落語「三人兄弟」の舞台を行く 柳家小里んの噺、「三人兄弟」(さんにんきょうだい)、別名「三人息子」より
■柳家 小里ん(やなぎや こりん);(1948年(昭和23年)1月22日 - )、落語協会所属の東京浅草出身の落語家。本名は安田 雅行(やすだ まさゆき)。古典落語を得意とする。出囃子は「春雨」。紋は剣片喰(けんかたばみ)。血液型はA型。 東京都立江北高等学校卒業。高校時代は落語研究会で活躍するほか体操部にも所属。高校3年の時、高校総体に出場。タンブリングという種目で金メダルを取った。浅草演芸ホールで毎年行われている吉例納涼住吉踊りでトンボを切るなど抜群の運動神経の持ち主である。 高校卒業後、大学受験にチャレンジするも失敗、5代目柳家小さんの門をたたき、内弟子として目白の師匠の家に住み込みで修行に励む。内弟子として共に修行した兄弟弟子には、柳家小ゑん(現・6代目柳家小さん)、柳家小よし(現・柳亭小燕枝)、柳家小二三(現・柳家三寿)がいる。1974年に二つ目昇進「小里ん」に改名。1983年9月に真打昇進、現在に至る。 柳派の滑稽落語の世界を大事にし、落語らしい落語を演じることを心がけている。また、趣味が高じてか廓噺にも並々ならぬ力を注いでいる。趣味は相撲観戦、相撲の形態模写も得意。
■石町(こくちょう);江戸時代、本石町と言われた地。この地はもと石町(こくちょう)と呼ばれていたが、寛文年間に神田に新石町(しんこくちょう、現在の内神田三丁目付近)が出来たので本石町と呼ばれるようになった。石町という町名は、古くは米穀商が多く集まっていたことから穀類を数える単位の石に由来するとされる。町域は東西に長く、日本橋川から1~4丁目まで有った町で、3丁目には”刻の鐘”が有りました。またその近くにあった”長崎屋”は長崎から将軍謁見のために来るオランダ商館長カピタンの定宿とされた。二丁目と三丁目のあいだ近く(現中央通り)にあった”十軒店”(じゅっけんだな)には、毎年桃の節句や端午の節句になると人形の市が立ち、年の暮れには同所で破魔矢、羽子板を売るなどしてたいそう賑わったという。
■道楽者(どうらくもの);酒色・博打などにふける者。放蕩な人。身持ちの悪い人。特に、ばくちうち。
■新橋(しんばし);慶長6年(1601)に設定された新しい東海道(街道)は、はじめ今の港区芝一丁目あたりが起点でしたが、3年後、増上寺前の浜辺などを埋め立て、起点を日本橋へ延ばしました。この時に、今の港区の北東端に、新しい橋が架けられたのだと思われます。新しい幹線道路の延長にふさわしく「新橋」の名をつけたのか、あるいは汐留川に架かるいくつかの橋の中で“より新しい橋”という意味でそう呼んだのかも知れません。
■柳橋(やなぎばし);かつて東京都台東区柳橋に存在した花街で、新橋の花街が明治にできたのに対し、柳橋は江戸中期からある古い花街です。
上図:「亀清楼」 広重筆 神田川に架かる柳橋、その北側に有る料亭、万八楼が安政元年(1854)亀清楼に名を変えて、現在もビルになって営業。合流した右側が隅田川。
■芸者(げいしゃ);歌舞や三味線などで酒席に興を添えるのを業とする女性。芸妓(ゲイギ)。芸子(ゲイコ)。
柳橋の芸者さんは絶滅してしまいましたので、向島の芸者さんを紹介。2009年隅田公園お花見の茶店にて。
■太鼓持ち(たいこもち);幇間(ホウカン)。男芸者。
■辰巳芸者(たつみげいしゃ);江戸時代を中心に、江戸の深川(後の江東区)で活躍した芸者のこと。深川八幡宮・永代寺の門前町は岡場所であり、遊女(私娼)と並んで「意気」と「張り」を看板にした芸者が評判となった。
深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったため、当地の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれ、羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれた。舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「いき」の象徴とたたえられた。
深川は明暦ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で揉め事があって深川に居を移したという。しかし土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達でその好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されている。
右図:月岡芳年の「風俗三十二相 さむさう 天保年間深川仲町芸者風俗」明治21年。
■吉原(よしわら);江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。庄司甚内へ5か条の許可の条件が示されたが、徳川幕府は遊興にふけり犯罪を犯すもの、浪人悪党の逮捕を考慮した。明暦の大火(1657年)前後、浅草田圃に移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」の異名もあり、「仲」とも呼ばれた。
歌麿筆、三部作の名作『雪月花』の内、「深川の雪」、「品川の月」と並んで「吉原の花」(上図)は豪華絢爛。
■はばかり;便所。トイレ。
■1円(いちえん);単純に、明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍ぐらいです。つまり明治時代の1円は、今の3800円ぐらいに相当することになります。人々の仕事の種類も生活のしかたも違いますし、生活に必要な品物も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、明治時代でも前半と後半では違いがあります。
■謡の会(うたいのかい);能・狂言、また、それに近い芸能の歌唱。特に、能の謡を謡曲という。その会。
■運座(うんざ);数人が集まり、兼題または席題によって俳句を作り、互選、選評をする方式。もと宗匠の選によっていたところ江戸末期から互選形式が行われるようになり、正岡子規らの新しい俳句運動の中で合理化され、作句の習練の場として広く行われるようになった。連句では、文台・捌き手をおかずに一巻を巻き、清書して宗匠に点を請う方式のこと。
■身代(しんだい);一身に属する財産。家の財産。身上(シンシヨウ)。資産。
■博打(ばくち);(バクウチの約)。
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