落語「慶安太平記」の舞台を行く 立川談志の噺、「慶安太平記・序」(けいあんたいへいき)より
■慶安太平記(けいあん たいへいき);別名題『樟紀流花見幕張』(くすのきりゅう はなみの まくはり)と言い、歌舞伎の演目。通称に「慶安太平記」、「丸橋忠弥」(まるばし ちゅうや)。二代目河竹新七(河竹黙阿弥)作、全六幕。明治3年3月(1870年4月)東京守田座で初演。
■事件の顛末;幕府の屋台骨がまだ固まらず、外様大名や有力大名を次々に減俸、国替えを行った。そのため家来達が大量に失業し街中に溢れ、不平不満が充満していた。慶安4年4月20日、三代将軍家光が亡くなります。
その年の正月頃から、頭痛、頭重を訴えていた家光ですが、1月19日、初代中村勘三郎や座の役者を江戸城に召し観劇。2月になり、歩行障害が現れます。江戸の御殿医には分からなかったが、現代医学で見れば、完全に脳卒中です。そして、4月20日申の刻(午後4時頃)、伊万里焼を鑑賞している時に、脳卒中を再発し、あっけなく逝ってしまった。享年四十八。7月23日由井正雪の陰謀が発覚、丸橋忠弥を逮捕。そして、家光の後を継いで、嫡男の家綱が、わずか11歳で四代将軍に就任したのが、同じ年の8月18日。つまり、この間の江戸には、約4ヶ月、国家の最高責任者が存在
しなかったのです。その間隙を突くように、企てられたのが「慶安の変」です。
その計画は、7月29日に、丸橋中弥が率いる一隊が、風の強い晩に幕府の煙硝蔵(弾薬庫)に放火、さらに、江戸市中にも火を放ち、市中を混乱の渦に巻き込みます。そして、急遽江戸城に参集しようとする幕府要人を、弓・鉄砲で討つ。紀州公登城と称して江戸城を占拠。さらに、時を同じくして、大坂では、吉田助左衛門、金井半兵衛が率いる一隊が、京都では、熊谷三郎兵衛、加藤市右衛門が率いる一隊が蜂起し、日本中が混乱する中、首謀者の由井正雪は、駿府で、久能山を攻め落とし、家康が残した財宝を押さえて、それを軍資金とし、駿府城を落とし、そこから江戸・大坂・京都に指令を出し、天下を我が物にしようと言う大胆なクーデター計画です。
■道行;善達が江戸から京都へ向かう道中は、落語「黄金餅」を彷彿させるような、長い道中道行きの台詞があります。その場所を列記し、以下に解説します。
■三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうずいん ぞうじょうじ);港区芝公園4-7。増上寺は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、1470(文明2)年には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。徳川将軍家の菩提所として、江戸時代、日本有数の大寺院へと発展、関東十八檀林(だんりん)の筆頭となります。檀林に付いては落語「鈴振り」を参照。
■赤羽橋(あかばねばし);増上寺の南西の地名が赤羽根といったことから、渋谷から流れる渋谷川が赤羽川となり、架かる橋も赤羽橋となった。橋の北には朝市が立ち、南には番所があって将軍の墓所である増上寺の警護に当たった。
■有馬様の土塀;久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。
■伊皿子坂下(いさらごさかした);港区高輪二丁目にあり、下記泉岳寺の北にある坂道。泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。名の由来は明国人「伊皿子」(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりともいう。 明国人「伊皿子」(いんべいす)の墓所は高輪の浄土真宗本願寺派正源寺にある。
■泉岳寺(せんがくじ);東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺のひとつに数えられる。 泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在の警視庁の近く)
■八つ山(やつやま);北品川6丁目付近(ソニー通りまたは八つ山通り)に有った。品川宿の江戸寄りのはずれ、芝高輪との境に位置する丘を「八ツ山」と呼んでいた。名前の由来については、この地に八つの岬があったので「八ツ山」と名づけたという説や、八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけたという説、この地がかつての谷山(やつやま)村の一部だったことから谷山が「八ツ山」に転化したという説がありますが、いづれも定説ではありません。この山は、江戸期に道路整備や目黒川の洪水復旧、護岸整備、お台場建設のために切り崩され平地となってしまいました。
右図:「品川」。東海道五十三次広重画(以下宿場町の版画は東海道五十三次ノ内 広重画)より
■青物横丁(あおもの よこちょう);品川区南品川三丁目にある、京浜急行電鉄本線の駅。「青物横丁」の名前は、江戸時代に農民がこの地に青物(当時は野菜や山菜のことを指した)を持ち寄って市場を開いたことに由来する。日本の鉄道駅で唯一、駅名に「横丁」が付く駅である。
■池上本門寺(いけがみほんもんじ);日蓮宗の大本山。日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。
毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。
そして池上本門寺は「日蓮聖人ご入滅の霊場」として700年余り法灯を護り伝えるとともに、「布教の殿堂」として、さまざまな布教活動を展開しています。
池上本門寺ホームページより
■鮫洲の涙橋(さめずのなみだばし);鮫洲は品川区東大井に有り、京浜急行電鉄本線の「青物横丁」の南隣の駅。自動車免許を取るのに降りる駅でした。
■八幡(八幡塚村)から六郷の渡し(はちまん ろくごうのわたし);「六郷の渡し」は、旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、江戸の玄間口の渡し場として、交通上極めて重要であった。架橋記録は永禄年間(1558~69)慶長年間(1596~1614)がある。その後貞享五年(1688)洪水により流失してからは、橋を架けず渡船によって交通が行われた。渡しのようすは広重の錦絵や地誌叢書類によって知ることができる。
■鶴見(つるみ);東海道五十三次の川崎と神奈川に挟まれた街。鶴見区は、横浜市の最東端に位置し、東京湾に面する。北は川崎市の川崎区・幸区に接し、西は横浜市の港北区・神奈川区に接し、南端部の大黒埠頭から横浜ベイブリッジで同市中区につながる。鶴見川が区内を南に蛇行して流れ、東京湾に注ぐ。鶴見駅前は横浜市における主要な生活拠点(旧:副都心)に指定されている。
■生麦(なまむぎ);横浜市鶴見区の地名。京急本線の生麦駅及びJR東日本鶴見線・国道駅があり、旧東海道および国道15号線(第一京浜)が通過する。文久2年8月21日(1862年9月14日)に起こった生麦事件が有名で、生麦駅近くに事件の石碑が残っている。
「生麦事件」
文久2年(1862)8月21日、薩摩藩主の父・島津久光の行列が生麦村を通行中、馬に乗って行列に紛れ込んだ4人の外国人の1人、英国商人リチャードソンが警護の武士に斬り殺されてしまった。
幕末の動乱期に起こった外国人殺傷事件は、賠償問題から薩英戦争にまで発展。その後の日本外交に大きな影響を与えた。
■子安で神奈川に(こやすで かながわに);子安は東海道五十三次の川崎と神奈川に挟まれた街で、上記生麦駅と横浜駅の中間駅。横浜市神奈川区子安通一丁目にある京浜急行電鉄本線の駅がある。
子安の次がザクッと言って隣が神奈川。鉄道で言うとその先が横浜。江戸時代までは神奈川(横浜)の宿が横浜であり、外国に開かれた港をこの下の海を埋め立てて街を作り発展させたのが今の横浜です。
東海道神奈川宿は、東海道五十三次の3番目の宿駅。この地名が県の名前や区の名前の由来です。またここが、近代都市横浜の母体でもありました。しかし、関東大震災と第二次世界大戦によって、歴史的遺産の多くを失いました。現在、宿場町当時のものはほとんど失われてはいますが、台町の坂などに、当時の面影を見つけることができます。
神奈川宿(金川宿とも記される)は、慶長
6年(1601)に成立し、江戸日本橋から品川・川崎に次ぐ3番目の宿場である。ただし、元和9年(1623)に川崎宿が成立するまでは、2番目の宿場であった。日本橋からは7里、隣の川崎宿とは2里18町隔たっている。慶長6年の宿場成立時には隣宿の品川宿までは、5里という遠距離である。これに対し、西側の隣宿である保土ヶ谷宿とは、1里9町ときわめて短い距離にあった。
■藤沢(ふじさわ);旧東海道、戸塚の次の6番目の宿駅。慶長6年(1601)徳川家康により東海道の宿場藤沢宿が設けられる。慶長5年以前から、鷹狩りなどを目的として藤沢御殿が設けられていた。右図の藤沢にも遊行寺が小高い山の上に描かれ、江ノ島に行く分岐点で江ノ島に行くための鳥居が描かれています。
南湖(茅ヶ崎市南湖)は東海道沿いの町で現・茅ヶ崎駅の西側。当時は茶屋が多く有り、賑わった。
■馬入(ばにゅう)の渡し;藤沢宿と平塚宿の間にあり、市境となっています。相模川を馬入川と言って、旧東海道に馬入橋が架かっています。当時は渡しであった。馬入の渡しを渡ると、平塚に入ってきます。
花水橋右に高麗山:平塚を出ると大磯宿まで20町しかありません。その境界に花水川が流れていて、花水橋が架かっています。右手には高麗山(21世紀に残したい日本の自然100選に選定)があり、海に向かって東海道は進み、出た所に大磯が有ります。
小磯:大磯宿を出ると直ぐ、東小磯、西小磯と続きます。大磯町は大磯宿+西小磯村+高麗村+東小磯村からなっていました。現在はその先の国府町と合併、新たに大磯町が発足しています。
■早川(はやかわ);箱根町の芦ノ湖に源を発し東に流れ、小田原市南町と小田原市早川の境界から相模湾に注ぐ。
箱根外輪山からの水が芦ノ湖に集まり、芦ノ湖北端の湖尻より流下する川が本流の早川と呼ばれる。
沼津を出ると途中に原の宿場が有って、下記の吉原に繋がります。左の絵は原です。
■蒲原(かんばら);蒲原町(かんばらちょう)は、静岡県の中部、庵原郡に位置していた町である。平成18年(2006)3月31日、静岡市に編入合併し、清水区の一部となった。水産業が盛んであり、その中でサクラエビの漁獲が盛んである。それに伴い、缶詰工場・加工工場が集中している。
■由比(ゆい);由比町(ゆいちょう)は、静岡県の中部、庵原郡に位置していた町。平成20年(2008)11月1日、静岡市に編入合併した。
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■駿府(すんぷ);府中。駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。駅前には駿府城跡があります。
■安倍川の川原(あべかわのかわら);一級水系安倍川の本流である。清流としても有名で、その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である。流域のすべてが静岡市内であり、下流部の藁科川と合流する付近では「舟山」という川中島が見られ、市街地の西側を流れて駿河湾に注ぐ。
■護摩の灰(ごまのはい);(高野聖(コウヤヒジリ)の扮装をし、弘法大師の護摩の灰と称して押売りした者の呼び名から転じ用いられたという)
旅人らしく装って、旅人をだまし財物をかすめる盗賊。胡麻の上の蠅は見分けがつきにくいことから「胡麻の蠅」とも。広辞苑
■京都の知恩院(ちおんいん);京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然上人である。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。
なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。
知恩院遠景(左三門、右本堂、後方比叡山)。ウイキペディアより
■300両;1両8万円として、2400万円。当時の貨幣価値としたら数千万円の価値があったのでしょう。飛脚は3千両の公金を狙っていた。一割の金でも、300両ですから大金です。
■身の丈六尺一寸;2.1m。現在でも大男ですが、当時でしたら、ずば抜けて大男だったでしょう。
■如意棒(にょいぼう);思いのままに伸縮し、自在に扱うことのできる架空の棒。「西遊記」の孫悟空の持ち物。
■明け六つ;夜明けの現在の6時頃。九つ=深夜0時。
■飛脚(ひきゃく);急用を遠くへ知らせるつかいの人夫。信書・金銀・貨物などの送達を業とした者。すでに鎌倉時代に京・鎌倉間の鎌倉飛脚・六波羅飛脚などがあったが、定置的な通信機関として江戸時代に発達。継飛脚・大名飛脚・町飛脚などがあった。
■赤紙付き(あかがみつき);急ぎの親書に付けた赤い紙。で、急用の親書。速達。
■長持ち(ながもち);衣服・調度などを入れて保管したり運搬したりする、長方形で蓋のある大形の箱。江戸時代以降さかんに使われた。長持をかつぐ竿を長持竿と言った。
■棒鼻(ぼうばな);長持ち竿の先端を言う。ここを押さえられると身動きが出来なくなります。
■紀州三度の金飛脚(きしゅうさんど かねひきゃく);江戸時代、毎月3度、定期に江戸と京都・大坂間を往復した町飛脚。紀州藩から来る金を運ぶ飛脚。千両箱は風袋込みで約25kg有ります。それが3箱で75kgですから、1人は運べませんので、複数の飛脚が運んだのでしょう。
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