落語「九州吹き戻し」の舞台を行く
   
 

 立川談志の噺、「九州吹き戻し」(きゅうしゅうふきもどし)より


 

 江戸は柳橋に、きたり喜之助がいた。「太鼓持ちあげての末の太鼓持ち」、遊びすぎて野太鼓まで成り下がり、喜之助も親にもらった全財産を使いっきり、わずかに残った金を懐に東海道を京都から大和、四国に渡って、銭が切れたときには、肥後の熊本の城下へ。宿の客引きも文無しは引かない。江戸屋の看板を見つけて逗留。
 翌朝、宿の主人がやって来て、「おや、喜之さんじゃなか」と声が掛かった。根津八重垣町の成駒屋の旦那であった。成駒屋も江戸から流れ流れて熊本で花開いた。同じ江戸者で素性も知れた身、宿を手伝ってくれの一言で、ここに落ち着くことになった。口が奢っていたので板前から、帳付けから、掛け取り、客引きから片付け、掃除まで・・・。時には太鼓持ちの真似事までやったが、吉原でならした野太鼓だったが、この地の太鼓持ちとは格が違って、お客から引く手あまただった。江戸屋に世話になって三年越し(みとせごし)。

 「旦那、帰って来ました」、贔屓客から誘われて阿蘇まで遊びに行っていた。「これ贔屓客から貰った祝儀で・・・」、「黙ってもらっているようだが、幾ら貯まったか分かるかぃ」、「給金もらっているから、これは旦那のもの」、「大店の若旦那で有って、おうようだな。で、幾ら有ると思う」、「40両ぐらいですか?」、「いや、97両有って、今の祝儀を足すと100両有るよ。もう一本貯めな。そうすると宿屋が持てるよ。江戸屋の暖簾も分けるよ。気に入った女が居れば一緒になれば良い。私も、江戸から離れて親戚も友人もないから、二人で親戚付き合いをしようよ。追々考えておくれ」。「では、お休みなさい」、喜之助、100両持っていると分かると、望郷の念に取り憑かれてしまった。布団の上に居たが寝付かれず、階下に降りてきた。
 「お袋の顔が浮かんで、ひと目この顔を見せてやりたい」、「喜之さん、おっ母さんは亡くなったと言っただろう。江戸に帰りたくなったんだろう。私にもその時期があったが帰らなくて良かった。江戸は生き馬の目を抜くと言うだろう。100両ぐらいの金ではまばたきをする間に無くなってしまうよ。ここで商売した方がイイと思うよ」。思い詰めたら始末に悪い。時間を置いても気持ちは変わらない。「分かったよ。お帰り。その100両は手つかずで持って行きな。旅費は御贔屓に奉加帳を回すから」。
 普段可愛がられている喜之助ですから、20両という金が集まった。旦那は小粒で5両と巾着を餞別代わりに渡した。「明日は赤のご飯を炊いて町外れまで送って行くよ」、「何から何まで有り難うございます」。二階に上がって寝ようと思っても眠れない。起き出して旅支度をして、草履まで部屋で履いて、用意万端・・・、江戸に着いたら、あれをしよう、これをしようと一人夢想している喜之助。明けの鐘が鳴ると飛び起きて、下に降りてきた。「喜之さん、未だ夜中の九つ(午前0時)だよ」、何言っても聞く耳持たないから「行ってきます」と駆け出した。

  熊本城が暗やみの中に浮き上がっていた。二里も歩けば潮の香りがしてきた。間口が五間もあろうかと思うお屋敷に船頭連中が集まってたき火にあたっていた。赤銅色の髪はぼうぼうで羅漢様のような風体だ。「俺たちは海賊では無い、船人じゃわぃ。なに?『お袋さんが江戸で病気に・・・』、便船(びんせん=荷船に客を乗せること)は天下のご法度だが、病気なら良いだろう」。と言うことで、江戸三百五十里まで本船(もとぶね)に乗せてくれることになった。帆を揚げて風に乗って船は出て行った。天気は快晴。二千石の大船だから気分は最高。船底に隠れるように乗っていたが、海に出れば船上に上がってきても大丈夫、もう七里は走っただろう。
(右図:軽快に帆走する弁才船) 

 順風満帆、好事魔多しと言って、このままだったら江戸には難なく行けたが、玄界灘に差し掛かった頃、壱岐の島の方から、雲が湧き出て波が立ち始め、喜之助の顔にも潮が飛んで来るようになった。
 雲は益々濃くなって稲妻が走るようになった。墨を流したような真っ暗な海面、ポツリ・ポツリと大粒の雨が降ってきた。車軸を流すような雨になった。
 「嵐が来たぞ~。帆を下ろせッ!客人を船室にお連れ申せ」、ものすごい勢いで船は揺れる。荷物は右に行ったり、左に行ったり。帆柱より高い波が来て船をもてあそぶ。喜之助生きた心地はしない。船頭に言われて帯を柱に結わき付けられた。「帆柱が危ない。切り倒せッ」、最後の手段です。風が強く、甲板は傾くので腰が定まらない。それでも帆柱は切り倒され、暗黒の海の中に吸い込まれていった。「荷打ちだッ~」、荷打ちは、乗組員の食い扶持の米だけを残して全て海に投げ込むことで、船神さまに助けてくださいとお願いをかけることです。そのうち、「髻(たぶさ)を切れッ」、当時、髻(まげ)と言えば命と同じ、これを水天宮様に捧げるのです。嵐は二日二晩荒れ狂う海の中。

 3日目の明け方、さしもの嵐も静まって、ゴトンッと言う大音響と共に陸に打ち上げられたのが、火を噴く桜島。江戸までは薩摩の桜島から四百里、肥後の熊本から江戸までは三百五十里。喜之助、帰りを急ぎ過ぎたため、五十里も吹き戻された。ほうほうの体で熊本に帰ってきた喜之助。
 「喜之さん、どうしたッ」、「これこれで・・・、海難事故で帰って来ました。良く命がありました。天が許しませんな。江戸の空に嫌われました」、「ははは、玄界灘の波に焼きもちを焼かれたと思えばイイよ」、「船に乗るのも、江戸に帰るのも、旦那の意見が身に染みました」、「生きて帰って来たんだよ。喜之さんも広大無辺なことを・・・、大きな話だね~」、「いえ、シケた話です」。

 



ことば

奉賀帳(ほうがちょう);もともとは、社寺に寄進する金額を記した帳面で、のちには寄付を募った時、その金額と氏名を記録する 台帳の意味で使われました。 「奉加帳を回す」といえば、仲間がピンチのとき、 有志が友人一同に、義援金を集めて回ること。 落語「五貫裁き(一文惜しみ)」でも奉加帳を回すシーンがありますが、その奉加帳のトップには、一番金の出してくれるところに行くのですが・・・。

本船(もとぶね);親船ともいい、小船を従えている荷船の中でも特に大船を指します。沖にあって、艀(ハシケ)で陸上と交通する大船。九州・四国の諸藩では参勤交代用に大名を乗せる大きな御座船を持っていました。熊本藩でも大きな御座船を持っていて、参勤交代の時には123隻が船団を組んで、行きと帰りで2隻の御座船を使い分けていました。これとは別に、荷船として日本沿岸を回る商業船が発達し、大きさの制限は江戸中期以後は暗黙の内撤廃されたが、外洋船としての大型船は和船では製造されなかった。
  また、九州からは、瀬戸内海を船で渡り、その後は東海道を歩いて江戸まで行きました。江戸まで船で行かなかった理由は、途中の関所を立ち寄らずにパスすることを幕府では関所破りとして禁止していたからです。

荷船(にふね);荷物の運送船。江戸期から明治に掛けては和船構造の弁才船を指して言った。

 

 大坂と江戸を結んだ菱垣廻船(ひがきかいせん)が物資を運んでいた。伝馬船を船首近くに搭載している弁才船。文化期(1804-17年)千五百石積の図を元に1/10に復元したもの。江戸東京博物館蔵。

 船体に比べて舵が大きく、しかも船体に固定されてなく 吊り下げ式のため、荒天時には荒波に打たれて 舵が破損 ・ 流失し易く、遭難する最大の原因になりました。1本マストのために、暴風雨の時など沈没の危機に直面してマストを切り倒すと、その後の航行が全く不能になり、これも難破、漂流の大きな原因になりました。 欠点だけでなく利点もあり、時化により遭難しかかっても荷物を捨てて船を軽くすれば、水船(みずぶね)状態 (半分、水に沈んだ船の状態 )になっても、木造船のため簡単には沈没しないという長所もありました。
 弁財船(千石船)は 内航用に発達した為に耐波性( Sea Worthiness )に乏しく、外洋航海には適していませんでした 。それは1633年から始まった徳川幕府の鎖国政策に適したものであり、鎖国以前に徳川家康などがおこなった東南アジア諸国との貿易に使用され、年平均11隻が海外に向け運航した御朱印船(ごしゅいんせん)とは構造が大きく異なるものでした。

 

 帆の裏を見せて走る弁才船。伝馬船を船首に搭載し吃水が揚がっているので空荷の時であろう。天保2年(1831)に加賀粟橋八幡宮に奉納された大絵馬。

 

 荒天をしのぐ弁才船。まず帆を下げて、追い風、追い波で船を流し、最期に船首を風上に立てて流します。左の船がそうです。両船とも船首から船足を落とすために、イカリが付いた綱を垂らします。左の船はその綱が利いているので、ピンと張っています。船首部分に赤い字の木札と空中に現出した金比羅大権現の御幣が見えます。明治20年(1887)能登福浦の金比羅神宮に奉納された絵馬藤筆の絵馬。

 

 荒天の中、帆柱を切り捨てた天神丸を曳航する利天丸。荒天下帆を下げても帆柱に当たる風で船が流されるのを防ぐため、海難に際し人事を尽くした証でもあった。慶応4年(1868)、能登福浦の金比羅神宮に奉納された絵馬。

 本文中の弁才船は、絵師の力によって写実に優れている。寛永4年(1851)持ち船住徳丸の絵馬を近江八幡の円満寺に奉納したもの。
 各絵馬の絵は、「日本の船・和船編」 安達裕之著 船の科学館発行より転載。

柳橋(やなぎばし);台東区柳橋。きたり喜之助が住んでいた、両国橋の西側、京葉道路を渡った北側、柳橋を渡ると浅草柳橋(町)です。花柳界があって賑わった地です。落語「不孝者」、「一つ穴」に詳しい。
子規の句で、
 「春の夜や女見返る柳橋
 「贅沢な人の涼みや柳橋
と唄われるように、隅田川に面していて両国橋西詰めから神田川が合流する、その際に架かった柳橋を渡ると、その北側には柳橋と言う町があって、その柳橋花柳界で金持ちは遊んだ。江戸っ子というと職人さん達や小商人さん達ですが、大店の旦那衆は金銭感覚が違っていて、ここは職人達がおいそれと遊べる所では無かった。
 江戸が明治に変わり、新政府に仕える元武士達が東京に大勢入ってきた。その時江戸っ子はその者達を粋さが無いと馬鹿にして軽蔑した。吉原でも同じようにその者達を軽蔑して楽しく遊ばせなかったので、彼らは柳橋や赤坂で遊ぶようになった。ために、柳橋は多いに賑わった。
 また、両国の花火では多いに賑わい、そのスポンサーとしての地位を築いていたが、隅田川の護岸が高くなり川面が見えなくなってしまった。それに輪を掛けて、高度経済成長期であったので、隅田川の水が墨汁のように真っ黒く染まり、悪臭を放って遊びどころでは無くなった。その為、客が激減して営業が成り立たなくなり花火も中止になり、街はマンションや事務所ビルに変わっていった。しかし、現在でも幾つかの料亭は続いています。私の調べでは、和風造りの「傳丸」、ビルの1階で「亀清楼」の2軒が営業していますし、夜になれば料理屋さんとして店を開くであろう和風の昔ながらの店もあります。
 しかし、芸者の元締め、見番が無くなって久しい。と言うことは、残念ながらこの柳橋には芸者が現在絶滅して一人も居ません。
 落語「一つ穴」より転載

肥後の熊本(ひごのくまもと);九州中部西側の国で、元来は肥前国と合わせて火国(肥国、ひのくに)であった。火国の名は、活発な噴火活動を行っている阿蘇山に由来するといわれる。また一説には、肥前・肥後両国の有明海沿岸に広がる干潟に由来するともいう。7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。
 肥後もっこす(ひごもっこす)は、熊本県の県民性を表現した言葉。津軽じょっぱり、土佐いごっそうと共に、日本三大頑固のひとつに数えられる。

肥後熊本藩主
 加藤清正 (慶長10年(1605年)、従五位上・侍従兼肥後守)、熊本藩加藤家初代藩主
 加藤忠広、熊本藩加藤家第二代藩主
 細川光尚、熊本藩細川家二第代藩主

根津八重垣町(ねづやえがきちょう);元成駒屋・現江戸屋の旦那が住んでいた地。江戸時代も現在も同名の地名はありません。近い名前でしたら、根津宮永町、根津門前町、等、文京区根津神社の周りにあります。また、八重垣町は単独名でも存在しません。

阿蘇(あそ);阿蘇山(阿蘇五岳と外輪山)は、典型的な二重式の火山。阿蘇山といえば阿蘇五岳を中心にした中央部の山々を呼ぶことが多いが、広い意味では外輪山や火口原をも含めた呼び名。
 外輪山は南北25km、東西18km、周囲128㎞もあり、世界最大級の火山です。火口原には約5万人が生活していて、田畑が開け、阿蘇市・高森町・南阿蘇村の三つの自治体があります。

写真:阿蘇の花ごよみフォトコンテスト2016入賞作品。「阿蘇谷遠望」 河本ふみえ写

赤のご飯(あかのごはん);赤飯。小豆(アズキ)またはささげを煮汁とともに糯米(モチゴメ)にまぜて蒸籠(セイロウ)で蒸した強飯(コワメシ)。おこわ。赤の御飯。多く祝事に用いる。

小粒(こつぶ);豆板銀(まめいたぎん)のことで、江戸時代に流通した銀貨の一種。小粒銀(こつぶぎん)、小玉銀(こだまぎん)とも呼ばれる。当時、銀座において用いられた正式名称は「小玉銀」であり、『三貨図彙』にもこの名称で記述されているが、『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には「豆板銀」という名称で収録されている。
右写真:小粒=豆板銀。享保豆板銀。約原寸大です。
 形状は小粒の銀塊で、重量は不定だが1匁(約3.75グラム)から10匁(37.5グラム)程度の秤量銀貨で、0.1匁程度の小粒のものも存在し露銀(つゆぎん)と呼ばれ、僅かな目方の調整に用いられた。 表面には「常是」および「寳」に加えて年代を現す文字極印が打たれ、また片面ないし両面に大黒像の極印が丁寧に打たれたものが存在し、恩賞および贈答用とされる。 それ自体を取引に利用するほか、丁銀に対する小額貨幣として補助的な役割をもつ。例えば、小型の丁銀に豆板銀を加えて重量を43匁(約161.25グラム)にあわせ、紙に包んで封印し、まとめて使用する事も行われた。これを包銀という。丁銀は包銀の形で大口取引に使用されることが多く日常生活で使用するには高額過ぎ、裸で使用されることはほとんどなかったが、豆板銀については持ち運び可能な銀秤(ぎんばかり)により随時秤量しての支払いが可能であり、また銭を銭緡(ぜにさし)で持ち歩くよりも携帯に便利で、適宜両替屋で銭に替えて使用するなど、重宝された。

夜中の九つ(よなかの ここのつ);夜中の0時。いくら早く宿を出て、早く宿に着くと言われたって、こんなに早く出発しなくても。早立ちの時は、七つ(午前4時頃)立ちと言って、未だ外は暗い内に出掛け、途中で朝日が昇ってきます。”♪お江戸日本橋 七つ立ち・・・”と、歌にも有ります。

二里(2り);距離の単位で、1里は(3.9273km)約4km、1時間で歩ける距離です。喜之助は約2時間掛けて、街の中心から湊までやって来たのです。
 海上に出ると、あっという間に7里を越しています。歩いていたら7時間近く掛かっていたのに・・・。船旅は快適で早かったのです。

羅漢様(らかんさま);阿羅漢(アラカン)の略。仏教では、阿羅漢でない者が阿羅漢を名乗ることを故意・過失を問わず「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊崇することも盛んになった。談志が言っているようなヒゲもじゃの恐い顔相の人達とは違います。落語「五百羅漢」に五百羅漢之図が有ります。

玄界灘(げんかいなだ);福岡県の北西方の海。東は響灘、西は対馬海峡・壱岐水道に連なり、冬季風波の激しさで名高く、洋中に大島・小呂オロ島・烏帽子島・姫島・玄界島などがある。玄海。右図参照。

壱岐の島(いきのしま);長崎県壱岐市。壱岐島は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島である。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』によれば、別名を天比登都柱という。 周囲には23の属島が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。右図参照。

桜島(さくらじま);桜島は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77km²の火山。かつては島であったが、1914年の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。
右図参照。

車軸を流すような雨(しゃじくをながすようなあめ);車軸を下(クダ)す。 雨が車軸のような太い雨足で降ること。大雨の形容。


                                                            2017年9月記

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