落語「百人坊主」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「百人坊主」(ひゃくにんぼうず)より。「大山詣り」の上方版


 

 この噺は古すぎる噺で、江戸にも上方にも有りますが、元は狂言「六人僧」より出たものと思われます。滅多にやらない噺になってしまいました。伊勢参りは有る年齢に達しないと、連れていけなかったもので、大人の仲間入りを兼ねていました。一生に何度か伊勢参りはしたものです。お伊勢参りも信心で行きますが、帰りは羽目を外してドンチャン騒ぎになります。

 「お庄屋はん、ちょっとおじゃまをいたします」、「伊勢参りの話やったら、もぉおいといてや、もぉ帰って。あかん、あかん、もぉ金輪際、わしゃ世話はよぉせんねやさかい。毎年、毎年、伊勢参りに行くと、必ず揉め事が起こるわい、喧嘩沙汰じゃ。帰って来てしばらくはそれを裁かんならんてな、そんな神さん参りがどこにある?わしゃもぉ世話よぉせん」、「何事にでも先達といぅものが要る。ただではお庄屋はんも『うん』と言ぅてくれはらんやろ。今年はな『腹立てん講』をこしらえましたんや」、「『腹立てん講』ちゅうのわ?」、「ワラジを履いて旅ぃ出て、帰って 来てワラジを脱ぐまでのあいだに、腹立てたり喧嘩したりするもんがおったら、村一統(いっとぉ)に五貫文の詫び料を出して謝って、この村を阿房払い (あほぉばらい)にされても文句は言わん、と決めたんでやす」、「それでも構わんちゅうのかい?まぁそこまで言ぅて来たんなら、ほんならもぉいっぺんだけ世話さしてもらおか」。

 「行くと決まったらなんやで、もぉ遅れてるやないかいな。隣村はみなもぉ帰って来てん。で、幾日(いっか)?」、「暦調べたら来月の三日が日がえぇんで、その日出立いぅことにしょ~か言ぅて」、「あと、10日しか時間が無いよ」、「お許しが出たら、直ぐ出来るように準備はしています」、「”揃い”の相談は?」、「笠の揃え、手拭の揃え、みなもぉやること決まってますがな。ちょっと変わったことやろと思たら銭がかかりまっしゃろ。何年前だしたか、上の村が『紐(ひも)の揃え』ちゅうのんやった。笠の紐、ワラジの紐、手甲脚絆(てっこぉきゃはん)の紐といぅ紐をみな赤にしよった、安つきますがな。で、はんなりと目立って良かった。隣村は傘の揃い、手拭いの揃いは何処でもやっていますから、『着物の揃い』をやります」、「こら一番銭がかかるやないか」、「白木綿を一反ずつ買ぉて来てな、それで着物を仕立てます。それに絵を描こやないかと・・・。村の檀那寺のおっすぁんがな、あの人絵が自慢でっしゃろ、始終頼まれて絵ぇばっかり描いてる」、「わかった。『腹立てん講』忘れんようにな」。

 白木綿で着物を縫い上げますといぅと、お寺の方へやってまいりまして。「おっすぁん、ひとつお頼の申します」、「準備して待っていた。そこに並べて、絵柄を言いなさい」、日の出だ、梅に鶯、桜に幔幕、花札の絵柄のようだ。短冊に雨の注文。「鹿に寿老神を、そのほかに戎(えべ)っさんと大黒さんを左右に、弁天様も」、「宝船にしとき七福神は小ぃそぉに描いていくさかいな」。
 ぼやきながらおっすぁん、次から次へ絵を描いていきます。それが出来上がる。もぉ村じゅ~の者は餅をつくやつもある、挨拶に行って餞別を貰ってくる、何となくこぉ浮き立っておりますなぁ。

 出発といぅ日の前になりますといぅと、お寺の本堂にズラ~ッと布団を並べます。「もぉ寒い時分やないさかい、こんなもんでえぇやろ」っちゅうて、枕はそんなにぎょ~さんないさかい、杉丸太持ってきてボ~ンと置いて、それに皆頭つけて寝ます。朝起こす時は金槌で小口をカンカ~ン、ほたら皆ビックリして目が覚めるといぅ。そこで朝飯を済ましますと、「この”腹立てん講”の旗、誰が持つ」、「危なそうなフカの源太、源公やないか。村で一番喧嘩早いからな」。源公に持たせて釘を打った。「もぉ腹立ててるがな、腹立てたら村一統にな、五貫文の詫び料出して、 阿房払い」、「分かったぁるわいッ!」、「出かけよ」、ワァワァワァ、村はずれまで来ます。
  お伊勢参りに大坂から行くっちゅう場合には、暗峠(くらがりとぉげ)を越えまして、つまり生駒の山脈を越えて大和から伊賀、古市、伊勢といぅふぅに行く道と、もぉひとつは 三十石に乗りまして淀川を上へあがって、伏見に出ます。街道を真っ~直ぐ南へ下がって来る。と言う、ふた通りの行き方があったよぉでございます。ちょっと伏見を回って行くちゅのは遠回りのよぉでございますが、山越しがないので、こっちの方が足は楽やったそぉでございます。枚方(ひらかた)の淀川堤、三十石の乗り場へやってまいりまして、乗船です。 三十石舟は下りは速いが、上りは岸から引くので歩くより遅かった。

 「お庄屋はん、少しだけ酒飲んでイイですか?」、「毎年揉め事は必ず酒が元で起こった。少しだけだぞ」、少しの間は神妙に飲んでいたが、「ちょっとそこの徳利かして徳利、二杯目いくんやから二杯目、空やないかおい、そっちの徳利かしてその徳利、これも空やないか」、「誰が飲んだ。源公か」、「俺は飲んでいない。二杯だ」、「そんな赤い顔になるか」、「丼鉢に二杯だ」、「こらッ!お前みな飲んでしまいやがったんや」、「何怒ってんねん、その旗に何と書いたぁんねん、お前腹立ててるな?」、「えッ?」、「腹立てたらお前、村一統に五貫文の銭出して、ところ阿房払いになっても構わんねやな。さぁ、腹立てぇ」、「腹立ててへん」、「わしが酒呑んでしもうたけど、お前は腹が立たんねやな?」、「む、むかつくガキャや、おら腹立てん」、「よし、ほな笑え」、「何で笑わんならんねん?」、「笑えんのかお前?ほな、腹立ててんのん?」、「笑うわい、へぇ~~」、「オモロイ顔して笑いやがった。着いたら起こしてや」、大イビキを掻いて寝てしまった。
 「ムカつくな。酒全部飲んで、俺に笑えとヌカしやがった。俺はカミソリ持ってきたので、こいつを坊主にしたる。あっちから見えないように、お前達が壁になってくれ。マゲなんか要らない。川に捨てて、分からんように」、綺麗に坊主にしてしまった。

 夜が明けて伏見へ船が着きます。 「源公か?放っとけ放っとけ」で、一行は下船してしまった。船頭も寝ている客を起こしに掛かります。「お客さん起きなされ。ん?坊さんが乗っていたっけ?」、「坊主では伊勢参りが出来ないので、カツラを被っていたが川にでも落としたのだろう。早く起こせ」、「よ~寝た。『ヘ~ックシ』風邪でも引いたかな?(頭を撫でるとクルクル坊主)誰か頭間違えて行った。ワシの頭何処じゃ」、「それが客人の頭だろう」。
 「誰じゃ!ワシの頭を坊主にしたのは・・・」、「お前の持っている旗は何じゃい」、「『腹立てん講』の旗。う~うッ」、「お前腹立てているな。村一 統に五貫文出して、ところ阿房払いだぞ」、「腹立ててへん」、「ほな、笑え」、「笑うわい、えへぇ~ッ」、「えらい顔しよっ た、さぁ行こさぁ行こ」。
 「徳やん、ちょっと頼まれてくれ。いやな、この旗お前に預けるわ、お前持って行け。ここにこんだけ金がある、これでな、子供に土産を買ってきてくれ。ボンサンのことを「髪長(かみなが)」言ぅたりしてな、お伊勢さんちゅう神さんは嫌うちゅうことや。わしゃこっから帰る。頼んだで」。
 みんなと分かれてこの男、二日ほどどっかで時間をかせぎまして、頭手拭で包むと一人だけ村へ帰って来た。

 「まあ、あんた、どないしたんねん。急に帰えって来て。皆とはぐれたんかい」、「ちょっとな、伊勢参りに行た嫁はん連中な、全部お寺の本堂へ集めてもらいたいねん」。「何や分かれへんけど、源さんが一人帰って来てな『ちょっと皆集まってくれ』て、心配やわぁ。源さん座ってるわ、真ん中に、頭手拭で包んで、何があったん? 」。
 「わしの言ぅことをな落ち着いて、最後まで聞ぃてもらいたいんじゃ。三十石の夜船に乗って伏見へ着いたわい。でまぁ『これから近江八景をちょっとだけ見て』ちゅうことになったぁったんじゃがな。伊勢参りたかてな、近江八景もちょいちょい見るけど、竹生島へ行たことのある人間が少ないさかい『竹生島の弁天さん、お参りしょ~か』言ぃ出して『ほんなら』ちゅうて船頼んだんや。わしその日ぃな、前の晩から腹が下ってたんじゃ『腹下ってて船に乗ったら始末に困るさかい、わしだけ船宿に居るさかい、お前ら行って来い』ちゅうて乗らなんだんや。で、皆が出て行った。変が来るっちゅうのは恐ろしぃもんやなぁ、急に空が真っ暗になったと思たら、『船がひっくり返ったぁ~ッ!』ちゅうてな、人が浜の方から走って来る。まぁ、終いまで聞き、まぁ終いまで聞け。皆そっくり死んだ。嘘でこんな事が言えるかい。『わしゃもぉ、ここへ飛び込んで死の』ちゅうたら、みんなに抱き止められて『何ちゅうこと言ぅねん、あんたが死んだら、誰が村へ知らしに帰るねん』と、こない言われたらな、で、この通り、頭だけ丸めて帰って来た。そんなんやで、これも因果やと諦めてもらいたい」。
 「おい!お光っつぁんどこへ行くんね」、「あの人が死んだら、わても死ぬ。井戸へ飛び込む、止めんといてッ」、「おまはんがやな、あとになって死んだ仏の問い弔い(といとむらい)をして、回向祈ってこそ仏も喜ぶんやないか。お前がそんな気ぃ起こして誰が喜ぶかい」、「ホンにそぉやわ。ほな源さん、わては尼になるよってな、頭丸めとぉくなはれ」、「偉い、二十五だと言うのに、お前偉いッ!貞女の鏡だ」。
 一人尼さんにしてしまった。「源さん、その次わたいも、わても尼になるよって次頼むわ」、(わても、わても、わても・・・)、ここで尼になると言わないと、一人だけ卑怯者になってしまうので、皆、頭を出した。村中のカミさん皆坊主にして、自分のカミさんだけはとって置いた。ここで亭主の菩提を弔う為に大きな数珠を持ち出して、源公を中心に百万遍を始めた。

 「おい、村シ~ンとしたぁんねん?『今日帰る』ちゅうことは、出しなに言ぅたぁんねや、だぁれも迎いに来ぇへんちゅうのはどないなったんや?」、「取りあえず本堂に集まろう」、「本堂の方から木魚の音やら百万遍の声が聞こえるやないかい。葬儀でも有ったんかいな。時々、鉦がカ~ンて鳴ってるがな。チョット覗いてみよう。尼はんばっかり寄ってるがな。尼さんの大会やで。真ん中で鉦叩いているの源公じゃないか?」、「おい、あの乳飲ましてん尼さんは辰っつぁん、お前とこの嫁はんやで」、「アッ、そぉいぅとあの隣りは、お前とこのお光っちゃんやないか 」、「お庄屋はんのお家はんまでが頭丸めてる」、「こら、源公ッ!」、「亡者が迷ぉて来た、みな一心にお念仏(南無阿弥陀仏 ナムアミダブツ)」、「足を見ぃ足を、ちゃんと足生えてるわい」、「おい、お前ワラジ履いたまま上がって来て何を言ぅとんねん。まだ、ワラ ジ脱いでない。ワラジを脱ぐまでが旅やぞ、手に持ってる旗に何と書いたぁる?お前腹立ててるところを見たら、村一統に五貫文の詫び料出して、ところ阿房払い承知やな?腹立ててんのか?」、「立ててへん」、「腹立ててへんのかい?笑え」、「えぇ加減にせぇよ、これ笑えるか?お庄屋はんどうしましょう」、「まぁ、待て待て、済んだこっちゃ堪忍したり。源公坊主にしたりするさかいにこんなことになったんじゃ。まぁ、これもめでたい」、「何がめでたいんじゃ?」、「旅済まして帰って来て、皆お毛が(怪我)のぉておめでたい」。
 「よぉそんな気楽なことを言ぅてるなぁあんた」、「お前笑ろてる、何がおかしぃ?」、「アホらしなってきて、腹立たんよぉなってもたわしゃ。落ち付いてジィ~ッと見てるとな、あの嬶連の頭ちゅうのは、坊主頭見たことないやろ、ジィ~ッと見たらオモ ロイもんやで、デコボコなんがあるかと思たら、禿げてたり、カボチャみたいなん」、「んまぁ~、わてらが涙こぼして心配してんのに、ゲラゲラ笑ろて・・・、ちょっと皆、うちの亭主捕まえて」、ワラジも脱がない間に、皆、押さえつけられて坊主にされてしまった。その場の雰囲気で伊勢参りした連中は皆坊主にされてしまった。

 そうなると伊勢参りに関係ない連中までが、お爺んからお婆んから子どもからみんなもぉ、そぉなるっちゅうと村中~が皆坊主になってしまった。田んぼで働いてる人が坊主、それへ弁当持っていく嫁はんが坊主、それに付いて歩く子どもが坊主。村中~、坊主頭ばかり。
 と、頭に髷(まげ)を結ぅた人がス~ッと歩いて来る。誰やろ? とヒョッと見たら・・・、檀那寺の和尚さんやった。   

 



ことば

■この噺は、江戸版「大山詣り」として演じられている。原話は、狂言の演目の一つである「六人僧」。
 では元々は「百人坊主」という上方落語の演目とされるが、滝亭鯉丈の作品で文政四年(1821年頃)に出版された「大山道中栗毛俊足」に似たパターンの噺があり、これを指摘した六代目三遊亭圓生は「東西で別々に発展したものではないか?」と述べている。

 東京に住んでいるから言うのでは無いのですが、この噺には矛盾点が多すぎます。まず、酒を飲まれたぐらいで源公を坊主にする動機が薄すぎます。また道中で先達のお庄屋さんはこの件がやりすぎだと分かっているのに、最後に怪我無くおめでたいと言うだけです。
 源公が坊主にされた伏見で2日ほど時間を稼いでいますが、時間的に直ぐ戻れば良いのです。また、たった2日間なのに、講の連中が帰って来のと同じ日になっています。
 近江八景は琵琶湖の南に有りますが、竹生島は最北端に有ります。「大山詣り」では金沢八景を船で回りますが、そこは海です。海の怖さは誰でも分かりますが、湖の中で全員が死ぬような嵐はそれはそれで分かるのですが・・・。船をひっくり返したかったら伊勢の海で遭難させれば良いのです。
 「大山詣り」でも、おかみさん連中も坊主になりますが、なるような状況を作っています。先達のおかみさんが「熊さんはほら熊で、千三つだから」と信じていませんが、手ぬぐいを取ってこれこの通りと言いますと、「あんなに見栄坊の熊さんが頭を丸めるなら本当だ」と、ガラッと態度を軟化させます。それほど頭を丸めるという事は大変な事です。村中の人達が皆揃って頭を丸めるなんて、落語で有っても行き過ぎで、せっかくの熱演が漫画になってしまいます。
 オチの檀那寺の和尚さんだけがチョンマゲをしていた。逆転のおもしろさなのでしょうが、文字通り坊さんが、たかが伊勢参りぐらいの日数でチョンマゲを結えるほど髪が伸びるという不思議も有ります。

伊勢参り(いせまいり);伊勢神宮に参拝すること。近世には、春に行うことが多かった。
 お蔭参り(おかげまいり)とも言われ、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。 お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。 江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は当然歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われます。

先達(せんだつ);道者とも良い、神社・仏閣、霊場などを連れ立って参詣する人。巡礼。道衆。
 通常、講(この噺では、腹立てん講)を組織して、そのガイド、リーダーをする人。
 伊勢神宮では御師(おんし)と呼び、もともとは伊勢神宮の神官である御師。後に、参拝の勧誘を行ったり、参拝者を自宅に宿泊させ山海の珍味でもてなすなど、現在のツアーコンダクターの元祖となりました。

五貫文(ごかんもん);金貨幣と銭貨幣は別々の貨幣単位を持っていて、両者の交換率は時代によって変化しました。江戸時代初期には幕府公定相場で1両=4貫文と決められましたが、インフレが進み中期から後期に掛けては、1両=5貫文になってしまい、幕末には一気に上昇して10貫文まで上昇しました。いつの時代も1貫文=1000文です。
 この噺は江戸時代の噺ですから、時代設定が江戸の中期から後期に掛けてと設定されていて、1両は5貫文となります。決して、4貫文(1両)+1貫文(1/4両=1分)ではありません。

阿房払い(あほうばらい);江戸時代の刑罰のひとつ。武士では両刀をとりあげて追放する。また、裸にして追放する。不祥事などにおいて、誇りを踏みにじったり名誉を貶めることで罰となす刑罰です。噺の中では無宿人になってしまうと言っています

無宿者(むしゅくもの);人別帳から名前を除かれること。また、その人。貧農や下層町人、犯罪人から無宿となるものが多く、江戸中期以降、大都市およびその周辺で多数出現した。帳外(ちょうはず)れ。江戸伝馬町の牢屋敷の一部で、無宿者の罪人を入れた牢屋があった。
 
無宿になると、家が借りられなくなって路上生活者になってしまう。また、取り締まり対象者になって最悪、佐渡送りになって金鉱山で重労働の荷役作業が待っていた。今で言う、国籍を剥奪されるよりひどい待遇となってしまう。

揃い(そろい);旅するにはグループで出掛ける事が多かった。その時は同じ色のリボンをするとか帽子を被るとか現代でもする様に、当時も着物や、日傘、手拭いなどを合わせて旅をしました。近隣の村と競争して目立つ揃いものを準備した。
 右図:広重「下谷広小路」。伊藤松坂屋前を寛永寺に向けて行く傘の揃いの一団。 

手甲(てっこう);手の甲を覆うもの。武具は多く革製、旅行・労働用には多く紺の木綿が用いられた。てこう。

脚絆(きゃはん);旅や作業をするとき、足を保護し、動きやすくするために臑(すね)にまとう布。ひもで結ぶ大津脚絆、こはぜでとめる江戸脚絆などがある。脛巾(はばき)。戦時中、兵隊が巻いたゲートルもこの一種。

檀那寺(だんなでら);自家の帰依している寺。檀家の所属する寺。檀寺。だんなじ。

おっすぁん『大阪ことば事典』には「和尚さん」の約訛とあるが「お住持さん」ではないか、とも言われる。どちらにしてもお寺の住職。

餞別(せんべつ);遠くへ旅立つ人や転任・移転する人などに、別れのしるしとして贈る金品。また、それを贈ること。はなむけ。餞別を貰ったらお土産は買ってこなければなりません。

暗峠(くらがりとぉげ);奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある峠。古くは闇峠とも書かれた。現在は国道308号及び大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線(重複)が通る。 標高は455m。
 暗越奈良街道の生駒山地における難所で、つづら折りの少ない直線的な急勾配が続く。特に大阪府側は、麓から峠まで約2.5kmにわたる勾配である。峠道の沿道や道端に、古寺や地蔵、石仏も多くあり、ハイキングコースとしても有名。 峠の頂上には小さな集落があり、茶店もあり、この付近の路面は江戸時代に郡山藩により敷設された石畳となっている。この50mほどあるコンクリート舗装の石畳は、暗峠が急坂であることから、参勤交代で殿様が乗った籠が滑らないようにするために敷かれたもの。 「暗がり」の名称の起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」、「鞍換へ」あるいは「椋ケ嶺峠」といったものが訛って「暗がり」となったとする異説もある。上方落語の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返ることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られる。
 「大阪より大和及び伊勢参宮道となり、峠村には茶屋旅舎多し」とも記されており、江戸時代後期は庶民の伊勢参宮道となり、旅籠や茶屋が立ち並び賑わっていた。現在はこの近くをトンネルで越す、バイパスが出来ている。

 

古市(伊勢。ふるいち);伊勢神宮外宮と内宮をつなぐ参宮道沿いにあった遊郭・歓楽街、古市町。「精進落とし」と称してお伊勢参りの流行とともに栄えた。最盛期には遊郭など約70軒、遊女約1000人、浄瑠璃小屋4軒。備前屋・杉本屋・油屋などの遊郭が有名。お土産にかさばらず、荷物にもならなかったので、『伊勢音頭』がここから全国に広がった。

「いせおんど 桜襖」 伊勢古市の備前屋名物「伊勢音頭」の総踊り。1847–52年ごろ、歌川貞秀画。

三十石に乗りまして淀川を上へあがって、伏見に;落語「三十石」に詳しい。京都・伏見、大坂・枚方間を淀川を使って三十石船で上り下りした船旅。

近江八景(おうみはっけい);琵琶湖の南部にある八勝景。中国の瀟湘(シヨウシヨウ)八景に擬して定めた。
 比良の暮雪、矢橋(ヤバセ)の帰帆、石山の秋月、瀬田の夕照、三井(ミイ)の晩鐘、堅田の落雁、粟津の晴嵐、唐崎の夜雨の八景。
 江戸後期の歌人・伴蒿蹊は、慶長期の関白・近衛信尹自筆の近江八景和歌巻子を知人のもとで観覧し、その奥書に、現行の近江八景と同様の名所と情景の取り合わせに至る八景成立の経緯が紹介されている。よって現在ではこの記事に基づき、現行の近江八景の成立は近衛信尹によるものとする見方が有力となっている(奥書の原本は未確認である)。
 当時から有名人も近江百景を訪れ、作品を残しています。江戸後期の文人・大田南畝が詠んだと伝わる狂歌が八景を読み込んで、『乗せたから さきはあわずか たゝの駕籠 ひら石山や はせらしてみゐ』。松尾芭蕉は、『国々の八景更に気比の月』、並びに、『月清し遊行のもてる砂の上』『ふるき名の角鹿や恋し秋の月』『月いつく鐘は沈る海の底』『名月や北国日和定なき』。歌川広重は八景を版画として残しています。

  

「近江八景」左から石山の秋月、唐崎の夜雨、矢橋(ヤバセ)の帰帆。広重画(八景の内三景)

竹生島(ちくぶじま);西国三十三所札所めぐり第三十番札所「宝厳寺」のある島として、古来より人々の厚い信仰を集めてきた、西岸・今津港、東岸・長浜港からほぼ等距離に浮かぶ琵琶湖北端の周囲2kmの小島。 近江百景からは湖上30km以上は有ります。
 島全体をおおう針葉樹を中心とした木々が、季節ごと美しい姿を見せてくれます。また、国宝の宝厳寺唐門や都久夫須麻神社本殿、重要文化財の宝厳寺船廊下などの見どころもいっぱいです。
 弁天様の幸せ願いダルマや竜神拝所のかわらけ投げも人気です。竹生島には定期船が発着する港が島の南側に1箇所あり、数店の土産物店と寺社はそこからすぐの所にある。寺社関係者ならびに店舗従業員はいずれも島外から通っているため、無人島となっている。
 東京にも竹生島を模した島が、上野不忍池(琵琶湖を模してと言われる)の弁天島です。
右写真が、不忍池と弁天島。 

百万遍(ひゃくまんべん);弥陀の名号を100万回唱えること。極楽往生を祈願して、七日間に100万回念仏を唱えること。浄土宗で衆僧または信徒が集まり、弥陀の名号を唱えながら1080顆(か)の大数珠を100回繰り回す仏事。知恩寺の行事として名高いが在家でも行われる。

伊勢暦(いせごよみ);全国に流通したカレンダーのはじまり。御師が配った暦は、生活に密着した情報が記されていたため農家を中心とした庶民に大好評で、神宮への信仰と信頼はさらに高まりました。

熨斗あわび(のしあわび);贈答品の印に使われる「のし」は、伊勢神宮の供え物の熨斗あわびが起源。上流階級の武家間でも慶事の贈答品に用いられましたが、次第に形式化され、現在の印になりました。

フカ;大形のサメ類の俗称。特に関西地方以西でいうことが多く、山陰地方ではワニ・ワニザメともいう。また、フカの源太のあだ名で、よく眠る人、特にいびきをかいて眠る人のたとえ。

髪長(かみなが);僧をいう。斎宮(さいぐう)特に皇大神を祭る、伊勢神宮で使う忌み詞。僧侶は剃髪しているのでその反語を用いたもの。尼を女髪長という。
 神道では、仏を中子、経を染紙、塔を阿良良岐、寺を瓦葺、斎(寺の食事)を片膳、死を奈保留、病を夜須美、血を阿世、墓を塊、堂を香燃、などといった。



                                                            2016年9月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system