落語「はてなの茶碗」の舞台を行く 桂米朝の噺、「はてなの茶碗」(はてなのちゃわん)、別名「茶金」より
■米朝の独壇場;戦後途絶えていたのを資料を基に再構成したもので、基本の筋はそのままだが、ほぼ米朝による創作とされている。一山あてようとする油屋のエネルギッシュさ、それを受け流す茶金の鷹揚さとが見事な対比を成していて、店先での両者のやり取りがこの噺の眼目でもある。とくに、鴻池、関白家、宮中、とのつながりのある茶金の存在感は大きく、「『店が騒がしい』の一言が日本第一の文化人、茶金になっている」と評されているように、品格が求められ、演じ方が難しい。また、関白や時の帝が出てくる唯一の噺で、その点でもスケールが大きい。
「はてなの茶碗」米朝考;「はてなの茶碗」のことをお話ししようと思います。東京では「茶金」と呼ばれていて、名人と言われた橘家圓喬が得意にしていたことでも知られています。私か素人だったころに、ラジオから流れてきた二代目桂三木助師匠の「茶金」を聴いたことがありました。まだ小学生やったと思うんですが、「ええ噺やなあ」とえらく印象に残ったのを覚えています。
■東京の「茶金」;すでに明治23年に、「波天奈廼茶碗」と第した三代目春風亭柳枝の速記があります。
明治後期には、四代目橘家円喬が京言葉を巧みに使い、大阪のやり方で正統的に格調高く演じ、「鰍澤(かじかざわ)」と並ぶ当たり芸にしました。
戦後は、若き日に円喬にあこがれた五代目古今亭志ん生が、円喬の速記から熱心に覚え、「茶金」の演題で、東京では、志ん生以外に演じ手がないほどの独壇場にしました。
これは、もともと純粋に大阪の噺で、江戸っ子の権化のような古今亭志ん生が演るのはミスマッチのような印象ですが、それを強引に押し切って、しかも、たまらなくおかしいのが志ん生の真骨頂。
■清水寺(きよみずでら);開創は奈良時代末778(宝亀9)年。平安時代に入り坂ノ上田村麻呂が滝の清水と延鎮上人の教えに導かれて妻室とともに観音に帰依し、仏殿を寄進建立しご本尊十一面観音を安置した。798(延暦17)年寺域を広げた。右写真。
■清水の舞台;京都市東山区清水1-1294。本堂南正面に懸造り・総檜張りの「舞台」を錦雲渓に張り出している。思い切って何かをすることを「清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」などという形容にも使われる場所。
■音羽の滝(おとわのたき);東山三十六峰に連なる音羽山から下りてきた地下水が3本の筧(かけい)を伝って滝壺に落ちています。京都市の北から日本海へと連なる山並みは北山山地、丹波山地と呼ばれます。北山山地の分水嶺から北側の水は日本海へと流れ、南側の水は川となり、或いは伏流水となって京都盆地へと流れ下りてきます。この地下伏流水が東山の山並みの断層の割れ目から流れ出て、音羽山の雨水と合わさり音羽の滝となり、清らかな水は千年以上も前からとぎれることもなく流れ落ちています。清水寺の寺名の由来となった。
清水焼と音羽の滝の地図(Googleマップより)。
■衣棚 (ころもだな);現在の京都市上京区、京都御所の西側、室町通と新町通の間の南北に走る道路・衣棚通りに接した町。京都らしく、坊さんの袈裟や衣を商う法衣商が六十軒以上も集まっていたところ。
「棚」は同音読みの「店」が転じたもの。これすべて、千切屋という大太物問屋の一族郎党による
分店・支店で占められていたという。
噺に登場の茶道具屋も、江戸時代以後はこの付近に固まっていました。
■油の行商(あぶらのぎょうしょう);菜種油が荏胡麻油(えごまあぶら)に取って代わり、灯明油の中心を占めるようになるとともに、庶民も灯火の恩恵に浴するようになった。仏事、神事、あるいは宮廷以外の人々の生活にも明るい夜の世界が開けてきたのであり、江戸の豊かな文化を支える重要な基盤ともなった。しかし、明るいと言っても、真っ暗な室内から見ると明るいのだが、今の5W電球の何分の一位の明るさです。
■油を売る;搾油方法の技術革新により、行灯用の菜種油が庶民の間にも普及するに至り、享保年間(1716-1736)の頃ともなると百万都市江戸では年間一人当たり菜種油の消費量が7.2リットル(1升瓶換算で4本)程度はあったと推計されています。
■結城の対(ゆうきのつい);結城紬(ゆうきつむぎ)とは、茨城県・栃木県を主な生産の場とする絹織物。単に結城ともいう。国の重要無形文化財。近現代の技術革新による細かい縞(しま)・絣(かすり)を特色とした最高級品が主流である。元来は堅くて丈夫な織物であったが、絣の精緻化に伴い糸が細くなってきたため、現在は「軽くて柔らかい」と形容されることが多い。奈良時代から続く高級織物で結城市・小山市などで作られている。
■せんど;先頃。このあいだ。せんだって。 (千度)=何回も、ひっくり返して・・・。
■願ごて出る(ねごうて-);奉行所に訴える。
■歩(ぶ)ぅ持って;割り前を持ってくる。歩合(ブアイ)。割合
■鬱金(ウコン)の布;ウコンで黄色く染めた布。茶器を直接包む内布として使われる。
■釉薬(うわぐすり);素焼スヤキの陶磁器の表面にかけて装飾と水分の吸収を防ぐために用いる一種のガラス質のもの。主成分は珪酸塩化合物。つやぐすり。ゆうやく。
■関白鷹司公(かんぱく たかつかさこう);江戸時代、家禄一千石のち一千五百石。維新後、煕通(まさみち)が公爵に叙せられた。家紋は牡丹。
戦国時代、鷹司忠冬を最後に一度断絶した(1546年-79年)が、後に二条晴良の子の信房が鷹司家を再興し近代まで続く。1743年、閑院宮直仁親王の皇子である鷹司輔平が鷹司家を継承した。江戸後期から幕末にかけて鷹司家の当主が関白を務める機会が多く、特に鷹司政通は文政6年(1823)に関白に就任、天保13年(1842)には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して安政3年(1856)に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。
関白=・政務に関し、天子に奏上する前に、特定の権臣があずかり、意見を申し上げること。
鷹司公の詠=『清水の 音羽の滝の おとしてや 茶碗もひびに もりの下露(したつゆ)”』は、
■麻呂(まろ);(一人称。主として平安時代以降、上下・男女を通じて使われた) われ。わたくし。
■帝(みかど);みかど。天子。皇帝。天皇。
■万葉仮名(まんようがな);漢字を、本来の意味を離れ仮名的に用いた文字。借音・借訓・戯訓などの種類がある。6世紀頃の大刀銘・鏡銘に固有名詞表記として見え、奈良時代には国語の表記に広く用いられたが、特に万葉集に多く用いられているのでこの称がある。
■鴻池善右衛門(こうのいけ ぜんえもん);鴻池家当主の通称。第3代は、名は宗利。諸大名との取引は三十数藩に及び、酒造・運送業を廃し、両替商専門となった。1707年(宝永4)今の東大阪市の北部にいわゆる鴻池新田を開発。家訓を遺す。(1667~1736)。上方一の金持ち。
■十万八千両;小佐田定雄著「上方落語のネタ帳」によると、いささか半端な金額であるが、消費税が入っているわけではない。「無限大」という意味が「十万八千」と言う数字にあるそうだ。『西遊記』の孫悟空が乗っている觔斗雲(きんとうん)の速度がひと飛び十万八千里だというし、大晦日に突く除夜の鐘の百八つと言う数も関係あるかも知れない。
2016年6月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |