落語「清正公酒屋」の舞台を行く
   
 

 立川談志の噺、「清正公酒屋」(せいしょうこうさかや)より


 

 酒屋の一人息子の”清七”は、町内きっての美男子だった。他方、饅頭屋・虎屋の一人娘の”おなか”は、町内きっての小町娘と噂も高い美女だった。

 「清七、思いっ切れッ」、「何を思い切れば良いのですか」、「御向こうの饅頭屋のおなかといい仲になっているじゃないか」、「あ~ぁ、そのことですか。そうなんです。二人は切れない仲なんです」、「他の娘なら良いが、おなかはダメだッ」、「あんな良い娘はいないでしょう。気立てが良くて、器量が良くて、かたちが良く、立ち振る舞いが良くて、優しい。盆花盆石和歌俳諧が出来て、いつもニコニコして八丁小町と言われ、町内男連中はおなかさん、おなかさんと言っています。その娘が私に惚れているんです。何処が気に入らないのですか」、「娘も、親も、家も全て気に入らない」、「その訳を伺いましょう」。

 「お前が五つの時だ。火の付くように泣いて帰って来た。小僧に聞くと『饅頭屋の虎の看板を見て泣き出した』と言うので、親馬鹿だが、先方に行って、一時で良いから虎の看板を降ろして欲しいと頼んだ。向こうの親父がけんもホロロに『先祖代々この看板を上げて繁盛してます。降ろしたことで客が減ったら先祖に申し訳がない。降ろすわけには参りません』。わしも分かるから、何度も頭を下げて頼んだがダメだった。悔しい思いで帰って来たが、あの看板に勝つ物と考えたら、清正公様の像を創って店に飾って拝んでいた。お客が『清正公様がニコニコ笑った』、『ゲラゲラ笑った』とか言う噂が広がり清正公様見たさに酒を買いに来る。清正公酒屋と言われるようになり店も繁盛した。
 おなかが同じように火が付くように泣き出し、親父が飛んできた。『一時あの清正公様の像を下げてくれませんか』、ハイとは言えないだろう、あの像のお陰で繁盛しています、下げることは出来ません。ざま~ぁ見ろと思ったね。その後、会っても挨拶もしない、不仲になった。そ~言うわけだから、思い切りなッ」、「五歳の時で、今は違いますから一緒にさせて下さい」、「思い切れないのなら、勘当する」。

 そこは親ですから、親戚一同と相談の上分家に預けられた。おなかの親も、彼女を芝山内にある母親の実家に預けて、遠ざけてしまった。 そうすれば、ますます強まる恋心。婆やがおなかに耳打ち、「若旦那から連絡がありましたか? 無ければこちらから手紙を出したら・・・」。
 若旦那は読んでみると、連れて逃げて欲しい。今は夜が明るいから闇夜まで待ってと、その日が来るのを指折り数えていた。

 二人は思い余って、大川への心中を決意する。芝居だと、「迷子や~ぃ」と追っ手が来ます。清元の出語りが並ぶと、「七つの鐘を六つ聞いて、一つは未来へ土産、おなか、覚悟は良いか」、「ナムアミダブツ」、「南無妙法蓮華経」、「ナムアミダブツ」、「南無妙法蓮華経」。合わないので二人して「南無妙法蓮華経」、「南無妙法蓮華経」、心中するのには合わないが・・・。
 おなかは先に川に飛び込み、清七も飛び込もうとすると、その襟首を押えた者がいた。「これ、待て清七」、「放して下さい」、「我は清正公大神である」、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、どうぞ、先に飛び込んだおなかを助けて下さい」、「その方は助けるが、娘を助ける訳にはいかぬ」、「どうしてですか。法華の題目を唱えたじゃないですか」、「法華の題目を唱えても、俺の仇の饅頭屋の娘である」。

 



ことば

■噺の内容は東西いずこでも同じようです。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエットの二人。
 モンタギュー家の一人息子ロミオは、気晴らしにと、友人達とキャピュレット家のパーティに忍び込んだロミオは、キャピュレット家の一人娘ジュリエットに出会い、たちまち二人は恋におちる。二人は修道僧ロレンスの元で秘かに結婚。ロレンスは二人の結婚が、両家の争いに終止符を打つきっかけになることを期待する。
 しかし、ロミオは友人とともに街頭での争いに巻き込まれ、親友・マキューシオを殺されたことに逆上したロミオは、キャピュレット夫人の甥ティボルトを殺してしまう。このことからヴェローナの大公エスカラスは、ロミオを追放の罪に処する。一方、キャピュレットは悲しみにくれるジュリエットに、大公の親戚のパリスと結婚する事を命じる。 ジュリエットに助けを求められたロレンスは、彼女をロミオに添わせるべく、仮死の毒を使った計略を立てる。しかし、この計画は追放されていたロミオにうまく伝わらなかった。そのためジュリエットが死んだと思ったロミオは、彼女の墓で毒薬を飲んで自殺。その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットも、ロミオの短剣で後追い自殺をする。事の真相を知って悲嘆に暮れる両家は、ついに和解する。

 ウエスト・サイド物語:アーサー・ローレンツ作、レナード・バーンスタイン音楽、ジェローム・ロビンス演出、1957年ブロードウェーで初演、1961年の映画版でもヒット。上記「ロミオとジュリエット」を翻案したもので、当時のニューヨークの社会的背景を織り込みつつ、ポーランド系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人との2つの異なる少年非行グループの抗争の犠牲となる若い男女の2日間の恋と死までを描く。
 左、舞台写真。

 

清正公(せいしょうこう);加藤清正の敬称。加藤 清正(かとう きよまさ=図)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。熊本城を築城した。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に加担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910)に従三位を追贈されている。

 清正の死因は『当代記』の2年後に唐瘡(梅毒)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚か)とされている。一方で家康またはその一派による毒殺説もある。清正・幸長の両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺(オチに繋がる)など様々にある。
 清正は熊本に帰る途中に発病し口がきけなくなり、健康は回復しなかった。遺言はなかった。赤尾口で荼毘に付され、そこには後に庵が建てられ「静慶庵」と名付けられた(現存せず)。本葬は10月13日、嫡子虎藤(忠広公)の帰国後に日蓮宗京都本山本圀寺貫主である日桓の引導により厳修された。清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、現在の廟所内の清正公像の真下にあたるところに埋葬された。

  

 上写真、東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌や像が祀られていることから清正公(せいしょうこう)と通称される。

小町娘(こまちむすめ);小野小町のような美女。地名を入れて、「○○小町」等とも言う。清七が言うには「気立てが良くて、器量が良くて、かたちが良く、立ち振る舞いが良くて、優しい。盆花盆石和歌俳諧が出来て、いつもニコニコしている」。

盆花盆石(ぼんかぼんせき);盆の上に自然石や砂を配置して風景を創作し、その風趣を味わうこと。また、その石。室町時代から茶の湯・生花などと共に行われ、多くの流派・法式がある。江戸時代、箱庭として普及。盆景。

和歌俳諧(わかはいかい);和歌や俳諧。和歌は、漢詩に対して、上代から日本に行われた定型の歌。長歌・短歌・旋頭歌(セドウカ)・片歌などの総称。狭義には31音を定型とする短歌。奈良時代には「倭歌」と書き、また「倭詩」といった。うた。やまとうた。みそひともじ。俳諧は、俳句(発句)・連句の総称。広義には俳文・俳論を含めた俳文学全般を指す。

けんもほろろに;《「けん」「ほろろ」はともに雉 (きじ) の鳴き声。あるいは「ほろ」は「母衣打 (ほろう) ち」からか。また、「けん」は「けんどん(慳貪)」「けんつく(剣突)」の「けん」と掛ける》 人の頼み事や相談事などを無愛想に拒絶するさま。取りつくしまもないさま。「けんもほろろな答え」「けんもほろろに断られる」

勘当(かんどう);主従・親子・師弟の縁を切って追放すること。江戸時代には、不良の子弟を除籍すること。江戸時代、勘当(久離)の届出を町年寄または奉行所で記録しておく帳簿を勘当帳と言った。久離帳。記録しないのは内証勘当という。
  親が子に対して親子の縁を切ること。江戸時代においては、親類、五人組、町役人(村役人)が証人となり作成した勘当届書を名主から奉行所(代官所)へ提出し(勘当伺い・旧離・久離)、奉行所の許可が出た後に人別帳から外し(帳外)、勘当帳に記す(帳付け)という手続きをとられ、人別帳から外された者は無宿と呼ばれた。これによって勘当された子からは家督・財産の相続権を剥奪され、また罪を犯した場合でも勘当した親・親族などは連坐から外される事になっていた。復縁する場合は帳付けを無効にする(帳消し)ことが、現在の「帳消し」の語源となった。ただし、復縁する場合も同様の手続きを必要とした事から、勘当の宣言のみで実際には奉行所への届け出を出さず、戸籍上は親子のままという事もあったという。人別帳に「旧離」と書かれた札(付箋)を付ける事から、「札付きのワル」ということばが生まれた。
 落語「六尺棒」より孫引き

分家(ぶんけ);家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
 ここで言う分家は、商家で番頭が独立して、新しい店を持ったとき、本家と分家のかたちが生まれる。

芝山内(しばさんない);今の芝増上寺の外側、東京タワーや大門あたりまでが増上寺の寺領だった。二十五万坪の境内が一万六千坪になって、今は港区役所や図書館、プリンスホテルが旧境内地に有ります。この辺りは鬱蒼とした森が続き、昼なお暗いところであり、芝増上寺を含む森全体を言った。落語「首提灯」で思わぬ事に巻き込まれる江戸っ子がいた。

 写真:芝増上寺本堂。

大川(おおかわ);当時の江戸街中を流れる範囲で言う、現在の隅田川の別称。

芝居だと、「迷子や~ぃ」

 

「迷子捜しの図」三谷一馬画  鉦太鼓で探しまわる迷子捜しの連中。 

清元の出語りが並ぶ;歌舞伎舞踊の伴奏や「他所事浄瑠璃(よそごとじょうるり)」として、舞台上で演奏する「出語り(でがたり)」を担当します。「他所事浄瑠璃」とは、近所の家や隣の部屋などから演奏会や稽古の様子が聞こえる、という設定で演奏される浄瑠璃をさします。 「太夫(たゆう)」とよばれる語りの担当と「三味線方(しゃみせんかた)」から構成され、使用される三味線は、「常磐津(ときわず)」と同じく「中棹(ちゅうざお)」です。情緒あふれる詞章を大変高い音域で、技巧的に語るのが特徴です。

 

ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏);名号のひとつで「六字名号」のこと。阿弥陀仏への帰依を表明する定型句、これを唱えるのを念仏という。六字の名号。阿弥陀仏に救われた後のお礼の言葉として称えるものです。親鸞聖人も蓮如上人も、阿弥陀仏に救われてお礼の念仏を称える身になりなさいよ、と生涯教えていかれました。「功徳の大宝海」だと言いました。
 「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味。

南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう);日蓮宗三大秘法の一。妙法蓮華経に帰依する意。これを唱えれば、真理に帰入して成仏するという。題目。本門の題目。七字の題目。御題目。



                                                            2019年7月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system