落語「平家物語」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「平家物語」(へいけものがたり)より


 

 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
【三平さんと違ってスラスラ言えるでしょ】

 歴史は勝者の記録で平家物語もそうです。

 平清盛も悪く言われたが、人間だから血も涙もあった。鴨川の流れと、賽の目と比叡山の荒坊士は自由にならないと天皇に言わしたが、荒坊士が担ぎ込んで来た御輿に矢を放った武将であり政治家であった。平家に対したクーデター待賢門で破れた源義平を嘆願によって伊豆に逃がしてやった。
【ジンギスカンの逸話が出て、当時の世界の4/5を取ったが、今は残っているのはジンギスカン鍋だけ】
 義朝(よしとも)の二号の常磐御前に惚れた。当時、今若・乙若・牛若の子供がいたが、3人の子供を助けてくれたら清盛の意に沿うと言った。源氏方の記録によると『操を捨てて操を立てた』とキザなことを言った。
【時の権力者、週刊誌もない時代、何をしても咎められないときに、こんなキザな事は無い。平安時代の名残で、フリーセックスが当たり前の時代です】

 伊豆で大きくなった牛若は親の敵を狙っていたので、
【牛若丸に聞いたら、「親父の仇で、首をねじ切っちゃう」といいだした。「この年齢なら殺人しても罪にならない」とすごいことを言った】
 京都の鞍馬山に預けられた。
【ここには鞍馬天狗がいて、覆面してピストル持って「おじちゃんはな~」・・・、談志だか木久蔵(林家木久扇)だか分からなくなっちゃった】
源氏復興のシンボルにしようとありとあらゆる事を仕込んだ。
【忍法・剣法(憲法)・時事経済・天文地理・お香々の漬け方・ケンカの仲裁・ゴルフ・ボーリング・麻雀からコイコイまで教えた】
 奥州の藤原秀衡(ひでひら)に落ち延びていく前に、五条の大橋で弁慶を討ち取り、家来の第1号にして連れて行った。
【弁慶は大工の出稼ぎみたいな道具を背負って牛若丸はオカマみたいな薄化粧で、弁慶切りつけると牛若欄干に登ってコイコイをした。弁慶怒って欄干で額を打ち付けてコブを作って、ランカンに怒った
 義経四天王、伊勢三郎、駿河次郎、亀井六郎、片岡八郎、を連れて奥州へ。


 その頃、清盛は安芸の宮島を直し、京の都を修復していた。『平氏に有らざる者は人間に有らず』と言うおごりの言葉を吐いた。
【そんな事言ってみたいね。夏の暑い時、歩いている人の側によって、エアコンを効かせた車内から「君、表は暑いの?」なんて、言ってみたい】
 清盛、火が燃えるような病に取り憑かれた。陽を招き返すほどの清盛もこの病には勝てなかった。
【「夕陽の落ちていくのを見るのはまっぴらだ」と、「なぜなら、私を捨てて行った男を思い出すから」と言ったとか。セントルイスブルースはこの様にして生まれた】

 倶利伽羅峠(くりから とうげ)の一戦では雨が降る中、油断をしていた平家の軍勢に、牛の角に松明(たいまつ)を付けて敵陣になだれ込むと倶利伽羅谷に屍の山を築いた。大将維盛(これもり)敗戦の報告に平家一門、西国の福原(兵庫県神戸市)に下った。
【基礎(木曽)訓練が出来ていた】
 都に入った勝った木曽義仲は悪徳非道を繰り返し、都人(みやこびと)の反感を買い、後白河院は義仲の追討と伊豆にいた源頼朝の上洛を画策する。頼朝から派遣された範頼・義経は義仲の討伐に動いた。
【東北に長いこといた義経は、ズーズー弁になって、昔の社会党の委員長のようになってしまった】
 宇治川の合戦ではいとこ同士、身内同士の熾烈な戦いとなった。
【血で血を洗う戦で、刀や鑓が流れてくる。戦死者が流れてくる。死んだ馬が流れてくる。その馬だけを集めている者が居る。見ると深川の”みのや”の親父だった】
義仲は流れ矢に当たって31歳を一期として終わった。

 平家10万の大群を追って寿永3年2月7日摂津播磨の国境鵯越(ひよどりごえ)の坂落としを仕掛け、総大将の義経は、ここ一ノ谷合戦で、勝利し、熊谷直実は、船をめざし海に入ってゆく敦盛を討つが自分の子供のような歳に頭を丸めて坊主となった。

 屋島合戦に勝利して、その夕方、日暮れ近く源平軍が引き分けたところへ、平家側から扇の的を立てた船が進み出てくる。義経が那須与一宗高に命じると、与一は神々に祈って弓を引き絞り、揺れる的を見事に射抜いた。
 (講談調になって) 鏑矢(かぶらや)を満月のように引き絞り、放つと扇が一舞二舞して海に落ちた。
【「大当たり一等賞!大正製薬の痔の薬をお持ち帰りください」】

 平家は長門国・壇ノ浦へと逃げ落ち、最後の合戦となる。能登守教経(のりつね)は敗戦を見届け源氏の兵士を両腕に抱え入水し、ヘイケガニの元祖となる。知盛(とももり)は錨を巻き付け海の藻屑となる。

 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、と言う平家物語でございます。 

 



ことば

平家物語(へいけものがたり);『平家物語』は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、以下の「祇園精舎の鐘の声・・・」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。

祇園精舎(ぎをんしやうじや)
 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
 遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。

  二条院の応保年間(1161年-1162年)から、安徳天皇の寿永年間(1182年-1183年)までの20年余りの源氏、平家の盛衰興亡を百数十項目にわたって詳しく叙述する。 軍記物語の代表作の一つとされる。
 「祇園精舎」の段で諸行無常盛者必衰の理を説いた後、平忠盛の昇殿を契機としてその嫡男・清盛の代に平家が頂点を極めるようになるところから始まる。以後、繁栄を極める平家と反感を抱く後白河院とその近臣たちの対立、後白河院の幽閉、後白河院の皇子・高倉宮以仁王の平家追討の号令と落命と続くが、福原遷都、頼朝挙兵の報の後、清盛の死により平家の命運は大きく傾いていく。木曾義仲の蜂起に都落ちして一旦西国へ逃れた平家に対して、後白河院は義仲の追討と源頼朝の上洛を画策する。頼朝から派遣された範頼・義経は義仲を討伐し、次いで一ノ谷合戦、屋島合戦に勝利して、平家は長門国・壇ノ浦へと逃げ落ちる。
  これら源平の合戦が物語の縦糸とするならば、横糸として事件や人物の余話および和漢の故事、たとえば鬼界島に流罪となった俊寛僧都の許を訪れる有王や、頼政の鵺(ぬえ)退治、隆房と小督の悲恋、勅撰歌人・忠度や琵琶の名手・経正の都落ちのさまなどが挟まれる。巻十一は、母・二位尼と愛息・安徳天皇の入水を見て後を追う建礼門院徳子が源氏に捕らわれ、宗盛・重衡などの平家の武将が次々と処刑されるところで巻を終える。  

(ぬえ);源頼政が紫宸殿上で射取ったという伝説上の怪獣。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に、声はトラツグミに似ていたという。平家物語などに見え、世阿弥作の能(鬼物)にも脚色。

落語の平家物語
 「祇園精舎の鐘の声・・・」のくだりをひとくさり述べたあと、『平家物語』の粗筋を断片的に話し、それに関係しているかしていないか微妙なギャグやジョーク、小噺(時事ネタなど、現代の話でも全くかまわない)を連発、一段落ついたところでまた『平家物語』に戻る、という構成がとられる。小噺で笑いを取るほうが重要で、極端に言えば『平家物語』は数々の小噺をつなぎ止める接着剤の役割にすぎない。
 落語家の七代目林家正蔵(三平の父親)、初代林家三平、十代目桂文治、立川談志らの得意ネタとなっていた。元々は「源平盛衰記」といえば七代目林家正蔵の十八番であり、これを東宝名人会で聞き覚えていた息子の初代三平が後輩の柳家小ゑん(後の談志)に伝授した。これにより、「源平」は多くの落語家に演じられるようになった。 演者ごとのストーリーを大まかに記しても、実際には筋はないので、口演ごとに異なっていた。特に談志のものは初代三平から教わった「源平」に吉川英治の「新・平家物語」のエッセンスを加えたものである。
 派生の噺として那須与一の屋島の戦いでの扇の的の下りを詳しく話す春風亭小朝の『扇の的』=『源平盛衰記』という演目がある。
ウイキペディアより

■「挿絵で読む平家物語

坂落とし:大手からの攻撃のみでは源平の戦いは決着を見ない。鵯越(ひよどりごえ)の崖上の義経軍に驚いた鹿が三頭、平家の陣に転げ落ちた。平家の者どもが騒ぐ中、武智清教が射殺してしまった。 下左図。以下どの図もクリックすると大きくなります。

 

坂落とし2:試みに義経が馬を数頭落とすと、三頭だけは無事に着いた。乗手が心すれば行けると義経を先頭に三千の軍勢が鵯越の崖を下る。目を塞ぎ声を忍ばせ続いて駆け下り、どっと鬨を挙げた。 上右図。

敦盛最期:熊谷直実は、船をめざし海に入ってゆく立派な出で立ちの武者を呼び返して組み伏せる。見れば我子の年ほどの少年だが、やむなく首を切る。この平敦盛を討ったことが直実出家の機縁となった。 下左図。

 

落足:安徳天皇を奉じて平家一門は船に乗って海に出る。行く末も判らず、互いの死生も知れない。十四箇国を従え十万騎の兵で都に近付いたものが、一の谷の戦に敗れて一挙に心細くなった。 上右図。

弓流;源平の乱戦の中、義経は弓を海に落としてしまう。熊手や薙鎌で狙う平家軍の目前で、義経は必死に弓を掻き寄せて取る。弱弓を平氏に拾われて侮られるのを恐れたのであった。下左図。

  

那須与一:日暮れ近く源平軍が引き分けたところへ、平家側から扇の的を立てた船が進み出てくる。義経が那須与一宗高に命じると、与一は神々に祈って弓を引き絞り、揺れる的を見事に射抜いた。上右図。

能登殿最期:安徳天皇は二位の尼に抱かれて海底に沈んだ。後を追った建礼門院は、源氏軍に引き上げられる。平家の面々は続いて入水するが、宗盛と長男の清宗は泳いでいるところを生捕られる。下左図。

 

 生捕りにされた平家の者が、簾を上げた牛車で都大路を引き回される。恥じる様子もない宗盛と清宗、時忠と続く。宗盛の牛飼が申出て、主の牛車に従う。人々は一時の栄華と比べて涙する。 上右図。

以上、挿絵で読む平家物語 明星大学蔵より http://ehon-emaki.meisei-u.ac.jp/heike/heikesmain.html 

牛若丸(うしわかまる);源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を生んだ。
右図:『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」。源義経(奥)とその家来である武蔵坊弁慶(手前)。1885年(明治18年)刊。月岡芳年作

待賢門(たいけん‐もん);平安京大内裏の外郭十二門の一。宮城の東面、郁芳門の北、陽明門の南にある。もと建部門(タケベモン)と称。中御門(ナカミカド)。
待賢門の戦:平治の乱において、待賢門付近で行われた平重盛と源義平との一騎討を交えた戦い。

常盤御前(ときわ);【常磐・常盤・常葉】。平安末期の女性。もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕。源義朝に嫁し、今若・乙若・牛若を生む。平治の乱に義朝敗死後、大和に隠れたが、六波羅に自訴、子供の命乞いのため平清盛になびき、のち藤原長成に再嫁した。生没年未詳。

平清盛(たいらのきよもり);(1118~1181)平安末期の武将。忠盛の長子。平相国・浄海入道・六波羅殿などとも。保元・平治の乱後、源氏に代って勢力を得、累進して従一位太政大臣。娘徳子を高倉天皇の皇后とし、その子・安徳天皇を位につけ、皇室の外戚として勢力を誇った。子弟はみな顕官となり専横な振舞が多く、その勢力を除こうとする企てもしばしば行われ、没後数年にして平氏の嫡流は滅亡。

安芸の宮島(あきのみやじま);今の広島県の西部。芸州。瀬戸内海に有る厳島(イツクシマ)の別称。
 松島・天橋立とならび、日本三景のひとつとして知られる景勝地である。古代から島そのものが自然崇拝の対象だったとされ、平安時代末期以降は厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性からたびたび歴史の表舞台に登場した。景勝地としての厳島の中心は、厳島神社で、海上に浮かぶ朱の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した。
右図:歌川国貞『紅毛油絵風』内の「安芸の宮島」

藤原秀衡(ふじわら‐の‐ひでひら);( ~1187)平安末期の武将。基衡の子。出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守。平泉に居り、奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。

倶利伽羅峠(くりから‐とうげ);富山・石川県境にある北陸道の峠。標高277m。山中に倶利迦羅不動明王の小祠がある。1183年(寿永2)源義仲が「火牛の計」によって平維盛を破った所。礪波(トナミ)山。

木曾義仲(きそのよしなか);源義仲。(1154~1184)平安末期の武将。為義の孫。2歳の時、父義賢が義平に討たれた後、木曾山中で育てられ、木曾次郎(義仲)という。1180年(治承4)以仁王(モチヒトオウ)の令旨を奉じて挙兵。平通盛らを越前に破り、平維盛を礪波山(トナミヤマ)に夜襲し、平氏を西海に走らせて京都に入り、84年(寿永3)征夷大将軍に任ぜられたが、範頼・義経の軍と戦って敗れ、近江粟津原で戦死。

福原(ふくはら);1180年(治承4)平清盛が安徳天皇を奉じて一時新都とした地。公家たちの反対が多く半年で京都に復帰。場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島(経ヶ島)を築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。 平清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行したが、それは宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、都市整備が進めば平氏政権による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。のちに福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。

宇治川の先陣(うじがわ‐の‐せんじん);1184年(寿永3)木曾義仲が源義経を防いだ宇治川の合戦で、義経勢の佐々木高綱・梶原景季がそれぞれ源頼朝から与えられた名馬生(イケズキ)・磨墨(スルスミ)に乗って先陣を争ったこと。

深川の”みのや”;東京・江東区森下にある、桜なべ(馬肉料理)の老舗。

一谷(いちのたに);神戸市須磨区の、鉄枴(テツカイ)・鉢伏(ハチブセ)の両山が海岸に迫る地域。北に鵯越(ヒヨドリゴエ)がある。1184年(寿永3)源義経が平家の軍を攻めた古戦場。

屋島の戦(やしま‐の‐たたかい);元暦2年(文治元年、1185)2月屋島で行われた源平の合戦。一谷(イチノタニ)敗戦後、平宗盛は安徳天皇を奉じて屋島に拠ったが、源義経に攻められて瀬戸内海を敗走。

那須与一(なすのよいち);鎌倉初期の源氏の武将。名は宗高。与一は通称。与市・余市とも。下野国那須の人。弓の名手。屋島の合戦で平家が舟に掲げた扇の的を一矢で射た話が平家物語にあり、後世、謡曲・浄瑠璃などに脚色された。生没年未詳。

壇ノ浦の戦(だんのうら‐の‐たたかい);元暦2(文治元年)年(1185)3月24日、長門壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。平氏は宗盛が安徳天皇および神器を奉じ、源氏は義経を総大将とし、激戦の後に平氏は全滅し、二位尼は安徳天皇を抱いて入水した。



                                                            2017年2月記

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