落語「須磨の浦風」の舞台を行く
   

 

 四代目三遊亭円馬の噺、「須磨の浦風」(すまのうらかぜ)より


 

 三代将軍家光公が諸大名を集めて、饗応を催す事になった。土用の半ば、暑い盛り。接待役を申しつかりましたのが、徳川様のご家老職、大久保彦左衛門さん。準備をしている所へ、上様から進捗状況を確認する使者のお侍が二人。「粗相内之助(そそうないのすけ)」と「無事尾張御門(ぶじ おわりごもん)」と言う二人。

  「大久保殿、この度は、いろいろとお骨折り、厚くお礼申しあげます」、「いや~、ご丁寧なる御挨拶。彦左、心から嬉しく思うぞ」、「御家老には、何かお考えがあると承って来ましたが・・・」。
 「考えは、殿に雪景色をご覧に入れようと思ってな」、「雪景色!このお暑い折りに」、「本当の雪ではない。庭一面に綿を敷き詰める。立木にも綿。殿の御座所には掘り炬燵を出そうと思って」、「お待ちください。土用半ばに掘り炬燵と申しますと・・・。殿を苦しめるようになって・・・」、「火を入れるのではない。水を入れ、金魚を入れ、金網で蓋をする。上様がおみ足を入れても、涼しく感じると思うぞ」、「良いお考えで・・・」。
 「須磨の浦には、良い風があると聞く。人足に長持ちを持たせて、須磨の浦風を持ち帰る。それを開ければ、座敷一面須磨の浦風。暑さ知らずじゃ」。

 『長持ちを持ち、須磨の浦へ参り、風を入れて目張りをし、五十日以内に江戸へ戻った者には、金子五両の他、多分なお手当をつかわすものなり』。と出したものですから、人足、雲助が集まったのなんの、一万人。その中から、真面目で健脚な者を八十人選んで、長持ちを持たせ、「徳川家御用」と書いた札を立てまして、揃いの装束。「ハイ・ハイ・ハイ!」と須磨へやってまいりました。

 そろって、須磨の浦へ出て、長持ちを開けて、風を待っている。すると須磨の浦風がブァーッと吹いてきた。「そーら、来た来た、入れろ入れろ。蓋をしろ、目張りをしろ!よーし、肩を入れろ!」。
 須磨を後に「ハイ・ハイ・ハイ!」と、やってまいりまして、江戸を出て四十五日目。今夜の宿は箱根の頂上。あと5日もあるから大丈夫。山上で風が無く、暑くて寝られない。寝付かれない一人が、「涼風は長持ちの中にある。一箱くらいなら分からないだろう」、なんてんで、一箱開けた。
 「ビリビリっと目張りを剥がす、あぁ~、良い風だッ」、この人足が、寝ちまうと、別の人足が暑くて目を覚ます。一箱ぐらいなら、てんで、ビリビリ。そのうちに、あっちでもビリビリ、こっちでもビリビリ。
 とうとう全部の長持ちを空っぽにしちまった。

 明くる朝。
 「よーし、肩を入れろ。やい、なんだか、軽くなったな?」、「やっぱりなんだねぇ、風にも重さがあったか。頭、すまねぇ。夕んべ暑くてしょうがねぇから、一箱、ビリビリとやったが、良い風だったぜ」 、「頭、すまねぇ、俺もだ」、「俺もッ」、「俺もッ」って、全部空っぽ。「冗談じゃねぇ、空の長持ちを持って帰ってみろ。首が飛ぶぞ!」。
 「一番先にやったのは、俺だ。そこで考えた。後五日しかねぇ、これから、又、須磨へ行って風を詰め直しても間にあわねぇ。そこでどうだろう、帰りがけに、小田原の浜辺の風を詰めて、持って帰る。小田原の浜辺の風も、須磨の浦風も、風に印はねぇ」。
 「じゃあ、そうしよう」と言う事になり、小田原の浜辺へ行くと、長持ちの蓋を開けて待っている。すると、小田原の浜辺の風がブュー。
 「そーら、来た来た、蓋をしろ、目張りをしろ!肩を入れろ!」。
 ところが、この時大変な事があった。その日、浜でくさやの干物を干していた。そのくさやの匂いが混合した風を詰めて、四十九日目に江戸へ着いた。人足達は、知らん顔で渡して、五両もらっていなくなった。

 当日になって、諸大名が列席。饗応も宴たけなわ。雪景色を披露、上様には涼しい掘り炬燵を堪能していただく。いよいよ、須磨の浦風をご披露と言う事になる。襖を開けると、ずらっと並んだ長持ち、ビリビリと目張りを取ると、諸大名が呑んでいる、その頭の上へ、くさやの匂いが、モヤモヤモヤ~。
 諸大名は驚いた、「何じゃ、この匂いは?予は胸が悪くなったぞ。大久保殿、家来の恥辱は、殿の恥。この醜態は何であるかッ?」。
 家光慌てず、「捨ておけ。爺、心配をいたすな。暑さのみぎりじゃ、須磨の浦風が、腐ったのじゃ」。  

 



ことば

この噺、元来は上方の噺です。その概略を、
 鴻池家に紀州公がお忍びで来ることになった。主人(善右衛門)が店の者を集めどんなもてなし方がようかろうと相談する。
 番頭は、「この暑い盛りに冬仕立ての趣向はどうでっしゃろ。薩摩上布の布団で炬燵(こたつ)を作ります。足がさわっただけでチリチリとして汗が引こうというもの。その下に水盤を置き、冷たい水を張って、火の代わりに金魚か小さな緋鯉を泳がしときます。涼しい冷たい炬燵で、庭は雪景色にしまひょ。綿と木綿で芝居の舞台のように作って涼しい風を送ります」。
 主人は、「今時、涼しい風?どないすんねん」、「須磨の浦風を取り寄せたらええかと。長持ちの中に須磨の浦風を納めて、漏れんように目張りをして持ち帰ります。紀州公の御前で目張りを切れば涼しい浦風が流れ出るという趣向はいかかで」、「なるほど、そりゃ結構だ」。早速百棹もの長持ちを人足八百人ほどがかついで須磨の浦へ。
 海岸で夜明けを待って、朝の涼しい風を長持ちに一ぱい納めて紙で目張りをして東へ向かった。
 だんだんと暑くはなるし、夜通し走っているのでさすがの人足連中もフラフラになって、湊川の土手まで来るとみな一休みのつもりが寝てしまった。太陽が真上にぎらぎら照る頃に起き出してきて、「暑くてかなわんがな。ここに入っちょる須磨の浦風、これ開けたらどなんやろ」、みんな一応は止めるが、「百もあるんや。一つぐらい開けたかてわからへんがな」で、目張りをはずすと、涼しい風がすーっと。その気持ちいいこと。こうなればもう止まらない。
 我も我もと人足たちは長持ちを開けて涼みだした。すぐに長持ち全部が開けられてしまって須磨の浦風は煙と消えてしまった。さあ、大変、今から須磨へ行って風を取ることもできない。
 「何ぞ、代わりの風詰めたらよいがな」、「風なんかそよとも吹いておらんがな」、「どや、屁でも仕込んどいたろか」。おもろいおもろいと、人足どもは長持ちの中にブゥーブゥーブゥ~。長持ちを屁で満タンにして出発、無事、鴻池家に運び込んだ。
 さあ、紀州公の御成となって、冷たい炬燵に雪景色に、「予のためにしつらえてくれたる馳走、礼を言うぞ」と大満足。主人「今一つ、涼しい須磨の浦風を・・・」、店の者が次々に長持ちの封じ目を切ると、何とも言えぬ匂いがフワーッと、「こりゃ何じゃ、誰じゃこんな風を持って来よたんは!」、紀州公慌てず、「善右衛門、そう叱るでない。きっとこの暑さで須磨の浦風が腐ったのであろう」。

 元ネタでも、落ちは「須磨の浦風が腐った」と言うものですが、悪臭の元は、おならを垂れ込むと言う演出で、これを四代目・三遊亭円馬が東京に移しました。さすがに「おなら」では、くどすぎて東京では受け付けられないため、円馬が改作したものです。しかし、東京の寄席でこの噺を高座にかけたのは、円馬だけだったようです。

浦風(うらかぜ);海浜に吹く風の総称。海風と陸風の二種類あります。日中、陽光が海と陸双方に照り付けますが、海水よりも地面の方が熱せられやすいため、地上で熱せられた空気は上昇し、それを補うために海上から陸に向かって空気の流れが起こります。これが海風。
 また、陽が沈み冷却が始まると、海水は地表よりも冷めにくいために海上で上昇気流が発生し、それを補うために陸地から海に向かって風が吹くことになります、これが陸風。出し風とも言い、山から吹いて沖へ向う風。山から吹き出す意味とも、船出に便利な意味ともいう。山形県庄内地方の清川だし、新潟県北部の荒川だし、北海道後志支庁寿都(すっつ)の寿都のだし風など。
 風が海風と陸風との切り替わりの時に風は止みます。その無風状態を凪(なぎ)と言います。

 殿様や大名は贅沢だと言いますが、エアコンも扇風機も氷も無い時代で金を使う贅沢は有りますが、現代のような贅沢はありません。道中も歩きですから、数十日掛けて往復しますが、今だったら神戸まで飛行機で行って、日帰りが出来るでしょう。賞味期限内に戻って来て、浦風が腐るようなこともありません。

須磨(すま);「も~JRに乗りますと、大阪-神戸-須磨。大阪駅から四十分ぐらいで着いてしまいますが、昔はそ~いう交通機関がございません」。
 須磨は須磨区と名を変えています。
 須磨区(すまく)は、神戸市を構成する9区のうちのひとつで、同市の西部に位置する。南部の板宿を中心とする旧市街地、北部の妙法寺や名谷を中心とする新興市街地など様々な街の景色を持つ。 平安時代末期に起きた一ノ谷の戦いの舞台でもあります。また、須磨海岸は古来より白砂青松の美しい砂浜を持つ海岸として有名で、近年は京阪神地域随一の海水浴場になっています。
 由緒ある地域です
が、基本的には関西圏の近郊住宅地という要素が強い。また大阪湾内では有数の海水浴場があり、多くの行楽客が訪れる。区中央部に位置する高取山、横尾山をへだてて、南部が古くからの住宅地、北部がニュータウンという構成。人口の分布ではニュータウンの比率が高い。北部の住宅地開拓においては、宮崎辰雄市制の「山、海へ行く」のスローガンの元、山麓の大量の土砂が14.5kmにもおよぶベルトコンベヤ(須磨ベルトコンベア)と運搬船によって2005年9月まで神戸沖へと輸送され続け、それらは海上のポートアイランドと神戸空港の礎になっている。

須磨の現在の海岸。海水浴場、船溜まり、海釣り埠頭等があります。

四代目三遊亭円馬(さんゆうてい えんば);圓馬(1899年1月18日 - 1984年11月16日)。東京府東京市小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家。生前は落語芸術協会所属(晩年は同協会相談役)。本名は森田彦太郎。出囃子は『圓馬ばやし』。右写真。
 
父は落語家あがりで奇術や踊りなどを演じた三遊亭左圓太(後の月の家満月、森田天賞、本名は森田喜太郎、1929年12月22日没)であり、7歳の時に父と共に大阪に移り住む。1906年1月父の門下で(一説に二代目圓馬)に入門し、圓童を名乗り初舞台。その後、父が三代目桂文三の門下になって三太郎を名乗ったので自身も文三の元で小三(呼称はこさん、しょうざ、しょうぞう、こぞうなど諸説あり)となった。 1917年に二代目圓馬の門下で三遊亭とん馬と改名し二つ目。1923年二代目圓馬が圓馬の名跡を三代目に譲った際、三代目の預かりとなる形で移籍。1923年4月真打格昇進し、三代目三遊亭小圓馬を襲名。以降、吉本興業の若手落語家として売り出す。このころはよくに女性にモテてサイン帳とサインペンを持った女性が列を作って自宅に押しかけていたという。洋服で高座に上がるなど新しいことにも挑戦した。大阪に在っても師匠同様東京落語を演じた。
 1943年師匠圓馬の病気の悪化もあり、師匠の薦めで吉本を辞めて東京へ移籍し修行を始める。1947年4月に四代目圓馬を襲名し上野鈴本演芸場で襲名披露をした。以降、芸術協会の重鎮として活躍。落語は上方ネタ、東京ネタなど多く。父親同様に余芸の踊り、ほかに二人羽織りも得意であった。主な得意ネタに『淀五郎』『宮戸川』『鼻ほしい』など。
 主な受賞に勲五等双光旭日章など。 1984年11月16日、東京都中野区の小原病院で老衰のため死去、享年85歳。墓所は台東区東淵寺。戒名は「三遊亭圓馬廣舌居士」。

三代将軍家光(いえみつ);江戸幕府の第三代将軍(在職:1623年 - 1651年)。二代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。 右図:家光。徳川記念財団蔵
 慶長10年(1605)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となる。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。家光と忠長の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福(乳母・春日局)は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。
 寛永12年(1635)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。
 寛永18年(1641)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた。
 寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に正保元年(1644)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した。
 慶安3年(1650)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去する。享年48。

土用(どよう);五行に由来する暦の雑節である。1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。 俗には、夏の土用(立秋直前)を指すことが多く、夏の土用の丑の日には鰻を食べる習慣がある。 各土用の最初の日を土用の入り(どようのいり)と呼ぶ。最後の日は節分である。
 四季を通じて平均すると、土用の期間は18.26日(=18°/360°×1年)となる。ただし地球が楕円軌道であるため季節により±3%(軌道離心率×2)程度の変動があり、春夏秋冬の順に18.49日・18.82日・18.02日・17.71日となる。つまり、土用の期間は17日~19日に変化する。夏の土用は18日よりも19日のことが多く、冬の土用は17日にもなる。

掘り炬燵(ほりごたつ);床(ユカ)を切って炉を設けた炬燵。床や畳床等に置いた枠組み(炬燵櫓、炬燵机)の中に熱源を入れ、外側を布団等で覆って局所的空間を暖かくする形式である。熱源は枠組みと一体になっているものと、そうでないものがあり、古くは点火した木炭や豆炭、練炭を容器に入れて用いていた。現在は電気装置(電気こたつ)が多い。
 脚を曲げて腰を掛けることができるよう床を切り下げている掘り炬燵(切り炬燵ともいう)と、床が周囲と同じ高さの平面の置き炬燵とに分けられる(ただし、台を設ける床置きの掘り炬燵もある)。布団を広げた炬燵櫓の上には、こたつ板を置いて、机やちゃぶ台のように使うことが多い。 なお、地方や世代によっては、あんかのことを炬燵と呼ぶこともある。
 噺では、「火を入れるのではない。水を入れ、金魚を入れ、金網で蓋をする。上様がおみ足を入れても、涼しく感じると思うぞ」と、真夏の炬燵の話をします。

大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん);大久保 忠教(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。徳川氏家臣・大久保忠員の八男。通称の彦左衛門で有名。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。右図:大久保忠教。
 甥忠隣が失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田(愛知県額田郡幸田町坂崎)に1000石を拝領し復帰した。慶長19年(1614)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も二代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、三代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。 寛永12年(1635)ごろから常陸国鹿嶋(茨城県鹿嶋市)に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』 (3巻、1622) の執筆に没頭したようである。寛永16年(1639)に80歳で死去。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。
 俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城したという逸話や将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作である。これは太平の世に著書『三河物語』が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果ともいえる。

 三河物語=江戸時代初期の徳川氏譜代武士団の生活思想を示す文献。大久保彦左衛門著。3巻。元和8 (1622) 年頃成立。子孫への教訓のために書き残したもの。文体はかな交り文。不遇に対する不満をこめて、主家と自家の歴史を記し、一族の武功を語っている。上巻は徳川氏の出自、初代親氏から8代広忠までを記し、中巻は元康 (家康) の登場、下巻は武田信玄戦、武田勝頼戦、甲斐信濃の平定、豊臣秀吉との交渉、関ヶ原陣と大坂陣の旗奉行の行動に対する大久保の意見、大久保家子孫への教訓が記され、各巻の終りに門外不出と追記されている。
 ブリタニカ国際大百科事典より

長持ち(ながもち); 衣服・調度などを保存しておくための、蓋のある長方形の箱。おもに木製。両端に金具があり、棹(さお)を通して二人でかつぎ、運搬用ともする。かつては、花嫁が輿入れする際の必需品であった。
右図:熈代照覧より。

くさやの干物(くさやのひもの);新鮮なムロアジ類(クサヤモロなど)、トビウオ類、シイラなどの魚を腹開きにし、はらわたなどを入れて熟成させた塩辛い漬け汁(くさや液)に数回つけては日干しにしたもの。独特の強い臭気がある。伊豆諸島産。 出荷に際しては、独特の臭気があるため、大抵は臭いが漏れないような配慮がなされ、真空パックや瓶詰めなどとして出荷される。焼いて食べるが、トイレ臭が強烈でその匂いだけで食欲を無くする。
 右写真:くさや工場の乾燥中のムロアジ。広辞苑

 過去に、食べたことも見たことも無いという人からの要望で贈ったことが有ります。その返事が無いので、問い合わせたら、うんでもすんでもなく、「あまりにも凄い匂いで食べられなかったのでしょう」と言ったら、そうだと返事があった。その位強烈な匂いです。私は焼いているときの匂いは勘弁してもらいますが、干物自体は旨いものです。
 製造業者も、瓶詰めにして焼き上がった身を詰めて販売しています。匂いが半減して身の旨味だけを楽しめます。
 東南アジアでは果物のドリアンが凄まじい匂いを出しています。食べれば美味いのですがね。ホテルの一室で数人の仲間と食べましたが、旨いと言って完食です。でもその後部屋中が強烈なにおいが充満して、窓を開けてドアーを全開にしても匂いが抜けず、ガードマンがやって来て不用心だからドアーを閉めろと注意されましたがドリアンを食べたというと、分かったと言って、行ってしまいました。現地の人も分かっているんですね。



                                                            2018年9月記

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