落語「植木のお化け」の舞台を行く
   
 

 春風亭一朝の噺、「植木のお化け」(うえきのおばけ)より


 

 「どうしたんだぃ、足を引きずって」、「兄貴、ヨコネを腫らしちゃったんだ。まだ、餅を食っていないんだ。医者に行って餅がヨコネに良いか悪いか聞いてくるんだ」、「行ってきな」。
 医者で待っていると、『♪お前待ち待ち蚊帳の外、蚊に食われ七つの鐘の鳴るまでは、こちゃかまやせぬ』と言う歌が流行って、替え歌で『♪曇らば曇れ箱根山、晴れたとて(ア~コリャコリャ)お江戸が見ゆるじゃあるまいし、こちゃかまやせぬ』、「ヨコネに響くよ。替え歌でやってみよう『♪痛まば痛めヨコネ病み、腫れたとて(ア~コリャコリャ)おいらが一人で悩むのだ(ガラッと書生が戸を開けて)餅ゃかまやせぬ』」と粋な話が有ります。

 「どうした。熊さん」、「ご無沙汰をしています。じつは隠居のところにお化けが出るという話を聞きまして・・・」、「出るんだよ。楽しくて、それで晩酌をしているんだ」、「家にも化け物が出ますよ。かかぁですがね」、「見たことあるかぃ」、「未だ無いんです。髪を振り乱して『うらめしや~』・・・」、「それは幽霊で、家に出るのは化け物なんだ」、「ご隠居さんのところに出るのは・・・」、「植木のお化けなんだ。この間暇を出した権助が、私が大事にしていた植木に煮え湯を掛けて枯らしたんだ。それが悔しいと、毎晩化けて出るんだ」、「何時出ます?」、「丑三つ刻だな。時間があるから出直してきなさい」。

 「こんばんは」、「廊下のそこが見やすい。庭の築山辺りから出るよ」、夜も更けて参りまして、丑三つ刻。庭がパッと光って、「『♪梅は咲いたか桜はまだかいな~ 柳なよなよ風次第 ヤマブキャ浮気で色ばっかり しょんがいな~』。誰だぃ今時分こんな所に引っ張り出したのは・・・、面白くねぇッ、矢でも鉄砲でも持って来やがれッ」、「な何ですか」、「あれが植木のお化けだ」、「酔ってくだ巻いていましたね。あれは何です?」、「榊(さかき)に蘭(らん)が化けたんだな」、「?」、「酒気に乱だから、酒乱だな」。
 「『♪哀れなるかな~ 石童丸(いしどうまる)は父を尋ねてはるばると 高野の山に登らるる もう~し御出家様、この御山に今道心がましまさば教えてたもれ』、『九百九十の寺寺に道心では知れがたし、俗名を名乗って探されよ』」、「今のは石動丸でしたね。あれは何が化けたんです」、「千代桜に刈萱(かるかや)だ」、「千代桜は分かりますが、かるかやは?」、「お父っあんの出家後の名前刈萱道心だからだ」。
 「『♪並木、駒形、花川戸、山谷堀からちょいと上がりゃ 長い土手をば通わんせ 花魁がお待ちかね お客だよ あいあいッ。
 雪の入谷に想いも積もる再会の 春の寒さに降る雨も 暮れて何時しか も~し 長く便りの無いことなら いっそお前の手にかけ殺してくりゃさんせ、 殺して行けと、 わずか離れていてさえも、一日逢わねば千日の~ 想いにわたしゃ~ 患いつくほど苦労する』」、「今のは三千歳(ミチトセ)でしたね。あれは何が化けたんです?」、「雪の下に女郎花(オミナエシ)だ」。
 「『♪・・・』」、「あれッ、今のは何にも言いませんでしたね」、 「梔子(口無し)だろう」。
 「また出て来たよ」、「『♪旅の衣はスズカケの~ 露滴袖や絞るらん 客僧達いずこへ参る 我々は東大寺の僧、毘盧遮那仏建立のため北陸道をまかり通る。この関、通しそうらい。誠の山伏とあるからは勧進帳を読み聞かせい。何ッ勧進帳をッ読めと、心得もうし候~』」、「今のは勧進帳。何が化けていました?」、「あれは、石菖(関所)に弁慶草だ」、「安宅の関に弁慶ですね」。
 「今度は大勢で出て来ましたよ」、「『♪南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・』」、「ずいぶん賑やかに出て来ましたね。分かりました、あれは南無妙法蓮華草が化けたんでしょ」、「馬鹿言っちゃいけない。日蓮宗だから、蓮華に橘さ」。

 



ことば

南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう); 日蓮(1222〜1282)は、多くの僧が「浄土往生(じょうどおうじょう)」の教えを説いたのに対し、「南無妙法蓮華経」を唱えればこの世に受けた肉体のまま仏になることが出来るという「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を説き、他宗に敵対しました。

日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日- 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
 日蓮は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した。
12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の天台宗寺院である清澄寺に登った。比叡山での研鑽の結果、日蓮は「阿闍梨」の称号を得ている。32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動を開始。文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」を前執権・北条時頼に提出して国主諫暁を行った。そして、徹底した念仏批判が展開する。 鎌倉幕府により、伊豆や佐渡に流される。身延山に移っても迫害の中にいた。
 その中、日蓮の病状は弘安5年(1282年)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。身延を出て常陸に向かう途中、池上で弘安5年(1282年)10月13日、多くの門下に見守られて入滅した。
 落語「鰍沢」に身延山について詳しく記述しています。

(たちばな);オチの橘は、日蓮宗の紋所「井筒に橘」です。
 井戸の地上に出ている部分、あるいはその木組みを井筒、あるいは井桁と呼んでいる。井戸は水をたたえた大切な場所であり、汚してはいけないところであった。つまり、生活に欠かせないことから、家紋として用いられるようになったと考えられる。また、「井」という字の単純明快なことも武家の紋にふさわしかったのであろう。
 日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」として知られるが、宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から取り入れられたものという。そのもととなったのは、井伊家中興の祖で徳川家康の四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことにある。日蓮上人が井伊氏から出たとするのは後世の付会であろう。

横根(よこね);鼠径(ソケイ)リンパ節の炎症によって起る腫物。多くは性病に原因するが、また、下肢の創口から侵入した細菌が原因をなすこともある。便毒。横痃(オウゲン)。〈日葡〉

お前待ち待ち蚊帳の外、蚊に食われ七つの鐘の鳴るまでは、こちゃかまやせぬ;江戸末期に流行した俗謡を、明治初年に、東海道五十三次を江戸の日本橋から出発する旅の唄に改めたもので、各節の終わりが「こちゃえ こちゃえ」の囃子詞(はやしことば)で終わるところからの名称。また、曲の初めの文句「お江戸日本橋」をそのまま曲名にしている。江戸時代の元唄は、「お前待ち待ち蚊帳(かや)の外〈略〉こちゃ構やせぬ。こちゃ構やせぬ」であった。羽田節。
 落語「愛宕山」、「浮世風呂」等にもこの歌が出て来ます。

幽霊と化け物(ゆうれいと ばけもの);人が死んで化けて出るのが幽霊。物の怪(け)が出てくるのがお化けで、狐が七化け、狸が八化けという。人以外のものが化けて出てくるのが化け物。

石童丸(いしどうまる);苅萱(カルカヤ)道心の子。出家した父を尋ねる哀話の主人公。石堂丸。

刈萱物語
 加藤左衛門尉繁氏(重氏とも)は筑前国刈萱荘博多の若き領主で、家は富み栄え、優雅な生活をしていました。 繁氏には正妻の桂子御前と側室の千里御前という二人の夫人がいました。普段、二人は仲良く平静を装っていましたが、桂子は若く美しい千里を憎んでいました。ついには、正室が側室を殺す計画をたてます。
  暗殺計画は実行されますが、これを事前に察知した家来のおかげで、難を逃れ、側室は加藤家から出ることになりました。 この事件を知った繁氏は、「嫉妬から人を殺そうとまでする」人間の恐ろしさと、世の無常にさいなまれ、妻子も家も捨てて出家します。 そして、高野山へ。ここで修行を重ね、やがて「刈萱道心」と呼ばれるようになります。
  一方、家を出た側室は、実は、子供を妊娠していました。 繁氏は、そのことは全く知らず、生まれた子供は、父の顔も知らずに成長していきます。この子供が、「石童丸」です。 大きくなった「石童丸」は、風の噂に、「父が高野山にいる」と聴き、母を伴って高野山へ向かいました。 ようやく高野山にたどりついたものの、そこは女人禁制の聖地。やむなく、母を麓に残して、ひとり高野山を登ります。 高野山にたどり着いた石童丸は、父の居所を訪ね歩き、やがて、奥の院の御廟橋で、ひとりの僧に出会います。 実は、この僧こそ、実の父親・刈萱道心でしたが、既に、この世を捨て出家をした身。 自分が実の父親だとは名乗れず、「加藤繁氏なるものは、既にこの世を去った」とウソをつきます。 思いがけず、父の死を知った石童丸は、悲しみに暮れながら、山を下ります。
 母が待つ場所に戻ってみると、なんと、母は長旅の疲れから急逝していました。 ついに、孤独の身の上となってしまった石童丸は、母を葬ると、再び高野山に向かいます。石童丸は、父の死を伝えてくれた「刈萱道心」の元で出家し、弟子となります。 二人は、その後、子弟として一緒に修行する身となりますが、刈萱道心は死ぬまで「実の父は自分だ」とは伝えませんでした。 父子が共に修行した場所こそが、「苅萱堂」(右上写真)です。
 舞台は高野山から信州善光寺に移ります。 晩年、刈萱道心は高野山を離れ、信州善光寺で生涯を終えます。夢で、その死を知った石童丸も、やがて善光寺を訪れ、刈萱道心が刻んだという「地蔵菩薩」にならい、同じような地蔵菩薩を彫ります。 この二体の地蔵菩薩は、「親子地蔵」(右写真)と呼ばれ、今でも信州善光寺に祀られています。

千代桜に刈萱(かるかや);
 千代桜;品種としては見つかりませんが、千代に八千代にと咲き誇って欲しいと願う桜。
 かるかや;① イネ科の多年草。ススキの仲間。山野に自生。高さ1m 内外。葉は線形で細長く、他部とともにまばらに白毛がある。秋、長い芒(ほう)のある穂をつける。ひげ状の堅い根はたわしとする。メガルカヤ。[季] 秋。 右写真、チガヤ。
② 屋根を葺(ふ)くために刈り取るカヤの通称。メガルカヤ・オガルカヤ・メリケンカルカヤなど。

三千歳(みちとせ);清元の一。本名題「忍逢春雪解(シノビアウハルノユキドケ)」。河竹黙阿弥作詞。清元お葉(二世清元梅吉とも)作曲。1881年(明治14)初演。「天衣紛上野初花(クモニマゴウウエノノハツハナ)」の6幕目「大口寮座敷の場」で使われた狂言浄瑠璃。悪事がばれて高飛びしようとするお尋ね者片岡直次郎は、最後の別れをしようと、大口屋の寮に出養生にきている遊女三千歳のもとに忍んでくる。 特に「一日逢わねば」以下の新内がかりのくどきが有名。

 三千歳 (1813-1884) 江戸時代後期の遊女。 文化10年生まれ。本名なを。江戸浅草の茶くみ女から新吉原の遊女となる。処刑された情人の片岡直次郎の死骸をひきとり墓をたてた。明治17年8月31日死去。72歳。

並木、駒形、花川戸、山谷堀からちょいと上がりゃ 長い土手をば通わんせ・・・  雪の入谷・・・
 並木(なみき);現在の台東区雷門二丁目。浅草寺雷門から南に駒形橋に通じる大通りに面した町。
 駒形(こまがた);現在の台東区駒形一.二丁目。隅田川に掛かる駒形橋から厩(うまや)橋間の町。
 花川戸(はなかわど);現在の台東区花川戸。浅草寺の東側で隅田川までの町。助六が住んでいたという。
 山谷堀(さんやぼり);現在の台東区山谷堀公園。隅田川の今戸から吉原まで通じていた堀。
 長い土手をば通わんせ;現在の台東区山谷堀公園に接していた日本堤。吉原まで土手八丁と言われた。
 入谷(いりや);現在の台東区入谷。吉原の裏側に当たった町。

雪の下に女郎花(オミナエシ);雪の下は、本州、四国、九州及び中国に分布し、湿った半日陰地の岩場などに自生する常緑の多年草。人家の日陰に栽培されることも多い。葉は円形に近く(腎円形)、裏は赤みを帯びる。本種は種子に因る種子繁殖のみならず、親株の根本から地上茎である走出枝(runner/ランナー)を出して栄養繁殖する。 北半球での開花期は5~7月頃で、高さ20~50cmの花茎を出し、多数の花をつける。花は5弁で、上の3枚が小さく濃紅色の斑点があり基部に濃黄色の斑点があり、下の2枚は白色で細長い。花弁の上3枚は約3~4mm、下2枚は約15~20mm。本種の変種または品種とされるホシザキユキノシタには、こうした特徴は現れない。和名ユキノシタは、雪が上につもっても、その下に緑の葉があることからだと言われる。(他説有り)
 写真、雪の下の花。
 女郎花(オミナエシ);貴族の令嬢、令婦人の敬称が 「女郎」だったので、美人も圧倒する花の美しさという意味もあり名前になった。オミナエシ科の多年草。日当たりのよい山野に生え、高さ約1m。葉は羽状に裂けていて、対生する。夏の終わりから秋に、黄色の小花を多数傘状につける。秋の七草の一。漢方で根を敗醤(はいしょう)といい、利尿剤とする。おみなめし。
右写真、オミナエシ。百花園にて

梔子(くちなし);「くちなしや鼻から下は直ぐに顎」と言うだじゃれがあります。この噺でも口が無いから静かだったと言っています。
 梔子;樹高1mから3mほどの低木。葉は対生で、時に三輪生となり、長楕円形、時にやや倒卵形を帯び、長さ5cmから12cm、表面に強いつやがある。筒状の托葉をもつ。 花期は6~7月で、葉腋から短い柄を出し、一個ずつ花を咲かせる。花弁は基部が筒状で、先は大きく6弁に分かれ、開花当初は白色だが、徐々に黄色に変わっていく。花には強い芳香があり、学名の種名 jasminoides は「ジャスミンのような」という意味がある。
 右写真、我が家の梔子の花。

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、Vairocana);大乗仏教における仏の1つ。華厳経において中心的な存在として扱われる尊格である。密教においては大日如来と同一視される。東大寺の大仏が有名。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)と言い、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。

勧進帳(かんじんちょう); (1) 寺社、堂塔の建立、修理のため寄付金をあおぐ趣旨を記した文書。
(2) 能の曲の部分名。観世小次郎信光作『安宅』で、シテ弁慶が安宅の関所でにせの勧進帳を読み上げる部分。通常シテの独吟でうたわれ、「正尊」の起請文、「木縄」の願書とともに三読物といわれる。
(3) 歌舞伎十八番の一つ。天保11(1840) 年3月、江戸河原崎座で初演。作詞三世並木五瓶、長唄作曲四世杵屋六三郎 (六翁) 、振付四世西川扇蔵。初演配役弁慶-市川海老蔵 (七世市川団十郎) 、義経-八世市川団十郎、富樫-三世市川九蔵 (六世団蔵) 。能『安宅』を骨子に、「山伏問答」「折檻」「延年の舞」など舞踊的、音楽的に傑出した作品。ただし七世団十郎が弁慶を家の芸の荒事風に演じたものを九世が高雅に演出し、洗練させた。九世は生涯に弁慶を 19回演じ、1891年4月井上侯爵邸において天覧に供した。その後の弁慶役者では、七世松本幸四郎が著名。長唄としては、大薩摩、一中節、説経節などの曲節が巧みに消化された名曲で、素 (す) の演奏だけを行うことも多く、その場合は三世杵屋正次郎作曲による「滝流し」などの特別な器楽的間奏部がつけられる。

 「勧進帳」歌川豊斎画 左から義経、弁慶、富樫。

 歌舞伎勧進帳概略 富樫左衛門の守る加賀国安宅ノ関を、東大寺勧進の山伏に身をやつした源義経主従が武蔵坊(むさしぼう)弁慶の知略で通過する物語。弁慶が白紙の巻物を勧進帳と称して読み上げ、番卒に見とがめられた義経を金剛杖(こんごうづえ)で打擲(ちょうちゃく)した機転によって虎口(ここう)を脱する。大筋は『安宅』とまったく同じだが、山伏の故実に関する富樫の質問を弁慶が鮮やかに切り抜ける「山伏問答」を講釈から取り入れ、計略のため主君を打ち据える弁慶の苦衷を富樫が察し、情けによって通してやるという構成にしたのが作劇上の特色。能の簡素で典雅な様式に歌舞伎の長所を注入した七世団十郎の意図を、明治期に九世団十郎が改良洗練し、1891年(明治24)の天覧劇でも上演、その後は七世松本幸四郎が生涯に1600回も演じたことで屈指の人気演目になった。内容が判官(ほうがん)びいきの大衆感情をとらえ、総体に健康的でダイナミックな感覚が現代人の好みにあっている。長唄が名曲で、演出も勧進帳読み上げから、山伏問答、富樫の呼び止めで双方詰め寄るあたりの迫力、危機を逃れた主従が感慨にふけるところの哀感、富樫から贈られた酒で快く酔った弁慶の延年の舞、最後に花道を引っ込む弁慶の飛六方(とびろっぽう)まで、見どころは多い。

石菖(関所)に弁慶草
 石菖(せきしょう);サトイモ科の多年草。渓流の縁に生え、高さ20~50cm。ショウブに似るが小形で、香りは強い。初夏、淡黄色の多数の花が穂状につく。庭園に栽培もされる。漢方で根茎を鎮痛・健胃剤にする。ねがらみ。いしあやめ。せきしょうぶ。

 

 写真左、「石菖」。右、「庭石菖」。

 弁慶草(べんけいそう);ベンケイソウ科の多年草。山地に生え、高さ約50cm。葉は対生し、楕円形で厚く、白みを帯びる。夏から秋、淡紅色の小花が多数集まって咲く。ベンケイソウ科の双子葉植物は約1500種がオーストラリアを除く全世界に分布。多肉性の草本が多く、キリンソウ・タコノアシなども含まれる。いきぐさ。

 上写真、弁慶草

丑三つ刻(うしみつどき);丑の時を4刻に分ちその第3に当る時。およそ今の午前2時から2時半。「草木も眠る丑三つ時」。

■築山(つきやま);庭園などに、山に見立てて土砂または石などを用いてきずいたもの。

■『♪梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳ャなよなよ風次第 山吹や浮気で 色ばっかり しょんがいな
浅蜊(あさり)とれたか 蛤(はまぐり)ャまだかいな 鮑(あわび)くよくよ片想い さざえは悋気(りんき)で角(つの)ばっかり しょんがいな
柳橋から小船を急がせ 舟はゆらゆら波しだい 舟から上がって土手八丁 吉原へご案内ッ』

 歌詞に登場する単語の意味について、梅・桜・柳・山吹は花柳界の芸妓たちを暗示したもの。梅の花は若い芸妓、桜は上の姐さんといったところだろう。柳はゆらゆらと移り気、山吹(ヤマブキ)は実を結ばない浮気性。
 「しょんがいな」は、歌の調子をとるための囃子言葉(はやしことば)。 一見すると「しょうがないな(仕様がないな、仕方がないな)」の類と解釈したくなるが、具体的な意味はないようだ。
 『梅は咲いたか』は、明治時代に流行した俗謡『しょんがえ節』を基にした江戸端唄(はうた)・小唄。花柳界の芸妓たちを季節の花々や貝に例えて歌っている。今日ではお座敷唄として有名。



                                                            2020年1月記

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