落語「釜猫」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「釜猫」(かまねこ)より


 

 若旦那が極道いたしますと、それを舁(か)い出す仲間というのがおります。磯七(いそひち)と、(上方)落語のほうではこ~いう名前がついとります。ま~たいがい、床屋の職人でして、これが町の太鼓持ちみたいな役割をやっとりますんですな~。
 ある若旦那、極道が過ぎて禁足ということになる。つまりもう、家を一歩も出してもらえまへんねやな~。辛抱でけんようになった若旦那、二階から下りてくる。

 「これこれ、どこへ行くのじゃ? 上がってなはらんかいな」、「ちょっと表の手水から外の空気が吸いたいと思て・・・。下駄だれのや知らんが、貸してもらうで。手水場へ来たけど、大き方も、小さい方も出えへんわな~。あ~ぁ、何でこんなところへ閉じ込めて、便所から外見んならんねやろな~。情けない話、おッ、磯村屋や。ええ奴が来よったな~。磯七、磯村屋ッ」。
 「どなたでやす、お呼びになったんは?」、「磯七ッ」、「若旦那、あんたそんなとっから呼んでなはったんか」、「こっから世間見たいと思て出てきたんやが。ちょっと済まんけど頼まれて~な」、「何でんねん?」、「わしを連れ出してもらいたい」、「わたいがうっかり舁い出しに行たら、ここの家 (うち)お出入止めになりますがな」、「明日うちおいで。うちに大おきな釜があるのん知ってるやろ、味噌豆炊くときの釜や。あれをちょっと借りに来てくれ」、「何で、そんなことしまんねん?」、「釜ん中、わいが入ってんねやがな」、「二、三人、人数用意してな、わしを担ぎ出してもらいたい」、「分かりました。へッ、明日のお昼過ぎぐらい、ほで、担いでどこ行きまんねん?」、「いつもの藤乃屋や。向こ~の女将に耳打ちしといて、馴染みのとこ揃えといてもおて、久し振りにワ~ッとやらなんだら、もう体がガタガタになりそうやさかい、万事頼むで・・・」、「よろしおますッ」、えらい相談がでけましたが、悪いことはでけんもんで、そのとき隣のションベンの方でお父っつぁんがみなこれ聞いてしもてた。

  明くる日、「定ッ、定吉」、「へ~い」、「物置からな、大きな釜をちょっと中庭へ出しなはれ」、「何しまんねん?」、「何でもええ、あの釜を出して、いつものように下に石を噛まして、ちゃんと釜を据えんねん」、「味噌豆炊きまんのん?」、「味噌豆炊くのやない。今日は月の十八日じゃ、月の十八日に空釜を焚いたら、そこの家(いえ)の不浄がみな消えると言うな~。えらい験(げん)のえ~ことや、悪魔払いになるそうなさかいに、釜を焚きますのや。中には何にも入れんと下から焚きつけんねん。薪(たきぎ)の用意もみなしなはれッ」。
 「旦那、釜据えましたが、どなしまんねん?」、「その割木やみな持って来い、さぁ、ドンドンドンドン焚くねや。空釜を焚くのじゃ」、「へぇ、おかしい事やりまんねやな~」、「悪魔を払うのじゃ。もっとドンドン燃やせ~」、「旦さん、今、釜の蓋がカッと動きましたでッ」、「ボツボツ兆しが見えてきたぞ。さぁ、当家の身代を減らす悪魔払いじゃ」。
 若旦那、だんだん下が熱なってくる、たまったもんやない。しばらくは辛抱してましたが、ガタガタッ「おッ、また蓋が動いたッ」、「あ~、蓋が動いてはどんならん、庭石の大きいやつを持ってきて上へ乗せッ」、そんなことされてはたまらん、ちゅうんで若旦那、蓋をこう差し上げて五右衛門みたいなカッコでズズズ~ッ、「悪魔が出てきたぞ、もっと燃やしつけ~ッ」、「アツアツ、熱う~ッ、な、何をしなはんねん」、「『何をしなはんねん』とは、こっちの言うこっちゃ。極道めが何を考えてくさる、早よ二階へ上がってッ」。
 「定ッ」、「へぇ」、「悪魔払いが済んだ。もうしばらくしたらな、磯七がこの釜を借りに来るさかいな。何も言うことならんぞ。ゴジャゴジャ言わずに黙って貸すのじゃ」、「へ~い」、「空釜で渡すのもおもしろないな~、何ぞ代りに入れとくもんないかいな~」。「旦さん、うちのミイが、きのうからお腹下してまんねやがな。ま~、そのへん汚いもん垂れ散らかすもんだっさかいな、オイドのところへこう、布(きれ) ぎょ~さんくくりまんねやけどな、煩(うる)さいんかして外してしまいますので、またそのへんカナンいうて追いかけ回して、オシメ当ててまんねやがな」、「何やて、うちのミイ、糞垂れ猫(ばばたれねこ)になってんねやな~、それを入れよ。蓋をしたら、よお出やせん。磯七が来たら、何も言わんと貸すねやぞ~」、「へ~い」。

 磯七が仲間を連れてやって来た。「旦さんによろしゅ~な、お借りして空いたらじきに返しまっさかい」、「そのまま丁寧に、丁寧に・・・」、「分かったるわい、ヨイッショッと、さ~、えらいお邪魔しましたごめんやす、ごめんやす」。
 「若旦那、もう外へ出ましたで、七日ぶりであんた外へ出なはんねん。若旦那」、「ニャ~オ」、「ぷッ、粋なもんや若旦那、猫の鳴き真似で返事しと~る」。
 藤乃屋に着いたが大きくて入らない。二階から紐を下ろして大釜を引き上げた。「まぁまぁ、こんな大きな釜を据えて、これどないなりまんねん」、「これからこれから、あ~ッと、みな騒ぐなさわぐな、あ~ッ、解いたらいかん。万事はこの磯七にお任せを・・・。この釜の中から何かひと品、取り出してご覧にいれ~る。ど~れ、さぁ若旦那、お出ましを・・・出なはらんかいな、藤乃屋の二階だっせ。な、何じゃこれは・・・」。
 暗いところで、猫がウロウロ、ウロウロしてたやつが、担がれたり持ち上げられたりして、面食ろたんですな。パ~ッと飛び出すと、明るいところへ、「ね、猫が出たぁ~ッ」、さ~、そのへんに汚いものを撒き散らしたさかい、たまったもんやない。「まぁ、かなんわこの猫、わての着物の上へこんなもん掛けて、まあ臭いこと、何をするねや」、みんなで布団を持って追いかけ回すもんだっさかい、猫はウロウロして二階からポ~ンと下の道い飛び降りました。
 丁度その下を通り合わしたのが、身分のある尼さんでございます。衣をキチ~ッと着飾りまして、静々と道を歩いてなはる頭の上へポ~ンと飛んで、ビチビチビチッ・・・。「まぁ、何をするのじゃこれッ。まぁ、御仏に仕える者に、このような不浄を掛けおって、何ということを・・・。ここの主(あるじ)、ここの主、これへちょっと出て来なはれ。さッ、この始末はどうしてくれまんねん?」、「知らんで、そんなもん。なぁ、そんなもん、わしら知らんがな」、「あぁ、猫糞(ねこばば)や」。 

 



ことば

極道(ごくどう);放蕩をすること。また放蕩者。

舁い出す(かいだす);遊びに誘い出す。

太鼓持ち(たいこもち);通常は「幇間」と書く。「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」となったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。
 鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。 また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。
 専業の幇間は元禄の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。 現在では東京に数名(その中に、芸名・桜川 七太郎という若い女性が1名いる)しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963年に建立された幇間塚がある。
 幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい たますけ=右イラスト)が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5~6年の修業を勤め、お礼奉公を1年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。 もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。
 芸者と同じように、芸者置屋(プロダクション)に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。 一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 落語の中で野だいこは、「鰻の幇間」、「野ざらし」、「居残り佐平次」等に出てくる。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。 幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。 噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。
 落語「明烏」より
 「太鼓持ちあげての末の太鼓持ち」 江戸川柳、遊びすぎて幇間を上げて粋だと言われていたが、気が付いたら自分がその幇間になっていた。 

手水(ちょうず);社寺で、参拝前に手を清める水。 また、便所の異称。

味噌豆炊く(みそまめをたく);味噌をつくる原料として煮た大豆。大豆の異称。味噌の原料とするのでいう。
 みそ豆とは味噌を造る前の美味しく煮えた大豆の事です。東京下町でも、つい50年位前までは豆腐や納豆のように売りに来ていたものです。好みによって、溶き和芥子、お醤油、刻んだネギなどを入れて食べると、食事のおかず、酒の肴になります。昆布と混ぜた、昆布豆は何処かで食べた事があると思います。右写真。
 ですから、これは何もお味噌で豆を煮たものではないのです。

悪魔払い(あくまばらい);祈祷などをして悪魔をはらい除くこと。

(げん);ゲンが良い、ゲンが悪いなど、兆しの意味に用いられる。現在は験の字を当てるが、縁起(えんぎ)の倒語ギエンをゲンと約めたもの。

五右衛門(ごえもん);石川五右衛門。安土桃山時代の伝説的な大盗賊。1594年、子とともに釜煎(い)りの刑に処せられたという。浄瑠璃「釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)」、歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」など多くの作品の題材とされた。一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。

 

 上図:「五右衛門処刑の図」 一陽斎豊国 画 『石川五右衛門と一子五郎市』

伝説では、
 ・ 三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。
 ・ 有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。
 ・ 鴨川の七条辺に釜が淵と呼ばれる場所があるが、五右衛門の処刑に使われた釜が流れ着いた場所だという。なお、五右衛門処刑の釜といわれるものは江戸時代以降長らく法務関係局に保管されていたが、最後は名古屋刑務所にあり戦後の混乱の中で行方不明になった。
 ・ 処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と辞世の歌を詠んだという。(古今和歌集の仮名序に、たとへ歌として挙げられている「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」の本歌取か)。
 ・ 処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある。

オイド(おいど);尻(シリ)。もと女性が用いた言葉。

糞垂れ猫(ばばたれねこ);くそたれ猫。ののしっていう語。くそったれ。

尼さん(あまさん);尼僧。出家した女。びくに。あま。キリスト教の修道女についてもいう。
 出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性を指す。尼入道、尼女房、尼御前(あまごぜ)、尼御台などと呼ばれた。

猫糞(ねこばば);(猫が脱糞後、脚で土砂をかけて糞を隠すからいう) 悪行を隠して知らん顔をすること。落し物などを拾ってそのまま自分のものにしてしまうこと。

 


                                                            2019年7月記

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