落語「慶安太平記」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「慶安太平記・序」(けいあんたいへいき)より


 

 江戸の芝、三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうずいんぞうじょうじ)、大広間に集められた坊さんに、使いを依頼した。親寺の京都の知恩院まで三百両届けるが往復10日で、金に不具合があったら自腹で補償するが、無事帰って来たら褒美を使わす。と言う難題、誰も行く者は居ないが、大黒堂の別当、善楊(ゼンヨウ)の徒弟で善達(ゼンタツ)、身の丈六尺一寸もある大男が、行くという、それも4日・4日の往復8日で行くという。

 身支度を整へ、腹帯に300両を縫い込み、護身用の如意棒を腰に差して明け六つに出立した。
 山内を出て赤羽橋に掛かってくると右に大きな有馬様の土塀にもたれて飛脚が煙草をくゆらしている。善達は江戸を出る前に護摩の蝿(灰)に出くわすとはと思い、追い越して、伊皿子坂下から泉岳寺を見て八つ山に出た。飛脚は青物横丁に掛かってくると右に折れて池上本門寺の方向に切れて行った。「本門寺の僧と勘違いして、右に曲がったな」と、思って安心した。鮫洲の涙橋を渡り、八幡から六郷の渡しに掛かって来ると、出ようとする舟を止めて乗ると、先程の飛脚が乗っていた。
 「坊さん、本門寺に赤紙の着いた手紙2本頼まれたので、置いてきたが急いでいるのでとっくに行ってしまったと思ったが一緒になったな」、「どっちが早く来ようが、駆け比べをしているのではない」、「そうだけれども・・・。一緒に行こうか?」、「どこへ?」、「京都の知恩院まで、往復10日で行くんだろう」、「よく知っているな」、「走れるか?」、「40~50里ぐらいは飛ぶな」、「素人でそれだけ走れば上の上だね。わしは飛脚だから80里から100里は行くね」、「そんなに早ければ先に行ったらどうだ」、「そんな事言わず、一緒に行こうよ。道中物騒だよ。護摩の蝿も出るよ。300両持っているんだろう」。
 係わりたくないので、舟を下りると善達の早いこと、川崎、鶴見で生麦、子安から神奈川に。青木が台から保土ケ谷、戸塚、はや藤沢へ、羽鳥四谷に掛かると右、大山街道、左が南湖(なんご)松原で、馬で乗り入れる馬入(ばにゅう)の渡し、平塚の花水橋を渡り、右に高麗山、大磯から小磯を通り越して、小田原の早川を上って、湯気を出しながらドンドン登った。「どうだ!」、と思ったら、飛脚が着いてきた。
 「坊さん、昼ぐらいチャンと取らないと。速く歩けばあっしも早くなる。野宿すればあっしも野宿、宿に入ればあっしも宿で泊まる。一緒に行こうよ。箱根で一泊かい?」、「冗談じゃ無い」。箱根から転がるように三島から沼津、吉原から蒲原、由比、興津、江尻を駆け抜けて日の暮れ方に駿府に転がり込んだ。朝江戸を発って夕方には静岡に行ちまった。坊主はぐずぐずになってしまった。

 「姉や、坊さんに布団でも掛けてやってくれ」、善達が起き出し、湯から上がってくると、お膳が二つ出ていた。「俺のおごりだ。飲むんだろ。俺が心配だったら、他の宿に行ってくれ。どうする?」、「持って来い」。疲れているところに、一杯入ったのでグッスリと寝込んでしまった善達。「姉や、チョッと聞いてくれ。九つが鳴ったら、明け六つだと言って二人を起こしてくれ」、心付けを渡して頼んだ。
 「お客さん、明け六つです」、と起こしに来た。善達ビックリして飛び起き、握り飯をズタ袋に入れて飛び出し、安倍川の川原までやって来た。「飛脚、真っ暗じゃないか。ここらまで来ると夜が明けるんだが・・・」、「女中が間違えたかな」、「渡し場も閉まって川を渡れねぇ」、「大丈夫、上流に行くと浅瀬があって渡れるよ」。言われたように渡ることが出来た。山の中に入って、宇津ノ谷峠にやって来た。

 まだ夜も明けない真っ暗闇。飛脚は一服だとタバコをくゆらし始めた。「火が見えるところが俺の居るところだ」。麓の方から声が聞こえ始めた。「エッサッサイ、ドッコイショのショ」、長持ちが目の前まで上がってくると、棒鼻をトンと突いた。トントントン「御頭か?」、「シッー、静かにしろ、首尾は?」、「上首尾です。紀州三座の金飛脚3千両を小笠原なにがしという使い手が担いでいます。腕が立つと言いますから気をつけて下さい」、「お前らはふけてしまいなッ」、「エッサッサイ、ドッコイショのショ」、と今二人が来た鞠子の宿に下って行った。
 「飛脚、今のは聞いておったぞ。何だ?」、「俺の手下だ」、「手下だというと・・・」、「俺は護摩の蝿だ。オッとデカい声を出すねェ。自分から護摩の蝿だと名乗っているんだ。お前さんが300両か400両持っているのは知っている。その金を奪おうと言うんじゃねェ。訳があって徳川の金は全部奪おうという了見だ。小笠原なにがしという金飛脚を切って三千両奪うが東海道は止まってしまう、一緒に連れて京都まで連れて行ってくれ。途中咎めたれたら『増上寺の僧善達で、連れは新橋神崎屋の飛脚で十兵衛』という者だと言ってくれ」、「何もかにも知っているな。分かった。三千両持って旅するのか?」、「出来ね~よ。石の下の穴に埋めておいて、ほとぼりが冷めたら子分に分けて、後は使うよ」、「私には・・・」、「ふてえ根性だ。いくら欲しい」、「半分」、「なに、テメエほど太い野郎は無い。道で取った金なら良いが、これは3年前から仕組んであったもんだ」、「分かった分かった、一人で欲をかくもんじゃ無い。1割よこせ」、「どっちが欲深だ」、「御仏のためだ。坊主に出せ」、「下でに出ればいい気になりやがって、この道中差し、世に有るときは信州上田安房守真田幸村の家来剣術の指南役、高坂陣内という剛の者ダ」、「やかましいや、俺だってタダの坊主では無いぞォ。元和元年7月大坂城落城の折に討ち死にした岩見重太郎の忘れ形見ダ。その様な金なら俺が先に頂く。その前にお前からひねっちゃう」。抜き打ちに切ってくるところを、一歩下がって如意棒で受け止めた。両方が後にストンと飛んだ。真っ暗闇の宇津ノ谷峠、チャリンチャリンと打ち込もうとする矢先、麓の方からシャンシャンシャンと紀州三度の金飛脚が上がってくる。
 慶安太平記の幕開けになる。これからが面白いんだがね~。今日はこの辺で・・・。

 



ことば

慶安太平記(けいあん たいへいき);別名題『樟紀流花見幕張』(くすのきりゅう はなみの まくはり)と言い、歌舞伎の演目。通称に「慶安太平記」、「丸橋忠弥」(まるばし ちゅうや)。二代目河竹新七(河竹黙阿弥)作、全六幕。明治3年3月(1870年4月)東京守田座で初演。
 徳川三代将軍家光と言う方は、ご名君。江戸市中に浪人が多く出てきて、由井正雪と言う者が謀反を起こした。楠木正成の末裔と名乗る由井正雪は同志を集め幕府転覆を図る。 同志の一人丸橋忠弥は、江戸城攻撃に備え掘の深さを測量すべく泥酔した中間に変装するが、来かかった老中松平伊豆守(知恵伊豆)に見咎められる(江戸城掘端の場)。忠弥の役は初世市川左団次の出世芸で、二世左団次に継承され、なま酔いの台詞(せりふ)は声色にしばしば使われた。のち忠弥は舅(しゅうと)の弓師藤四郎に借金の返済を迫られ、うっかり陰謀を漏らし、その密告によって大勢の捕り手に囲まれ、乱闘のすえ捕らえられるが、この大立回りも名高い。(忠弥内捕物の場)。 右図:初代市川左團次の丸橋忠弥。豊原国周画。
 この噺の出だしで、談志が講談から落語に移したという。講談らしい情景描写が多く、落語のように会話で話しを進めていく手法とはチョッと違っています。

事件の顛末;幕府の屋台骨がまだ固まらず、外様大名や有力大名を次々に減俸、国替えを行った。そのため家来達が大量に失業し街中に溢れ、不平不満が充満していた。慶安4年4月20日、三代将軍家光が亡くなります。 その年の正月頃から、頭痛、頭重を訴えていた家光ですが、1月19日、初代中村勘三郎や座の役者を江戸城に召し観劇。2月になり、歩行障害が現れます。江戸の御殿医には分からなかったが、現代医学で見れば、完全に脳卒中です。そして、4月20日申の刻(午後4時頃)、伊万里焼を鑑賞している時に、脳卒中を再発し、あっけなく逝ってしまった。享年四十八。7月23日由井正雪の陰謀が発覚、丸橋忠弥を逮捕。そして、家光の後を継いで、嫡男の家綱が、わずか11歳で四代将軍に就任したのが、同じ年の8月18日。つまり、この間の江戸には、約4ヶ月、国家の最高責任者が存在 しなかったのです。その間隙を突くように、企てられたのが「慶安の変」です。 その計画は、7月29日に、丸橋中弥が率いる一隊が、風の強い晩に幕府の煙硝蔵(弾薬庫)に放火、さらに、江戸市中にも火を放ち、市中を混乱の渦に巻き込みます。そして、急遽江戸城に参集しようとする幕府要人を、弓・鉄砲で討つ。紀州公登城と称して江戸城を占拠。さらに、時を同じくして、大坂では、吉田助左衛門、金井半兵衛が率いる一隊が、京都では、熊谷三郎兵衛、加藤市右衛門が率いる一隊が蜂起し、日本中が混乱する中、首謀者の由井正雪は、駿府で、久能山を攻め落とし、家康が残した財宝を押さえて、それを軍資金とし、駿府城を落とし、そこから江戸・大坂・京都に指令を出し、天下を我が物にしようと言う大胆なクーデター計画です。
  しかし、このクーデターは、一味の中から、複数の密告者が出て、幕府の察知するところとなり、江戸から久能山に向かう途中の駿府の「梅屋」と言う旅籠で、7月26日、由井正雪は、幕府方の捕り方に包囲されてしまいます。由井正雪を生け捕りにしようとする幕府方と、しらばっくれる由井一味の駆け引き、心理作戦が展開されます。逃げられないと観念した由井正雪は、最後に、簡単な遺言を懐紙二枚にしたため、梅屋に逗留していた一味は腹を切り、切り損なった二名は捕らえられて、事件は落着します。由井正雪、享年四十七。

小判の重さ;噺では善達が三百両の金子を懐にして、京都まで行く事になっています。慶安年間に使われていた小判は、慶長6年(1601)~元禄8年(1695)に、家康が鋳造させた「慶長小判」と言われるもので、一両小判の重さは17.73g(金含有量85.7%。縦長72mm)と言うものです。これが300枚ですから、約5319gつまり5kg強ある訳で、乳児一人分の重さがあります。これを4日で江戸から京都(約124里=487km)まで、徒歩で運搬するのですから、かなり体力がいる仕事です。
 なお、江戸の小判は、時代を重ねるにつれて、インフレが進み、改鋳されるたびに軽くなり、幕末の万延元年(1860)に鋳造された万延小判は、一両小判の重さが約3.30g(金含有率57.4%。縦長35mm)と、江戸初期の五分の一以下の小ささ軽さになっています。そのため、雛小判と呼ばれています。
右写真:慶長小判。 慶長6年~元禄8年(1601-1695) 原寸大17.7.g、縦長72mm

道行;善達が江戸から京都へ向かう道中は、落語「黄金餅」を彷彿させるような、長い道中道行きの台詞があります。その場所を列記し、以下に解説します。
 増上寺、赤羽橋、有馬様の土塀、伊皿子坂下、泉岳寺、八つ山、青物横丁、池上本門寺、鮫洲の涙橋、八幡から六郷の渡し、川崎、鶴見で生麦、子安で神奈川に。青木が台から保土ケ谷、戸塚、藤沢、羽鳥四谷に掛かると右、大山街道、左が南湖(なんご)松原、馬で乗り入れる馬入(ばにゅう)の渡し、平塚の花水橋、右に高麗山、大磯から小磯を抜けて、小田原。
箱根から三島、沼津、吉原から蒲原、由比の塩釜、興津、江尻を駆け抜けて駿府へ。
阿部川の川原、山の中に入って、宇津の谷峠に。

三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうずいん ぞうじょうじ);港区芝公園4-7。増上寺は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、1470(文明2)年には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。徳川将軍家の菩提所として、江戸時代、日本有数の大寺院へと発展、関東十八檀林(だんりん)の筆頭となります。檀林に付いては落語「鈴振り」を参照。
 増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所が設けられています。 墓所には各公の正室と側室の墓も設けられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮様も含まれています。 戦災で焼けてしまい、整備され現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。
 17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、とても大きな寺でした。当時は、3000人以上の学僧のお念仏が、全山に鳴り響いていたと言われています。
苦難の明治期と戦災を乗り越えた増上寺は、昭和49(1974)年に悲願の大殿再建を果たします。
落語「鈴振り」、「浜野矩随」に詳しい。

赤羽橋(あかばねばし);増上寺の南西の地名が赤羽根といったことから、渋谷から流れる渋谷川が赤羽川となり、架かる橋も赤羽橋となった。橋の北には朝市が立ち、南には番所があって将軍の墓所である増上寺の警護に当たった。

有馬様の土塀;久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。
 筑後久留米藩、有馬中務大輔頼成守上屋敷が赤羽橋南西角に有った。1819年以降、有馬家は久留米から屋敷内に勧請した水天宮を毎月5日、一般公開した。2万5千坪の藩邸に入れる貴重な日として、庶民は楽しんで屋敷に入っていた。現・水天宮は中央区日本橋蛎殻町にあり安産祈願で特に有名で、水天宮交差点際に建っています。

伊皿子坂下(いさらごさかした);港区高輪二丁目にあり、下記泉岳寺の北にある坂道。泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。名の由来は明国人「伊皿子」(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりともいう。 明国人「伊皿子」(いんべいす)の墓所は高輪の浄土真宗本願寺派正源寺にある。
落語「徂徠豆腐」に詳しい。

泉岳寺(せんがくじ);東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺のひとつに数えられる。 泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在の警視庁の近く)
しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、三学寮の一つとして名を馳せていました。
京急本線・都営地下鉄浅草線 泉岳寺駅より徒歩2分。落語「徂徠豆腐」、「赤垣源蔵」に詳しい。

八つ山(やつやま);北品川6丁目付近(ソニー通りまたは八つ山通り)に有った。品川宿の江戸寄りのはずれ、芝高輪との境に位置する丘を「八ツ山」と呼んでいた。名前の由来については、この地に八つの岬があったので「八ツ山」と名づけたという説や、八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけたという説、この地がかつての谷山(やつやま)村の一部だったことから谷山が「八ツ山」に転化したという説がありますが、いづれも定説ではありません。この山は、江戸期に道路整備や目黒川の洪水復旧、護岸整備、お台場建設のために切り崩され平地となってしまいました。八ツ山にはかつて岩崎家の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣があります。品川駅南の東海道線が走る掘り割りの上を渡す橋が「八つ山橋」と言います。ここから始まるのが品川宿。

右図:「品川」。東海道五十三次広重画(以下宿場町の版画は東海道五十三次ノ内 広重画)より

青物横丁(あおもの よこちょう);品川区南品川三丁目にある、京浜急行電鉄本線の駅。「青物横丁」の名前は、江戸時代に農民がこの地に青物(当時は野菜や山菜のことを指した)を持ち寄って市場を開いたことに由来する。日本の鉄道駅で唯一、駅名に「横丁」が付く駅である。
 この地域は、江戸時代に入ると旧東海道が走り、「東海道五十三次」の第一宿・品川宿となつて栄えた。ここから右に曲がると池上通りと言って、約5km先に池上本門寺が有ります。飛脚はここで右に曲がったので、善達はホッと一安心をしたのだが・・・。

池上本門寺(いけがみほんもんじ);日蓮宗の大本山。日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。 日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。 長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。 毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。 そして池上本門寺は「日蓮聖人ご入滅の霊場」として700年余り法灯を護り伝えるとともに、「布教の殿堂」として、さまざまな布教活動を展開しています。 池上本門寺ホームページより
落語「甲府ぃ~」に本門寺を紹介しています。下図:池上本門寺 江戸名所図会より

 

鮫洲の涙橋(さめずのなみだばし);鮫洲は品川区東大井に有り、京浜急行電鉄本線の「青物横丁」の南隣の駅。自動車免許を取るのに降りる駅でした。
 それより南側の駅、青物横丁駅の南隣「立会川」駅前の、旧東海道を横切って江戸湾に流れ込む立会川があります。そこに架かる橋が浜川橋と言いますが、「涙橋」と言う通称の方が知られています。この先、南には鈴ヶ森刑場があり、罪人が市中引き回しの上、この橋を渡って刑場に連れて行かれる際に、罪人の家族らが最後の見送りを涙ながらに見送った橋と言われます。
 同じような名前の橋で、「泪橋」(なみだばし)が江戸の北、千住の小塚原(こづかっぱら) (南千住二丁目)処刑場の南側にありました。今はもう取り壊されてしまい、「泪橋交差点」として交差点名だけが残っています。

八幡(八幡塚村)から六郷の渡し(はちまん ろくごうのわたし);「六郷の渡し」は、旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、江戸の玄間口の渡し場として、交通上極めて重要であった。架橋記録は永禄年間(1558~69)慶長年間(1596~1614)がある。その後貞享五年(1688)洪水により流失してからは、橋を架けず渡船によって交通が行われた。渡しのようすは広重の錦絵や地誌叢書類によって知ることができる。
  明治七年(1874)以降、地元八幡塚村篤志家鈴木佐内によって、橋が架けられ有料で通行させたが、数次の流失にあった。現在の橋は昭和五十九年(1984)に架橋されたものである。
大田区教育委員会設置の標識板より
落語「大師の杵」、「蜘蛛駕籠」に詳しい

川崎(かわさき);六郷の渡しを越えた旧東海道二番目の宿駅、川崎宿が栄えていた地です。江戸幕府が成立したことで東海道や中原街道の重要性が高まり、川崎宿(現川崎駅周辺)の整備が進んだ。ただし、川崎宿が正式な宿場に指定されたのは東海道五十三次の中で最後となる1623年(元和9年)のことである。このとき多摩川の橋は流され、以後川崎宿は六郷の渡しの渡河点、及び川崎大師への玄関口として繁栄する。この他にも中原街道の丸子の渡し、大山街道の二子の渡しが整備され、いずれも後に東京都内への鉄道が建設される宿場町が形成された。

鶴見(つるみ);東海道五十三次の川崎と神奈川に挟まれた街。鶴見区は、横浜市の最東端に位置し、東京湾に面する。北は川崎市の川崎区・幸区に接し、西は横浜市の港北区・神奈川区に接し、南端部の大黒埠頭から横浜ベイブリッジで同市中区につながる。鶴見川が区内を南に蛇行して流れ、東京湾に注ぐ。鶴見駅前は横浜市における主要な生活拠点(旧:副都心)に指定されている。
 市場一里塚(市場西中町):旧・東海道の一里塚。起点である日本橋から5里(約20km)。

■生麦(なまむぎ);横浜市鶴見区の地名。京急本線の生麦駅及びJR東日本鶴見線・国道駅があり、旧東海道および国道15号線(第一京浜)が通過する。文久2年8月21日(1862年9月14日)に起こった生麦事件が有名で、生麦駅近くに事件の石碑が残っている。

「生麦事件」 文久2年(1862)8月21日、薩摩藩主の父・島津久光の行列が生麦村を通行中、馬に乗って行列に紛れ込んだ4人の外国人の1人、英国商人リチャードソンが警護の武士に斬り殺されてしまった。 幕末の動乱期に起こった外国人殺傷事件は、賠償問題から薩英戦争にまで発展。その後の日本外交に大きな影響を与えた。  

子安で神奈川に(こやすで かながわに);子安は東海道五十三次の川崎と神奈川に挟まれた街で、上記生麦駅と横浜駅の中間駅。横浜市神奈川区子安通一丁目にある京浜急行電鉄本線の駅がある。

 子安の次がザクッと言って隣が神奈川。鉄道で言うとその先が横浜。江戸時代までは神奈川(横浜)の宿が横浜であり、外国に開かれた港をこの下の海を埋め立てて街を作り発展させたのが今の横浜です。

 東海道神奈川宿は、東海道五十三次の3番目の宿駅。この地名が県の名前や区の名前の由来です。またここが、近代都市横浜の母体でもありました。しかし、関東大震災と第二次世界大戦によって、歴史的遺産の多くを失いました。現在、宿場町当時のものはほとんど失われてはいますが、台町の坂などに、当時の面影を見つけることができます。
落語「宿屋の仇討ち」に神奈川宿の詳細があります。

青木が台(あおきがだい);神奈川宿の中心は滝の橋で、江戸よりは神奈川町、京都よりは青木町と言います。現在の京急神奈川駅を右に見ながら、鉄道が川の底を何本も走っているように見えるその上を、青木橋が現在架かっています。ここから先が浮世絵にも残っている台町です。

 神奈川宿(金川宿とも記される)は、慶長 6年(1601)に成立し、江戸日本橋から品川・川崎に次ぐ3番目の宿場である。ただし、元和9年(1623)に川崎宿が成立するまでは、2番目の宿場であった。日本橋からは7里、隣の川崎宿とは2里18町隔たっている。慶長6年の宿場成立時には隣宿の品川宿までは、5里という遠距離である。これに対し、西側の隣宿である保土ヶ谷宿とは、1里9町ときわめて短い距離にあった。
 神奈川宿は東海道に沿って町並みが続き、ほぼ中心に位置する瀧の橋を境に江戸寄り(東側)が神奈川町、上方寄り(西側)が青木町となっている。神奈川町には近世前期、東海道における将軍の宿泊施設である御殿
(神奈川御殿)が 置かれていた。また、神奈川は中世以来の神奈川湊があり、東京湾内や全国各地を結ぶ水運の中継点として賑わっていた。
青木町の台町の茶屋街からは本牧や房総を眺望することができ、東海道有数の景勝地としてにぎわっていた。

文; 横浜市歴史博物館発行「東海道と神奈川宿」より。落語「宿屋の仇討ち」から孫引き。

保土ケ谷(ほどがや);慶長6年(1601)徳川家康が定めた東海道の駅制により東海道五十三次程ヶ谷宿が成立し、江戸時代は神奈川の次の四番目の宿場町として発展した。日本橋から保土ケ谷までの距離は八里九丁(約32km)。成人男性が1日に十里ほど歩いたといわれる当時、最初の宿泊地としては、少し早い宿場でした。
現在、横浜市保土ケ谷区は、横浜市を構成する18行政区のうちの一つ。

戸塚(とつか);戸塚宿は日本橋から数えて5番目、距離にして10里半(約42km)の宿場町でした。当時の旅人が朝に江戸を出発すると一泊目の宿泊地として最適であったため、大変な賑わいを見せていました。当時の宿場町は旧東海道の南北11.7kmに及んでいます。
右図は広重の「戸塚」大橋で、当時の長さ10間(18.2m)、幅2間半(4.6m)の板橋でした。

藤沢(ふじさわ);旧東海道、戸塚の次の6番目の宿駅。慶長6年(1601)徳川家康により東海道の宿場藤沢宿が設けられる。慶長5年以前から、鷹狩りなどを目的として藤沢御殿が設けられていた。右図の藤沢にも遊行寺が小高い山の上に描かれ、江ノ島に行く分岐点で江ノ島に行くための鳥居が描かれています。
 東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)では往路・第3区間(戸塚中継所-平塚中継所)および復路・第8区間(平塚中継所-戸塚中継所)が、市内の神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線(藤沢バイパス出口交差点-藤沢橋交差点間は、旧国道1号線(藤沢橋交差点直前を除き旧東海道))をコースとしており、藤沢ポイントとして計測所も設けられている。清浄光寺(遊行寺)東側の坂は遊行寺坂と呼ばれ、復路・第8区間では上りとなり難所として知られている。
 藤沢市(ふじさわし)は、神奈川県南部中央の相模湾に接する市。湘南と呼ばれる地域の中で、最大の人口(約42万人)を有する。住宅・観光・産業・文教都市。全国的に有名な江の島(江ノ島)、片瀬・鵠沼・辻堂海岸を有し観光都市としての性格も併せ持つ「湘南」の中心都市。遊行寺は落語「鈴振り」に写真があります。

羽鳥四谷に掛かると右、大山街道、左が南湖(なんご)松原;四ッ谷不動(大山道標) 東海道と大山道が交差する四ッ谷辻に建てられた道標。道標の上には不動尊の像、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」と刻まれています。延宝4年(1676)江戸・横山町の講中が建てたもの。左・東海道、右・大山道。この辻には茶屋が出て賑わった。大山まで約20km。 1号線(東海道)歩道には旧街道の面影を残した松並木があります。
落語「大山詣り」より孫引き。

 南湖(茅ヶ崎市南湖)は東海道沿いの町で現・茅ヶ崎駅の西側。当時は茶屋が多く有り、賑わった。
右写真:四谷に有る東海道と大山街道の分岐点。

馬入(ばにゅう)の渡し;藤沢宿と平塚宿の間にあり、市境となっています。相模川を馬入川と言って、旧東海道に馬入橋が架かっています。当時は渡しであった。馬入の渡しを渡ると、平塚に入ってきます。

平塚の花水橋右に高麗山(はなみずばし こうらいさん);平塚は旧東海道、藤沢の次の7番目の宿駅。
 平塚は、東京から南西方向に約60Km、神奈川県のほぼ中央、相模平野の南部に位置し、約4.8Kmの海岸線から西北に広がる扇形で、相模川と金目川の下流域に発達した平野と、それを取り囲む台地と丘陵から形成されています。背後には丹沢・大山山麓が控え、西方には富士・箱根連山を遠望できる四季温和な気候に恵まれたまちです。七夕祭りで有名。

 花水橋右に高麗山:平塚を出ると大磯宿まで20町しかありません。その境界に花水川が流れていて、花水橋が架かっています。右手には高麗山(21世紀に残したい日本の自然100選に選定)があり、海に向かって東海道は進み、出た所に大磯が有ります。

大磯から小磯(おおいそ こいそ);大磯は旧東海道、平塚の次の8番目の宿駅。ここから小田原までは海岸線を歩きます。図は大磯宿入口でにわか雨にくすぶる街並みを描いていますが、遠く沖合に日を受けた海が見えます。
 大磯町は南を相模湾に面した遠浅の海で、小漁港(大磯宿)と砂浜になっている。町の東西を東海道が貫通し、町域を南北に二分している。北東部には高麗山、北西部には鷹取山という小丘陵があり、大磯丘陵(大磯地塊)とよばれる。町域面積の6割を占める丘陵地帯は西へつづき、小田原市にまで至る。河川は西部の葛川水系のものと、高麗山の麓から流れる血洗川が相模湾に注いでいる。1960年代以降、道路網の整備が進み、国道1号(東海道)などのバイパスとして小田原厚木道路、西湘バイパスが建設さた。
 要人の避暑・避寒地として知られており、特に伊藤博文、吉田茂のそれは特に有名である。

小磯:大磯宿を出ると直ぐ、東小磯、西小磯と続きます。大磯町は大磯宿+西小磯村+高麗村+東小磯村からなっていました。現在はその先の国府町と合併、新たに大磯町が発足しています。

小田原(おだわら);上杉謙信や武田信玄からの侵攻にも耐えた小田原城は、難攻不落の城といわれ、全長9kmにも及ぶ城郭は、戦国最大の規模を誇ります。 しかし1590年、豊臣秀吉が石垣山に一夜城を築き、25万の兵を率いて小田原城を攻め、籠城戦の末、小田原城が落城したことで、秀吉の全国統一がなされました。 その後、江戸時代に入ると、東海道五十三次の屈指の宿場町として、小田原城を中心に商業・文化が大いに栄えていきました。小田原は旧東海道、大磯の次の9番目の宿駅です。落語「抜け雀」の舞台で市内を詳しく案内しています。
 右図:東海道は小田原に入る手前に有る酒匂川の渡しの風景です。その奥に箱根山が描かれ、その右下の麓に小田原城があります。

早川(はやかわ);箱根町の芦ノ湖に源を発し東に流れ、小田原市南町と小田原市早川の境界から相模湾に注ぐ。 箱根外輪山からの水が芦ノ湖に集まり、芦ノ湖北端の湖尻より流下する川が本流の早川と呼ばれる。
 須雲川(すくもがわ)は、箱根湯本で早川に合流する。ほぼ流路に沿って箱根新道が通っている。旧東海道(県道732号)も畑宿付近までは須雲川に沿って造られており、須雲川が流れる谷は箱根越えの要衝となっている。飛龍ノ滝(神奈川県最大級の滝)は、須雲川の支流に属する。 早川や須雲川を脇に見ながら、小田原から箱根を登ります。

箱根(はこね);静岡県に近い神奈川県南西部の一角、箱根カルデラ近辺の一帯を指す地名。 地図の上では、行政区画としての箱根町におおむね重なる概念である。 古来東海道の要衝であり、「天下の険」と謳われた難所箱根峠のふもとには宿場や関所が置かれた。近代以降は保養地・観光地として発展。各所に湧く温泉や、芦ノ湖、大涌谷、仙石原などがとりわけ有名である。1936年に「富士箱根国立公園」(現・富士箱根伊豆国立公園)に指定されている。
 ここには箱根関があり、東海道やその脇道に置かれた箱根の関所。 また、箱根宿があり東海道五十三次の宿場の一つ。小田原宿の次の宿場で、江戸側から数えて10番目。

三島(みしま);静岡県東部の、伊豆半島の中北端に位置する市。三嶋大社の門前町であり、三嶋大社や楽寿園を中心に市街地を形成する。市内各地で湧水が見られる点から、国土交通省選定の水の郷百選にも選ばれている。江戸時代には江戸幕府の直轄地とされ、東海道三島宿の宿場町となり、箱根峠越えの前後の休息地として賑わった。
 右図でも分かるように、三嶋大社の鳥居が描かれ、朝霧の立ち込める中、旅立ちをする旅人を描く。東海道は箱根の次の宿場で、江戸側から数えて11番目。

沼津(ぬまづ);静岡県の東部、伊豆半島の付け根に位置する市。駿河湾に臨む伊豆半島の付け根、愛鷹山の麓に位置する港町である。 静岡県東部地域の中心都市であり沼津都市圏を形成する。 古来、東海道の陸路と海路を繋ぐ交通拠点であり、江戸時代には沼津城が築かれ東海道の宿場町として栄えるなど人、物、情報の交流拠点として、この地域の政治経済や商業、文化の中心的役割を担ってきた。 気候が温暖である他、箱根、伊豆半島や富士山への観光拠点としても便利な立地条件でもあるため、保養地としても発達した。水産業が盛んであり、「アジの開き」の干物、「雑節」の生産は市ごとの統計が廃止される2005年まで日本一の規模であった。
 東海道は三島の次の宿場で、江戸側から数えて12番目。

 沼津を出ると途中に原の宿場が有って、下記の吉原に繋がります。左の絵は原です。

吉原(よしわら);吉原市は静岡県東部にあった市。昭和41年(1966)11月1日に(旧)富士市、富士郡鷹岡町と合併し、富士市となった。 江戸時代には東海道の宿場町吉原宿があった。 東海道五十三次の14番目の宿場。現在の静岡県富士市に位置する。 陸上交通や水運の拠点であったほか、富士参詣の宿駅としても機能した。 吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、寛永16年(1639)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原)。しかし延宝8年(1680)8月6日の津波により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、『左富士』と呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本の松の木が残るのみである。

蒲原(かんばら);蒲原町(かんばらちょう)は、静岡県の中部、庵原郡に位置していた町である。平成18年(2006)3月31日、静岡市に編入合併し、清水区の一部となった。水産業が盛んであり、その中でサクラエビの漁獲が盛んである。それに伴い、缶詰工場・加工工場が集中している。
 東海道は吉原の次の宿場で、江戸側から数えて15番目。

由比(ゆい);由比町(ゆいちょう)は、静岡県の中部、庵原郡に位置していた町。平成20年(2008)11月1日、静岡市に編入合併した。
 江戸時代には東海道由比宿の宿場町であった。江戸時代の絵師・歌川広重による由比の浮世絵には、難所を越える旅人や、帆掛け船の浮かぶ駿河湾、駿河湾越しの富士山などが描かれている。 現在では、サクラエビとシラスの漁業基地としても有名である。
 富士川以東と富士川以西の間を往来するには、由比の断崖を海岸線に沿って進まねばならないため、古くから東海道最大の難所として、新潟県糸魚川市の『親不知』と列び称されてきた。国道1号は海抜に近い低さに位置し、東名高速道路は海上を通っている。高速道路の下り線は海側に面しているので、台風などによる高波を被ると富士ICと清水ICの間(波が高い場合は上下線とも)が通行止めになる。東海道本線・東名高速道路・国道1号が並行しており、町の東端と西端ではすべての交通機関(この区間をトンネルで貫く東海道新幹線を除く)が一点で交差している。主要な大動脈が一箇所に集中することから東海道のアキレス腱とも称される。 なお、2012年4月14日に開通した新東名高速道路は、由比地区の内陸側を通るため、開通後は上記の問題が大幅に緩和される事が予想されている。東海道は蒲原の次の宿場で、江戸側から数えて16番目。

興津(おきつ);静岡県静岡市清水区の地名。風光明媚で知られた清見潟は、古代、清見関(きよみがせき)と息津(おきつ)駅が置かれた。この場合の息津は現在の興津と異なり、西寄りの横砂あたりではないかと言われている。江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち、避寒地として全国的にも知られていた。現在、清見潟の海岸寄りは埋め立てられ、清水港の興津埠頭となっている。興津川では東日本で一番早くアユ漁を解禁する。(5月20日頃)。
右図:興津川を渡って、興津の宿に入る。川渡しの人夫が相撲取りを乗せてイヤな顔をしています。

江尻(えじり);江尻町(えじりまち)は静岡県の中部、庵原郡に属していた町。清水区(しみずく)は、静岡市に三つある行政区のひとつ。2005年4月1日の政令指定都市移行と同時に発足。当初は旧清水市のほぼ全域を区域とし、その後2006年3月31日には旧蒲原町域が、2008年11月1日には旧由比町域が区の一部となった。
 中心となる清水は、駿河湾奥・三保湾に臨む天然の良港、清水港を中心に古くから海運の中継地や水軍の基地として発展した港町で、近代以降は茶の輸出が始まり国際的な貿易港となった。その後特定重要港湾の指定を受け、清水港臨海地区には多くの企業や工場が立地し、高度経済成長期に産業都市として大きく成長した。また江尻・興津・由比・蒲原はそれぞれ旧東海道の宿場町として栄えた歴史を持つ。清水港は外郭堤防として天然の三保松原を持つ半島になっています。
 江尻は静岡市清水区の中心部にあたる。現在は静岡県静岡市清水区でJR清水駅を中心に栄えている町。
 東海道は興津の次の宿場で、江戸側から数えて18番目。

駿府(すんぷ);府中。駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。駅前には駿府城跡があります。
 今川氏の人質として幼少時代を駿府で過ごした徳川家康が、1585年に駿府を本拠地に定め、城下を整備し、元の繁栄をとり戻した。家康は1590年に関東移封となるが、江戸幕府を開いたのち隠居、再び駿府城に居住して大御所政治が展開された。大御所家康公が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方(京・大阪)、江戸(15万人)に並ぶ大都市となった。この時期、名目上の駿府城主(駿府藩主)は家康の十男・頼宣(よりのぶ)であった。 家康死去(元和2年、1616年)の3年後、頼信は紀州に移封となり、秀忠三男の忠長(ただなが/駿河大納言)が駿府城主になる。忠長の改易以後は、大名は置かず城代が配属され、幕府の直轄都市として駿府城代・駿府町奉行が置かれた。 東海道が整備されると、駿府城下には、江戸から数えて19番目の宿場、府中宿が置かれた。 府中宿は東海道五十三次中、最大の都市であった。
 噺の善達は江戸から走りづめて、ここ府中の宿に入った。

安倍川の川原(あべかわのかわら);一級水系安倍川の本流である。清流としても有名で、その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である。流域のすべてが静岡市内であり、下流部の藁科川と合流する付近では「舟山」という川中島が見られ、市街地の西側を流れて駿河湾に注ぐ。
 江戸時代初期、安倍川岸で、徳川家康が茶店に立ち寄った所、そこの店主が黄な粉を安倍川上流(梅ヶ島)で取れる砂金に見立て、つき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで安倍川餅と名付けたという伝承がある。 実際は、江戸時代、日本では大変貴重で珍しかった白砂糖を使っている事から有名になり東海道の名物となった。東海道中膝栗毛には「五文どり」(五文採とは安倍川餅の別名)として登場する。
 安倍川は架橋が無く、川渡しの人足が渡していた。上記、府中の絵の中に描かれている川が安倍川です。

宇津ノ谷峠(うつのやとうげ);安倍川を渡ると次は鞠子(丸子)の宿です。ここも善達は急ぎ足で通り過ぎ、次の岡部を目指しますが、途中にある宇津ノ谷峠に差しかかります。
 宇津ノ谷峠は、静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠。国道1号・旧東海道が通る。標高170m。 中世から交通の要衝として和歌にも詠われ、現在でも国道1号のトンネルが通過している。また、平安時代の道(蔦の細道)から国道1号現道のトンネルまで、全て通行可能な状態で保存されており、道の変遷を知ることができる。近世東海道の交通を知る貴重なものとして平成22年(2010)2月22日に国の史跡「東海道宇津ノ谷峠越」に指定された。 右図をクリックすると大きくなります。

護摩の灰(ごまのはい);(高野聖(コウヤヒジリ)の扮装をし、弘法大師の護摩の灰と称して押売りした者の呼び名から転じ用いられたという) 旅人らしく装って、旅人をだまし財物をかすめる盗賊。胡麻の上の蠅は見分けがつきにくいことから「胡麻の蠅」とも。広辞苑

京都の知恩院(ちおんいん);京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然上人である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。
 法然上人の教えは、「専修念仏」といい、いかなる者も、一心に「南無阿弥陀仏」を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。
 国宝として、三門、本堂が指定されていて、重要文化財として経蔵、大鐘楼、大方丈(おおほうじょう)、小方丈(こほうじょう)、勢至堂(本地堂)、以上の他、唐門、集會堂(しゅえどう)、大庫裏(おおぐり、「雪香殿」とも)、小庫裏(こぐり)が重要文化財に指定されている。いずれも寛永復興期の建築である。他に書物、絵画、書等がある。

 知恩院遠景(左三門、右本堂、後方比叡山)。ウイキペディアより

300両;1両8万円として、2400万円。当時の貨幣価値としたら数千万円の価値があったのでしょう。飛脚は3千両の公金を狙っていた。一割の金でも、300両ですから大金です。

身の丈六尺一寸;2.1m。現在でも大男ですが、当時でしたら、ずば抜けて大男だったでしょう。

如意棒(にょいぼう);思いのままに伸縮し、自在に扱うことのできる架空の棒。「西遊記」の孫悟空の持ち物。

明け六つ;夜明けの現在の6時頃。九つ=深夜0時。

飛脚(ひきゃく);急用を遠くへ知らせるつかいの人夫。信書・金銀・貨物などの送達を業とした者。すでに鎌倉時代に京・鎌倉間の鎌倉飛脚・六波羅飛脚などがあったが、定置的な通信機関として江戸時代に発達。継飛脚・大名飛脚・町飛脚などがあった。

赤紙付き(あかがみつき);急ぎの親書に付けた赤い紙。で、急用の親書。速達。

長持ち(ながもち);衣服・調度などを入れて保管したり運搬したりする、長方形で蓋のある大形の箱。江戸時代以降さかんに使われた。長持をかつぐ竿を長持竿と言った。
右図:熈代照覧より、長持ちを担ぐ。 

棒鼻(ぼうばな);長持ち竿の先端を言う。ここを押さえられると身動きが出来なくなります。

紀州三度の金飛脚(きしゅうさんど かねひきゃく);江戸時代、毎月3度、定期に江戸と京都・大坂間を往復した町飛脚。紀州藩から来る金を運ぶ飛脚。千両箱は風袋込みで約25kg有ります。それが3箱で75kgですから、1人は運べませんので、複数の飛脚が運んだのでしょう。



                                                            2016年12月記

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