落語「竜宮」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭円歌の噺、「竜宮」(りゅうぐう)より


 

 江戸時代は珍しい物と言えば、交易をしていた長崎に集まります。ビートルのフラスコと言えば凄い物のように聞こえますが、ガラスのフラスコです。名前が違えば珍品になります。
 当時は小倉から船に乗ります。船旅は賑やかなもので・・・。瀬戸内海は景色も良くて、良い船旅です。中に浮かぬ顔をした旅人が乗船していた。
 「良く聞いてくれました。大変なことをしまして・・・、私は江戸・本町二丁目の骨董屋・浦島屋の手代・太郎兵衛で、長崎で300両の掛を集金して来ましたが、あまりにも景色が良いもんで、懐のお金を海に落としてしまったんです。ご主人に申し訳がないので、ここでお金と同じように海に身を投げようと思っています」、「待ちなさいよ。自分だけ話をしていて飛び込んだら、関わり合いになってしまう。船中の皆さん、何か良い案が有りませんかな?」、「私は横浜の者で、ビートルのフラスコを買い求めてきましたが、夏の暑い時に二人が中に入って酒盛りを海の中で出来るという贅沢なものです。この人に中に入って貰い皆で綱で吊り下げたら見付かるかも知れません」、「良いことを聞かせて貰いました」。と言うことで、太郎兵衛さんを中に入れて、皆で綱を持って、海に下ろした。

 岩の上に引っかかりながら、まだまだ沈んでいくと、目の前を鯛が隊列を作って泳いでいきます。「大きいのが鯛長で、付いていく小さいのが兵鯛だな。アカエイが昇って行く、まるで凧揚げのようだ。タコが吸い付いてきた。茹でてないもので赤くは無かった」。
 海底に、落とした財布を見つけた。見つけたが手が出ないので、フラスコの中なので拾うことが出来ない。「宝の山に入りながら手が出ないのは口惜しや」、と残念がって芝居心で矢立でパチリと突くと、水が入ってきて太郎兵衛は海の底に真っ逆さま。落ちたところは煌びやかな大竜宮殿。浦島太郎と間違われ宮殿の奥に案内された。乙姫さまと大広間で酒盛りが始まったが、そこに本物の浦島太郎がやって来た。二個目の玉手箱を小脇に抱えて逃げ出した。着いたところが紅い珊瑚樹畑。これを江戸の土産にと引き抜いて、珊瑚三・五、15両には売れるだろうと、計算ずくでもう一本。それを見ていたフグを頭に頂いた時の代官フグワタ長安、「珊瑚樹を荒らしているのは、偽の浦島。皆でまいれ、まいれ」、大立ち回りの末、捕り物から難を逃れた太郎兵衛。

 そこに駕籠かきがやって来た、「旦那、帰りグルマですから、いかがでしょう」、「ありがてぇ、こんな所で帰りグルマ。江戸の本町までいくらで行く」、「江戸と言えば1万6千里、1両を奮発してください」、「1両とは安いが、人間かぃ」、「人間が、こんな海底にいるわけが無い。私は猩々(しょうじょう)で御座います」、「猩々か、クルマ賃は安いが、酒手の方が高く付く」。

 

挿絵;軽口 絵本臍久良辺(へそくらべ)(延享四年 西川裕信画)「水中の黄金」より

 



ことば

原話;軽口 絵本臍久良辺(へそくらべ)(延享四年 西川裕信画)「水中の黄金」です。上記に挿絵有り。
 「この川の底には、金がたんと落ちてあるがな。どふぞして取りたいものじゃ。ヤア思ひ出した。よい思案があるぞ。ビードロの徳利へ人を入れ、川中へ下ろしたら、なんと」、「こりあ面白い」と、大徳利に入り、ズブズブと浸かりて、「オゝ、あるぞあるぞ。金だらけじゃ」。上からは、「どふじゃ、あるかあるか。早ふ取って上がれ上がれ」、「いや、それでも手が出されぬ」。
 初代林家蘭丸(江戸時代後期の落語家。 生没年不詳)作と言われる「小倉船」の原話です。上方噺「小倉船」は江戸に入って「竜宮」の演題で演じられています。

■ビートルのフラスコ;ビードロ=ガラスを意味するポルトガル語(ポルトガル語: vidro)。
ビードロで出来た江戸時代からの玩具で、ぽぴんは、近世のガラス製玩具。ぽっぺん、ぽんぴん、ぽっぴんともいい、ガラス製なのでビードロともいう。首の細いフラスコのような形をしていて、底が薄くなっており、長い管状の首の部分を口にくわえて息を出し入れすると気圧差とガラスの弾力によって底がへこんだり出っ張ったりして金属的な音を発する。玩具として用いるほか、旧正月などで厄払いの願いをこめて吹くこともある。
右図:ポッピンを吹く女(ビードロを吹く娘) 喜多川歌麿の美人画 その右、平底フラスコ。

長崎(ながさき);「鎖国」体制であった江戸時代には、国内唯一の江戸幕府公認の国際貿易港(対オランダ、対中国)・出島を持つ港町であった。このため、出島跡を初めとして、異国情緒に満ちた港町として有名である。
 古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパから多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。また、県下最大の人口を持つ長崎県の中心都市である。

出島(でじま);1570年長崎開港、1571年8月にはポルトガル船2隻が初めて入港以来、渡来するポルトガル人は年々多くなり貿易も盛んになたが、貿易に関する制度や施設が不十分で、取引が終わるまで、ポルトガル人は市内の住民と同居すろようになったことで、いろんな不都合な問題が生じてきた。 キリスト教問題、混血児問題、金銭支払の問題である。
 そのため幕府は1634年長崎奉行に命じ、ポルトガル人との同居を禁止する方針を実施させ。日本人と外国人を隔絶する方策をとる。奉行の許可を得た町人25名の出資によって江戸町海面を埋め立て扇形の出島を築いた。建造費銀200貫目(約4,000両)これを今のお金に換算すると約4億円。総面積は約15,000㎡(3,969坪余)(史跡指定面積 約14,800㎡)
 1637年に起こった島原の乱により、幕府はポルトガル人に対して警戒を強め、1639年、ポルトガル人の来航が禁止されて出島は空き家となるが、1641年長崎平戸のオランダ商館が出島に移され、1859年までオランダ人が218年間入居。
右図:長崎港図に描かれた出島及び唐人屋敷。シイボルト著『NIPPON』より

小倉(こくら);律令制下では豊前国企救郡(きくぐん)の一地域となる。関ヶ原の戦いの論功行賞により豊前国の統治を始めた細川忠興が、慶長7年(1602)から当地に小倉城を築く。これ以後、小倉藩の城下町となる。寛永9年(1632)には細川氏に代わり、小笠原忠真が移封され、以後は小笠原氏による統治が続いた。慶応2年(1866)の長州征伐において長州藩側の反撃を受けて、小倉藩自らの手により小倉城は火が点けられ焼失した(現在の小倉城は昭和34年(1959)に復元された物)。
 
かつて九州の北部、福岡県東部に存在した市。現在の北九州市小倉北区と小倉南区に相当する。 旧企救郡(きくぐん)の一角で、昭和38年(1963)2月10日、門司市・戸畑市・八幡市・若松市と合併して北九州市となった。現在は北九州市小倉北区と小倉南区に分区された。

瀬戸内海(せとないかい);本州と四国・九州とに囲まれた内海。沖積世初期に中央構造線の北縁に沿う陥没帯が海となったもの。友ヶ島水道(紀淡海峡)・鳴門海峡・豊予海峡・関門海峡によってわずかに外洋に通じ、大小3千の島々が散在し、天然の美観に恵まれ、国立公園に指定されている。沿岸には良港が多く、古くから海上交通が盛んだった。
 東海道には関所があって、どんな事があってもここを迂回することは出来なかった。その為、九州方面から江戸に向かうときは瀬戸内海を船旅で行くのが多かったが、大坂から港に上がり、東海道を徒歩で旅をした。朝鮮使節や長崎に上がったポルトガルやオランダの商館主も同じ道を通った。

本町二丁目(ほんちょう2ちょうめ);中央区日本橋室町三丁目、四丁目に挟まれた道路に面して地。現在の日本橋本町二丁目とは少し離れている。日本橋から北に向かった中央通りは、江戸時代大店(おおだな)が集まっていた、江戸の中心的な商業街です。

骨董屋(こっとうや);江戸時代、唐物や古美術品を売買した店。また、その商人。唐物屋(今で言う高級輸入雑貨店)。古道具屋のこともいう。

300両の掛(300りょうのかけ);300両と言えば、1両=8万円として2400万円ぐらいでしょうか。当時の貨幣価値からすれば相当な価値がある金額です。落語の中では演者によって金額がまちまちで、ま、大変な金額だと聞き手に伝われば良いのでしょう。
 掛は売り掛けのこと。商品を売った金額の回収に出掛けたのでしょうが、往復の旅費が掛かるでしょうから、利益が飛んでしまうのではないかと心配しています。

アカエイ;トビエイ目アカエイ科に属するエイ。全長1m。日本を含む東アジアの沿岸域に広く分布し、分布域では普通に見られる。食用ではあるが、尾に1本の毒のトゲがあるので充分注意しなければならない。タンパク質を溶かす毒なので、全治するまでには相当な時間が掛かる。
 尾を含めた全長は最大で2mに達する。多くのエイに共通するように、体は上から押しつぶされたように平たく、座布団や凧のような形をしている。左右の胸鰭は緩やかな曲線を描くが、吻は尖っている。背面は赤褐色-灰褐色で、腹面は白いが、鰭や尾など辺縁部が黄色-橙色になる点で近縁種と区別できる。背面に目があり、噴水孔が目の後方に近接して開く。
右写真:アカエイ。

宝の山に入りながら手が出ないのは口惜しや「宝の山に入りながら空しく帰る」、日蓮聖人『摩訶止観』や『正法念経』、『智嚢全集』などによる故事成語。

矢立(やたて);墨壺に筆を入れる筒の付いたもの。帯に差し込みなどして携帯する。江戸時代に使われた。石筆。墨斗。
右写真:矢立。広辞苑より

大竜宮殿(だいりゅうぐうでん);竜宮城(りゅうぐうじょう)、水晶宮(すいしょうきゅう)は、中国や日本各所に伝わる海神にまつわる伝説に登場する海神の宮殿。日本風のよみをして龍の宮(たつのみや)、龍の都(たつのみやこ)、海宮(わたつみのみや)などとも呼ばれる。 日本各地の伝説・昔話に登場するが、湖沼や川、洞窟が龍宮への通路となっているものも存在しており、伝承地は必ずしも臨海部であるとは限らない。
 乙姫あるいは龍王が統治する世界として水中に存在するとされている宮殿あるいは世界。日本の物語(『お伽草子』など)や昔話・伝説では「わたつみのみや」などにくらべ「龍宮」であるとする設定が数多くみられる、そのため、龍宮と通じた場所であるとする伝説が残されている地は各地にひろく点在している。乙姫が住む宮として龍宮が登場。浦島太郎が助けた亀の背中に乗って行った。
右写真: 下関・赤間神宮の竜宮造をした楼門の水天門

浦島太郎(うらしまたろう);雄略紀・丹後風土記・万葉集・浦島子伝などに見える伝説的人物で、丹後水の江の浦島の子または与謝郡筒川の島の子という漁夫。亀に伴われて竜宮で3年の月日を栄華の中に暮し、別れに臨んで乙姫(亀姫)から玉手箱をもらい、帰郷の後、戒を破って開くと、立ち上る白煙とともに老翁になったという。神婚説話。海幸山幸神話と同型の典型的な仙郷滞留説話。
 慶運寺(神奈川県横浜市神奈川区)にある説明板より、
相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が20歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という。
落語「宿屋の仇討ち」より孫引き
右写真:神奈川・慶雲寺の「浦島観世音 浦島寺」と記された亀に乗った碑。

珊瑚(さんご);動物(サンゴ虫)のうち、固い骨格を発達させるものである。宝石になるものや、サンゴ礁を形成するものなどがあり、鉱物ではない。七宝=七つの宝物のひとつ。経典によって説が分かれるが「無量寿経」では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・シャコ・瑪瑙(めのう)・珊瑚(さんご)をいう「法華経」では、玻璃・珊瑚を除き真珠・マイカイを入れる。
 日本産珊瑚のうち、日本、中国、台湾で最も人気があるのはアカサンゴ(右写真)で、そのうちでも深みのある赤を市場では血赤珊瑚(アメリカでは「オックスブラッド」ヨーロッパでは「トサ」などの名称で呼ばれることがある)と呼んで最高ランクとされ、台湾や中国の富裕層に人気が高く2国の発展に伴い値段の高騰が激しい。この人気のため日本の海域でアカサンゴが大規模に密漁されている。

フグワタ長安;河豚腸(ふぐわた)長安。フグの猛毒はハラワタですから、それは恐い竜宮の代官です。

■帰りグルマ;目的地まで客を送った帰りで、人を乗せていない人力車やタクシー。(広辞苑)
この噺は海の中を漫遊するという奇想天外な噺です。間違いを指摘しても意味は無いのですが、この噺では駕籠ですから、帰りグルマとは言いません。クルマでは無いのですから・・・。しいて言うなら、帰り駕籠とか戻り駕籠でしょう。

猩々(しょうじょう);中国で、想像上の怪獣。体は狗や猿の如く、声は小児の如く、毛は長く朱紅色で、面貌人に類し、よく人語を解し、酒を好む。また、よく酒を飲む人。大酒家を指すので、駕籠賃より酒手、飲み代のチップの方が金が掛かる。(オチに使っています)
 各種芸能で題材にもなっており、特に能の演目である五番目物の曲名『猩猩』が有名である。真っ赤な能装束で飾った猩々が、酒に浮かれながら舞い謡い、能の印象から転じて大酒家や赤色のものを指すこともある。
 オランウータンのことを指すこともありますので、赤い服装をさせて歩かせたら、猩々のモデルだったかと思わせます。
 右図:猩々
 



                                                            2016年12月記

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