落語「でば吉」の舞台を行く
   

 

 初代桂小文治の噺、「でば吉」(でばきち)より


 

 「吉っちゃん、こっち入んな」、「吾助は~ん、こんばんわ」、「話あるちゅうのはほかでもないね、あの無尽な、親掛けが六十両きたんで・・・。このお金何に使うねん?」、「実はね、嬶(かか)もらうん」、「結構じゃないか”仏壇と女房は持ち急ぎすな”と言うけれど、持つとき持っとかな困るがな。で、金の要る嬶てな何じゃい? 素人(しろうと)か、玄人(くろうと)か?」、「出て姫です」、「玄人じゃな」、「女郎(じょろ)で・・・」、「女郎のいい人になろと思たらお前大変やで。その女御と言うのはどこや、所は?」、「ミナミで」、「ミナミの店は?」、「”紀の庄”で」、「名前は?」、「小照でんねん」、「げッ、小照っちゅうとお前、あら年増やで。ちょっと色が浅黒い。鼻筋の通った。えらい女に惚気(のろけ)やがったな、こらお前騙されてるからやめ」、「いえ、騙されてしまへん」、「”人は客、われは間夫(まぶ)と思う客”騙されてるからやめ」、「大丈夫です」。
 「お前、あれに兄があるのん知ってますか?」、「えぇ、知ってま」、「さぁ、その兄と言うのが男や」、「兄は男ですがな、姉は女ごや」、「分からんかいな、兄と言うのが間夫じゃ」、「ふふッ、間夫はわたしじゃ」、「ひとつな、女の気を引いてきてみ。お前常からニコニコ笑ろてるが笑い顔じゃいかんで。えぇか、心配らしい顔せ」、「どんな顔や?」、「まぁ”キョロリが味噌舐めた”てな顔じゃ」、「どぉ言う顔でんねん?」、「ま~心配らしい顔してな、こ~沈(しゅ)んで行け。すと、相手は聞きよる『吉っちゃん、どぉした?』と言うたら『喧嘩した』と言え。えぇか『傍(そば)にあった万寿鎚(ばんじゅつち)をダ~ンと投げた。友達は当たり所が悪かって死んでしまいやがった。人殺したら下手人や、今の時節すぐ捕まえられる。縄付きの姿見られるのが恥ずかしいから、常からお前が俺に惚れてくれてる、心中してくれ、死んでくれ』とこ~言うてみ」、「喜んで死ぬ」、「誰が喜んで死ぬかい」、「『死ぬ』ちゅうたら、どないしましょ?」、「薬袋紙(やくたいし)がある、灰入れといたろ灰」、「『苦しまずに死ねる薬やから、これ飲め』て、渡してみ。舐めよったら『心底(しんてぇ)見えた、女房殿』と連れて帰れ。な、中身はお前灰やがな、なんぼ舐めても毒やないがな」、「分かりました」、「これから女のとこ行てな、女が変な気持ち出しよったら帰っといで。怒ったらあかんぞ、分かってるか。行といない」。

 羽織でも着替えまして、毒薬、灰を持ちまして花柳界へまいりますと、色街の陽気なこと・・・。

 「女将、こんばんわ」、「吉っつぁん、どうぞま~上がっとくなはれ。小照さんすぐ来ると」、「ほな二階上がるわ・・・」。
 小照がやって来た。段梯子トントントントン、唐紙スッーと開けて、「こんばんわ、ま~吉っちゃん、なんて顔してんのん?」、「”キョロリが味噌舐めた顔”や」、「あのな、お金ど~したん、お金持って来てくれた?」、「金な、六十両、吾助はんとこ来た~んねん。ちょっと都合あって出してくれへん」、「なんでやのん?」、「俺、喧嘩してん」。
 「友達と喧嘩してん。傍にあった万寿鎚をバ~ンと投げたら、当たり所悪うて死んでしまいやがってん。人殺したら下手人や、逃げ隠れしたかてすぐ捕まるやろ。縄付きの姿世間に見られるの恥ずかし~から、お前俺に惚れてくれてんねやろ、俺と心中してんか、さ、死のか」、「んまぁ~ッ、あんた人殺したん?」、「死の」、「先、お金六十両もっといで~な、持って来てから死の」、「こらッ、お前金のこと言うて、俺騙す」、「騙せへんて、どないして死ぬ」、「この薬飲むと苦しまずに死ねる」、「ここであんた死んでみないな、ここのうちの女将さんに迷惑かけるやろ。二人死んでも、あとで芝居でしてもらえるよ~なとこで死のやないか、有名なとこ行こいな。あの千日前のな、三勝(さんかつ)・半七の墓のあるとこな、向こ~行こいな」、「ほな早よ行こ」、「あてな、姐さんや兄さんに暇乞いしたいよってあんた先行て~な。あッ、何すんのん? 私の簪(かんざし)抜いて」、「ええか、千日前来たらこれ返したるよって。もし来なんだら、これ売って一杯呑んでしまうで」、「んまぁ~ッ」。

 「小照さん、ええ加減にしときなはれ、関わり合いになりまっせ」、「米どん、千日の墓原の方へやったぁんの」、「そんなもん行かいでもよろしいやん」、「簪持って行かれて・・・、あてこれから千日行くよって、わたしの後ろ見え隠れに付いて来て、あんた石塔の横っちょに隠れて~な。で、毒飲む真似してな『南無阿弥陀仏、えへんッ』と、言うよってに、止めて」。

 話変わって吉公、千日の墓原で、「何をしとんのやろな~小照」、「吉っちゃ~ん」、「ここやここや」、「何でもない、さッ、これ飲み」、「ほな、飲むで、南無阿弥陀仏、えへんッ!死ねんからあんたから先飲みない」、「かせ、何でもないねや心中みたいなもん、舐めたら終いや、舐めるで」。
 与太な男ですわ、あんまり女が喧しく言うもんですから、口へ持っていってこ~、「かぁ~ッ」つば吐くような顔して「ウ~ンッ」ドス~ンと、死んだ振りした。
  「吉っちゃん・・・、堪忍してや。あんた先やってわたしも逝きまっせ吉っちゃん・・・、吉公・・・、でば吉。んまぁ~ッ、死によったわ。わたし惚れてると思てやがったんかいな、今の男すぐこれや、うぬぼれが強いわ。ホンマに死んでしもたわ、よく効く薬やな~この薬。しかたがない、あした一心寺でも行て施餓鬼してやろ」。
 「小照」、「アホ、何してんねんなッ」、「『遅そなった』やないがな、もう吉公死んだで」、「あ~恐ッ、帰りまひょ」、「帰られへんがな。簪持っとおねん、簪取って」、「懐で握ってますわ。もう離せしまへんよって勘弁したんなはれ」、「死んだら分かれへんねやわ、握ってる手、折ってしまいなはれ、ほたらあんた、取れるやないか」、「指折るっちゅんですか? 指折るなんて・・・。おッ、『指折る』ちゅうたら手、離しましたで。簪離しやがんねん・・・、あッ、金出てきました」、「三両ほどある・・・、これもろといたろ。さッ、紙入れ、あんたあげるわ」、「一両ぐらいおくなはれな」、「着物もろていきな。放ったらかしにしといたら乞食が脱がしよんねや」、「こらあかんわ、帯グ~ッと手で掴んでけつかる。こらッ、帯離さんと指折るぞ・・・、あッ、離しよった離しよった。羽織もらいまっさ、帯もらいまっさ、着物もらいまっさ、襦袢ももろて・・・、帰りまひょか?」。シャッシャッシャッと帰ってしまいよった。

 「吾助は~ん(ドンドンドン)吾助は~ん(ドンドンドン)」、「ドンドン叩くな、何じゃいッ」、「バカ、なんちゅうカッコや」、「かくかく、かよ~です。口惜しい」、「心配するな、仇討ってやる」、「仇ってどない・・・」、「俺がうまいこと都合して小照をあの墓原のとこを通らすような手段を講じてやる。白い着物借りてきたるよって、お前あしたの晩、墓原の横手からお化けに出ろ。『うらめしぃ~』と出てみ、恐い恐いと思てるとこへ白い着物着てシュッとお前が出たら、ウ~ンと目まかしよる。目まかしよったら小照の羽織から帯・紐もろてこい。お前の着物より得やないか」、「今日はも~寝ろ」。
 「ありがとはんでやす、お休み」、「寝たか」。「お早よう」、「起きたんか」。「これから行きまひょか」、「バカ言え、朝から幽霊に行けるかい」。

 「小照さん、死骸おまへんでしたで・・・」、「なんで今日、こんなとこ行かんならんねん?」、「わても分からん、女将さんが『向こう行たら分かる』って、『顔知ってる人やから行け』と、こない言うねん」、「嫌やわ~、ほらあんた、そろそろ夕(ゆん)べのとこへくるで」、「早よ通り抜けまひょ・・・」。
 「小照、うらめしぃ~ッ」、「よ、米どん、何や言うてるで」、「お化けなんてあらしまへんて」、「何や言うてるがな」、「小照ぅ~、うらめしぃ~ッ・・・、小照~」、「ギャ~ッ!」。小照さん、それへド~ンと目えまかした。箱屋、向こぉへ逃げて行た。
 「さッ、小照目えまかしとる、早いこともろていけ」、「小照、こて公、羽織もらいまっさ、帯揚げもらいまっさ、帯止めもろて、帯ももろて、で、着物ももろて、襦袢ももろて・・・」、「何をしてんねんな?」、「まだも一つ、もらいたいもんが」、「何言うてんねんアホッ、こっち来い」。

 ここはこれで済みましたが、済みませんのは箱屋の米どんで、一生懸命に帰りよった。東京で申しますと検番、大阪で申しますと扱店(みせ)で、扱店の庭へバ~ンと腰抜かしよって、 「小照さん、ふぇ~ッ、千日で、ふぇ~ッ」、「どしたんや? 何?千日で小照が? 早よ、早よ行ったり、皆行ったりッ」。
 若いもんが五、六人、千日へ出て来た、「小照さぁ~ん、小照ぅ~ッ・・・。あッ、ここに倒れてる、目えまかしてる、水、水、みず、さッ、しっかりせ、おい、小照ッ」、「あぁ~」、「大丈夫じゃ、扱店のもんや、しっかりせぇ」。
 「あぁ~ッ、で、で、で、でば吉や」、「なに? 出刃で切ったか? 傷跡ないぞ」、「ち、違う、ドロドロや」、「『とろろ』か?」、「違う、ちがう、幽霊や」、「『にゅ~めん』や? 食い気違いになったがな」、「違うちがう、毒薬や」、「なに? 『ごくらく?』、バカ言え、ここは千日の墓原や」。

 



ことば

初代 桂小文治(かつら こぶんじ);落語家の名跡。元々は上方落語の名跡であるが、先代が大阪から上京してそのまま東京に定住し門弟を育成。初代小文治→十代目桂文治→現桂小桂文治の、名跡は孫弟子に受け継がれた。この先代小文治が初代で、当代は二代目であるとする文献も多く、当代自身も二代目を名乗っているが、先代以前に小文治を名乗った落語家が実際に存在している。

 ・明治26年3月28日  大阪に生まれる。
 ・14歳で二代目桂 文團治(後の七代目文治)に入門。桂小米を名乗る。
 ・大正5年      桂米丸で真打格になる。
 ・大正6年      東京寄席演芸株式会社の依頼で上京。そのまま東京にとどまる。
 ・大正7年5月    桂小文治に改名し真打披露。睦(むつみ)会に移り、八代目文楽、三代目柳好、六代目
             柳橋と並んで睦の四天王と言われる。
 ・昭和8年      柳橋、金語楼の日本芸術協会に入会し、後に副会長に就任。
 ・昭和36年     「紙屑屋」で芸術祭奨励賞受賞。
 明るく派手な芸で、小柄な身体になんとも言えない色気を漂わせた「寄席の踊り」を踊り多くのファンを魅了した。門下に五代目古今亭今輔、二代目桂枝太郎、四代目三遊亭圓馬、四代目三遊亭円遊、二代目桂小南、十代目桂文治、また タレントで活躍の桂小金治を擁する大所帯でした。 大変せっかちで口やかましいけど、涙もろく面倒見のいい親分肌な人だった。
 昭和42年11月28日に他界。享年74歳。

 私は一度だけ、この初代の高座を見たことがあります。NHKのスタジオ録音での落語会がもようされ、関西弁で話される落語を聞いたのですが、題名は、もう覚えていません。たまたま、次のトリの演者、金馬か円歌だったと思うのですが、スタジオに時間通り来ず、穴が開きかけた時に初代小文治が高座に戻ってきて、「録音だと言っても、笑いが途中で止まってしまっては、次の落語家さんがやりにくいでしょうから・・・」、と言うような意味のことを語って、一席語り出したのです。今で言う出演料は考えずに次の落語家さんの為に噺をつないだのです。落語の内容は覚えていませんが、すごい噺家さんだな~、と言う思いが感動となって記憶に残っています。

でば吉;この名前は正式名では無く、あだ名であったのです。歯が出ていたので出歯と呼ばれ、出歯公とか出歯吉とか呼ばれたのでしょう。どちらにしても、見下げられた名前です。
 見下げられた名前で有名なのが、「出歯亀」で、《明治41年(1908)風呂帰りの女性を殺害した女湯のぞきの常習者、池田亀太郎という出っ歯の男のあだ名から。「でばがめ」とも》のぞきをする男。また、痴漢。変質者。

 「でば吉」と「辰巳の辻占」(東京噺)、「辻占茶屋」(上方噺)はよく似ている噺です。聞き比べると中間が極似です。それは当たり前で、
辻占茶屋』の原話は、上方の初代露の五郎兵衛が1705年(宝永2年)に出版した笑話本『露休置土産』の一編「心中の大筈者」。下座からの歌付きのハメモノが噺運びに重要な意味を持ち、口演の際は演者と囃子方とで呼吸を合わせることが必要となる。主な演者に五代目桂文枝らが知られる。
辰巳の辻占』は、上方の『辻占茶屋』を明治初期に東京落語へ移植したもの。現在地名となっている「辰巳」は、同演目では深川の洲崎の遊廓の隠語として用いられている(深川は江戸の日本橋から見て辰巳=南東の方角にあたる)。主な演者に四代目橘家圓喬、三代目桂三木助、十代目金原亭馬生らが知られる。

頼母子講(たのもしこう);金銭の融通を目的とする相互扶助組織。鎌倉時代に信仰集団としての講から発生。人々が寄り合って金子を出し合い、これを講中の困窮者に融資し救済したのが始まり。くじや入札等の方法によって借り受ける者を決め、それが組合員全員にいき渡るまで行う。一度落札した者は再び入札する権利を失い、単に掛け銭の義務のみを負担するというものであった。無尽講。

出て姫(でてひめ);芸娼妓の異称。商売に出ている女の意。女郎。姫は娘、女を指して言う語だが、特に遊女を指して言う。例、姫買い:女郎買い。姫たらし:女たらし。

キョロリが味噌舐めた;きょろりが味噌を舐る(きょろりがみそをねぶる)。 何事があっても平気(な顔)でいることにいう。

ミナミ;江戸時代には道頓堀が大坂の南の端で、その繁華街はミナミと通称された。それが明治の初期以降千日前が開発され、さらに明治17年南海電鉄が開通して、その難波駅に通じる戎橋筋が次第に賑わいを呈するようになって、現在はこの一帯から島之内にかけてまでの地域をミナミの総称として呼ばれている。だから、これはもはや方角に関係なく住吉辺りからこの方面(北方向)へ遊びに出るのでも「ミナミに行こうか」となる。
 大阪ことば事典

年増(としま);娘盛りをすぎて、やや年をとった女性。江戸時代には20歳過ぎを言った。中年増、中ぐらいの年増で、23、4歳から28、9歳ごろの女。では大年増は、年増の中でも年かさの女。広辞苑

間夫(まぶ);情夫。特に、遊女の情夫。遊女が商売上の利得を抜きにして真実に思う(本気で恋する)客。
”人は客、われは間夫(まぶ)と思う客”うぬぼれが強いのです、男は。

万寿鎚(ばんじゅつち);槌(つち)とは、物を打ち付けたり、潰したりする工具の総称。英語からハンマー(hammer)とも。漢字では、打撃部分が木製のハンマーを槌、打撃部分が金属製のハンマーを鎚と書く。「かなづち」はもっぱら「鎚」の方を意味する。生涯使えるから万寿鎚。

下手人(げしゅにん);自ら手を下して人を殺した者。

■薬袋紙(やくたいし);雁皮(ガンピ)の紙料を蘇芳(スオウ)と楊梅皮(モモカワ)とで赤茶色に染めて漉いた、土佐特産の和紙。緻密で耐久性があり香気を保つので、薬を包むのに重宝された。

お茶屋(おちゃや);引手茶屋。遊郭で、遊客を妓楼に案内する茶屋。遊女と遊ぶ貸座敷に行くには、通常お茶屋を通して行くことになります。電話がある時代ではありませんので、おちょやんを走らせ小照が空いているかどうかの確認と、空いていれば茶屋に呼び出します。東京では、男衆(おとこし)が走り回ります。
 おちょやん:おちょぼ。
茶屋などの使い走りの少女。「ゝ」をチョボといい、ゝほどの小さな女中の意。

三勝(さんかつ)・半七;「今ごろは半七さん、どこでどうしておじゃるやら」で有名。1695年(元禄8)大坂千日前で心中した大和国五条新町の赤根屋半七と島の内の垢擦り女美濃屋三勝。この心中事件は浄瑠璃や歌舞伎などの題材となり、「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」が最も有名。

一心寺(いっしんじ);坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)、浄土宗、開基1185(文治元)年、法然上人二十五霊場第七番札所、大阪市天王寺区逢阪2丁目。遺骨で作る骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、広い境内を有している。

 骨で仏様を造る。一心寺でこの前代未聞のしきたりが始まったのは明治20年です。安政3年(1856)、年中無休でおせがきの法要を営む常施餓鬼法要が始まりました。それにより、納骨に訪れる方も後を絶たず、納骨されたご遺骨をもっとも丁重にお祀りするためにお骨佛の造立が発願されたのです。
 古来、霊場への納骨や納髪の風習があるように、故人の遺骨や遺髪をお寺に納め、永代にわたって供養するしきたりがありました。また、仏教では仏像を造って礼拝することはこの上ない善根功徳とされています。多くの人々に礼拝される仏様を、遺族にとっては何より尊い故人のご遺骨でもって造立する。それにより、お骨佛を拝めば故人に供養するのと同時に、仏様を礼拝供養することになるのです。まさに仏様への崇拝と先祖供養の精神が融合した、真に妙なる功徳の仏様、それが一心寺のお骨佛様なのです。
  第1期造立以来、130年以上の歴史をもち、およそ200万人にもおよぶ故人が、阿弥陀仏のお姿になって一心寺の納骨堂・お骨佛堂に鎮座しておられます。全国各地は言うに及ばず、遠く海外からも一心寺のお骨佛に、と納骨され、いまでは大阪人の誇りとされ平成17年には、その信仰習俗に対し、大阪市の無形民俗文化財にも指定されています。
 写真:一心寺のお骨佛。一心寺ホームページより

施餓鬼(せがき);地獄の餓鬼の世界におちて苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会。もともと時節を選ばずに行われたが、盂蘭盆会とともに行われることが多く、両者が混同されるようになった。真宗以外の各宗派で行われる。施餓鬼会(せがきえ)。

神経(しんけい);外界の物事を鋭敏に感じ取って反応する心のはたらき。物事に触れてよく気がつく心のはたらき。また、気にしすぎること。気に病むこと。神経質。神経症。

箱屋(はこや);三味線などを持って芸者に従って行く男衆。箱まわし。箱持ち。
 右図:芸者と箱屋。三谷一馬画

扱店(みせ);東京では一花街に一検番であるが、大阪は複数の扱店が置かれた。芸者の開廃業の手続や伎芸試験にあたるとともに、芸者の毎日の営業を仲介した。

千日の墓原(せんにちの はかはら);千日墓地。現在、道頓堀とT字形に南に折れた大阪一の大衆娯楽地帯。千日前の千日とは今もある法善寺(大阪市中央区難波1-2)のこと。
 この地は、江戸時代には刑場の有った地で、仕置場の露と消えた有縁無縁の石塔や卒塔婆が乱立して、3尺高い台の上には常に獄門首が曝されていた。その獄門台が有った場所は、旧芦辺劇場の北側にあたり、明治初期には角座(道頓堀1-4)の楽屋の窓から見られたという。明治4年にその刑場を廃し、同7年墓を整理し阿倍野へ移し、焼き場(火葬場)・六坊(6カ所の僧の住居。僧房。房。)・灰山(火葬によってできた灰の山)等もなくなった。その跡の繁栄策のために見世物小屋を誘致し、賑やかさが出て来た。明治45年1月15日のミナミの大火で千日前が一新した。現在、映画館、劇場、飲食店などが集中、道頓堀、戎(えびす)橋、法善寺横町などとともに〈ミナミ〉と呼ばれる大繁華街になっている。
  大阪ことば事典

 

 千日デパートは、1958年(昭和33年)12月1日に開業した商業ビル。1972年(昭和47年)5月13日、大阪市南区(現在の中央区)千日前の千日デパートで起きた火災で、死者118名・重軽傷者78名、日本のビル火災史上最悪の大惨事となった。その跡に建てられたビルに、ビックカメラが開業。現在に至っている。



                                                            2019年11月記

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