落語「桑名船」の舞台を行く 立川談志の噺、「桑名船」(くわなぶね。鮫講釈、兵庫船)より
■原話は、文化年間に出版された笑話本『写本落噺桂の花』の一編「乗り合い船」および、1769年(明和6年)に出版された笑話本『写本珍作鸚鵡石』の一編「弘法大師御利生」。
■この演目が江戸落語の「二人旅」の一部で、江戸を出発した主人公は東海道を上っていきます。宮(熱田)から海上七里の渡し船に乗り、伊勢の桑名に着きます。その船中での出来事を描いて「桑名船」といいます。
鍛冶屋町の浜;神戸市兵庫区鍛冶屋町。JR神戸駅から南へ約1km。
この噺はオチが色々あって、①談志の話に出てくる講釈師、②巡礼娘が魅入られたので、利口者が娘の着物を碇に巻き付けて投げ込み、引き上げると鮫のワタ(腸)が引っかかってきた。「ワタが無くなったら鮫はどうなるだろう」、「袷(アワセ)になって流れてくるだろう」、③一人の男が船縁をトントンと叩くと、鮫はコソコソと逃げてしまった。「貴方はいったいどなたです」、「わしは雑魚場(ざこば)のカマボコ屋だ」、④昔流行った仙台ぶし「大阪天満の真ん中で、からかさ枕にしてやった。こんなくせえボボしたことね~え。ちり紙三帖ただ捨てた」をもじって、一同が「桑名と伊勢の真ん中で、あらかん回向をしてやった」、鮫が「こんなくせえ婆飲んだ事ね~」、婆が「死に金三両ただ捨てた」、とサゲる事もあった。(増補落語事典・東大落語会編)
■「桑名船」は元来上方の噺で、噺を江戸に導入した時に、大幅に手を入れ東海道中記としたのでしょう。よ~く似ているのは当たり前ですが、舞台が違っています。初代 一龍斎貞山(1799~1855)が実際に桑名の沖で鮫に囲まれて船が立ち往生した時に、船中で一席講談をやったら鮫が逃げたと云う史実を元根多にしているらしい。と言うホントか嘘か解らない話が伝わっています。
歌川広重画 『隷書 東海道五十三次・桑名 七里の渡舟』
■熱田・宮の渡し場から海上七里(約28km)を船に乗り、桑名の渡し場に着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時、東海道の42番目の宿場町として桑名は大賑わいを見せていました。ここにある大鳥居(下図)は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国・一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
七里の渡跡;慶長6年(1601)正月、江戸と京都を結ぶ東海道が制定され、桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、海路7里の渡船と定められた。のち佐屋宿(現愛知県海部郡佐屋町)へ川路3里の渡船も行われた。宮までの所要時間は3~4時間と思われるが、潮の干満によりコースは違っており、時間も一定ではなかった。
名古屋の宮宿から桑名宿までの七里の渡し。現在は埋め立てが進んで、陸の上を行くことに。
現在の桑名市。上部伊勢湾に注ぐ二本の河、右側の揖斐川河口の右岸に船着き場がありました。埋め立てが進んだので、当時の海路は陸上になってしまいました。
■東海道(とうかいどう);江戸時代の東海道は江戸と京都大坂を結ぶ幹線道路として、慶長6年(1601)正月に制定され、その間に宿場を設けた。宿場の数はその後も増加して、品川宿から大津宿まで俗に「東海道五十三次」の宿駅となった。しかし更に大坂までの4宿を加えて、57宿が東海道ともいわれる。東海道と共に中山道・日光道・奥州道・甲州道を加えた五街道は江戸幕府の管理下におかれた。
東海道五十三次より「宮」(熱田)広重画。 熱田神宮の門前町で、熱田神宮に伝わる馬のかけくらべ。
別版
歌川広重画『東海道五十三次・宮』
ここに止まっている船が桑名船
葛飾北斎『桑名 四日市へ三里八丁』 蛤を松かさで焼いています。 右:これから焼く蛤
■講釈(こうしゃく);江戸時代、客を集めて軍記物を読み聞かせたもの。明治以後の講談のもと。
■一竜斎貞山(いちりゅうさいていざん);講釈師。初代(1799―1855)本名中村貞之助。初代金上斎(きんじょうさい)典山の門人。独眼で伊達政宗(だてまさむね)を崇拝し、その法号貞山院にちなんで芸名としたという。『義士伝』、『伊達騒動』を得意とし、大貞山とよばれた。
■鮫(さめ);軟骨魚綱板鰓亜綱に属する魚類のうち、鰓裂(さいれつ=えらあな)が体の側面に開くものの総称。鰓裂が下面に開くエイとは区別される。世界中に約500種が存在する。世界中の海洋に広く分布し、一部の種は汽水域、淡水域にも進出する。また、深海性のサメも知られている。体の大きさは種によって異なり、最大のジンベエザメ(体長およそ14m)から最小のツラナガコビトザメ(体長22cm)までさまざまであるが、平均的には1 - 3mのものが多い。サメを意味する言葉として、他にワニ(鰐)やフカ(鱶)が使われることもある。
サメは食材としても用いられ、身肉はすりつぶして蒲鉾やはんぺんなどの魚肉練り製品に加工されることが多い。サメの肉は低カロリー、低脂質、高タンパク質、骨はすべて軟骨質であるため子どもから老人までに適した食材であり、これまで食用の習慣のなかった地域でも見直される動きもある。サメは体液の浸透圧調節に尿素を用いており、その身体組織には尿素が蓄積されている。そのため、鮮度が落ちるとアンモニアを生じてしまい、一般の魚のような料理には向かない。ただし、アンモニアがあるために腐敗が遅く、冷蔵技術が進む前の山間部では海の幸として珍重されていた場合もある。幼魚は蓄積された尿素の量が少ないため美味である。
■蒲鉾(かまぼこ);かつては鮫の肉を二本の包丁を持った蒲鉾屋がまな板の上でバタバタ包丁を叩いて鮫肉をミンチにして蒲鉾を作っていた。現在では鮫肉はアンモニア臭がある為にあまり使われません。
原料はイサキ、イトヨリダイ、エソ、オオギス、サメ類、スケトウダラ(スケソウダラ)、イシモチ(グチ)、ニベ、ハモ、ムツなどである。
板付き蒲鉾では白身魚の白身の部分のみを使用し、赤身や血合い肉は用いない。捌いた魚の身を水で晒し、身の血液や脂肪を取り除く。この身を石臼などですり潰し、砂糖、塩、みりん、卵白を加えて練り合わせる。
板付き蒲鉾は、練り合わせた身を「手付包丁(附庖丁、つけぼうちょう)」というへら状の特殊な包丁を用い、「かまぼこ板」に半円状に盛りつけてゆく。機械で盛りつけたり、型抜きで成形されることもある。成形後、蒸すまたは焼くことによって熱を通す。加熱方法の違いにより、呼び分けられる。
■赤穂事件(あこうじけん);江戸時代中期の元禄期に発生した事件で、吉良上野介を討ち損じて切腹に処せられた浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を討ったものである。
この事件は一般には忠臣蔵と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称はこの事件をもとにした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびこの事件を元にした様々な作品群の総称であり、史実としての事件を述べる場合は区別のため「赤穂事件」と呼ぶ。
なお赤穂事件を扱ったドラマ等では、この事件は主君・浅野内匠頭の代わりにその家臣が吉良を討った「仇討ち」事件とみなされる事が多いが、この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為、これを「仇討ち」とみなすべきかどうかは自明ではなく、本事件が起こると、この事件の意義をめぐって論争が巻き起こっている。
■寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん);四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である。
おそらくもともとは百姓で、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した。
討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった。
姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である。後年、曹溪寺(港区南麻布2丁目9-22)で世話になり、墓もここに有ります。落語「黄金餅」に曹溪寺の写真があります。
■安宅の関(あたかのせき);源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという、歌舞伎の「勧進帳」でも有名。
■源平盛衰記(げんぺいせいすいき);落語「源平盛衰記」に詳しい。
■垂乳根(たらちね);落語「たらちね」に詳しい。「自らことの姓名は、父は元、京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字(あざな)を五光。母は千代女(ちよじょ)と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂を夢見て妾(わらわ)を孕めるが故、垂乳根の胎内を出でしときは鶴女(つるじょ)。鶴女と申せしが、それは幼名、成長の後これを改め、清女(きよじょ)と申し侍(はべ)るなり」。
■桜田門(さくらだもん);現在の警視庁前に当たる、江戸城南側にある御門。桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。
■近藤勇(こんどういさみ);江戸時代末期の武士。新選組局長を務め後に幕臣に取り立てられた。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。
■助さん格さん(すけさん かくさん);佐々木助三郎(助さん)は水戸光圀に仕える家臣。モデルは実在の水戸藩士・安積澹泊(通称、覚兵衛)といわれている。格さんは渥美 格之進(あつみ かくのしん)、TVドラマ『水戸黄門』に登場する架空の人物。性格は「助平助さん、堅物格さん」。現在では格さんは女性に弱いというイメージが強いが、初期では女性に対して強く接したりもしている。第1部で本人の口から生い立ちが語られている。旅に同行した当初から奔放な光圀に理解があった。第14部以降は母に幾度も縁談を勧められる。
ドラマの乱闘シーンでは、助さんが剣で戦うのに対し格さんは主に柔術で戦う。彼が体得する関口流は、柔術、剣術、居合術も伝承するため、助さんには及ばないものの、実際には剣の腕も一流である。また、最後の決め台詞とともに印籠を取り出す役は主に格之進が担う。また、水戸老公一行の道中の路銀(旅行費)を管理しているのも格之進である。
■鈴ヶ森(すずがもり);落語「鈴ヶ森」の舞台。鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)は、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場。江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった。
元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。
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