落語「足上がり」の舞台を行く
   

 

 三代目桂米朝の噺、「足上がり」(あしあがり)より


 

 さる大家の番頭は、店の金を着服しては芸妓遊びを繰り返している。今夜も中座でお茶屋の連中を侍らしての桟敷で芝居見物を楽しみ、お供で連れてきた芝居好きの丁稚定吉に自身の悪事を吹聴し、「旦那はんにはこう言うんやで。決して芝居に行ったて言うんやないで」と、嘘の理由を教えて先に帰らせる。

 定吉は旦那に「番頭はんは、播磨屋はんとこで横田はんらと碁打ってたんでやすが、遅なるのでわたい先に帰らしたんだす」と、教えられたまま言うが、「定吉、そのお座布団触ってみ。温ったかいやろ。最前まで、播磨屋はん座ってはったんや。今日は番頭はんに会わんならんけど、まだ帰ってこんのかいな言うて、帰らはったばっかしやねん。ここにいてはった人が自分の家にいるとはおかしいやないか。嘘つきなはんな」と、旦那に決め付けられ、とうとう洗いざらい白状してしまう。
 旦那は「何ちゅう奴っちゃ。飼い犬に手噛まれるとはこのことや。明日、請け人呼んで話つける」と、怒る。定吉は「ええっ!番頭はん、足上がるんでっか。どうぞ勘弁しとくれやす。番頭の過ちはこの丁稚が代わって・・・」と、必死にとりなすも、旦那は許さず「アホ!あべこべじゃ」と、奥に入ってしまう。

 その後、帰ってきた番頭は定吉を部屋に呼び、「お前が帰ったあとの芝居よかったんやで」と、「東海道四谷怪談」の大詰「蛇山庵室の場」を仕方噺で聞かせる。定吉はお岩の幽霊の件に怖がって「わたい怖うて、夜、手水に行かれへん」と、こぼしながらも「けど、番頭はん、芝居巧いなあ」と、褒める。気を良くした番頭が「どや、ここで、幽霊が蚊帳の中に消えるとこ、まるで宙に浮いとるようやったやろ」と、得意げに言うと、「宙に浮くはず、既に足が上がっています」。  

 



ことば

三代目桂米朝(かつら べいちょう);(1925年(大正14年)11月6日 - 2015年(平成27年)3月19日)は、落語家。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』。俳号は「八十八」(やそはち)。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。 旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。尼崎市に住んだ。

足が上がる;「解雇される」の意味。現在では死語になっているのでサゲが分りにくい。

 古くから上方にあるネタで、三代目桂文團治が得意としていたのを、四代目桂米團治に受け継がれ、さらに米朝が師匠米團治の高座で演じていたのを聞き覚えて伝えられた。

 後半部は「四谷怪談」の芝居が中心となり、演者には歌舞伎に精通していることが求められる。米朝は芝居の台詞にも工夫が必要があるとし、例えば、お岩の幽霊に悩む伊右衛門の「夜毎に悩ます鼠の祟り」を「サラサラと言うたらいかん。『夜毎に悩ます』で間を取ってから『鼠の祟り』と言わんと台詞が締まらへんのや」と、説明している。
 上方落語の芝居噺は、この「足上がり」や「蛸芝居」「質屋芝居」「七段目」「蔵丁稚」などのように落語の筋に歌舞伎の内容や演出などが加わるのと、「本能寺」「児雷也」「鏡山」など芝居そのものを落語にするものとの二種類に分かれます。

番頭(ばんとう);商家の使用人の最高職位の名称で、丁稚 (でっち。小僧) 、手代の上位にあって主人に代わって店の万事を預るもの。主人に代って手代以下の者を統率し、営業活動や家政についても権限を与えられていた。商家によっては番頭1人の場合と、複数制の場合とがあるが、後者の場合は、番頭のうちの上位者が支配人とされた。近代的企業組織の成立とともに消滅した。

店の金を着服(みせのかねを ちゃくふく);金品などをひそかに盗んで自分のものにすること。お金を扱う職業であれば、つい魔がさして誘惑をおこしてしまいかねない犯罪ですが、その責任は重い。 特に、業務においてお金を扱う、預かる立場、地位にある従業員が、会社のお金を横領した場合には現在「業務上横領」という重い犯罪となります。 横領罪の刑罰は決して軽くありませんし、逮捕されるリスクも高い、責任の重い犯罪です。金額が高額となる場合には、初犯であっても実刑となる可能性も大いにあります。
 昔から鼻先にニンジンがぶら下がっていたら、パクリと食べてしまいがちです。手を出す方も被害を受ける方も大変です。手を出す方は、噺の中に有るように解雇になるでしょうし、被害を受けた方は、加害者は大概使い込んでしまうので返済は不可能になりますので、取られ損になってしまいます。通常の管理体制が重要になってきます。落語の中には、若旦那が店の金を持ち出して遊廓遊びをしますが、これも店の金の横領になります。金額が増してくれば、親も黙って入られず息子を追放したり、勘当したりします。

芸妓遊び(げいぎあそび);芸妓(げいぎ)とは、舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。芸者・芸子のこと。酒席に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、太夫遊びが下火となった江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つ。 江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性である幇間(太鼓持ち)を指し、芸子が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。京都では芸妓(げいこ)とよばれる。現代では料理屋(料亭)、待合茶屋に出入りする芸者が売春を行うことはない。地方の温泉地等ではコンパニオンと呼ばれる派遣の芸妓(酌婦)などが存在し、また俗に枕芸者と呼ばれるものも一部に残っている。
 芸妓は芸を売って酒席を楽しませるプロ集団ですから、遊女と違って体は売りません。

中座(なかざ);大阪市中央区道頓堀にあった劇場。慶安5 (1652) 年創設。当時大坂に3つあった大芝居小屋のまんなかにあったため中の芝居と呼ばれ、角の芝居 (現角座) とともに大坂の代表的な歌舞伎小屋として栄えた。何度か火災で焼失したがそのたびに再建され、1920年からは松竹の経営。1世中村鴈治郎の本拠地となった。 45年に戦災で焼失。再建後は関西歌舞伎の衰退に伴い、松竹新喜劇の本拠地となった。現在は歌舞伎、大衆演劇、新喜劇などを上演していた。客席数 802。大阪でもっとも伝統と古格を保つ歌舞伎劇場として存在意義をもっていた。1999年(平成11)10月経営不振などの理由により閉館した。

お茶屋(おちゃや);料理茶屋。お茶屋は芸妓を呼ぶ店であり、風俗営業に該当し、京都では営業できるのは祇園、先斗町など一定の区域に限られる。
 料亭(料理屋)との違いは厨房がなく、店で調理した料理を提供しないこと(仕出し屋などから取り寄せる)である。かつては、宴のあと、客と芸妓、仲居が雑魚寝をするというのが一つの風情ある花街情緒であったが、今日では見られない。谷崎潤一郎は『青春物語』で京都での放蕩の思い出を記し、雑魚寝は安眠できないので「殺生なもの」だと書いている。 東京などにある戦前までの「待合」のもう一つの側面については京都では「席貸」という旅館風の店が請け負っていた。
 歴史的には、花街の茶屋は人気の遊女の予約管理など、遊興の案内所や関係業者の手配所としての機能があり、客は茶屋の座敷で遊興し、茶屋に料金を払った。料理代や酒代をはじめ、芸者や娼妓の抱え主など各方面への支払いは、茶屋から間接的に行われた。往々にしてあったことであるが、客が遊興費を踏み倒した場合でも、茶屋は翌日に関係先に支払いをしなくてはならず、客からの回収は自己責任であった。また茶屋が指名された遊女を呼ぶ場合は抱え主に対し「差し紙」という客の身元保証書を差し出す規則があり、客が遊女と心中したり、手配犯だったことが後で判明するなど不祥事の起きた場合は、その客を取り次いだ茶屋が責任を負わされた。客の素性や支払を保証する責任上、茶屋は原則一見さんお断りで、なじみ客の紹介がなければ客になれなかったが、京都ではこのルールが今でも残っている。京都では料亭に芸妓を招く場合でも、いったんお茶屋を通すことになっているという(料理代は料亭に支払い、花代は後日お茶屋に支払うことになる)。

芝居見物(しばいけんぶつ);
☆江戸庶民と歌舞伎芝居
 天保十三年(1842)、天保の改革の一環として、庶民の娯楽の代表であった歌舞伎も、その取締りの対象となった。天保十二年(1841)、中村・市村両座の火災を機に、老中の水野忠邦は江戸の市街地、堺町・葺屋町・木挽町にあった幕府公認の芝居小屋、江戸三座(
中村座・市村座・森田座)を郊外の浅草猿若町に移転させた。 ほかにも河原崎座や文楽、人形浄瑠璃の芝居小屋、芝居茶屋なども移転した。町名は、江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎(のちの初代中村勘三郎)の名から「猿若町」と命名された。 猿若町の出入り口は南、北と南東の三カ所のみで木戸が設けられていた。町内は芝居小屋や芝居茶屋だけでなく、役者や歌舞伎興行に関わる人々も住んでいた。 大芝居と呼ばれる歌舞伎芝居には、当時の大商人や役人、奥女中、中堅以上の町人たちの富裕層が頻繁に芝居見物に通い、三日がかりの豪勢な芝居見物をしていたと言われている。 一方、庶民は木戸銭(見物料)が高くて、なかなか歌舞伎芝居の見物もできずに、当時の錦絵や浮世絵に描かれた人気役者を一目見ようと芝居見物に来ることに憧れていた。 このため、庶民は、市ヶ谷八幡社・湯島天神社・芝神明社などの寺社の境内などに建てられた芝居小屋で行われる小さな興行の「小芝居」を楽しんだ。小芝居(宮地芝居とも云う)は、歌舞伎より安く手軽に行けて役者との距離も近いので庶民の人気を集めた。

☆芝居茶屋
 江戸時代の芝居茶屋は、芝居小屋の周囲にあって、芝居見物客のために木戸札(客席)を予約したり、見物人の案内、茶菓子や酒肴・食事など飲食の接待をするところで、客はこの茶屋にあがって飲食等をしてから芝居見物に行った。 当時の茶屋には等級があり、大茶屋、小茶屋、水茶屋の区別があった。大茶屋は「表茶屋」ともよばれ、芝居小屋内の一角、または隣接地・向い合わせに位置し、座敷や調度品を備えて、一流の料理屋の格式を持つようになり、茶屋に料理番を置いて料理を拵えて客に出していた。この「大茶屋」は江戸留守居役などの上級武士、宿下がり(休暇)中の御殿女中や豪商などの富裕な人々に利用された。 簡単な店構えで庶民を迎え入れた「小茶屋」は芝居小屋の裏手にあり一般向け食事処である。小茶屋のなかには、接客用の店構えのない仕出し専門のものもあり、こうした茶屋では「出方」とよばれる接客業者を専属で抱えていた。出方は訪れた観客を座席まで案内したり、仕出し茶屋でこしらえた小料理・弁当・酒の肴などを座席に運んだりした。「水茶屋」は主として場内の飲食物を扱うところである。

 

『踊形容江戸絵栄(おどりけいようえどえのさかえ)』 安政五年(1858)、三代歌川豊国 安政五年七月 市村座上演の『暫(しばらく)』

☆歌舞伎芝居見物
 当時の歌舞伎芝居の演目は、ふつう年に4、5回変わり、役者は各座ごとに決まっていた。歌舞伎役者は各芝居小屋と1年契約(11月から翌年の10月まで)を結んでおり、年に1度10月に役者の顔ぶれが入れ替わった。 このため、11月は芝居の世界では顔見世の特別の月となり、毎年恒例の「顔見世狂言(かおみせきょうげん)」が陰暦11月(上方は12月)に行われた。「顔見世狂言」の興行は、江戸三座(中村座・市村座・守田座)の舞台に登場する役者たちのお披露目であり、絵姿入りの「顔見世番付」も発行されて人々がこぞって歌舞伎小屋へと向かった。
 見物客には「芝居茶屋」を通して入る上級の客と木戸から入る一般の客がいた。芝居茶屋を通して入る上級の客の一番上等な席は棧敷(さじき)で、一般の客は中等席の平土間(ひらどま)が普通だった。上席の桟敷席は芝居茶屋を通して予約しなければならず、上客向けのものだった。 芝居小屋の内部は、舞台正面が平土間で、4~6人が座れる二寸五分程の角材で区切った仕切り枡(ます)の「土間」席となっていた。 平土間の両横で一段高くなっている仕切り枡が「高土間」の枡席である。小屋の左右の位置には、2層になった板間の「桟敷」席がある。 そして最下等の席が、舞台正面の二階の立見席が「向桟敷(むこうさじき)」で、通称「大向こう」と呼ばれ、役者の声がよく聞こえない安い席であった。
 江戸時代の大芝居(歌舞伎)は、現在と違って長丁場。舞台は「明かり窓」からの自然光を利用したので、朝六ツ(午前六時)の夜明けの一番太鼓とともに始まり、暮七ツ半(午後五時)の日暮れまで続く一日掛りの興行であった。
 http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference16c.html より
*注 桟敷席:劇場・相撲場などで、板を敷いて土間(ドマ)より高く構えた見物席。江戸時代、芝居小屋では土間の左右に上下2~3段の桟敷席を構えた。

丁稚(でっち);(デシ(弟子)の転。一説に、双六の重一(デツチ)からともいう) 職人または商人の家に年季奉公をする年少者。雑役に従事した。上方では丁稚、江戸では小僧と呼称した。

飼い犬に手噛まれる(かいいぬにてをかまれる);恩顧を与えた者から思いがけず害を受ける。

請け人(うけにん);ひきうけて保証に立つ人。保証人。口入人(クチイレニン)。

東海道四谷怪談(とうかいどう よつやかいだん);鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全5幕。文政8年(1825年)、江戸中村座で初演された。 南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。

  

 あらすじ
 仮名手本忠臣蔵の外伝として作られた歌舞伎狂言。元塩冶藩士、四谷左門の娘・岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は左門に岩との復縁を迫るが、過去の悪事(公金横領)を指摘され、辻斬りの仕業に見せかけ左門を殺害。同じ場所で、岩の妹・袖に横恋慕していた薬売り・直助は、袖の夫・佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。ちょうどそこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く2人に伊右衛門と直助は仇を討ってやると言いくるめる。そして、伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。

 伊右衛門浪宅(ろうたく=浪人のすまい)の場 お岩をいびる伊右衛門。

 田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになる。高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫・梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿に望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は伊右衛門の計画を暴露する。岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、川に流す。

 三幕目 十万坪穏亡堀の場 お岩と小平の死骸が上がる。伊右衛門をなかに、直助と与茂七。

 伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。

  

 袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果として不貞を働いた袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死ぬ。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。


 
 夢の場 伊右衛門の夢の中の景。 在所娘(お岩)と伊右衛門。

蛇山庵室の場(へびやまあんしつのば);田宮家に入った伊右衛門は、上司である与力の伊東喜兵衛の妾に惹かれ、また喜兵衛は妊娠した妾を伊右衛門に押し付けたいと思い、望みの一致したふたりは結託して、岩を騙すと田宮家から追う。騙されたことを知った岩は狂乱して失踪する。岩の失踪後、田宮家には不幸が続き断絶。その跡地では怪異が発生したことから於岩稲荷がたてられた。
 終幕、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面。

 全体のあらすじと『蛇山庵室の場』の詳しいあらすじ

お岩の幽霊(おいわのゆうれい);四谷左門の娘で、お袖の義姉。伊右衛門と恋に落ち内縁関係になるが、伊右衛門の不行状を理由に妊娠中に実家に連れ戻される。伊右衛門が父を殺した張本人だと知らずに、父の敵を討つことを条件によりを戻して子を産み落とすが、心変わりした伊右衛門の身勝手な態度や伊藤喜兵衛によるひどい仕打ちにより、多くの人たちを恨みながら死んでいく。しかしその怨念は凄まじく、幽霊となって伊右衛門やその周りの人々を苦しめ、追いつめる。

 実在のお岩さんとお岩稲荷については、落語「ぞろぞろ」に詳しい。

仕方噺(しかたばなし);身ぶり・手ぶり(ジェスチャー)をまじえてする話。また、それを取り入れた落語。

手水(ちょうず);1 手や顔などを水で洗うこと。社寺に参拝する前などに、手や口を水で清めること。また、その水。「手水を使う」。
 2 《用便のあと手を洗うところから》便所へ行くこと。また、小便。 「―をさせて子供を寝かす」〈鴎外・雁〉
 3 便所。手洗い。「手水に行く」。
 この噺では、便所のこと。

 

*モノクロ舞台写真は藤原茂一著 『幽霊お岩』 青弓社発行 より転載。



                                                            2020年6月記

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