落語「宿屋かか」の舞台を行く
   

 

 二代目露の五郎兵衛の噺、「宿屋かか」(やどやかか)より


 

 宿屋に大事な贔屓客がやって来た。宿屋の亭主佐助が過日相場に手を出し大失敗したときに、全面的に助けてくれたのが、このお客さんであった。亭主は下にも置かないサービスで持てなし、いつもの2階の部屋に通した。風呂から上がって食事にも、女中に任せず女将が付きっきりで給仕した。「寝る前に酒を一本持ってきて下さい。飲んでころっと寝ますから・・・」。
 寝酒を飲んで、ここの接客は嬉しいなと、大満足して布団に入った。しかし、宿の亭主夫婦の寝室の真上の部屋であったから、睦言が筒抜けに聞こえてきた。「下の音は聞こえるが、2階の音は下には聞こえもんで、手に取るように声が聞こえる。これでは他のお客はここに泊められないな。それにしても好きやねんな~、この夫婦」。その時の泣き声がもろに聞こえてきた。「これだったら、もう一本酒を貰っておくんだったなぁ~」。
 カラス、カーで夜が明けた。

 「仕事で東の方に行くが、遅くなるが今晩もよろしく」とポイッと出掛けて行った。仕事も早く終わって、早めのご帰還。
 言いにくそうにしていたが「今晩女房のお先さんを貸してくれないか」、「えぇ~、あのお先を・・・。旦那も物好きだっしゃるな。そんな女ならいっぱいいますよ」、「商売女ではいけないんだ」、「命を差し上げると言った中ですから・・・。私一存では決められませんから、女房に聞いてきます。では後ほど」。
 お先さんに聞いてみたら、「お金は有るし、男前だし、一度お付き合いしたいと思っていたの。良いわよ」と、嬉しそうな返事。旦那にその返事を伝え、2階から降りてきたが、どうしても腑に落ちない。「美人は他にも大勢いるのに、なぜ、あんなお多福のどこが良いんやろぅ」。
 お先さん、風呂に入って、鏡台の前に座って亭主には見せたこともない寝化粧、その上、長襦袢の選択に迷っていた。お先さんを2階に送り出したが、天井を見上げて何も聞こえないのでハラハラ、ドキドキ。酒を飲んで、その力で寝てしまった。

 「おはようさんです」、「寝られたか?」、「トロトロとして寝ら寝ません」、「佐助、でも良い嫁さん持っているな。これ嫁さんに何か買うてやって」。1両、渡されてビックリ。「今晩もお先さん貸して欲しいのだ。前金で3両渡すから・・・」、「かしこまりました」。といって契約成立。
 その晩、お先さん2階に上がって、佐助、寝むた目で朝が来た。

 「おはようさんです」、「寝られたか?」、「トロトロとして寝ら寝ません」、「お先さんはよう出来た女なごだ。今日も出掛けるが、帰って来たらもう一晩貸して欲しいのだ。前金と言っては失礼になるが5両でどうだ」、「旦さん、5両と言えばどんな舞妓さんでも水揚げ出来まっせ。それが、あのドぉ多福に3晩も続けて、いったいどう言うことでんね」。
 「実はなぁ~。泊まった晩に、お前がどんな仕事をするのか知らんが、嫁さんのヨガリ声に惚れたんだ。わしはずいぶん遊んできたが、お先さんからあの声が聞けん。わいも一度声を上げさせて泣かしたいんやけど、この前もさらにこの前も泣きよらんねん。今晩秘術を尽くして泣かせてみたい」、「お泊まりになった時に聞いたあの泣き声でっか。それは無理でんね」、「何で?」、
「泣いたのは、わたいでんねん」。

 



ことば

■筋の運びからサゲに至るまで、フランス小噺のような粋な出来である。古くから伝わるばれネタで、かつては「宿屋陰門」という題であったが、刺激が強すぎるので、橘ノ圓都によって現行の題に改められた。放送ではオンエアできないが、速記やレコード、テープ、などで聞くことができる。艶笑噺は、濃厚な内容でも演者の腕しだいで優れた作品に生まれ変われるが、この演目も、機知に富んだ内容であり、どのよう巧く演じられるかは演者の腕の見せ所である。初代森乃福郎、二代目露の五郎兵衛の得意ネタでもある。
ウイキペディアより

二代目露の五郎兵衛(つゆのごろべえ);(1932年3月5日- 2009年3月30日)は上方落語の名跡で初代は京落語(上方落語)の祖とされる。多臓器不全のため77歳で死去。
 落語家、大阪にわかの仁輪加師(にわかし)。 本名: 明田川一郎。中国の汕頭日本東国民学校高等科卒業。 人情噺や怪談噺、芝居噺を得意とした。 上方落語協会会長、日本演芸家連合副会長などを務めた。双子の娘がおり、姉は女優の綾川文代で自身も「露のききょう」を名乗る落語家でもある。 妹は一般人で単立・西宮北口聖書集会の牧師と結婚をしている。

 来歴:祖父母が京都市下賀茂の映画撮影所の裏で芝居や舞踊の稽古場を営んでいた縁で子役で1938年12月の7歳で羅門光三郎主演の「孫悟空 一走万里の巻」に出演。 その後を端役などで映画に出演。 後に中国に渡り、中国にて終戦を迎える。1946年に京都に家族共々引き揚げた。同年に生活の糧を得る為に芦乃家雁玉の主宰する「コロッケ劇団」に所属し地方を巡業や京都の富貴にて前座修行する。 1947年11月、戎橋松竹の楽屋で二代目桂春団治にスカウトされる形で、まずは芦乃家一春を名乗り、その後正式に入門して春坊を名乗った。1959年、上方落語協会に入会し、松竹芸能に所属。道頓堀角座等に出演した。 1960年10月、二代目桂小春団治を襲名。 千日劇場の「お笑いとんち袋」(関西テレビ、三代目桂米朝司会)での名回答者として活躍。 1967年4月、吉本興業に移籍。 1968年4月に吉本側から改名を促され、上方(京都)落語の祖・露の五郎兵衛の流れを汲む二代目露乃五郎を襲名した。 1985年、文化庁芸術祭賞受賞。1987年に漢字表記を「露の五郎」に改める。若い頃から東京の落語界との交流を持ち、二代目三遊亭百生に私淑し、怪談噺大家・八代目林家正蔵(後の林家彦六)からも、いくつかの噺をもらっている。 また、落語協会の客分となり、定期的に東京の寄席に出演していた時期もある。
 大阪にわかの数少ない伝承者の一人でもある。 弟子の露の団四郎に一輪亭花咲を譲り自ら初代露の五郎兵衛が晩年名乗った露休を一寸露久(ちょっとろきゅう)という形で襲名した。 1994年、上方落語協会会長就任、2003年まで務めた(後任は桂三枝(現:六代目桂文枝))。 2000年、紫綬褒章受章。 2002年、9月、脳内出血、11月には奇病の原発性マクログロブリン血症を患った。 2005年10月、芸名の元である二代目露の五郎兵衛襲名。目標として「生涯未完成」を掲げる。 2007年11月、旭日小綬章受章。 2012年1月、第15回上方演芸の殿堂入り。
 得意ネタ:クリスチャンということもあり次女との共作の福音落語(別名、神方噺)もある。反面、クリスチャンの厳格なイメージと異なり、この噺のような、かなりキワドイ艶笑噺も得意としていた。 東の旅は晩年の五郎兵衛時代に全篇演じ、またその名所を巡るという壮大な計画を立てていた。

ウイキペディアより

■今回は噺の細かい解説はいたしません。大人の貴方なら分かるでしょうから・・・。
 音源テープは露乃五郎時代、昭和61年(1986)6月 TBSラジオの放送 「ビアホール名人会」より収録。



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