落語「九段目」の舞台を行く 六代目三遊亭円生の噺、「九段目」(くだんめ)より
この噺は笑いを楽しむ落語ではありません。仮名手本忠臣蔵を何回かご覧になって、スジと内容が腹の中にしみ込まれている人には、「あ~、あれだな」と思われながら、噺を聞き込んでいきます。戦前までは、娯楽と言えば相撲、歌舞伎しかなく誰でもが有名中の芝居、仮名手本忠臣蔵を誰もが知っていました。現在はあまり有名で無い幕は誰がどの様になったか理解できていないと思います。難しい噺ではありませんが、理解に難があって、円生以外では私は聞いたことも無く、この噺も埋もれてしまう噺なのでしょうね。
■九段目;仮名手本忠臣蔵は全十一段から構成されています。赤穂浪士の討入り事件を題材にした本作は、「三つの死」を物語の大きな柱にしています。殿中で刃傷を起こした塩冶判官の切腹(四段目)、塩冶の旧臣・早野勘平の自害(六段目)、そして、桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)の家老・加古川本蔵(かこがわほんぞう)の死(九段目)です。本蔵は、高師直(こうのもろのう)へ賄賂を届けたことで、塩谷家とは違って、紙一重で主君の刃傷を未然に防ぎました。そのことが塩冶家に悲劇を招く結果になります。また、本蔵が判官を抱き止めたので、判官は師直を討ち洩らし、その無念の思いが大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)を始め塩冶浪士の討入りに繋がります。さらに、由良之助の悴力弥(りきや)と本蔵の娘小浪(こなみ)は許婚(いいなづけ)の間柄でしたが、両家の関係が途絶えてしまいます。本蔵は大きな苦悩を抱えることになります。
本蔵の妻戸無瀬(となせ)と小浪は、由良之助・お石(いし)夫妻や力弥が住む山科へ向かいます。八段目の舞踊「道行旅路の嫁入」は、力弥との生活に思いを馳せる小浪と温かく見守る戸無瀬の道中が綴られます。そして雪の九段目へ・・・。
「九段目 お石を組み伏せる本蔵にヤリを突く力弥」 三代目豊国画
■万歳の太夫(まんざいのたゆう);新年に、えぼし姿で家の前に立ち、祝いの言葉を述べ、つづみを打って舞う者。門付芸 (かどづけげい) の一つで、正月に家々を訪れ祝言を述べて米や銭を請う。平安時代末から室町時代には千秋万歳 (せんずまんざい) といい、唱門師(しょうもんし)などが業とすることがあった。三河万歳は江戸幕府開府の当時から出府したので広く知られた。太夫は風折烏帽子に素襖、高下駄をはき、これと組んで回る才蔵は大黒頭巾にたっつけ姿で、鼓を持っている。今日も行われている万歳には三河、大和をはじめ尾張、河内、秋田万歳などがある。
■按摩(あんま);按摩が本格的に興隆するのは江戸時代に入ってからです。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。
按摩の流派には、江戸期の関東において将軍徳川綱吉の病を治したと伝えられている杉山和一を祖とする杉山流按摩術と吉田久庵を祖とする吉田流按摩術が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた。
杉山和一の献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か?」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その答え通り(?)に同地(本所一つ目)を拝領した。綱吉のお付きの者のウイットに富んだ対応が見事。落語「柳の馬場」より孫引き。
■虚無僧(こむそう);(室町時代の普化宗(フケシユウ)の僧朗庵が宗祖普化の風を学んで薦(コモ)の上に座して尺八を吹いたから、薦僧(コモソウ)と呼んだという。また一説に、楠木正成の後胤正勝が僧となり虚無と号したからともいう)
普化宗の有髪の僧。深編笠をかぶり、絹布の小袖に丸ぐけの帯をしめ、首に袈裟をかけ、刀を帯し、尺八を吹き、銭を乞うて諸国を行脚した。普化僧。こもそう。
■正宗(まさむね);鎌倉後期の刀工、岡崎正宗のこと。名は五郎。初代行光の子という。鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた。義弘・兼光らはその弟子という。三作の一。
写真上より、国宝 名物 観世正宗。 中、国宝 相州正宗 金象嵌銘。 下、名物 籠手切正宗。 全て東京国立博物館蔵。
■差し添え(さしぞえ);刀に添えて腰に差す短刀。脇差。 右図:重要文化財 短刀 伝相州正宗 東京国立博物館蔵。
■浪平行安(なみのひらゆきやす);平安時代から近世まで続いた薩摩(さつま)(鹿児島県)の世襲の刀工名。谷山郡波平の地に永延(えいえん)年間(987~989)ごろ大和(やまと)から正国(まさくに)という刀工が移住したと伝え、その子を行安といい、以後その嫡流は同名を名のって近世に及んでいる。現存する「行安」銘の作刀で最古のものは愛知県猿投(さなげ)神社所蔵の太刀(たち)で、1159年(平治1)を下らない時代の作とされている。波平派は鎌倉・室町期を経て幕末までその名跡をみるが、いずれも京や備前(びぜん)(岡山県)、美濃(みの)(岐阜県)物と異なり、伝統的で古風な作風である。時代的にもっとも新しいものでは、嘉永(かえい)年間(1848~54)から明治初めまで活躍した行安の「正国六十三代孫波平住大和介平行安(やまとのすけたいらのゆきやす)」銘のものがある。
■長押のヤリ(なげしのやり);日本建築で、柱と柱とを繋ぐ水平材が長押。障子、襖の上端を支える水平材で、通常この上に長い鎗を置いていた。
■三方(さんぼう);衝重(ツイガサネ)の一種。神仏または貴人に供物を奉り、または儀式で物をのせる台。方形の折敷(オシキ)を檜の白木で造り、前・左・右の三方に刳形(クリカタ)のある台を取り付けたもの。古くは食事をする台に用いた。
右図:三方。広辞苑より
2017年9月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |