が住んでいた。女房は、おいくといった。商売は繁盛していたが、商売道具や家財道具を鼠にかじられる被害に悩んでいた。そこで、猫を飼うことにした。”きじ”と名づけ、夫婦ともども我が子のように可愛がり、毎日、ウナギやカツオブシを食べさせるほどだった。
 女房のおいくは猫の背中をなでさすり、「これ、きじや、おまえは畜類といえども、人の言葉はわかるであろう。あたしらは鼠に困っている。一匹残らず、鼠を退治しておくれよ」と、言い聞かせた。
 きじは夫婦の願いがわかったのか、一匹、二匹と鼠を捕らえるようになった。そうするうち、清右衛門は持病が急に悪化して、寝付いてしまった。魚屋商売もできない。
 おいくは、きじに言い聞かせた。「亭主が病気で商いもできず、もう、おまえにウナギもカツオブシも食べさせてあげることはできないよ。不憫だけど、どこへでも行くがいい」、きじは意味がわかったのか、小さくニャアと鳴いた。まるで、名残を惜しむかのようだった。その晩から、きじの姿が消えた。
 おいくは、病床の亭主にいきさつを述べ、 「きじの行方が知れません」と、告げた清右衛門もしみじみと言った。
 「猫もちゃんとわかるものだな」そのまま、数日が過ぎた。ひょっこり、きじが戻ってきた。
 よく見ると、口に小判を一枚くわえているではないか。きじは夫婦の前に小判を置くと、まるで挨拶をするかのようにニャアと鳴き、しきりに尻尾を振った。夫婦は驚いた。これは他人の金だとは思ったものの、貧窮していたことから、つい小判を両替して、そのうちの二朱を生活費に使ってしまった。
 その夜、ふたたびきじの姿が消えた。
 翌日、隣町の伊勢屋という商家にきじが入り込み、帳場に置いてあった小判一枚をくわえて逃げようとした。それを見た奉公人が、「この畜生め。きのうの小判も、この猫が盗んだに違いない」と、叫んで追いかける。ほかの奉公人も集まってきじをつかまえ、よってたかって殴り殺してしまった。
 やがて、福島屋の猫が伊勢屋でぶち殺されたという噂が清右衛門の耳に届いた。これで、きじが伊勢屋から小判を盗んできたことを知った清右衛門は、病を押して隣町を訪ねた。番頭に面会するや、「小判を盗もうとしたのは、あたくしどもの猫に違いございません。じつは、さきに猫が持ち出した小判のうち、二朱は使ってしまいました。病気が治って働けるようになりましたら、必ず二朱はお返しします」と、使い残しの三分二朱を返却した。
 あとで、番頭からいきさつを聞いた伊勢屋の主人は驚き、また感銘を受けた。 「さてさて、そのきじという猫は畜生といえども、可愛がってくれた夫婦の恩を感じ、夫婦が困っているのを見て恩返しをしたのであろう。非業の死を遂げたのは不憫である」。そして、あらためて番頭に命じて、きじが盗もうとした小判と、清右衛門が返却してきた三分二朱を持って福島屋に行き、伝えさせた。 「知らなかったとはいえ、そこもとの猫を殺してしまいました。なにぶんご了見ください。きょうはお詫びにまいりました。この一両はそこもとの見舞いでございます。ご持参いただいた三分二朱もお返ししますので、これで猫を葬ってやってください」。
 その後、両国の回向院に猫の墓が建立された。

 (筆者永井義男曰く)  石塚豊介子編『街談文々集要』に拠った。 『藤岡屋日記』や『宮川舎漫筆』にも同工異曲の話が記載されている。
 文化十三年の春というのは同じなのだが、『藤岡屋日記』では関係者は深川に住む時田喜三郎とその飼い猫、出入りの利兵衛という魚屋という設定になっている。 『宮川舎漫筆』では、両替町に住む時田喜三郎とその飼い猫、出入りの魚屋某となっている。猫の恩返しというストーリーは同じながら、人名や地名が微妙に異なっている。
  永井義男 「江戸の醜聞禺行」より


■猫さがしに大金
 浅草平右衛門町に、伊勢屋治助という両替商がいた。
 治助は大の猫好きで、三匹の猫を飼っていたが、そのうちの一匹をとくに溺愛していた。弘化二年(1845)五月、そのもっとも可愛がっていた猫が行方知れずとなった。心配のあまり半狂乱になった治助は、猫が無事に戻ってくるよう修験者に加持祈祷を頼んだり、易者に居場所を占わせたりしたが、いっこうに猫の行方は知れない。
 そうするうち、易者のひとりが言った。 「命に別状はございません。北東の方角をさがすとよろしいでしょう」、この託宣を聞いて治助は、伊勢屋に出入りしている雲長という日雇い人足を呼んだ。「おまえは、日にいくら稼げば生活が成り立つのかね」 「一日に四百文は稼がないと、暮らしていけません」 「では、毎日、四百文を出そう。仕事をしながらでよいから、とにかく北東の方角をくまなく、裏長屋の隅々まで歩きまわり、猫をさがしておくれ」 「へい、かしこまりやした」。雲長は喜んで引き受けた。
 実際は猫さがしなどせずに、雲長は四百文の日当をもらって遊び暮らしていた。その後も猫の行方が知れないため、治助は方々に加持祈祷を頼み、護摩まで焚かせたが、効果はなかった。
 義兵衛という八百屋が、町内の鳶の頭を訪ねてきた。 「伊勢屋の旦那が猫をさがしていると聞きました。じつは、あたしは妙法を知っております。ある呪文を唱えれば、猫は七日のうちに必ず戻ってまいります。親方は伊勢屋に出入りしているはず。旦那に取り次いではいただけませんか」。鳶の頭はあまりに馬鹿馬鹿しいため、「そんな取次ぎができるもんか。おめえさんが、じかに伊勢屋の旦那に会って、教えてやりな」と、取次ぎを断わった。そこで、義兵衛はみずから伊勢屋を訪ね、治助に呪文を教えた。六月初めのことである。
 その日以来、治助は大真面目で呪文を唱えていた。浅草旅籠町に、治助が所有する裏長屋があった。長屋の大家が六月七日、猫をだいて伊勢屋にやってきた。「近くの長屋の屋根にいるところを見つけました。鳶の者三人に頼んで屋根にのぼらせ、ようようつかまえました」。
 驚喜した治助は、褒美として大家に十五両、鳶の者三人にそれぞれ五両を与えた。また、呪文を教えてくれた八百屋の義兵衛に大きな鰹節十五本を贈った。そのほか、いろんな人に祝儀をあたえた。思わぬ謝礼をもらった鳶の者三人は、さっそく蔵前の料理茶屋にあがって大いに飲み食いをした。勘定は二分と少々である。支払いに、小判一枚を出した。驚いたのが料理茶屋の主人である。このところ、偽小判が出回っているので注意するようにというお触れが出ていたのだ。
 そこで、奉公人一同で三人を取り押さえて町内の自身番に連行し、町役人を呼んで取り調べると、三人とも五両を所持していた。「そんな大金を、どうしたのか」 「猫を見つけた謝礼にもらったのですよ」 「嘘をつくな。たかが猫を見つけたくらいで、ひとりに五両も払う人間がどこの世界にいるものか」。だが、三人は伊勢屋治助にもらったと言い張る。念のため、平右衛門町の伊勢屋に人を走らせて確かめると、はたしてその通りだった。あれこれと手続きに手間取り、鳶の者三人が自身番から釈放されたのは翌日の夕方だった。 なお、この猫さがしで治助が費やした金は総額で百二、三十両におよんだという。

 (筆者永井義男曰く)  藤岡屋由蔵編『藤岡屋日記』に拠った。
 現代のペットブームはすさまじい。猫や犬をわが子のように可愛がり、衣装をあつらえ、専門の店でトリミングなどの美容をおこなう。ペットにかける金額が、一般家庭の子供にかける費用をはるかに上回っている場合も少なくないようだ。ペットが死ぬと、大金を投じて墓を建てる例も多い。猫や犬が好きな人は、愛する飼い猫や飼い犬のためとあれば出費を惜しまない。同様な心理の持主は、江戸時代にもいたことになろう。
 いっぽうで、大きな違いもある。江戸時代、ペットに大金をつぎ込めるのは大店の主人くらいだった。いまでいえば大会社のオーナー社長である。現代のペットに大金をつぎ込んでいる人々は普通の勤労者であり、江戸時代でいえば商家の奉公人だった。現代は豊かな時代なのであろう。
 永井義男 「江戸の醜聞禺行」より



                                                            2019年5月記

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