落語「九段目」の舞台を行く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「九段目」(くだんめ)より


 

 お店(たな)近江屋のお祝いで品物を贈るより皆で素人芝居をしようと決まり、仮名手本忠臣蔵九段目『本蔵』をやることに決まった。が、本蔵役が病気で倒れ、急遽代役を立てることになった。

 「金さんは顔が広いから誰か居ないかね」、「番頭さん、同じ町内にいますよ。顔も面長で鼻も高く白髪交じりの総髪でカツラなんかいりません」、「で、商売は?」、「医者なんです。でも江戸っ子じゃ無いんです」、「何処?」、「愛知県でも、在の方なんです」、「良いじゃないですか」、「万歳の太夫だったんです。昔、正月になると来たでしょ。『あへ~、ポンポン』って。だいぶ羽振りが良かったんですが食いつぶして、先々月あたりに引っ越して来て按摩をやっています」、「医者だと言ったじゃ無いか」、「え~、医者もやるんです。本職は按摩で片手間に医者もやります」、「代役やってくれるかね?」、「ただし、江戸っ子じゃ無いのと、目が按摩さんですから悪いんです。それを承知なら頼んできます」。

 「ご苦労さん。どうぞこちらへ」、「初めまして。手前は小泉遊山と言います。これからもよろしく」、「私は番頭の吉兵衛と申します。早速ですがお願いしたいことがあって・・・。主役が病で倒れ、その代役をお願いしたい」、「承知しました。その加古川というのは?」、「今晩のことですから、細かいことを言っても覚えられないでしょうから、貴方の出番からご説明します。虚無僧姿で尺八を吹いて登場します」。
 「尺八は吹いたことがありませんので、按摩の笛で良いでしょうか?」、「それは無いので、形だけで良いです。あとはお囃子がやりますから・・・。家の中にいるのは貴方の女房・戸無瀬(となせ)と娘の小浪(こなみ)です。戸無瀬が刀を振り上げ小浪の首を落とそうとします。小浪は『南無阿弥陀仏』と手を合わせています。奥から『ご無用』と声が掛かります。二度の声で見ると『伜力弥と祝言させよう』、その声で二人は用意を始めます。三方を持ってお石(いし=由良之助の妻)が現れます。『これに引き出物をもらいたい』と言うので、『刀は正宗、差し添えは浪の平行安(なみのひらゆきやす)』と差し出すと、『浪人とバカにして売値の高い二本の刀、これではなく、加古川本蔵の首を乗せてもらいたい』。『それはなぜ?』、『殿中で殿を抱き止めたその無念がある。力弥との婚礼を望むなら本蔵の首をここに・・・。さあさあさあ・・・』二人は途方に暮れている。戸口に立っていた貴方の役虚無僧が笠を脱いで『加古川本蔵の首を差し上げよう』と、二人はビックリして『仔細はみな聞いた。(二本の刀を差して)由良之助の奥方お石殿ですな、遊所で遊びほおけている由良之助は大馬鹿で、蛙の子はカエルで力弥も大馬鹿者。わしを切ることも出来まい』と三方を踏みつぶします。『猪口才な女め』と見得を切る。絡みがあった後に、長押のヤリをお石が取り上げるが、本蔵に組み伏せられてしまう。『力弥、力弥~』と助けを出すと、力弥が出て来てヤリを拾い貴方(本蔵)に突いてくる。ヤリ先を持って、『ここを突け』と言う素振りを見せます」。
 「お請けしたこの話、ヤリで突かれるのでしたら一命に関わりますので・・・」、「芝居ですから、本当には突きません。真似事です。背中まで抜けよと突かれたところに、前のめりになる本蔵、トドメを刺そうとする力弥に由良之助が入ってくる。『別れてから久しぶりに会う本蔵殿、聟(むこ)の力弥の手に掛かり、さぞ満足であろう』。言い当てられた由良之助の言葉を聞いて、本蔵の貴方は目を見開き・・・」、「それは出来ないことで、手前はこれ以上眼は開けません」、「ウ~・・・、正面を向いて見栄を切れば、ツケがパタ~ンと打ちますから、見開いたように見えます。この後にも長い台詞が有りますが、覚えられませんから、舞台の後ろから私が台詞を付けます。ただ、ヤリで突かれた後、『主人のウップン払さんため、このほどよりの心遣い、遊所の出会いに気を緩ませ、徒党の人数は揃いつらん』と、本蔵の意気を見せて欲しい」。
 「そのところを私が覚えれば良いのですね。主人のウツフン・・・」、「ウツフンではなく、ウップンです」、「ウップンと言うと客席にツバが飛びますが・・・」、「ツバが飛んでも構いません」、「主人のウップン払さんため、このほどよりの心遣い、遊所の出会いに気を緩ませ、徒党の人数は揃いつらん。分かりました」、「えぇ!もう覚えたんですか。ではヤリで突かれたところを演じましょう。台詞を棒読みにせず、手負いですから苦しそうに、フシを付けて伸ばす」、「フシを付けて・・・。(万歳風に)しゅふう~」、「手負いですから苦しそうに・・・、下っ腹に力を入れて。リキンで・・・」、「ヤァッ・・・、ウッ・・・、なかなか切(せつ)ないことで・・・」、「苦しいのですから・・・」、「うッゥ、『ブー』、失礼しました。昼間、薩摩芋を食い過ぎたので・・・」、「(手本を見せて)主人のウップン・・・」、「難しいものですな。主人のウップン・・・」、「上手いですよ。それにリズムを付けて」、「ととん~、はらさんと~」、「あ~、だめだ、万歳になってしまった」。
 九段目でした。

 


 この噺は笑いを楽しむ落語ではありません。仮名手本忠臣蔵を何回かご覧になって、スジと内容が腹の中にしみ込まれている人には、「あ~、あれだな」と思われながら、噺を聞き込んでいきます。戦前までは、娯楽と言えば相撲、歌舞伎しかなく誰でもが有名中の芝居、仮名手本忠臣蔵を誰もが知っていました。現在はあまり有名で無い幕は誰がどの様になったか理解できていないと思います。難しい噺ではありませんが、理解に難があって、円生以外では私は聞いたことも無く、この噺も埋もれてしまう噺なのでしょうね。
 仮名手本忠臣蔵を題材にした落語では、この九段目の他に、有名な「淀五郎」(四段目)、「中村仲蔵」(五段目)、「七段目」等があります。
 円生もマクラで言っていますが、素人芝居で仮名手本忠臣蔵を演じるとすれば、四、五、六段目でしょう。


ことば

九段目;仮名手本忠臣蔵は全十一段から構成されています。赤穂浪士の討入り事件を題材にした本作は、「三つの死」を物語の大きな柱にしています。殿中で刃傷を起こした塩冶判官の切腹(四段目)、塩冶の旧臣・早野勘平の自害(六段目)、そして、桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)の家老・加古川本蔵(かこがわほんぞう)の死(九段目)です。本蔵は、高師直(こうのもろのう)へ賄賂を届けたことで、塩谷家とは違って、紙一重で主君の刃傷を未然に防ぎました。そのことが塩冶家に悲劇を招く結果になります。また、本蔵が判官を抱き止めたので、判官は師直を討ち洩らし、その無念の思いが大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)を始め塩冶浪士の討入りに繋がります。さらに、由良之助の悴力弥(りきや)と本蔵の娘小浪(こなみ)は許婚(いいなづけ)の間柄でしたが、両家の関係が途絶えてしまいます。本蔵は大きな苦悩を抱えることになります。

 本蔵の妻戸無瀬(となせ)と小浪は、由良之助・お石(いし)夫妻や力弥が住む山科へ向かいます。八段目の舞踊「道行旅路の嫁入」は、力弥との生活に思いを馳せる小浪と温かく見守る戸無瀬の道中が綴られます。そして雪の九段目へ・・・。
右図:虚無僧姿の加古川本蔵(板東亀藏) 三代目豊国画

 

 「九段目 お石を組み伏せる本蔵にヤリを突く力弥」 三代目豊国画 
 左から大星力弥、娘小浪、加古川本蔵、組み伏せられている由良之助の妻お石、本蔵の妻戸無瀬。

 雪景色が印象に残る九段目「山科閑居」。由良之助が祇園から帰宅する「雪転し」、娘を思う親心と武士としての義理との狭間で葛藤する本蔵の苦しい心の内、本蔵の胸中を察した由良之助の深い思慮と討入りへの覚悟、生さぬ仲の戸無瀬と(先妻の娘)小浪の恩愛などが描かれます。武門の意地と人間の情愛が織り成す重厚なドラマです。
 落語では語られませんが、虫の息の中、本蔵は吉良邸の絵図面を由良之助に渡し、本懐を遂げるように助言をします。それが基で、討ち入りの準備に入ります。
 そして終幕の、十一段目「討入り」に続き浪士は師直方との激しい立廻りの末に本懐を遂げ、「花水橋引揚げ」で物語は大団円を迎えます。

万歳の太夫(まんざいのたゆう);新年に、えぼし姿で家の前に立ち、祝いの言葉を述べ、つづみを打って舞う者。門付芸 (かどづけげい) の一つで、正月に家々を訪れ祝言を述べて米や銭を請う。平安時代末から室町時代には千秋万歳 (せんずまんざい) といい、唱門師(しょうもんし)などが業とすることがあった。三河万歳は江戸幕府開府の当時から出府したので広く知られた。太夫は風折烏帽子に素襖、高下駄をはき、これと組んで回る才蔵は大黒頭巾にたっつけ姿で、鼓を持っている。今日も行われている万歳には三河、大和をはじめ尾張、河内、秋田万歳などがある。

按摩(あんま);按摩が本格的に興隆するのは江戸時代に入ってからです。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。 按摩の流派には、江戸期の関東において将軍徳川綱吉の病を治したと伝えられている杉山和一を祖とする杉山流按摩術と吉田久庵を祖とする吉田流按摩術が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた。
 元禄5年(1692)本所一つ目に土地を拝領、杉山和一(すぎやま わいち)検校が取り仕切った。
下図;明治東京名所図会より「一つ目弁天」。 

  杉山和一の献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か?」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その答え通り(?)に同地(本所一つ目)を拝領した。綱吉のお付きの者のウイットに富んだ対応が見事。落語「柳の馬場」より孫引き。

虚無僧(こむそう);(室町時代の普化宗(フケシユウ)の僧朗庵が宗祖普化の風を学んで薦(コモ)の上に座して尺八を吹いたから、薦僧(コモソウ)と呼んだという。また一説に、楠木正成の後胤正勝が僧となり虚無と号したからともいう) 普化宗の有髪の僧。深編笠をかぶり、絹布の小袖に丸ぐけの帯をしめ、首に袈裟をかけ、刀を帯し、尺八を吹き、銭を乞うて諸国を行脚した。普化僧。こもそう。

正宗(まさむね);鎌倉後期の刀工、岡崎正宗のこと。名は五郎。初代行光の子という。鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた。義弘・兼光らはその弟子という。三作の一。
 正宗の鍛えた刀。転じて、名刀。「正宗」の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えた。

写真上より、国宝 名物 観世正宗。 中、国宝 相州正宗 金象嵌銘。 下、名物 籠手切正宗。 全て東京国立博物館蔵。

差し添え(さしぞえ);刀に添えて腰に差す短刀。脇差。 右図:重要文化財 短刀 伝相州正宗 東京国立博物館蔵。

■浪平行安(なみのひらゆきやす);平安時代から近世まで続いた薩摩(さつま)(鹿児島県)の世襲の刀工名。谷山郡波平の地に永延(えいえん)年間(987~989)ごろ大和(やまと)から正国(まさくに)という刀工が移住したと伝え、その子を行安といい、以後その嫡流は同名を名のって近世に及んでいる。現存する「行安」銘の作刀で最古のものは愛知県猿投(さなげ)神社所蔵の太刀(たち)で、1159年(平治1)を下らない時代の作とされている。波平派は鎌倉・室町期を経て幕末までその名跡をみるが、いずれも京や備前(びぜん)(岡山県)、美濃(みの)(岐阜県)物と異なり、伝統的で古風な作風である。時代的にもっとも新しいものでは、嘉永(かえい)年間(1848~54)から明治初めまで活躍した行安の「正国六十三代孫波平住大和介平行安(やまとのすけたいらのゆきやす)」銘のものがある。
日本大百科全書(ニッポニカ)より

長押のヤリ(なげしのやり);日本建築で、柱と柱とを繋ぐ水平材が長押。障子、襖の上端を支える水平材で、通常この上に長い鎗を置いていた。

三方(さんぼう);衝重(ツイガサネ)の一種。神仏または貴人に供物を奉り、または儀式で物をのせる台。方形の折敷(オシキ)を檜の白木で造り、前・左・右の三方に刳形(クリカタ)のある台を取り付けたもの。古くは食事をする台に用いた。

右図:三方。広辞苑より



                                                            2017年9月記

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