落語「三人兄弟」の舞台を行く
   

 

 柳家小里んの噺、「三人兄弟」(さんにんきょうだい)、別名「三人息子」より


 

 『親のすねかじる子供の歯の白さ』、古い川柳です。日本橋の石町に大店が有りましたが、3人の息子がそろって大変な道楽者です。

 長男が”幸太郎”(こうたろう)と言いまして、新橋、柳橋辺りで芸者太鼓持ちを揚げて遊んでいます。次男が”銀之助”(ぎんのすけ)といって深川の辰巳芸者と遊んでいます。三番目が”吉松”(きつまつ)と言って、昼間は遊び人の家で博打を打ち、夜になると吉原で遊ぶと言う、昼遊び、夜遊びで家に居着きません。父親が怒ってしまい、3人共2階住まいとなってしまいました。

 「誰です。私の後ろをコソコソ歩くのは・・・。幸太郎じゃないか。何処行くんだ」、「はばかりに・・・」、「庭のはばかりは奉公人用で、使うんだったら奥のを使いなさい」、「しくじったね。抜け出そうとしたら見付かったよ。たまには使ってみるか。窓から見る景色は良いな~。善公が来たよ。善公ッ。キョロキョロするな、ここだよ」、「幸太郎さんじゃないですか」、「柳橋から来てくれと状が来ているんだよ。夜、裏に梯子を持って来てくれたら良いんだ」、「ご主人に背を向けたら、この町に住めなくなりますから、出来ません」、「煙草入れに、1円付けるから」、「承知しました」。

 銀之助も2階から下りてきてはばかりに・・・。吉松は乱暴者ですから、「はばかりに行くんだ、そこに座られていると邪魔だ、どけッ」、「親に向かって何だッ」。

 「兄貴達よ、こんな早くよく寝られるな」、「やることが無いんだ」、「博打も出来ないなら、布団をよこせ」、掛け布団を1枚ずつ引きはがし、寝てしまった。
 長男が出ていくのを見つけた次男坊。一緒に梯子を伝って出掛けてしまった。「出掛けたいな~。兄貴寝ている場合かよ。アレッ、二人共いないじゃないか。俺を残して・・・」。吉松は乱暴者ですから、屋根の先から飛び降りて、裸足のままに吉原に出掛けた。

 翌朝。幸太郎と銀之助が街角でバッタリ会いました。「幸太郎兄さん、おはようございます」、「どうして此所に」、「善公が用意した梯子を借りて・・・」、「吉松一人残って、怒っているだろうな」、「オォッ、兄貴どうして二人でいるんだッ。俺を置いてけぼりにして」、「ごめんよ。ワザとしたんじゃ無いヤ。で、店を覗いてみな。親父が居なければイイが」、「ダメですよ。帳場に座っていますよ。怖い顔して」。
 「え~、おはようございます」、「幸太郎じゃないか。2階に居る者が何で表から入ってくるんだ。何処に行ってきたッ」、「あの~、謡の会が有りまして・・・。遅くに思い出しまして、お父様はお休みになっていると思いそのまま・・・、夜は物騒ですから泊まってきました」、「早く2階に上がっちゃいな」。
 「順番ですから、銀之助兄さんどうぞ」、「お前は何処に行って来た」、「運座です。時間が掛かりましたので」、「運座がそんなに時間が掛かるものか。早く2階に上がっちゃいな」。
 「オッ、親父、今帰ったィ。お袋~ィ、今帰ってきた。お帰りなさいと迎えに出ろッ」、「親に向かってその言い方は何だ。お前は何処に行って来た」、「俺かぃ、俺は女郎買いに行ってきた。モテてねェ~、一晩中寝てないんだ。2階で寝てるから、飯が出来たら起こせ。何だったら、2階に運べッ」。
 「何ですかね~、お父さん。2人は遊んできても、言い訳を考えて来ていますが、吉松は乱暴ですね。親に向かって女郎買いに行ってきたなんて・・・。本当に呆れかえった道楽者で・・・」、「婆さん、そんなにガッカリすることは無いよ。これで、家の身代を譲る相手が決まったよ」、「お父っつあん、誰に譲るんです」、「一番下の吉松だよ」、「何であんな乱暴者に譲るんです」、「婆さん、よく考えてごらんよ。あいつだけが正直なことを言った」。

 



ことば

柳家 小里ん(やなぎや こりん);(1948年(昭和23年)1月22日 - )、落語協会所属の東京浅草出身の落語家。本名は安田 雅行(やすだ まさゆき)。古典落語を得意とする。出囃子は「春雨」。紋は剣片喰(けんかたばみ)。血液型はA型。 東京都立江北高等学校卒業。高校時代は落語研究会で活躍するほか体操部にも所属。高校3年の時、高校総体に出場。タンブリングという種目で金メダルを取った。浅草演芸ホールで毎年行われている吉例納涼住吉踊りでトンボを切るなど抜群の運動神経の持ち主である。 高校卒業後、大学受験にチャレンジするも失敗、5代目柳家小さんの門をたたき、内弟子として目白の師匠の家に住み込みで修行に励む。内弟子として共に修行した兄弟弟子には、柳家小ゑん(現・6代目柳家小さん)、柳家小よし(現・柳亭小燕枝)、柳家小二三(現・柳家三寿)がいる。1974年に二つ目昇進「小里ん」に改名。1983年9月に真打昇進、現在に至る。 柳派の滑稽落語の世界を大事にし、落語らしい落語を演じることを心がけている。また、趣味が高じてか廓噺にも並々ならぬ力を注いでいる。趣味は相撲観戦、相撲の形態模写も得意。

石町(こくちょう);江戸時代、本石町と言われた地。この地はもと石町(こくちょう)と呼ばれていたが、寛文年間に神田に新石町(しんこくちょう、現在の内神田三丁目付近)が出来たので本石町と呼ばれるようになった。石町という町名は、古くは米穀商が多く集まっていたことから穀類を数える単位の石に由来するとされる。町域は東西に長く、日本橋川から1~4丁目まで有った町で、3丁目には”刻の鐘”が有りました。またその近くにあった”長崎屋”は長崎から将軍謁見のために来るオランダ商館長カピタンの定宿とされた。二丁目と三丁目のあいだ近く(現中央通り)にあった”十軒店”(じゅっけんだな)には、毎年桃の節句や端午の節句になると人形の市が立ち、年の暮れには同所で破魔矢、羽子板を売るなどしてたいそう賑わったという。
 その南側には同じく東西に長い本町が有り、江戸時代には金座が置かれていて、現在は金座跡地に日本銀行が所在します。石町は現在、南北に長い街に変身、日本橋本石町と呼ばれ、南から順に北へ一丁目から4丁目まであります。
 江戸時代から、日本橋を中心に大店が密集する大繁華街です。
 右上図:『画本東都遊』(えほんあずまあそび) 享和2年(1802)刊、葛飾北斎画。本石町の長崎屋に滞在するオランダ人たちと、それを見物する江戸の人々。

道楽者(どうらくもの);酒色・博打などにふける者。放蕩な人。身持ちの悪い人。特に、ばくちうち。
 なまけもの。

新橋(しんばし);慶長6年(1601)に設定された新しい東海道(街道)は、はじめ今の港区芝一丁目あたりが起点でしたが、3年後、増上寺前の浜辺などを埋め立て、起点を日本橋へ延ばしました。この時に、今の港区の北東端に、新しい橋が架けられたのだと思われます。新しい幹線道路の延長にふさわしく「新橋」の名をつけたのか、あるいは汐留川に架かるいくつかの橋の中で“より新しい橋”という意味でそう呼んだのかも知れません。
 宝永7年(1710)に芝口御門が橋の北に造営され、日比谷から橋の南へ移された町も、芝口と名づけられました。橋も芝口橋と名前を変えましたが、橋の北側を新橋というようになりました。明治になって橋の名を新橋に戻し、明治5年(1872)には日本の鉄道起点「新橋駅」、後の汐留駅が出来た。

 花街としての新橋(しんばし)は、現在の東京都中央区銀座における花街で、始まりは1857年(安政4年)、現在の銀座八丁目付近に三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりだといわれる。当時、新橋の芸者(芸妓)能楽太夫の名にちなみ「金春芸者」(こんばるげいしゃ)と呼ばれていた。「金春新道」沿いに粋な家屋が明治初年まで立ち並んでいた。 新橋界隈は各藩の大名屋敷から距離的に都合の良い場所にあったため、公儀の役人や他藩の客人との接待・外交の場として利用され、座興として芸事を教えていた女師匠が座敷に招かれて芸を披露していた。その中のひとりの常磐津文字和佐が、当時老中だった太田資始に、自分たちが芸事を披露すると同時に客人たちへの酌や給仕をすることを許可してもらえるように願い出て認められたことから、新橋芸者のスタイルが確立された。
 明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「柳新二橋」(柳橋・新橋)と称し、人気の花街となった。明治期に新政府高官が新橋をひいきにしたのは、東京の花柳界では新橋は新興であり、伊藤博文、板垣退助らが同地に集った。当時の名妓には板垣に落籍された小清(こせい)などがいる。
  長男幸太郎が遊んでいた地です。

右図:地名の由来になった橋「新橋」。下を汐留川が流れていた。背後の建物は現在の「博品館TOY PARK」の敷地にあった帝国博品館勧工場。奥一体が金春新道です。大正時代の絵葉書より。

柳橋(やなぎばし);かつて東京都台東区柳橋に存在した花街で、新橋の花街が明治にできたのに対し、柳橋は江戸中期からある古い花街です。
 柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)で、上田南畝の記録によると14名が居住していた。
1842年(天保13年)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され、江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通の便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚な街として栄えてくるようになる。1859年(安政6年)には、芸妓140名から150名に増加した。
 明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。明治時代の客筋は、ほぼ商が5割、髭3割、雑2割(商は実業家、相場師、銀行家など。髭は、政治家、軍人、弁護士など。雑は、俳優、力士、芸人など)。このころは柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった。 1928年(昭和3年)には、料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名の大規模を誇り、芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演し披露していた。代表的な料理屋は伊藤博文が利用した現存する「亀清楼」であった。

 

 上図:「亀清楼」 広重筆 神田川に架かる柳橋、その北側に有る料亭、万八楼が安政元年(1854)亀清楼に名を変えて、現在もビルになって営業。合流した右側が隅田川。

芸者(げいしゃ);歌舞や三味線などで酒席に興を添えるのを業とする女性。芸妓(ゲイギ)。芸子(ゲイコ)。
 舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。芸妓を「芸者」(京では芸妓(げいこ))、見習を「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」など(京では舞妓(まいこ))と呼ぶ。酒席で各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つ。 江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。
 現代では料理屋(料亭)、待合茶屋に出入りする芸者が売春を行うことはない。地方の温泉地等ではコンパニオンと呼ばれる派遣の芸妓などが存在し、また俗に枕芸者と呼ばれるものも一部に残っている。

 柳橋の芸者さんは絶滅してしまいましたので、向島の芸者さんを紹介。2009年隅田公園お花見の茶店にて。
落語「不孝者」より

■太鼓持ち(たいこもち);幇間(ホウカン)。男芸者。
 江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性である幇間(太鼓持ち)を指し、芸子が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。男芸者は幇間と云い、現在は東京に若干いるだけで絶滅に近い状態になっています。

辰巳芸者(たつみげいしゃ);江戸時代を中心に、江戸の深川(後の江東区)で活躍した芸者のこと。深川八幡宮・永代寺の門前町は岡場所であり、遊女(私娼)と並んで「意気」と「張り」を看板にした芸者が評判となった。 深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったため、当地の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれ、羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれた。舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「いき」の象徴とたたえられた。

 深川は明暦ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で揉め事があって深川に居を移したという。しかし土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達でその好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されている。
 薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったという。また芸名も「浮船」「葵」といった女性らしい名前ではなく、「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗った。これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもある。現代でも東京の芸者衆には前述のような「奴名」を名乗る人が多い。
 辰巳については、落語「名月八幡祭り」に詳しい。

右図:月岡芳年の「風俗三十二相 さむさう 天保年間深川仲町芸者風俗」明治21年。

吉原(よしわら);江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。庄司甚内へ5か条の許可の条件が示されたが、徳川幕府は遊興にふけり犯罪を犯すもの、浪人悪党の逮捕を考慮した。明暦の大火(1657年)前後、浅草田圃に移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」の異名もあり、「仲」とも呼ばれた。
 大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなった。歌舞伎、講談、落語等の芸能の世界でも舞台になった。吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもないが、文化の発信地という側面も持っていた。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊國屋文左衛門(紀文)や、十八大通などと呼ばれた札差(金貸し)たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。

 

 歌麿筆、三部作の名作『雪月花』の内、「深川の雪」、「品川の月」と並んで「吉原の花」(上図)は豪華絢爛。
 吉原遊郭の大通り、仲の町に面した引手茶屋と路上を行き来する女性や子供達、総計52人もの群像が華やかに描かれています。豪華な衣装が満開に咲き誇る桜の花に映えて、晴れやかに美しい。 

はばかり;便所。トイレ。

1円(いちえん);単純に、明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍ぐらいです。つまり明治時代の1円は、今の3800円ぐらいに相当することになります。人々の仕事の種類も生活のしかたも違いますし、生活に必要な品物も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、明治時代でも前半と後半では違いがあります。
 お給料が安ければ、それだけ1円の重みも違います。明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらい。一人前の大工さんや工場のベテラン技術者で月20円ぐらいだったようです。 このことから考えると、庶民にとって当時の1円は、現在の2万円ぐらいの重みがあったでしょう。
 善公が貰った1円と煙草入れ、梯子の手間賃としては破格です。逆に云って、大店の生活は小言を言っても、その位裕福な家庭だったのでしょう。

謡の会(うたいのかい);能・狂言、また、それに近い芸能の歌唱。特に、能の謡を謡曲という。その会。
【能楽】:日本芸能の一。能と狂言との総称。平安時代以来の猿楽から鎌倉時代に歌舞劇が生れ、能と呼ばれた。それに対して猿楽本来の笑いを主とする演技は科白劇の形を整えて、狂言と呼ばれた。両者は同じ猿楽の演目として併演されてきたが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽の名と置きかえられた。現在、観世(カンゼ)・宝生(ホウシヨウ)・金春(コンパル)・金剛(コンゴウ)・喜多(キタ)のシテ方5流のほか、ワキ方3流(宝生・福王・高安)、狂言方2流(大蔵・和泉)、囃子方14流がある。

運座(うんざ);数人が集まり、兼題または席題によって俳句を作り、互選、選評をする方式。もと宗匠の選によっていたところ江戸末期から互選形式が行われるようになり、正岡子規らの新しい俳句運動の中で合理化され、作句の習練の場として広く行われるようになった。連句では、文台・捌き手をおかずに一巻を巻き、清書して宗匠に点を請う方式のこと。

身代(しんだい);一身に属する財産。家の財産。身上(シンシヨウ)。資産。
 江戸時代、負債主が定められた期日までに負債を償還できないとき、一定の手続を経て身代全部を債権者に提供して債務にあてたこと。この処分を受けた者は、その償還を完了するまで種々の権利・資格を喪失する。今日の破産または強制執行に当る。これを身代限りと言った。道楽息子がせっせと財産を食い散らかしたら、この様な状況になるのは目に見えている。大旦那は息子達を育てることも、この様にならないように気を使っていたはずです。

博打(ばくち);(バクウチの約)。
 財物を賭け、骰子(サイ)・花札・トランプなどを用いて勝負をあらそうこと。ばくえき。かりうち。とばく。ギャンブル。
 一か八(バチ)かのまぐれ当りをねらう行為。
大概は胴元(親)が勝つようになっている。遊びでやるときは、順番で胴を回して遊ぶ。
 日常的に賭博を行う者や、賭博を特に好む者は「賭博師」や「ギャンブラー」、「博打打ち」などと呼ばれている。 賭け事の遊戯(ゲーム)を主催している者を胴元と言う。 胴元(主催者)側が、自分に有利になるように、様々な詐術を用いて表向きのゲームとは違うことが起きるように細工をして行う賭博を、いかさま賭博と言う。よくある手法は、参加者に分からないようなかたちで、なんらかのトリック(技術や道具)を用い、相手を錯誤させ、表向きの確率や期待値(見掛けの確率や期待値)とは違うように、実際の確率及び期待値を改竄して行う。



                                                            2018年7月記

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