落語「凝り相撲」の舞台を行く 八代目雷門助六の噺、「凝り相撲」(こりずもう)より 別名、「相撲風景」(すもうふうけい)
■八代目雷門 助六(1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京都本郷出身の落語家、喜劇役者。本名は岩田 喜多二(いわた きたじ)旧姓は青木。出囃子は『助六ばやし』。愛称は「六さん」。
父は六代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で人形町末広で初舞台、以降小噺やかっぽれで舞台に立った。1917年には五代目柳亭左楽の門人となり、小学校の頃は一時中断していた時期もあったが1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進(この頃同じ実父が芸人だった睦ノ太郎(後の八代目春風亭柳枝)、睦の三郎とで若手三羽烏として売り出される)。1928年には父六代目が睦会を脱退し独立した際に自身睦の五郎を返上し雷門五郎に改名する。このころから三遊亭歌奴(後の二代目三遊亭圓歌)、柳亭芝楽(後の八代目春風亭柳枝)、橘家圓蔵(後の六代目三遊亭圓生)ら若手真打5人を集めて「五大力の会」を結成。
■相撲(すもう);花見や月見の行楽や、芝居見物、相撲見物は江戸の楽しいイベントのひとつです。落語「寛政力士伝」、「佐野山」、「稲川」、「幸助餅」、「花筏」等で紹介しています。
「平安朝相撲節会の図」
「織田信長の上覧相撲」
歌川豊国(三代)画 「東の方土俵入之図」弘化2年(1845)
徳川将軍家の上覧相撲もたびたび開催された。
歌川国輝(二代)画 「勧進大相撲土俵入之図」慶応2年(1866)
江戸時代から、また座頭相撲と、そこから派生した女相撲の興行も存在し昭和30年代後半まで存続した。
江戸期には都市の発達に伴い大都市のみならず地方都市においても相撲興行が行われ、歌舞伎や人形浄瑠璃などとともに催された。それに伴い多くの浮世絵師が相撲や力士の錦絵を製作し、力士絵は浮世絵のジャンルとして確立した。
『北斎漫画』の相撲絵。
■出方さん(でかたさん); 芝居茶屋・相撲茶屋などに所属し、客を座席に案内したり、飲食物の世話をしたりする人。
両国国技館の茶屋に配属された、たっつけ袴の出方さん。
■江戸っ子だね、何処の生まれだぃ、神田の生まれで・・・、気に入った。寿司食いね~。酒飲みね~;
森の石松(もりのいしまつ、生年月日不明 - 1860年7月18日(万延元年6月1日))は、清水次郎長の子分として幕末期に活躍したとされる侠客。浪曲では「福田屋という宿屋の倅」ということになっている。森の石松の「森」とは森町村のことである。半原村説では、半原村で生まれたのち、父親に付いて移り住んだ森町村で育ったという。なお、現在語り継がれている石松は、清水次郎長の養子になった天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』に因るところが大きく、そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していた、または豚松のことを石松だと思って書かれたとも言われており、石松の人物像はおろか、その存在すら信憑性が疑われている。しかし、「遠州っ子」(1980年、ひくまの出版・刊)の森の石松にまつわる記事には、出所後の晩年を興行主として相撲や芝居などの開催を仕切っていた清水次郎長と会った事のあるという人が、次郎長が森の石松の事を聞かれて涙したと語っていた事などの記述があるため、森の石松が実在の人物なのか、それとも空想上の人物なのか、ますます判らなくなっている。
■最後に相撲の小話を三つ、
まずは「相撲場」(すもうば)
「相撲の蚊帳」(すもうのかや)
「四十八手」を、
2016年10月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |