落語「与太郎戦記」の舞台を行く
   

 

 春風亭柳昇の噺、「与太郎戦記」(よたろうせんき) ~戦場にかける恋~ より


 

 私は春風亭柳昇と言いまして、大きな事を言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば我が国では・・・、私一人で御座いまして・・・。(柳昇の決まり文句。これが無いと始まらない)

 8月は戦争に負けた日で、私みたいな度胸が無いのが良くやったと思います。私は陸軍で重機関銃隊で3年間内地にいましたが、海軍の輸送船警護の任務に就きました。「秋本伍長は部下15名を引率して暁雲丸(ぎょううんまる)に乗船し対空対潜警備に付け」と命を受け、暁雲丸を探したら一番小さな汚い石炭船だった。そこに陸軍兵が大勢乗ってきて「専門家が乗っているなんて、こんな心強い事は無い」と陸軍大尉に言われたが、私だって昨日生まれて初めての乗船だった。上海から香港に向かって4隻の貨物船と2隻の駆逐艦に護られて出港。

 数日して敵が来るかも知れないというので、之字運動と言ってジグザクに進むのですが、船団から遅れるのです。機関に力が無いので、この船だけ夜間直線で進んで良しと命令が来た。
 夜が明けてきたら「船尾後方飛行機ッ」、「敵機か、友軍機か?」、聞かれた私だって分からない。どっちにしろ間違っていたら訂正すれば良いので「友軍機!」、皆喜びましたね。安心できないのは私だけです。近づいてきたら日の丸が見えます。「凄いな。点のような物でも判断できるのだから凄いな」と感謝された。「船尾後方に船影発見」、水平線の上に煙が見えるだけ。「敵か?味方か?」、「遊軍!」、敵艦だったら大変です。近くに来たら昨日の船団で、こちらは直線を走ったので、夜間に追い抜いてしまったのです。「煙を見ただけで、敵味方が分かるんだから」と感心されました。

 その日の夕方、香港に入る時、3隻の貨物船が魚雷にやられて水煙を上げた。私の船にも魚雷が来たのですが、小さいからくぐり抜けて行ってしまった。その時小さな船で良かったと思った。駆逐艦から爆雷を落とし、30分して仲間の救助に向かった。
 翌朝、香港に着いて、同乗した陸軍兵士は徒歩で南方に出掛けます。その夜、空襲があって、持たされた”秘密兵器”を使った。紙を破って火薬を筒の中に入れその上に弾を入れ下に開いた小穴にコヨリを詰めてマッチで火を点ける。上空に上がったがそのまま甲板に落下、そこで爆発、驚いたが、それ以上に怪我が出なかった。花火だったんですね。

 その後、船に護られて香港から台湾海峡を北上中、敵機に襲われた。高射砲を撃っても当たらないので、敵機は高度を下げて襲ってきた。「秘密兵器発射!」、今度は上空で破裂した。綺麗なものです。それを三つ上げたら、敵は逃げていった。無事、上海に入った。上官に「秘密兵器とはどうしてですか?」、「あんな物が日本に有ると分かったら、馬鹿にされるので秘密になっている」。

 また、部隊を乗せて香港に行きました。無事兵隊を下ろし、その帰り道、高雄(たかお)で敵に襲われ船は沈んだが、助けられ上海に上陸できた。
 「今度は厚利丸(こうりんまる)に乗ってくれるか?」いやだとは言えませんから「はいッ」と言ったら、「好きな者を15名連れて行って良い」。良いと言われても終戦間際ですから妻帯者が大部分、独身者の須藤上等兵が「どうせ死ぬんだから、君と死ぬよ」と言ってくれて、編隊を編成。出航。昭和20年3月25日夜明け前でした。
 敵もいないだろうからと一隻で青島(ちんたお)に向かった。船長は「青島には家族がいるからご馳走しますからね」、と言い終わらないうちに、敵の来襲。マストすれすれに敵機が飛来、相手の顔が見えるんです。弾が切れたので手を伸ばしたら、そこに被弾してしまった。布団を重ねた上から棒で叩かれたような感じで、左手は指2本グラグラになって、右手は手首からグラグラになって、痛くは無いが出血が凄いので止血をして、須藤上等兵を見たら、内蔵がはみ出ていて、死んでいった。

 通りかかった貨物船に助けられ、3日目に青島に運ばれた。直ぐに入院して、手術を受けたが麻酔が切れたら痛いこと、それでも時間が経つと癒えてきて、病院内を歩いていたら、好みの看護婦に会った。短歌でラブレターを出した。

 『国のため傷追い(負い)たれど悔いは無し 優しき君の看語(護)を受ければ』

 書いたのは良いが、誤字があった。知らずに相手に渡した。返歌を待っていたら来ました。嬉しかったですね。急いで読んだら、

 『君の歌しみじみ読んで気がつくは わずかの中に誤字が二字有り』

 これを読んで諦め落語家になった。与太郎戦記でございました。 

 



ことば

五代目 春風亭 柳昇(しゅんぷうてい りゅうしょう);1920年〈大正9年〉10月18日 - 2003年〈平成15年〉6月16日)、東京府北多摩郡武蔵野村(現: 東京都武蔵野市)出身。本名、秋本 安雄(あきもと やすお)。ペンネーム、林 鳴平。出囃子は『お前とならば』。数々の新作落語を創作した。

 太平洋戦争中は陸軍に召集され、歩兵として中国大陸に渡ったが、敵機の機銃掃射で手の指を数本失っている。利き手をやられたため、元の職場に復職することもできず途方に暮れていたところ、戦友に六代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で生活のために柳橋に入門して落語界入り。 手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動して成功を収めた。数は少ないが古典落語のネタも持っており、『雑俳』や『お茶漬け』(茶漬間男)等を演じた。 年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として、地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け、まさに生涯現役の噺家であったが、高座やテレビ出演での挙措に衰えが囁かれるようになった矢先の2003年6月16日、胃癌のため82歳で死去。

■飄々とした語り口で笑いを誘いながら、生死をかけた戦いの様子が語られます。 上海 - 香港は約1600km。さらっと語られていますが8ノット(約15Km/h)の船団という話ですので、ジグザグ運動をしなければ片道130時間くらいの航海になります。暁雲丸は最高速度7ノットですから船団には追いつきません。外れくじの船に乗り込んでしまいましたが、人間何所で運に背中を押されるか分かりません。
 この『与太郎戦記』は、1969年にフランキー堺主演で映画化され、著作もベストセラーとなりました。 敵機の機銃掃射で指を失い、戦友だった六代目春風亭柳橋の息子のつてで入門して落語界に入り、細かい仕草はできないと新作落語一本で好評を博しました。
 右写真:柳昇、昭和18年2月兵長に昇進。

■1944年 - 中支派遣船舶司令部へ分遣、船舶警護分隊長として部下14名、九二式重機関銃3丁とともに輸送船「暁雲丸」に乗船。伍長に進級。香港からの帰り道、台湾高雄港付近で敵艦載機の雷撃により撃沈されるが、救助される。
 1945年3月25日 - 青島に向け上海を出航した輸送船「厚利丸」で敵機ノースアメリカンB-25の空襲を受け、指を数本失う重傷(右前膊左手背骨折擦過機関砲弾創)を負い、輸送船「真岡丸」に救助される。その後「厚利丸」は沈没。傷痍軍人として部隊から外れる。以後、敗戦まで転院しつつ入院生活を送る。
 1945年8月15日 - 北京陸軍病院で玉音放送を聞く。

ノット【knot】; 船舶・海流などの速度の単位。1時間に1海里(1852メートル)の速度を1ノットという。

8月は戦争に負けた日天皇陛下の玉音放送が流された日で、昭和20年(1945)8月15日。終戦記念日と言われていますが、敗戦記念日です。世界的には、天皇陛下が玉音放送をしただけであって、戦争は続いていた。
 対日戦勝記念日とされる場合、通常は、大日本帝国政府が公式にポツダム宣言による降伏文書に調印した1945年9月2日を指すことが多い。

重機関銃隊(じゅうきかんじゅう たい);九二式重機関銃(きゅうにしきじゅうきかんじゅう)は、1930年代前期に開発・採用された大日本帝国陸軍の重機関銃。右写真。
  九二式重機関銃は、本銃1挺を装備する「戦銃分隊(定数:下士官1名、兵10名、馬2頭)」と「弾薬分隊(定数:下士官1名、兵10名、馬8頭)で運用する。4個戦銃分隊と1個弾薬分隊で1個小隊を編成し、3個小隊で1個「機関銃中隊」となる。そのため1個歩兵小隊に対し九二式重機関銃1挺配備に相当する。
 重機の運用人員が多いことを見て非能率と見る向きもあるが、戦銃分隊には1箱540発入りの甲弾薬箱(22kgを担ぐ弾薬手4人が随伴(計2,160発)し、弾薬分隊は定数通り馬8頭が運ぶなら750発入りの乙弾薬箱(30kg)32箱を駄載して計24,000発を運ぶ。合計で1挺あたりの弾薬定数は9,660発、1挺あたりの携行弾数は他国に比較して非常に多い。そのため帝国陸軍の重機関銃は特に攻撃戦時の継戦能力が高いのを特徴とする。
 故障が少なかったと言われているが、これはあまりに故障の多い従来の機関銃と比較しての話であり、完動状態を維持するためには頻繁なメンテナンスが必要不可欠であり、このため、戦銃分隊の9番目と10番目の兵は20kgもある乙道具箱2箱と予備銃身などの交換部品を常時持ち歩いて随伴することが規定の編制であったほどである。他国では40kg以上ものメンテナンスキットが1挺ごとに随伴する銃器という事例はない、通常はこれほどの道具は後方にいる連隊附の火器整備小隊が持つものである。
 歩兵操典において、地上部隊の脅威となる敵航空機に対しては専用の高射砲や高射機関砲を運用する高射砲兵・機関砲兵に限らず、野戦では歩兵も小銃・軽機関銃・重機関銃をもって全力で対空射撃にあたるものとされていた。そのため本銃は附属の九二式重機関銃高射用具を用い、三脚上に高射托架を組み銃を装着、また対空用の照準環(高射照門)を付し対空射撃を行う。

   

左、戦時下標準船として大量に作られた貨物船。右、焼玉エンジンを載せた戦時標準船。870t、7ノット。

暁雲丸(ぎょううんまる);一番小さな汚い石炭船だった。もともとはイギリスの Ethel Moller号という貨物船で太平洋戦争の緒戦でシンガポールで拿捕したのを東亜海運に配給されて『暁雲丸』と改名した船。 日本が日露戦争をやっていた頃に造られたという排水量が1000トンたらずの老朽船。スクリューは2組み付いていると喜んだのに。秋本指揮官以下15名の隊員が乗り込んだ時の武装は、九二式重機関銃が3挺、秘密兵器の打上筒という対空用兵器が3発のみ。 大砲などはまったくなし。
 42.11/25香港で自沈したオーストラリア、J&A Brown貨物船。この貨物船を日本が浮揚し暁雲丸と改名し東亜海運が運航、44.10/12台湾の南西沖で爆撃を受けて沈没。この時は柳昇は無傷で貨物船に救助される。

伍長(ごちょう);陸軍下士官の最下位。軍曹の下。(下記参照)

陸軍大尉(りくぐんたいい);将校の階級の一。少佐の下で尉官の最上位。
 陸軍では主に中隊長等を務める。

 ・将官:長期間にわたり単独で作戦を実施することが期待される典型的な部隊や編制(旅団以上の部隊や艦隊・戦隊等)を指揮する士官が将官である。
 ・佐官:単独で短期間の作戦を実施できることが期待される典型的な部隊(大隊及び連隊、大型軍艦、飛行戦隊)を指揮する上級士官である。佐官は一般的には参謀の職務もつとめる。
 ・尉官:尉官の階級は3つか4つの最下級士官の階級である。配下の部隊は、単独で長時間の作戦を実施することを一般的には期待されていない。いくつかの部隊では尉官も参謀の役割をつとめる。
 ・准士官:精鋭の上級下士官であったり、士官と下士官の間の完全に分離された格付けであったりする、通常は専門職の階級である。
 ・下士官:士官の指揮の下で、他の軍の構成員を監督する代理権限を許可され重要な監督責任を負う。階級は典型的にはかなり多くの格付けの曹長、軍曹、伍長(陸軍、海兵隊と空軍)、兵曹(海軍と沿岸警備隊)である。
 ・兵:指揮権限がない兵は通常は○○兵のような肩書きをもつ。

上海から香港(しゃんはいーほんこん);上海市:拼音: Shànghǎiは、中華人民共和国の直轄市である。有数の世界都市であり、同国の商業・金融・工業・交通などの中心地、香港・北京と並ぶ中国最大の都市の一つである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界9位と評価された。
 香港:中華人民共和国香港特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくホンコンとくべつぎょうせいく)、通称香港(ホンコン、中国語: 香港; イェール式広東語: Hēunggóng; ピン音: Xiānggǎng、英語: Hong Kong)は、中華人民共和国の南部にある特別行政区(一国二制度)である。同じ特別行政区の澳門からは南西に70km離れている。東アジア域内から多くの観光客をひきつけ、150年以上の植民地の歴史で世界に知られる。

之字運動(のじうんどう);艦船が漢字の「之」の字を描くように短時間内で針路を変化させてジグザグに進行する航行方法のこと。ジグザグ航行ともいう。戦時中において、敵潜水艦の魚雷攻撃を避けるために行われる。ただし、複数の潜水艦による狼群戦術で攻撃された場合、第一撃を回避しても他方向からの第二撃を回避することは難しく、絶対的な効果はない。大型低速船の場合には回頭に時間がかかるため、之字運動の実施には限度がある。また、護送船団を組みながら複雑な之字運動を実施することは、乗員の精神的負担が大きかった。 第二次世界大戦期の日本においては、船団運動規程により商船が用いる之字運動のルールが定められていた。「A法」「B法」など18種以上のパターンがあったが、しかし制式之字運動のパターンは米海軍に解読されており、効果は半減していた。船長によっては独航の際に制式之字運動から外れ無秩序な航路を設定する者もおり、この場合には魚雷を見事かわすことに成功している。

4隻の貨物船(かもつせん);貨物船(かもつせん)とは主に貨物輸送を行う船舶。 航空機に比べて速度は遅いが、低い運賃で一度に大量の貨物を運ぶことが出来る。また、巨大な構造物をそのまま運搬することも可能。4隻とは、日東丸(にっとうまる)、高射砲まで積んだ新しい船で、専門の海軍が乗船している。暁勇丸(ぎょうゆうまる)、2番目に大きな貨物船。次が白山丸。一番小さいボロ船が暁雲丸であった。結果的には貨物船では暁雲丸だけが魚雷攻撃をかわし、帰港できた。

2隻の駆逐艦(くちくかん);『くり』、船長は現役海軍軍人で少佐。『初雁』(はつかり)は元商船の船長で少佐の2艦。
 もともとの名前を水雷艇駆逐艦(英: torpedo-boat destroyer)と呼び、水雷艇(英: torpedo-boat)を駆逐する艦種だった。第二次世界大戦までは魚雷を主兵装とし、駆逐艦隊は別名水雷戦隊と呼ばれていた。出現当初から第二次大戦のころまでは、軽巡洋艦より小型だが砲艦より大型で、航洋性を有しており、軽装甲であるが高速で汎用性が高いといった位置付けだった。
 20世紀後半から現代にあっては、戦艦や巡洋艦といった、駆逐艦より大型の艦が過去のものとなった、あるいはなりつつある。その一方でフリゲートやコルベットといったより小型の艦が存在感を増している。駆逐艦自身も大型化し、現代海軍では航空母艦や揚陸艦に次ぐ大型の軍艦となりつつある。 第一次世界大戦での地中海派遣日本海軍第二特務艦隊など「駆逐艦が主役として」編成された重要艦隊も過去には存在した。ワシントン海軍軍縮条約以降は、次第に巡洋艦として航続距離と高速性を兼ね備えた大型艦が建造されるようになった。第二次世界大戦では陸戦中心だった欧州戦線に対して、アジア太平洋地域での交戦時に海戦となる事が多かったため、潜水艦と共に艦隊防空の任を任せられる駆逐艦部隊が再び活躍した。

厚利丸(こうりんまる);前回の暁雲丸と違って13ノットが出る貨物船であったが、青島に行く途中爆撃を受けて沈没。 柳昇は真岡丸(4000t級)に助けられ青島に運ばれ、傷痍軍人として部隊から外れる。

高雄(たかお);高雄市(たかおし/カオションし、中国語: 高雄市、英語: Kaohsiung)は、台湾南部に位置する都市。 17世紀に打狗(台湾語: Táⁿ-káu, ターカウ)という小さな村から発展し、都市へと成長した。ターカウとは平埔族マカタウ族の集落タアカウ社の名称に由来し、そのマカタウ族の言語で「竹林」を意味する言葉であった。1624年にオランダはこの場所に砦を築いたが、1661年に鄭成功によって駆逐され、1664年に万年州(萬年州)が設置された。1684年清の統治が開始され、台湾府の一部として鳳山県が設けられ県治が興隆荘(現在の左営)に設けられた。1858年の天津条約で清は台湾島に複数の開港地を設けることを約束させられ、そのひとつである打狗港は1864年に開港し、以後外国貿易で栄え始めた。
 暁雲丸は、ここで敵に襲われ沈没。柳昇は貨物船に救助され、青島に渡っ
た。

青島(ちんたお);青島市(チンタオし、せいとう し、中国語: 青岛市、拼音: Qīngdǎo Shì)は、中華人民共和国山東省に位置する主要な港湾都市。副省級市・計画単列市、国家歴史文化名城に指定されている。中国の海洋産業の中心都市であり、東部沿岸の重要な経済と文化の中心であり、近代的な製造業やハイテク産業基地も立地する。また国際的な沿岸リゾート地、東北アジアの国際海運センター、中国国内の主要な地方国際空港所在地であり、中国人民解放軍海軍北海艦隊司令部のある軍港でもある。
 柳昇は、青島に向かう途中で敵機に襲われ、両手に被弾した。

 

以下の書籍より写真等を引用しています。
*落語の中に出てこない軍艦名や貨物船名、写真は、春風亭柳昇著「与太郎戦記」より抜粋。
*船に関する資料は「日本の船・汽船編」山田迪生著 船の科学館出版。



                                                            2019年4月記

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