落語「九州吹き戻し」の舞台を行く 立川談志の噺、「九州吹き戻し」(きゅうしゅうふきもどし)より
■奉賀帳(ほうがちょう);もともとは、社寺に寄進する金額を記した帳面で、のちには寄付を募った時、その金額と氏名を記録する 台帳の意味で使われました。 「奉加帳を回す」といえば、仲間がピンチのとき、 有志が友人一同に、義援金を集めて回ること。 落語「五貫裁き(一文惜しみ)」でも奉加帳を回すシーンがありますが、その奉加帳のトップには、一番金の出してくれるところに行くのですが・・・。
■本船(もとぶね);親船ともいい、小船を従えている荷船の中でも特に大船を指します。沖にあって、艀(ハシケ)で陸上と交通する大船。九州・四国の諸藩では参勤交代用に大名を乗せる大きな御座船を持っていました。熊本藩でも大きな御座船を持っていて、参勤交代の時には123隻が船団を組んで、行きと帰りで2隻の御座船を使い分けていました。これとは別に、荷船として日本沿岸を回る商業船が発達し、大きさの制限は江戸中期以後は暗黙の内撤廃されたが、外洋船としての大型船は和船では製造されなかった。
■荷船(にふね);荷物の運送船。江戸期から明治に掛けては和船構造の弁才船を指して言った。
大坂と江戸を結んだ菱垣廻船(ひがきかいせん)が物資を運んでいた。伝馬船を船首近くに搭載している弁才船。文化期(1804-17年)千五百石積の図を元に1/10に復元したもの。江戸東京博物館蔵。
船体に比べて舵が大きく、しかも船体に固定されてなく 吊り下げ式のため、荒天時には荒波に打たれて 舵が破損 ・ 流失し易く、遭難する最大の原因になりました。1本マストのために、暴風雨の時など沈没の危機に直面してマストを切り倒すと、その後の航行が全く不能になり、これも難破、漂流の大きな原因になりました。 欠点だけでなく利点もあり、時化により遭難しかかっても荷物を捨てて船を軽くすれば、水船(みずぶね)状態 (半分、水に沈んだ船の状態 )になっても、木造船のため簡単には沈没しないという長所もありました。
帆の裏を見せて走る弁才船。伝馬船を船首に搭載し吃水が揚がっているので空荷の時であろう。天保2年(1831)に加賀粟橋八幡宮に奉納された大絵馬。
荒天をしのぐ弁才船。まず帆を下げて、追い風、追い波で船を流し、最期に船首を風上に立てて流します。左の船がそうです。両船とも船首から船足を落とすために、イカリが付いた綱を垂らします。左の船はその綱が利いているので、ピンと張っています。船首部分に赤い字の木札と空中に現出した金比羅大権現の御幣が見えます。明治20年(1887)能登福浦の金比羅神宮に奉納された絵馬藤筆の絵馬。
荒天の中、帆柱を切り捨てた天神丸を曳航する利天丸。荒天下帆を下げても帆柱に当たる風で船が流されるのを防ぐため、海難に際し人事を尽くした証でもあった。慶応4年(1868)、能登福浦の金比羅神宮に奉納された絵馬。
本文中の弁才船は、絵師の力によって写実に優れている。寛永4年(1851)持ち船住徳丸の絵馬を近江八幡の円満寺に奉納したもの。
■柳橋(やなぎばし);台東区柳橋。きたり喜之助が住んでいた、両国橋の西側、京葉道路を渡った北側、柳橋を渡ると浅草柳橋(町)です。花柳界があって賑わった地です。落語「不孝者」、「一つ穴」に詳しい。
■肥後の熊本(ひごのくまもと);九州中部西側の国で、元来は肥前国と合わせて火国(肥国、ひのくに)であった。火国の名は、活発な噴火活動を行っている阿蘇山に由来するといわれる。また一説には、肥前・肥後両国の有明海沿岸に広がる干潟に由来するともいう。7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。
肥後熊本藩主
■根津八重垣町(ねづやえがきちょう);元成駒屋・現江戸屋の旦那が住んでいた地。江戸時代も現在も同名の地名はありません。近い名前でしたら、根津宮永町、根津門前町、等、文京区根津神社の周りにあります。また、八重垣町は単独名でも存在しません。
■阿蘇(あそ);阿蘇山(阿蘇五岳と外輪山)は、典型的な二重式の火山。阿蘇山といえば阿蘇五岳を中心にした中央部の山々を呼ぶことが多いが、広い意味では外輪山や火口原をも含めた呼び名。
写真:阿蘇の花ごよみフォトコンテスト2016入賞作品。「阿蘇谷遠望」 河本ふみえ写
■赤のご飯(あかのごはん);赤飯。小豆(アズキ)またはささげを煮汁とともに糯米(モチゴメ)にまぜて蒸籠(セイロウ)で蒸した強飯(コワメシ)。おこわ。赤の御飯。多く祝事に用いる。
■小粒(こつぶ);豆板銀(まめいたぎん)のことで、江戸時代に流通した銀貨の一種。小粒銀(こつぶぎん)、小玉銀(こだまぎん)とも呼ばれる。当時、銀座において用いられた正式名称は「小玉銀」であり、『三貨図彙』にもこの名称で記述されているが、『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には「豆板銀」という名称で収録されている。
■夜中の九つ(よなかの ここのつ);夜中の0時。いくら早く宿を出て、早く宿に着くと言われたって、こんなに早く出発しなくても。早立ちの時は、七つ(午前4時頃)立ちと言って、未だ外は暗い内に出掛け、途中で朝日が昇ってきます。”♪お江戸日本橋
七つ立ち・・・”と、歌にも有ります。
■二里(2り);距離の単位で、1里は(3.9273km)約4km、1時間で歩ける距離です。喜之助は約2時間掛けて、街の中心から湊までやって来たのです。
■羅漢様(らかんさま);阿羅漢(アラカン)の略。仏教では、阿羅漢でない者が阿羅漢を名乗ることを故意・過失を問わず「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊崇することも盛んになった。談志が言っているようなヒゲもじゃの恐い顔相の人達とは違います。落語「五百羅漢」に五百羅漢之図が有ります。
■玄界灘(げんかいなだ);福岡県の北西方の海。東は響灘、西は対馬海峡・壱岐水道に連なり、冬季風波の激しさで名高く、洋中に大島・小呂オロ島・烏帽子島・姫島・玄界島などがある。玄海。右図参照。
■壱岐の島(いきのしま);長崎県壱岐市。壱岐島は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島である。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』によれば、別名を天比登都柱という。
周囲には23の属島が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。右図参照。
■桜島(さくらじま);桜島は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77km²の火山。かつては島であったが、1914年の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。
■車軸を流すような雨(しゃじくをながすようなあめ);車軸を下(クダ)す。
雨が車軸のような太い雨足で降ること。大雨の形容。
2017年9月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |