落語「お婆ちゃんのお見合い」の舞台を行く
   
 

 神津 友好作
 古今亭今輔の噺、「お婆ちゃんのお見合い」(おばあちゃんのおみあい)より


 

 歳をとると色気が無くなります。黒い頭が白くなって、白い顔が黒くなってはおしまいです。

 部長さんが訪ねて来た。「最後の親孝行をさせてくれないか。私の願いが叶えば、君も叶って一石二鳥なんだ。君のお父さんが亡くなってどの位経つ?」、「今年十三回忌です」、「家は母親が亡くなって七回忌なんだ。隠居所が近々完成するんだ。父親に『再婚しませんか』と言ったらカンカンに怒ったので、『茶飲み友達と昔話を話したら・・・』楽しいだろうと思う。『茶飲み友達なら良いだろう』と軟化したんだ。君のお母さんはどうだろう」、「ダメですよ。父親を頭っから否定して怒鳴り散らすんです。子供達がみんな正しい父親に付くもんだから、母親は荒れ狂っちゃいました」、「それは昔の話しで、今は違うと思うよ。今度の日曜日、家で昼を食べてお見合いさせたいから、来てくれよ」。

 「今日はお見合いの日でしょ」、「言ってくれた?」、「上手くいってるのに、『養老院に入れたいのか』何て言われたら困るワ。実母なんだから、貴方が言ったらどう。新築祝いだからと言って・・・」、「誤魔化して連れて行っちゃおう」。「正一や私もお呼ばれしているのかぃ」、「で、美容院に行って、着物も着替えたら・・・」、「さっぱりした物だから、これで良いんだょ。さぁ、行きましょう」。

 「来るの遅いな」、「お婆さんだって女性だから美容院に行ったり、着付けをしたり、忙しいでしょ。お父さんは風呂を沸かして入っていましたよ。アッ、お見えですよ」、「よく来たね。どうぞ」、「私までお招き下さいましてアリガトウございます。伜がご厄介になっておりまして・・・。奥様、ご不浄はどちらです?」、「部長、お見合いの話はしていないんです。『隠居所の新築祝いだからと、年寄り同士話が合うだろう』と言って連れて来ました」。「歳取るとご不浄が近くなるものですから・・・」、「いえ、父は夜中に3回ほど行きますよ」、「お母さんを隠居所に案内してくるよ」。

 「年寄り同士、話が合うでしょうから、どうぞお二人で・・・。私は引っ込みます」、「ご普請というものはイイもんですね。私は分かりませんが、落ち着くイイ造りですね」、「これも皆、伜が作ってくれて住まうだけなんですが、夫婦っていいモンですよね」、「そうですよね。亭主が生きているときは感じなかったことも、今になったら良いことがイッパイです」、「初対面でご主人のおのろけなんて、恐れ入りました。対抗上、私の妻も出来た女で、遅く私が帰るまで着替えもせずに待っていたもんです。嫁がお茶を入れてくれました。どうぞ・・・」、「美味しいお茶ですね」、「歯も綺麗に揃っているんですね」、「ご冗談でしょう、ご隠居さん。ホレこの通り総入れ歯です」、「私も総入れ歯です」、「チョッと拝見。金を使って大変高価だったでしょう」、「私は型を取っただけで、伜が全部作ってくれたんです。お互い入れ歯を見せ合うようではいけませんな。今聞こえるのは主屋のテレビで、私は義太夫が大好きで。それが始まると家中の皆が遠慮して私に見せてくれるんです」。
 一通り義太夫の話で二人は盛り上がり、隠居さんは義太夫を口三味線で語り出した。入れ歯をほき出して大笑い。

 主屋では、「賑やかになって来ましたね。行ってみましょうか」、「お父さん賑やかになってますね」、「昔話に花が咲いてね~」、「部長さん、こんな大きな声で笑ったのはしばらくぶりです」。
 「お母さん、実はお見合いに来たんですが・・・。嫁にとは言いませんが、昔話をして、茶飲み友達というのは・・・、孫のおしめを洗ったりするより良いと思って。今日はお見合いなんです」、「馬鹿だね、この子は。家に居るときそ~言ってくれれば、髪結いさんに行って白髪を染めたり、着物を着替えたりしたのに。今頃お見合いだなんて・・・、どうしましょ」。
 「全然知らなかったんですか?赤面しましたな~。しかし、来ていただけるでしょうか」、「へ~、まいりますとも、まいりますとも。お互い総入れ歯ですから、どちらから見てもイイ話(歯無し)相手でしょう」。

 



ことば

五代目古今亭 今輔(ここんてい いますけ);、明治31年(1898)6月12日 - 昭和51年(1976)12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名は、鈴木 五郎(すずき ごろう)。生前は日本芸術協会(現:落語芸術協会)所属。出囃子は『野毛山』。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。

 1913年 - 上野松坂屋に勤務するが、上司と喧嘩し、僅か20日で退社した。以後、11の店を転々とする。
 1914年5月 - 初代三遊亭圓右に入門し、初代三遊亭右京を名乗る。
 1941年4月 - 五代目古今亭今輔を襲名。
 1964年 - 日本放送作家協会大衆芸能賞受賞。
 1967年11月28日 - 師匠小文治の死去にともない、師匠小文治の後任で日本芸術協会副会長に就任。
 1970年1月 - 1月中席(10日~20日)限りで閉場する寄席人形町末廣で最後の主任(いわゆるトリ)を務める。
 1973年 - 3月、昭和47年度第24回NHK放送文化賞受賞。
  4月29日、勲四等瑞宝章受章。
 1974年3月1日 -六代目春風亭柳橋の後任で日本芸術協会二代目会長に就任。
 1976年12月10日 - 胃潰瘍で死去。享年78。叙・従五位。墓所は新宿区顕性寺。今輔の死後、芸術協会三代目会長には総領弟子の四代目桂米丸が就任した。

右写真;「お婆さん落語」を演じる五代目古今亭今輔。

神津 友好(こうづ ともよし);1927(昭和2)年、長野県生まれ。昭和22年上智大学新聞学科卒業。昭和25年法政大学文学部英米文学科卒業。雑誌、業界紙記者を経て、昭和28年より演芸台本の専門作家となる。日本放送作家協会理事、文化庁芸術祭審査委員、芸術選奨選考委員、三越名人会企画委員などを歴任。NHK番組専属作家。花王名人劇場プロデューサー。著書に『笑伝・林家三平』『にっぽん芸人図鑑』『少年少女落語名作選』。2000(平成12)年文化庁長官表彰。
 右写真。

十三回忌(じゅうさんかいき);死後満12年目の回忌。十二支が一回りしてもとにもどった年であるために起ったという。十三周忌。十三年忌。
 同じく七回忌は、7年目の回忌。人の死後、年ごとにめぐって来る当月当日(祥月)の忌日。その満1年目を一周忌または一回忌、満2年目を三回忌または三周忌という。以下七回忌(満6年目)・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌・五十回忌・百回忌などがあり、仏事供養を行う。年忌。年回。

隠居所(いんきょじょ);家長が官職を辞しまたは家督を譲って隠退すること。また、その人、その住居。戸主が自己の自由意志によってその家督相続人に家督を承継させて戸主権を放棄すること。当主の現存の親の称。また、老人の称。その隠居が住む家。
 主屋(おもや)、母屋・母家・主家。(付属の家屋=隠居所に対して) 住居に用いる建物。本屋。

普請(ふしん);建築・土木の工事。家を建てること。

総入れ歯(そういれば);全部義歯であること。また、上下それぞれがひと続きになった義歯。
 隠居の入れ歯は、上アゴの部分に金(ゴールド。右写真)を使っていて、適合性がよく、身体に優しいだけでなく、腐食による変色も起こしません。金や白金の使用により、ゴールドならではの美しい輝きがあります。お婆さんの入れ歯は、保険適用のプラスティック製ですから、金と比べると20倍以上の価格差があります。見せてもらいたくなるのは人情です。

義太夫(ぎだいゆう);浄瑠璃の流派のひとつ。貞享(1684~1688)頃、大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行の各種音曲の長所を摂取。作者の近松門左衛門、三味線の竹沢権右衛門、人形遣いの辰松八郎兵衛などの協力も加わって元禄(1688~1704)頃から大流行し、各種浄瑠璃の代表的存在となる。
 浄瑠璃(じょうるり)は、室町末期に始まり、初めは無伴奏(時に琵琶や扇拍子)で語られた「浄瑠璃姫物語」が広まり、他の物語を同じ様式で語るものをも浄瑠璃と呼ぶに至る。江戸時代の直前、三味線が伴奏楽器として定着し、同じころに人形芝居 と、後には歌舞伎とも結合して、江戸初期以降、上方でも江戸でも庶民的娯楽として大いに流行する。多くの浄瑠璃太夫が輩出し、発声・曲節・三味線が多様化し、初期には金平節・播磨節・嘉太夫節などの古浄瑠璃が盛行、義太夫節・半太夫節・河東節・大薩摩節・一中節・豊後節・宮薗節・常磐津節・富本節・清元節・新内節など、江戸後期までに数十種の流派が次々に派生した。なかでも元禄時代、竹本義太夫・近松門左衛門らによる人形浄瑠璃の義太夫節が代表的存在となり、浄瑠璃の称は義太夫節の異名ともなっている。
 落語「寝床」参照。
右写真:「豊竹呂勢大夫」 人形浄瑠璃文楽 DVD表紙より

お見合い(おみあい);互いに結婚相手としてふさわしいかを見るために、人を介して会うこと。



                                                            2016年10月記

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