落語「宿屋かか」の舞台を行く 二代目露の五郎兵衛の噺、「宿屋かか」(やどやかか)より
■出典;『さしまくら』(安永2年・1773)で、その概要を示すと、
■筋の運びからサゲに至るまで、フランス小噺のような粋な出来である。古くから伝わるばれネタで、かつては「宿屋陰門」という題であったが、刺激が強すぎるので、橘ノ圓都によって現行の題に改められた。放送ではオンエアできないが、速記やレコード、テープ、などで聞くことができる。艶笑噺は、濃厚な内容でも演者の腕しだいで優れた作品に生まれ変われるが、この演目も、機知に富んだ内容であり、どのよう巧く演じられるかは演者の腕の見せ所である。初代森乃福郎、二代目露の五郎兵衛の得意ネタでもある。
■二代目露の五郎兵衛(つゆのごろべえ);(1932年3月5日- 2009年3月30日)は上方落語の名跡で初代は京落語(上方落語)の祖とされる。多臓器不全のため77歳で死去。
来歴:祖父母が京都市下賀茂の映画撮影所の裏で芝居や舞踊の稽古場を営んでいた縁で子役で1938年12月の7歳で羅門光三郎主演の「孫悟空 一走万里の巻」に出演。
その後を端役などで映画に出演。
後に中国に渡り、中国にて終戦を迎える。1946年に京都に家族共々引き揚げた。同年に生活の糧を得る為に芦乃家雁玉の主宰する「コロッケ劇団」に所属し地方を巡業や京都の富貴にて前座修行する。
1947年11月、戎橋松竹の楽屋で二代目桂春団治にスカウトされる形で、まずは芦乃家一春を名乗り、その後正式に入門して春坊を名乗った。1959年、上方落語協会に入会し、松竹芸能に所属。道頓堀角座等に出演した。
1960年10月、二代目桂小春団治を襲名。
千日劇場の「お笑いとんち袋」(関西テレビ、三代目桂米朝司会)での名回答者として活躍。
1967年4月、吉本興業に移籍。
1968年4月に吉本側から改名を促され、上方(京都)落語の祖・露の五郎兵衛の流れを汲む二代目露乃五郎を襲名した。
1985年、文化庁芸術祭賞受賞。1987年に漢字表記を「露の五郎」に改める。若い頃から東京の落語界との交流を持ち、二代目三遊亭百生に私淑し、怪談噺大家・八代目林家正蔵(後の林家彦六)からも、いくつかの噺をもらっている。
また、落語協会の客分となり、定期的に東京の寄席に出演していた時期もある。
■今回は噺の細かい解説はいたしません。大人の貴方なら分かるでしょうから・・・。
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