落語「指切り」の舞台を行く
   

 

 林家彦六の噺、「指切り」(ゆびきり、別名「写真の仇討」)より


 

 『者(しゃ)』のつく職業は大変です。学者、医者、易者、役者、芸者、噺家は者が付きません・・・。
 芸者は酒が入りますので大変です。青色の酔客(悪酔いしている)、赤ら顔の酔客(気持ち良く酔っている)、シラフの客の三人がいても一人で手玉に取ります。
 青色の酔客が猪口を芸者に投げてよこします。自分が酔ってしまったんでは仕事にならないので、盃洗に開けて、猪口を返します。ですから、花柳界のドブに住んでいるボウフラはいつも酔っています。杯を返すときも先ず、シラフの人の膝に手を置いて、青い顔の人に渡そうとすると「そんな杯は欲しくない」と駄々をこねますので、視線を外さず赤い顔の客に「想い差し」といって渡します。三人とも気持ち良く、「杯は俺の所に収まった」、と思うし青い顔の人は「流し目で俺のところを見ているよ」と自惚れますが、シラフの客人は「俺の膝に手が乗ってるよ」、で三人とも殺されてしまいます。芸者はかように大変な職業です。

 「信次郎、今聞いていると馴染んだ芸者に、恋仲だと思って多額の援助をしていたが裏切られた、と言う。それは良いが、『その芸者を一突きに刺し殺して、自分も死ぬ』と言うのは賛成できない。私も元武士だったから分かるが、明治の時代になって、それはダメだ。浅草寺に行くと多くの額が奉納されていて、その中に趙襄子(ちょうじょうし)と予譲(よじょう)の額が掛かっている」。

 その額の話は、
 昔、予譲(よじょう)は、晋(しん)国の智伯(ちはく)という人の家来であった。その晋国の智伯が趙襄子(ちょうじょうし)に戦で敗れ殺され、その主人の仇を討とうとして捕らえられた。が、趙襄子はそのまま許してくれた。あきらめずに今度は顔に漆(ウルシ)を塗って炭を飲み、人相を変え物乞いに化けて橋の下で趙襄子を狙った。そこに仇の趙襄子が乗った馬がピタリと動かなくなり、何か異変があるのだろうと検索すると。変装していた予譲が捕まった。『この前、命を助けてやったのに、なぜ何度もわしを狙う。元々おまえの主人は范(はん)氏で、それが智伯に滅ぼされた時に捕虜になって随身したもの。とすれば、わしはおまえの元主人の仇を討ってやったも同じではないか』と責めると、『ごもっともだが、智伯は私を引き立ててくれ一群の旗頭にしてくれました。で、恩があります。士はおのれを知る者のために死す、と申します』と悪びれずに言ったので、趙襄子は感心して『おまえの志にめでて討たれてやりたいが、今わしが死んでは世の中が乱れる。三年待て。これをわしと思って、ぞんぶんにうらみを晴らせ』と自分の着物の片袖を与えた。予譲が剣でそれを貫く。 突いたところから血がタラタラ。人の一心はスゴイものだと感心した。結局、予譲は自害したが、ああ、人の執念は恐ろしいものと趙襄子は衝撃を受け、3年も経たないうちに死んだ、という。

 「お前も、商売人だ。そんな女のために死ぬくらいなら、予譲のように、その女からもらったものを突くなり、切るなりしてうっぷんを晴らすがいい。何か貰った物があるだろう」、「何も貰っていません」、「だらしない色男だね。何かありそうなものだが・・・」、「ハイ、写真があります」、「それで復讐をすれば良いじゃ無いか」、「良く分かりました。伯父さんが言うように、この写真で復讐します」、半紙にグルグル巻きに大切にしていた写真を取り出す。
 「この写真の女はイイ女でしょ」、「そんなのは関係ない」。「この写真を突く物を貸してください」、「お前なぁ・・・、おいとま乞いに来たんだろう。これから女の所に行って、刺し殺そうというのに切れ物も持っていないのか?」、「ハイ」、「これは鎧通しと言って、先祖伝来のものだ。短く小刀のように切り詰めてあるが切れるよ」、「ヤイ、小照、伯父さんの話の晋の予譲になぞらえて、写真によって成敗してくれる。エイ!」、「一心だ。写真から血が出たよ」、「指を切ったんです」。

 



ことば

原典は司馬遷作『史記』中『刺客列伝』 豫譲(よじょう)と趙襄子(ちょうじょうし)の話をもとにしたもの。

豫譲(よじょう);(? - 紀元前453年頃)中国春秋戦国時代の人物。予譲とも呼ばれる。
 晋に生まれる。初めは六卿の筆頭である范氏に仕官するが、厚遇されず間もなく官を辞した。次いで中行氏に仕官するもここでも厚遇されず、今度は智伯に仕えた。智伯は豫譲の才能を認めて、国士として優遇した。 数年後、智伯は宿敵の趙襄子を滅ぼすべく、韓氏・魏氏を従え趙襄子の居城である晋陽を攻撃した。三氏の連合軍に包囲された趙襄子は二人の腹心を秘かに韓氏、魏氏の陣営に赴かせて韓氏と魏氏を連合から離反させて味方につけた。韓氏と魏氏の裏切りにあった智伯は敗死し、智氏はここで滅ぼされた(紀元前453年)。
 趙襄子は智伯に対して積年の遺恨を持っていたために、智伯の頭蓋骨に漆を塗り、酒盃として酒宴の席で披露した(厠用の器として曝したという説もある)。一方、辛うじて山奥に逃亡していた豫譲はこれを知ると「士は己を知るものの為に死す」と述べ復讐を誓った(これが「知己」の語源である)。やがてほとぼりが覚めると豫譲は下山し、趙襄子を主君の敵として狙った。

 壁を塗る左官に扮して晋陽に潜伏していた豫譲は、趙襄子の館に厠番として潜入し暗殺の機会をうかがったが、挙動不審なのを怪しまれ捕らえられた。側近は処刑する事を薦めたが趙襄子は「智伯が滅んだというのに一人仇を討とうとするのは立派である」と、豫譲の忠誠心を誉め称えて釈放した。
 釈放された豫譲だが復讐をあきらめず、顔や体に漆を塗ってらい病患者を装い、炭を飲んで喉を潰し声色を変えて、さらに改名して乞食に身をやつし、再び趙襄子を狙った。その変わり様に道ですれ違った妻子ですら豫譲とは気付かなかったという。たまたま旧友の家に物乞いに訪れた所、旧友は彼を見てその仕草ですぐに見破った。旧友は「君程の才能の持ち主であれば、趙襄子に召抱えられてもおかしくない。そうすれば目的も容易に達成できるのに何故遠回りなことをするのだ?」と問うた。それに対して豫譲は「それでは初めから二心を持って仕えることになり士としてそれは出来ない。確かに私のやり方では目的を果たすのは難しいだろう。だが私は自分自身の生き様を持って後世、士の道に背く者への戒めにするのだ。」と答えた。

 やがて、豫譲はある橋のたもとに待ち伏せて趙襄子の暗殺を狙ったものの、通りかかった趙襄子の馬が殺気に怯えた為に見破られ捕らえられてしまった。趙襄子は、「そなたはその昔に范氏と中行氏に仕えたが、両氏とも智伯に滅ぼされた。だが、その智伯に仕え范氏と中行氏の仇は討とうとしなかった。何故、智伯の為だけにそこまでして仇を討とうとするのだ?」 と問うた。豫譲は、「范氏と中行氏の扱いはあくまで人並であったので、私も人並の働きで報いた。智伯は私を国士として遇してくれたので、国士としてこれに報いるのみである。」 と答えた。豫譲の執念と覚悟を恐れた趙襄子は、さすがに今度は許さなかった。
  「豫譲よ。そなたの覚悟は立派だ。今度ばかりは許すわけにはいかぬ。覚悟してもらおう。」 趙襄子の配下が豫譲を斬る為に取り囲むと豫譲は趙襄子に向かって静かに語りかけた。 「君臣の関係は『名君は人の美を蔽い隠さずに、忠臣は名に死するの節義がある』(賢明で優れた君主は人の美点・善行を隠さない、主人に忠実な家臣は節義を貫いて死を遂げる義務がある。)と聞いています。以前、あなた様が私を寛大な気持ちでお許しになったことで、天下はあなた様を賞賛している。私も潔くあなた様からの処罰を受けましょう。…ですが、出来ることでしたら、あなた様の衣服を賜りたい。それを斬って智伯の無念を晴らしたいと思います。」
 趙襄子はこれを承諾し豫譲に衣服を与えた。豫譲はそれを気合いの叫びと共に三回切りつけ、 「これでやっと智伯に顔向けが出来る。」 と満足気に言い終わると、剣に伏せて自らの体を貫いて自決した。趙襄子も豫譲の死に涙を流して「豫譲こそ、またとない真の壮士である。」とその死を惜しんだという。この逸話は趙全体に広まり、豫譲は趙の人々に愛されたといわれる。

趙無恤(ちょう ぶじゅつ / ちょう むじゅつ);(? - 紀元前425年)、中国春秋時代の晋の政治家。姓は贏、氏は趙、諱は無恤、諡は襄。趙襄子(ちょうじょうし)と呼ばれる。
 父・趙鞅(趙簡子)が当時人相見として高名であった姑布子卿を招いて子供たちを見せた時、姑布子卿は無恤のみが大成すると予言した。しかし、無恤の母は翟族出身で、身分も下卑だった。その上に無恤は末子であったので、この時の趙鞅はこのことを聞き流した。 後日、趙鞅は子供たちを集めて「わしの宝の符を常山の頂に隠してある。見つけたものに褒美をやろう」と言ったが、子供たちは誰一人として見つけることができなかった。 無恤だけが帰ってきて「宝をみつけました」と言った。趙鞅が「見せてみよ」というと無恤は「常山の頂に立つと代の国を見下ろすことが出来ますが、代は取ることが出来ます」と答えた。そこで趙鞅はついに長子の伯魯を廃して、末子の無恤を立てた。しかし、長兄の伯魯はこれを恨まず、かえって末弟の無恤を温かく見守り、支えた。無恤も幼い時から自分を可愛がってくれた兄をますます敬ったという。しかし間もなく伯魯は病で逝去してしまった。
 やがて、趙鞅が没し嗣子の無恤が代わって立つと、無恤は喪服を脱がないうちに代王(無恤の姉婿)を偽りで招待して宴を開き、これを討ち取って代を簒奪し手に入れた。夫の代王の非業の死を聞いた無恤の姉は、弟を罵倒して自殺した。やがて無恤はこの代の地を、既に他界した長兄・伯魯の忘れ形見の趙周(成君)に治めさせた。無恤は自分が少年の頃から愛情を持って接してくれた亡き長兄・伯魯の子に栄誉を譲り、支えてくれた大恩をやっと報いた。
 後に、晋の六卿の中で最大の勢力を誇っていた智氏の当主・智瑶(智伯・荀瑶・智襄子)が、魏氏の当主・魏駒(魏桓子)と韓氏の当主・韓虎(韓康子)の勢力を率いて、無恤の本拠地晋陽に攻め込んで来た。(晋陽の戦い)智瑶の水攻めで一時は落城寸前まで追い込まれるが、魏駒と韓虎に「智瑶は強欲なのでわたしが滅ぼされた後は貴公達の番だ」と言って内応させることに成功し、大逆転で智瑶を敗死させる。 紀元前453年の智氏の滅亡により、これ以降晋は事実上に趙・魏・韓に三分された。これをもって、戦国時代の幕開けとなる。
 ちなみに智襄子を滅ぼした後に、智襄子の旧臣豫譲から2度も暗殺されそうになるが失敗に終わり、豫譲は無恤の前で自害した。この様子は『史記』の「刺客列伝」に記されている。
 紀元前425年に無恤は死去した。
 豫譲と趙襄子、ウイキペディアより 加筆訂正 右写真も

浅草寺の額;浅草寺には五重塔の下に、浅草寺の宝物を保存する場所があります。その中に文化財級の絵馬が沢山保存されています。その中から絵馬ですから馬の絵を描いた谷文晁の作品が有ります。

 

鎧通し(よろいどおし);反りのない、重厚に鍛えた短刀。室町時代頃、軍陣で用いた。九寸五分(クスンゴブ)。
 身幅が狭く重ねが極端に厚く、刃長は九寸五分前後という極めて頑丈な造り込みの短刀の総称。組み打ちに際して対敵する武将の鎧の間隙から刺突する用途があるところからこの呼称が遺されている。左腰に太刀或いは大小を差している場合には帯間のわずらわしさを避ける目的からも多くは右手差(めてざし)と称される拵に収められ、右腰に逆差しに佩用して瞬時の使用に利のあるよう配慮がなされていたという。

 国宝 短刀 「粟田口吉光」(名物 厚藤四郎) 東京国立博物館蔵 小振りの割りに刀身の厚さが極端にある。

国士(こくし);一国中のすぐれた人物。
 一身をかえりみず、国家のことを心配して行動する人物。憂国の士。



                                                            2016年2月記

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