落語「陸奥間違い」の舞台を行く 三遊亭兼好の噺、「陸奥間違い」(むつまちがい)より
■三遊亭兼好(さんゆうてい けんこう);について、
■この噺は「三方目出鯛(さんぼうめでたい)」という題名で講談で演じられる。それを兼好が落語に直して演じています。ですから、当然筋は若干違っています。噺は面白いのですが、内容や武士と町人、権助の話し言葉に練り足りなさを感じます。
■松平陸奥守(まつだいら むつのかみ);初代仙台藩主・伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。
幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼(せきがん)となったことから後世「独眼竜」の異名がある。
■松平伊豆守(まつだいら いずのかみ);(1596~1662)将軍家光・家綱に仕え、島原の乱・慶安の変・明暦の大火などに善処。江戸時代、大河内松平家の人物が伊豆守に就任したときの呼び名です。老中職などを務める人が居たため、時代劇などに良く登場する呼び名でもある。この時のモデルは主に俗に知恵伊豆と称される松平信綱がなっている場合が多い。江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。享年67(満65歳没)。
■四代将軍家綱公(いえつなこう);生誕
寛永18年8月3日(1641年9月7日)
死没
延宝8年5月8日(1680年6月4日)。享年40。江戸幕府の第四代将軍(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。
父は第三代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて11歳で第四代将軍に就任し、内大臣に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。
講談では史実を正確には表現しない芸なので、事実は家綱がこの噺の中には登場出来ません。陸奥守との絡みを言うので有れば、三代将軍家光でしょう。
■松野河内守(まつのう かわちのかみ);赤穂義士のために槍の穂20本を密かに鍛冶に製作させたことが記される。これを怪しまれた天野屋は大坂町奉行所の詮議に対して口を割らずついに投獄されたが、討ち入りの成功後にやっと大石の名を出した。町奉行は、天野屋が名主役を務めながら法を犯したことを咎めつつ、その心根は奇特であるとして、寛大な処分(大坂からの追放処分とするものの、家財や屋敷は妻子に下げ渡し、「通行中」に妻子に会うことは問題ないとした)を行った。天野屋は京都に移り住み「宗悟」と称したという。
■直参旗本(はたもと);江戸幕府の旗本、御家人の総称。中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。
元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。
江戸幕府の旗本の定義として、歴史教科書では、江戸幕府(徳川将軍家)の旗本は1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)を持つ者と定義されており、この定義が一般的に知られている。しかし、厳密にはより幅広い用法であったとされる。
御家人(ごけにん);江戸時代には、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に御目見以下(将軍に直接謁見できない)の家格に位置付けられた者を指す用語となった。御家人に対して、御目見以上の家格の直参を旗本という。
近世の御家人の多くは、戦場においては徒士の武士、平時においては勘定所勤務・普請方勤務・番士もしくは町奉行所の与力・同心として下級官吏としての職務や警備を務めた人々である。
御家人は原則として、乗り物や馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができなかった。ここでいう乗り物には、扉のない篭は含まれない。例外として、奉行所の与力となると馬上が許されることがあった。有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として布衣以上の役職に就任するか、三代続けて旗本の役職に就任すれば旗本の家格になりうる資格を得られた。
御家人の大半は、知行地を持たない30俵以上、80俵取り未満の蔵米取で占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身であった。
■御台所(みだいどころ);大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称。奥方様の意。御台盤所(みだいばんどころ)も同じ。「御台」は身分の高い人の食事を載せる台の事で、「台盤所」とは宮中や貴族の邸宅の配膳室を指し、台所はその略で調理する場所を指した。
■小納戸役(こなんどやく);江戸幕府及び諸藩における職名の1つ。江戸幕府における小納戸とは、将軍が起居し、政務を行う江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕して、日常の細務に従事する者のこと。若年寄の支配下で、御目見以上であり、布衣着用を許された。小姓に比べると職掌は多岐にわたり、小納戸の人数は、四代将軍家綱のころには20人前後、その後の幕末には100人を超えていた。
■祐筆(ゆうひつ);中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
■芝口(しばぐち);港区新橋一丁目に架かる新橋で、銀座に抜ける中央通り(第一京浜=東海道)を通す。現在は上空に首都高速道路を通し、その上部の橋に「銀座新橋」と入っているところが、「芝口橋」と呼ばれた所です。街は南の新橋側にあった。
■義兄弟(ぎ きょうだい);子供がいる親に養子として迎えられた場合の社交的立場上の兄弟に使われる。
或いは配偶者の兄弟との関係を指す時にも使われる。
また、血の繋がりがなくても精神的に固く結束した持つ人間同士がこの言葉を使用することがある。
現在、多くは前者の意味合いで使われるが、歴史上の人物同士(とくに戦の絶えない時代)や創作作品等では後者が多く見られ、創作物では人物同士の団結力の強さを表す要素として用いられることが多い。
■口上(こうじょう);1 口頭で申し述べること。また、その内容。「あいさつの―を聞く」「逃げ―」
■闕字(けつじ。かけじ);身分の高い相手に手紙を出す場合、文字の一部を空白にして書く。「松野」を松○陸奥守と書き、ここから誤解が生じ、「松平陸奥守」の屋敷に行ってしまった。
■外様大名(とざまだいみょう);大名の出自による分類の一つ。譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。
■御家人と外様大名は天敵;
■金子三千両(きんす3000りょう);30両の無心のところ、3000両ですから100倍も値切られたのでは無く、加算されたのですから驚きも100倍。千両箱3箱です。現在の貨幣価値に換算すると、1両=8万円とすると、2億4千万円、誤差を考えても約3億円です。私も金額が大きすぎて、2度も電卓を叩いてしまいました。ま、ビックリと言うより凄い金額です。
■○石高と○俵取り;家禄=武家時代、主家から家臣に与えられた俸禄。永世禄、終身禄、年限禄の3種があったが、最も重要なものは永世禄であった。永世禄は原則として子孫に世襲されるもので、功罪によって増減、あるいは剥奪が行われ、武士の身分判定の規準とされた。江戸時代になると、大部分は蔵米で支給される形がとられ、知行取りは家格の高いもののみであった。武士階級以外にも、例外として、公家、神官、僧侶などに家禄が与えられる場合があった。永世禄は家に対して与えられたが、ほかの2種は個人に対して与えられる臨時のものであった。明治維新後も家禄はしばらく存置されたが、財政上の理由もあり、封建制撤廃の方針もあって、一時賜金または金禄公債と引替えに整理し、1876年廃止された。
蔵前取り、 江戸時代、幕府、諸藩の米蔵から俸祿米を支給される下級武士。多く春、秋、冬の三季に給米されたので、切米取とも蔵前者ともいった。受け取る単位は『俵』で、100俵と言えば、100俵の実数があった。
■官名(かんめい);鎌倉時代より朝廷が、儀式や法会の資金を調達するため、金銭と引き換えにして衛府や馬寮の三等官(尉、允)に御家人を任官させたり、有力御家人を名国司(実体のない国守の名称)に補任することがたびたび行われ、武士の間に官名を称することが普及するようになった。
■大名と小名(だいみょうと しょうみょう);小名とは、大名に対する言葉で、大名ほど家格の高くない武家を意味するが、厳密な意味は時代や用いる状況によって異なる。小名という言葉自体は、すでに『吾妻鑑』にも登場しており、戦国時代には御家人のうちで一国を運営するだけの力はない城主格の者を指したり、石高の低い武家のことを指していた。 江戸時代になると、初期の武家諸法度に「5万石以上の石高の城主を大名」「5万石未満の陣屋クラスを小名」と分けたため、石高が5万石未満の大名や、陣屋大名を、とくに小名と表現する場合がある。 また、4千石以上の旗本・御家人を指す場合もある。
■中間(ちゅうげん);中世、公家・武家・寺院などに仕える従者の一。侍と小者との中間に位する。
■小川町(おがわまち);直参旗本で御台所小納戸役、穴山小左衛門が住んでいた地。江戸時代は土浦藩土屋家や淀藩稲葉家などの武家屋敷があった。
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