落語「六尺棒」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「六尺棒」(ろくしゃくぼう)より


 

 「いいな夜は、夜風に吹かれて気持ちいいな。でも、家に帰りたくないな。あの親父がいつも小言ばかりだ。のべつだからナ~。俺も早く帰れば良いんだけど、苦虫噛み潰したような顔をしてヤダね~。女の所に戻りたくなったね。大戸が閉まっているよ。開けとけば良いじゃ無いか。(うぅーん)押しても引いても開かないよ。(ドンドンドン)オ~イ。番頭、佐兵衛、長さん、照ドン、・・・」。
 「夜分表の戸をドンドンお叩きになるのは、どちらさんですかな?」、
 「(ドキッ)マズいな。起きているのは、とっつぁまだよ。寝てるが良いじゃないか」、
 「どなたで御座いますか?」、
 「開けていただきたいんですがな」、
 「商人(あきんど)の店は、夜10時限りです。お買い物でしたら明朝お願いします。はい、お休みなさい」、
 「あの~、買い物ではないんです。おとっつあん、私なんです」、
 「私なんて名前は聞いたことがありません。何処のどなたかハッキリ言っていただきましょう」、
 「貴方の伜の幸太郎です」、
 「はいはい、幸太郎のお友達ですか?」、
 「いえ、幸太郎です」、
 「友達ですか、良く訪ねて来ていただきましたな。家にも幸太郎というヤクザな伜がいましたが、道楽者で手が付けられない。家の金を持ち出す、遊びに行くと夜は帰って来ない。何をしでかすか分からない。と言うことで親戚一同寄り集まって、勘当と言うことになりました。もう、帰ってこなくても良いと、お言付け願えますか」、
 「え!出し抜けに勘当!明日から帰って来ますから入れてください」、
 「『明日から、明日から』、なんて聞き飽きたと、そうお言付け願います」、
 「行く所が無いんですよ」、
 「どこでも、行っちまィ!と、そうお言付け願います」、
 「行くとこも無いし、寒いから首くくって死んじまォ~」、
 「『死ぬ、死ぬ』と言った奴に死んだ試しはないと、そうお言付け願います」、
 「死に方が分からないからよしたィ」、
 「ざまぁみやがれ!と、そうお言付け願います」、
 「(泣き声で)ねェ~、おとっつあん、こうやって寒空震えてんだ。無慈悲な親だね~。本当の親なんだろ~。思いやりがなさ過ぎるよ。頼んだ覚えはないのに、23年前お袋とご相談の上お作りになった伜を、良ければ家に入れて、悪ければ放り出すなんて・・・」、
 「やかましい。『頼んで産んで貰ったことはねぇ~』、バカヤロウ。五体満足に産んで貰って何が不服があるんだ。マヌケめ。勘当したんだ、何処にでも行っちめィ。影ながらよそ事のように聞かせれば、良い気になりやがって・・・。少しは世間様を見ろ、隣の静六さんを見習え。親と一緒に働いて、身体の具合が悪い時は、枕元に付きっきりだぁ~。『薬はニガイ方が効きます。肩を叩きましょうか、腰をさすりましょうか』、見ていて涙が出たよ。勘当したんだ、何処にでも行っちめィ」、
 「分かりました。私は一人息子。勘当となれば、何処からか養子を貰うんでしょ」、
 「大きなお世話だ」、
 「何処の馬の骨だか分からないのに持って行かれるのはヤケだからね。無いと思えば諦めも付くから・・・。いっそ、この家を燃やそうじゃないですか」、
 「何でもやれ」、
 「やるんだ。こっちは。ヤケって恐いよ。ここにマッチが有るんだ。火が小さい内は暖かいが、大きくなったら焼け死ぬと言うことも・・・。チャチャラカ・チャン」、
 「アッ!本当にやりやがった。この野郎、待て!」、
 「誰が待つ奴があるか。逃げろ逃げろ!六尺棒を持って追いかけて来るよ。凄い馬力だね、お袋が早死にするのが分かるよ。向こう脛かっぱらわれたら大変だ。『火事ですか?』、親父です。親父の方が恐いね。ここを曲がって、隠れていよう。・・・、行っちゃった。反対方向に行こう。家の前に来たよ。あらら、戸が開けっ放しだ。戸を閉めて・・・」。

 「何処に行った、奴は・・・、クヤシイね。六尺棒で向こう脛かっぱらってやろうと思ったのに。息子には敵わないな。無い子には泣きを見ないと言うが、本当だな。泣きを入れれば入れてやるんだが、親を凹まして入ろうとするから入れないんだ。ん?番頭さんが閉めてくれたのかな。錠をかってしまうなんて。(ドンドンドン)オ~イ開けてくれ。番頭さん、佐兵衛、長さん、照ドン、・・・」、
 「夜分表の戸をドンドンお叩きになるのは、どちらさんですかな?」、
 「あの野郎、入ってイヤガラ。明けろ明けろ」、
 「商人(あきんど)の店は、夜10時限りです。お買い物でしたら明朝お願いします。はい、お休みなさい」、
 「お、オッ、オ。買物(かいもん)じゃない。アタシだよ」、
 「私なんて名前は聞いたことがありません。何処のどなたかハッキリ言っていただきましょう」、
 「ふざけんじゃないよ。寒いんだ、ここをお開け。お前の親父の幸右衛門だ」、
 「幸右衛門のお友達」、
 「お、オッ」、
 「友達ですか、良く訪ねて来ていただきましたな。家にも幸右衛門という一人の親父がいましたが、稼ぐばかりで手が付けられない。金は稼ぐと汚くなる。と言うことで親戚一同相談の上、親父は勘当と言うことになりました」、
 「親を勘当と言うことがあるか。開けろ」、
 「やかましい。影ながらよそ事のように言って聞かせればいい気になりやがって。少しは世間様を見ろ、隣の静六さんのおとっあんを見習え。伜が退屈していたら、差しでコイコイをしようじゃないかとか、青い顔をしていれば何か悩みがあるんだろうと、酒が飲みたければ付き合うし、女が欲しければ一緒に吉原に行こうじゃ無いかぁ~。そばで見ていて涙が出るよ。爪の垢でも煎じて飲め」、
 「何を言いやがる。そんなに真似したければ、六尺棒を持って追いかけて来い」。

 



ことば

道楽(どうらく);『マクラから・・・』、サンドラ煩悩と言って、飲む・打つ・買うと言われるが、只今買うと言うことが出来無くなりました。他のことは忘れて、それだけに打ち込むことで、大阪では極道と言われます。ですから、ボーリングをやる、ゴルフをやると言うお遊びとは、のめり込み具合が違います。この三悪(?)の中で一番良いのは意外と博打だそうで、女と酒は歳取ると弱まるが、博打はそうはいきません。しかし、博打打ちの親分はあるが、女郎買いの親分はない。この三道楽を落ちるところまで落ちると、道楽ではなく道に落ちる道落者となります。

初代三遊亭遊三(さんゆうてい ゆうざ);(1839年(天保10年) - 1914年(大正3年)7月8日)は主に明治期に活躍した落語家。本名:小島長重。
 元々徳川家に仕えた御家人の生まれで、正しくは小島弥三兵衛長重と言う。小石川小日向屋敷に住み、初代三遊亭圓遊(本名:竹内金太郎)とは手習い仲間であった、その頃の御家人の例に漏れず、武士の階級でありながら芸人仲間に加わり好きな芸事に耽溺していた。幕末頃病昂じて二代目五明楼玉輔門人となり玉秀と名乗って寄席に出るようになる。周囲の猛反対や組頭の叱責も意に介さず雀家翫之助と改名して寄席に出演を続けていた。
 慶応4年(1868)の上野戦争には彰義隊の一員として参加したが、逃げ出した。維新後は司法省に入り裁判官の書記を経て判事補となるなど完全に寄席から離れる。だが、函館に勤務中、関係を持った被告の女性に有利な判決をするという不祥事を引き起こし官を辞す。それがきっかけで居られなくなり女性をつれて東京へ戻る。 帰京後、口入屋などをしていたが、旧友初代三遊亭圓遊を頼って寄席に復帰。六代目司馬龍生門で登龍亭?鱗好となるが師が女性問題で駆落ちしてしまい、止む無く三遊亭圓朝の進めで圓遊門人となり三遊亭遊三となる。
 「三遊亭遊三」は回文形式の洒落た名前で、他の落語家には三笑亭笑三、笑福亭福笑、蝶花楼花蝶、歌舞伎では助高屋高助がこれにあたる。 御家人生まれだけに「素人汁粉」など武士の演出が優れていたという。十八番は「よかちょろ」で「よかちょろの遊三」とまで呼ばれた。他に、文化4年(1807)の口演記録が残るこの「六尺棒」や、「転宅」「厩火事」「お見立て」「権助提灯」などの滑稽噺を得意とした。五代目古今亭志ん生が若い頃、遊三の「火焔太鼓」を聞いて、後に自身の十八番とした逸話は有名である。
 なお、俳優十朱久雄は孫、女優の十朱幸代は曾孫である。墓所は文京区関口二丁目の大泉寺。

六尺棒(ろくしゃくぼう);樫など、質のかたい木で作った、長さ六尺ぐらいの棒。賊を防いだり、取り押えたりするのに使う。 現在も警察の立ち番がこれを持って入口で番をしています。
 武道では、鉄撮(かなさい)棒といって、筋金入りで鉄のいぼを打ちつけた8尺(約2.42m)のものまであった。棒はこのように自然発生的に武器として用いられているうちに、武術として発達し、長さも6尺(約1.82m)を規格として六尺棒(右写真)といわれた。そのほか規格にとらわれない〈鼻ねじ〉という短棒や、槍の穂先を打ち折られたとき直ちにその柄で戦ったことから〈槍折〉という名称もあった。

苦虫噛み潰したような顔;(苦虫はもし噛めば苦いだろうと想像させるような虫)苦々しい表情。不愉快きわまりない顔つき。

大戸(おおど);表入口の大きな戸。通常は、その中の一枚に潜り戸が設けられていて、そこから出入りが出来た。大戸を閉めるとは言わず、大戸を下ろすと言います。

 

 

 大戸の仕組み:1.左上、営業中は上下二段に分かれて欄間の部分に収納されていて、梁に出たでべそ状のカギの上に乗っています。二枚重ねの奥が降りて、手前の鍵付きはけんどん式に両脇に止まっています。2.右上、下の半分を下ろしたところ。シャッターと同じで、柱には溝が切ってあります。
3.左下、完全に二枚が降りた状態。上の扉に左右に出っ張るカギが着いています。4.右下、問屋さんの格子戸には、引き戸の潜り戸が付いています。この格子は全体が左にずれて、雨戸のように終端で収納されます。その奥に大戸が有って、潜り戸が付いています。金持ちの店では二重の表戸が設置されています。
 また、何処にも六尺棒は無く、大戸の開閉には使われるものでは有りません。防犯のため、警棒として供えられていたのでしょう。深川江戸資料館にて解説を受ける。

勘当(かんどう);主従・親子・師弟の縁を切って追放すること。江戸時代には、不良の子弟を除籍すること。江戸時代、勘当(久離)の届出を町年寄または奉行所で記録しておく帳簿を勘当帳と言った。久離帳。記録しないのは内証勘当という。

 親が子に対して親子の縁を切ること。古代においては後世の勘当に相当する法律効果は不孝(ふきょう)と呼ばれており、これに対して勘当は勘事(かんじ/こうじ)とも呼ばれ、主従関係の断絶を主人から言い渡される事を指した(なお、天皇から公卿に対して出仕を差し止められることを勅勘と呼ぶのもこれに由来している)。親子関係の一般における断絶について「勘当」と称するようになったのは室町時代以後のことと考えられている。
 江戸時代においては、親類、五人組、町役人(村役人)が証人となり作成した勘当届書を名主から奉行所(代官所)へ提出し(勘当伺い・旧離・久離)、奉行所の許可が出た後に人別帳から外し(帳外)、勘当帳に記す(帳付け)という手続きをとられ、人別帳から外された者は無宿と呼ばれた。これによって勘当された子からは家督・財産の相続権を剥奪され、また罪を犯した場合でも勘当した親・親族などは連坐から外される事になっていた。復縁する場合は帳付けを無効にする(帳消し)ことが、現在の「帳消し」の語源となった。ただし、復縁する場合も同様の手続きを必要とした事から、勘当の宣言のみで実際には奉行所への届け出を出さず、戸籍上は親子のままという事もあったという。人別帳に「旧離」と書かれた札(付箋)を付ける事から、「札付きのワル」ということばが生まれた。
 近代以後においても明治憲法下の旧民法第742条・749条及び旧戸籍法で戸主の意に沿わない居住・結婚・養子縁組をした家族に対して戸主が当該家族を離籍をした上で復籍を拒むことができる旨の規定があり、勘当の制度が存在した。
 現在、日本国憲法下の法律で親子関係を否定する制度は、いくつか存在する。普通養子縁組の裁判離縁、嫡出否認の訴え、親子関係不存在の訴え、血縁関係のない認知の無効請求によって戸籍上の親子の縁を切る制度があるが、これらは実の親子関係を絶つ制度ではなく、親の意の沿わない居住・結婚・養子縁組という理由で親子の縁を一方的に切ることはできない。実の親子が関係を絶つ制度としては、特別養子縁組による実親子の親族関係終了があるが、特別養子縁組は子供が6歳に達した後はすることができず(6歳以前から養親に養育されている場合は8歳まで可能)、また子供のためという制度の趣旨から実親が実子に対して一方的な意向によって法的に親子の縁を切る性格のものではない。そのため、現在では勘当は言葉のみであり法的な手続きとしては存在しない。実親から実子に対して親子関係に関するペナルティーを与えることができるほぼ唯一の制度としては相続廃除があるが、相続廃除は認められる要件が限定的でかつハードルが極めて高いため、これも単に親の意に沿わないといった理由のみで認められることはほとんどない。

向こう脛(ずね)かっぱらわれた;脛の前面。むかはぎ。-を叩かれる。弁慶の泣き所を叩かれる。ここは痛い、「鬼の目に涙」と言われるほどで、骨がむき出しでいるだけでは無く、それに沿って神経が走っているので、ぶつけると痛いところです。

 江戸時代の捕縛の様子。明治大学博物館蔵。 中央の男が六尺棒を投げられ、転倒させて捕まえる様子。

火付け(ひつけ);人家などに火をつけること。つけび。また、放火犯人。
 防火と消火の設備が未発達の江戸時代では、火事による被害は現代とは比べ物にならないほど甚大になることがあった。例えば、江戸時代最大の大火である明暦3年(1657)の明暦の大火は約十万人の死者を出し、江戸城や多数の武家屋敷、民家が焼失するなど江戸の広範囲が被災した。そのため、放火は重罪です。
 火災の大小は問わず、馬で市中引廻しの上火罪(火あぶりの刑=右写真、、明治大学博物館蔵)になります。火元の近隣の人から届け出があれば、幸太郎は火あぶりの刑になってしまいます。八百屋お七の例等があります。
 家族で本当に勘当していれば家族に累が及ぶことはありませんが、言葉上のことだと、家族も家財没収の上遠島か江戸追放になります。商人は商売が出来ず、倒産になります。親父さんは幸太郎を追いかける前に、火を消して、証拠隠滅を計らなければなりません。落語「二番煎じ」、「くしゃみ講釈」を参照。

 ただし、この噺はマッチを持っていると言っていますから、マッチが国産されるのが明治8年(1875)年4月です。その後市中に出回るまでには10年や20年は掛かるでしょうから、この噺の時代は明治中頃と思われます。したがって、江戸時代のような刑罰は無かったでしょうから、火あぶりの刑では無かったはずです。でも、火付けは現在でも殺人と並んで重罪で、追いかけっこしている場合ではありません。

火事にとりつかれた男「ぼや金」
  これは江戸時代末期の事件や噂話を集めた『藤岡屋日記』に書かれた話。 ペリーが黒船で来航する前年の嘉永4年(1852)の春、江戸は牛込から四谷にかけて寺で不審火が相次ぐという事件がありました。 それからしばらくして同年の夏、またもや四谷の宗福寺という寺で不審火がありました。この時、寺の小僧が不審者を捕らえましたが、その正体はなんと武士。しかも、江戸の治安を守る同心というから驚いた。
 男の名は小櫛(おぐし)金之助(35)。すぐさま奉行所にしょっぴかれ取調べを受けましたが、その供述から小櫛の連続放火魔としての犯行と、火事に対する異常性が浮き彫りになりました。 小櫛はもともと火事が大好きだったらしく、ちょっとしたボヤが起きるだけで「火事だ!火事だ!」と大騒ぎするので、ついたあだ名が「ぼや金」。そんな小櫛が連続放火という大罪を犯すようになったきっかけもやはり火事。 嘉永4年(1852)の春に四谷で大火事が起きた時、火事現場の近くにあった親戚の家に駆けつけ大いに働き、後日、謝礼をもらいました。火事の高揚、感謝、満足感・・・。ますます火事にぞっこんになった小櫛は、火事が起きるとすぐに現場に駆けつけ、誰よりも熱心に働きました。ここまでは問題ない。 しかし、火事が多かった江戸時代とはいえ、そうそう都合よく起きるはずもない。
 ぼや金は火事がない日がしばらく続くと、居ても立ってもいられなくなる。そしてついに自ら火を付けたのでした。 小櫛が放火したのは寺ばかり5件。しかも昼間の犯行。それはなぜかというと、「夜が怖い」とかで昼間にしか放火ができず、そうなると昼間にあまり人がいない寺がうってつけだったから。 さて、火事にとりつかれた放火魔・小櫛の末路はといいますと・・・。江戸時代、放火は大罪。5件もの放火を犯した小櫛は獄門にかけられることが決定しましたが、処刑の前に牢屋で獄死したとか。
右図:燃え盛る炎と煙に対峙するのは「い組」の町火消し。『月百姿』「烟中月(えんちゅうのつき)」月岡芳年画

無い子には泣きを見ない;子が無ければ親は子のために泣かされることは無い。子があればあるで親はそれなりに苦労の種が多い。

爪の垢でも煎じて飲め;優れた人の爪の垢を貰って煎じて飲む。優れた人にあやかろうとする事。



                                                            2016年8月記

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