落語「浮世床」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円生の噺、「浮世床」(うきよどこ)


 

 昔の床屋は賑やかで、奥の座敷に閑な若い連中が集まっていた。

 耳掃除は床屋さんでもやってくれます。料金は使う道具で違った。一番高いのは、金で出来た耳かきで、これは気持ちが良かった。次は銀製、その次は銅製、鉄製、一番安いのが釘の頭。こんなので耳をかき回されたら大変です。
 蒸しタオルも同じです。「親方、熱いよ」、「スイマセン。持てるだけ我慢をしていたんですが・・・」。

 二人が、床屋の看板を眺めて話し込んでいる。 「この『海老床』の看板の絵、良く描いてあるな。まるで生きてるようだなぁ」、「生きてる・・・? こいつは絵だぞ、死んでいるさ」、言い争っている所へ、隠居が通りかかって仲裁をした。「この看板が、・・・フム。こいつは生きてもいませんが、死んでもいませんな」、「中途半端なことを言って、じゃあ、何なんです?」、「こいつは患っているんだよ。ほらごらん、床についている」。

 子供がチョコチョコ動くのに上手く剃り上げた親方がいた。「当たり前だよ。私は仕損じることはないね」、「相手が動いたら切ることもあるだろう」、「絶対無い」、「豪儀だな。それでは俺とカケをしよう。親方が切らなかったら、蕎麦をおごろう。切ったら蕎麦をおごりなよ」、と言うことでカケをして、失敗するようにチョコチョコ動いた。「ホラどうだ」、「そんな事では切らないヨ」、初めの内は良かったが、カミソリを下ろそうとした瞬間に動いたので、鼻をスパッと剃り下ろしてしまった。切られた方が喜んだ。(鼻声で)「蕎麦おごれ、ソバおごれ」。

 若い連中は床屋さんで遊んでいたもんです。仕事場の奥に6畳ほどの部屋がありまして、そこで順番待ちで、将棋をしている人、碁をやっている人、貸本を読んでいる人、鼻くそを丸めて丸薬をこしらえている人、毛抜きでヒゲを抜いている人が居ます。 

 ヒゲなんか抜かなくったって、これからやってもらえるのに・・・、クセなんでしょうね。抜いたヒゲを前の壁に張り付けて、富士山が出来上がったが、その下に杖を突いた西行を作りたいがヒゲが足りない。隣を見るとヒゲもじゃの男が寝ている。一本づつ抜いていたときは蚊が止まったと思われていたが、いっぺんに抜いたら痛くて飛び起き怒られた。

 「俺を見てくんねぇ。直ぐ出来るかい、と言ったら『直ぐ出来ます』と言って、元結切られてこのザマだ。これじゃ、外も歩けない」、「そんな事で怒っちゃいけねぇ。俺なんかヒゲが半分だ。急ぐからと言ったら『大丈夫です』と言って、半分剃ったところで止めちゃって、全部剃ったら待っている人に怒られるからと、このザマだ」。

 「盤が出ているので将棋でもしようか」、「はさみ将棋?」、「子供じゃないんだ。駒を並べてホントに指すんだ。やるんだったら駒を並べなよ」、「後で並べるよ。先に並べると失礼だから」、「並べたよ。オイオイ、およしよ。盤を回すの」、「もう一回並べてよ」、「何が先並べると失礼だ。この方がよっぽど失礼だ」。「先手を決めるから、金か歩かどっちだ」、なかなか決められない。迷ってやっと金と決めたら歩が出た。ため息をついたがこれからです。「角の腹に金が上がるのは嫌いなんだ。チョット待って考えさせてくれ。駒は何を持っている?」、「ひっぱだくよ、一手指しただけだから持ち駒はないよ」、「弱ったな。じゃ~、角の腹に金だ」、「真似したな」、「《最初は真似の踊りなり》と言うからね」、「何だい、つまらないシャレだな。シャレで思いだしたが、シャレ将棋ではどうだ。一手ごとにシャレを言うんだ。では歩を突いて《歩づき(卯月)八日(ようか)は吉日よ》」、「では、私だね。歩を突いて《歩づき(卯月)九・十日は金比羅さんのご縁日》」、「それはシャレになってないよ」、「八日と言うから九・十日と言ったんだ」、「歩をさして≪歩さし坊弁慶≫」、「俺も、歩をさして≪歩さし坊弁慶≫では寂しいから亀井・・・」、「真似ばかりしているな。角道を開けて《角道の説法屁一つ》」、「上手いな。俺は、角道を開けて《角道の説法屁二つ》」、「屁を増やしてやがら」、「歩を突いて《歩サシの下の雨宿り》どうだ」、「上手い。俺は、歩を突いて《歩サシの下の首くくり》」。「シャレ将棋は難しい。よそう」と言うことで、早指しになった。

 どんどん指していたが待ったが掛かった。「チョットまて、盤面に駒が少なくなったな。お前は何を持っている」、「金・銀・桂馬・歩が七つ、それに王様」、「よせやい。いつ王様持っていった」、「さっき、王手飛車取りと言ったら、どっこい取られてなるものかと、飛車が逃げたので王様を取った」、「あれから王無しで戦っていたのか、道理で寂しくなったと思った。あれ。お前の王将はどうした?」、「取られるとイヤだから、腹巻きの中にしまっちゃった」、「そこまでは王手が効かない」。

 ヘボ将棋を見ていた友達が喧嘩をさせようと企んだ。「二本の煙管を吸い口同士、雁首同士にして置いておくと、クルクル回して面白いことになる。それから、盤の横で駒を叩いてから指すから、親方に堅めの鬢付け油をもらって塗っておくと駒が張り付いて喧嘩になる」。
 「お二人さんご勢が出ますな」、「素人は近づいちゃいけねェ。今が大切なところなんだ」。
 「早くやりなよ。王手だよ」、「分かっているよ。そう、ガミガミ言うなよ。今駒を打つから・・・(盤の横腹に駒を打った)、駒がそっちに飛ばなかったか?」、「飛ばないよ。早くやれよ」、「そうせかせるなよ。今飛んだんだ。じゃ~、この駒で・・・。あれッ?また駒が飛んだだろう」、「どうしたんだよ・・・。止めた。この将棋止めよう。いつもそうなんだから・・・」、「落ち着いて考えるからチョット持って、香と馬を見ただろう」、雁首だけの煙管をクルクル回しているが煙草が吸えない。「すぐトンガルから・・・。熱ちィ」、相棒も吸い口だけの煙管を吸いたくてクルクル回している。「煙管を見てごらんよ。雁首だけだよ。熱いと言ってるのに気が付かないんだから・・・。間抜け~、あッ、俺のは吸い口だけだ」。

 将棋の横では、吉公が壁に向かって貸本を読んでいる。 「おい、吉っつあん、何を読んでいるんだい?」、「私が読んでおりますのは、姉様の合戦」、「何だその話は? それを言うなら『姉川の合戦』だろ?」、「そうとも読む」、「本多平八郎という人が出ただろ~」、「出る」、「真柄十郎左衛門が出てくるだろう」、「今そこを読んでいる」、「一番良いところだ。読んでくれよ」。みんなが「読んでくれないか」と頼んでみた。 「良いけどさ、俺は立て板に水だぞ。鉄砲玉のように、一度ピューッと行ったら戻ってこないぜ。それでも良いかい」、「いいとも」、「え~~、エェ~~と・・・」、「エ~が長いな」、「長い方が汲みやすい。え~~、ひとつ、姉・・川・のかつ・せ・んのことなり。このと・・・き、真柄・・・真柄ジ・フ・ラ・フ・・じゃねぇ。真柄十郎左衛・・・門が、敵にムカついて、向かってまつこう・・・マツコウ、松公」、「何だい?誰か呼んだか」、「読んでいるんだから、返事するな」、立て板に水どころか横板にモチ。「真っ向から、立ち向かって、一尺八寸(約55cm)の大太刀を・・・」、「オイオイ、一尺八寸のどこが大太刀だよ?」、「そこは断り書きが書いてある。『一尺八寸とは刀の横幅なり』」、「そんな戸板みたいな刀があるかぃ。第一、前が見えないだろ?」、「そこはもう一つ断り書き。『刀には所々窓が開いていて、敵が来たらそこから覗く、本多さん、チョット寄ってらっしゃいな』」。

 隣では碁をやっている。「五目も並んでいるよ。勝っているんじゃないか。えぇ?。五目並べじゃなくて、本碁だね」、「うるさいね。本郷(本碁)も下谷も無いもんだ」、「隅の石が危ないよ」、「これは生きているんだ」、「危ない。ほれ、落っこちた」。 

 奥の方を見てみると、建具屋の半公が大いびき。あんまりいびきがうるさいからたたき起してみると、開口一番ノロケ話を始めた。 「芝居を見ていたんだ。後ろの席に二十四五の綺麗な女がいてさ、そいつが俺に『自分の代わりに褒めてくださいよ』って頼むんだよ。俺ァすっかり舞い上がっちゃってさ、舞台に向かって『音羽屋、音羽屋!』 怒鳴っている内に『お兄さん芝居が終わってしまいました』、仕方なく幕を褒めた。帰りがけにさァ、その女のお供に呼び止められて、お茶屋に招待されたんだよ。そこには女が待っていてネ、杯をやったり取ったりしていたが・・・、女の顔は桜色。俺も飲みすぎてごろりと横になってしまい、寝ていると女が『私も飲みすぎて頭が痛いのです。他に部屋がないのでお隣に入ってイイでしょうか』と、帯解きの長襦袢一枚で『御免遊ばせ』と布団に入ってきた・・・」、「ワァー、夢みたいな話だな。・・・で?それから~」、「一緒に寝た所で、・・・『半ちゃん、起きろ』と、俺をたたき起しやがったのは誰だ」、「長ぇ夢、見やがったな」。

 「静かにして下さいよ」。ドタバタに気を取られ、床屋の親方が横を向いた途端に、今まで散髪してもらっていた男が銭を払わずに逃げてしまった。 「アララ…逃げちまったよ、あれは誰だィ」、「あいつは畳屋の職人だよ」と教えると、親方が呆れて、「畳屋か、道理で床を踏みに来たんだ」。

 


 この落語は、オムニバス形式の噺で、何処から初めても、何処で切っても良い噺です。演者の持ち時間が無ければ短くやれるし、時間が有れば丁寧に長く出来ます。で、今回の円生は丁寧にやっています。


ことば

床屋(とこや);髪結い床。床屋には出床と内床とがあった。出床とは町境、橋詰め、河岸、広場(広小路)、等にあって、営業のかたわら見張りをしている床屋。内床とは街中で借家をして営業している店です。天保期(1830-43)出床が660ヶ所、内床が460ヶ所有ったと言われます。
他に道具一式(鬢盥=びんだらい)を持って、お得意さんを回る男髪結いもいました。落語「髪結い新三」にあります。女髪結いは落語「厩火事」にあります。
 床屋の表障子には、その店の看板となる絵が描かれていた。海老の絵が描かれていれば「海老床」、ダルマが描かれていれば「ダルマ床」であった。
 床屋の表障子は常に開け放たれていた。これは、床屋は幕府に届けを出して開業し、町の管理のもと、見張りなどの役割も果たし、番所や会所としても利用されていた。床屋は町の職人達が集まる場でも有り、奥の順番待ちの小座敷にはいつも町内の大人達がたむろし、この「浮世床」にあるように一日中無駄話をして過ごしていた。おかみさん連中の井戸端会議ならぬ、髪い床会議です。
 店に入るとまず土間があって、土間の向こう側に細長い板の間があり、ここで髪結い職人が立って作業をしていた。その奥が順番待ちの小座敷になっていた。客は道路側に向かって板の間に腰掛け、客の後ろ側に回った髪結いが月代(さかやき)を剃り、客は扇のような形をした毛受けの板を持たされ、それに髪の毛を受けた。剃り終わると元結(もっとい。マゲの根本を縛った紙ヒモ)を切り、マゲをばらして髪をすき、マゲを結い直した。眉の手入れや耳の毛剃りのサービスもあった。



 床屋の値段は28文(1文=16円として450円)が相場だったが、文化年間(1804-1818)には32文(510円)に値上げされた。それでも、見栄っ張りでお洒落な江戸っ子は、まず朝風呂でさっぱりし、床屋で髪を整えてから出掛けて行った。
 その湯屋も社交場の一面を持っていた。普通、仕事から帰ってくると、毎日銭湯に通うのが日課になっていた。男湯の2階には将棋や碁盤が置いてあり、別料金であったがそこでお茶を飲んだり、菓子をつまんだりしながら談笑した。ここも町内の社交場になっていた。湯屋の話は落語「湯屋番」にあります。



  左図:上記うきよ床の内部から見た図。初代豊国画。 右図:「女髪結い」美人職人尽。

 従来、髪は自分で結うか、家族の者が結ってあげていた。女は髪が結えて一人前とされた。しかし、江戸時代も 後期になると、髪形が複雑になり、到底自分では結えず、髪結いに頼むようになってきた。そこで、登場したのが女髪結い師で、道具箱を持ってお得意先を回った。人々は3日ないし5日に一度は女髪結いに結い直してもらった。代金は32~50文(510~800円)と、女性の職業としてはよい稼ぎになった。稼ぎがイイので亭主は仕事をしなくなり、髪結いの亭主と呼ばれるようになります。落語「厩火事」に取り上げられる事になります。しかし、女が有料で髪を結わせるのは贅沢だと、たびたび女髪結い禁止令が出された。それでも取り締まりがゆるむと、女髪結いは益々増加した。

うきよどこ(浮世床);江戸後期の滑稽本。2編5冊。式亭三馬著。文化10~11年(1813~14)刊。髪結い床に集まる江戸庶民の会話を通して、当時の生活を活写している。三馬死後の文政6年(1823)、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)が、続の3編3冊を発表。 円生が言うには「この噺は上方から伝わったと言いますが、作者を見れば江戸で完成されたものが上方に伝わったものです。本来の江戸噺の一つです。また、色々な人物が登場しますので、人物描写が難しい噺の一つです」。

畳屋(たたみや);最後の『逃げた客』の件は、井草を踏みつけ柔らかくする畳の製法と、仕上がった畳のヘリを踏んで部屋に馴染ませるところから、料金を払わずに逃げてしまう「踏み倒し」をかけたサゲです。しかし、畳の製法が解り辛くなってきた現在ではあまりここまで演じられることは少なくなった。

片側町(かたがわちょう);もう一つのオチ。「床屋の親方が話に気を取られ、横を向いた途端に客の片方の鬢(びん)を剃り落としてしまった。お客が文句を言うと、親方が「片側町をお歩きなさい」。
 道路の片側にだけ家の並ぶ町のことで、江戸時代では大名屋敷などでよく見られる造りだった。しかし、現在ではそのことを説明しないと客に理解してもらえないため、このパターンが演じられることはほとんどなくなってしまっている。円生もやっていません。

富士見西行(ふじみ さいぎょう);西行法師が富士を見つめている後ろ姿の絵。

元結(もっとい);男性のマゲや女性の日本髪の元を束ねて紐で結わえて固定します。この、糊で固く捻ったこよりで製した紙紐。後年、産地では発展して水引になります。落語「文七元結」で元結が描かれます。

音羽屋(おとわや);芝居で大向こうから掛かる、歌舞伎役者の屋号。 初代尾上菊五郎の父・半平は、京の都萬太夫座(みやこ まんだゆう ざ)付き芝居茶屋の出方を営んでいたが、生まれたのが東山の清水寺にほど近い地だったことから、その境内の「音羽の滝」にちなんで、自らを音羽屋半平(おとわや はんぺい)と名乗っていたことがその名の由来。

(びん);日本髪の側頭部。ビンのほつれ毛などと使います。

卯月(うずき);陰暦の4月。卯の花が咲く季節なので、「卯の花月」の略とする説が有力とされ、卯月の「う」は「初」「産」を意味する「う」で、一年の循環の最初を意味したとする説もある。 その他、稲を植える月で「植月」が転じたとする説もあります。

金比羅さんのご縁日;9,10日です。落語「一目上がり」、「みそ豆」に詳しい。

姉川の合戦(あねがわのかっせん);姉川の戦い。戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦。
 織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。 その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月には信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは「金ヶ崎退き口」を経て退却した。

 信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。まずは報復に出撃してきた六角義賢父子を一蹴(野洲河原の戦い)し、織田軍を恐れた坂田郡の堀秀村などが信長に降った。6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。翌6月22日、鉄砲隊500、弓兵30をいったん後退させた。 24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。 ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。
 一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通・氏家卜全・安藤守就)が向かった。
 午前6時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士(あま)の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長公記)」という激戦になったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。
 信長は小谷城から50町(約5.5km)ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。

 

 「姉川合戦図屏風(びょうぶ)」(福井県立歴史博物館蔵) 姉川合戦図屏風の一部分。黒い馬上で大太刀を振り上げる真柄十郎左衛門と、白い馬に乗る向坂式部。

本多平八郎(ほんだへいはちろう);本多 忠勝(ほんだ ただかつ。天文17年2月8日(1548年3月17日)~ 慶長15年10月18日(1610年12月3日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)・徳川十六神将・徳川三傑に数えられている。通称、平八郎。
 元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。又、この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。
 小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言した。しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じた。  

真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうざえもん);真柄 直隆(まがら なおたか、天文5年(1536)-元亀元年6月28日(1570年8月9日))は、戦国時代の武将。朝倉氏の家臣。
 朝倉家中でも武勇に優れた人物で、黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴国安の作による五尺三寸(約175cm)もの太刀「太郎太刀」を振り回して戦ったという。足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷に来た際、御前で大太刀を軽々と頭上で数十回振り回し、豪傑ぶりを披露したという。文献によると、体格は身長2mを超え、体重250kgに達したという。 元亀元年(1570)、姉川の戦いでは太郎太刀を振って奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく、単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだ。だが、向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てた。この時、匂坂兄弟が討ち取った時に使用した太刀は「真柄斬り」と名付けられ、名刀の一つになった。

   

 熱田神宮(名古屋市)には全長296cm、刃渡り221cm、重さ4・5kgの「真柄太刀」が、飾られています。
合戦図で真柄十郎左衛門が振りかざしているのが、この真柄太刀と言われています。しかし、窓は開いていません。



                                                            2016年2月記

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