落語「陸奥間違い」の舞台を行く
   

 

 三遊亭兼好の噺、「陸奥間違い」(むつまちがい)より


 

 小川町に住んでいました、直参旗本で御台所小納戸役30俵を頂く穴山小左衛門(あなやま こざえもん)が屋敷に戻ってきた。他の御家人たちと同じく貧乏で、その金子30両のやりくりが付かない。金策に走り回ったがどうにもならない。
 困った末にかつての同僚の松野を思い出した。字が上手なため祐筆に取り立てられた松野は芝内(しばうち)に屋敷を持つ身分となって300石をいただいている。義兄弟の盃を交わした仲だから頼みは嫌とは言わない筈。 しかし、出世して引っ越ししたのに挨拶も行っていない。で、行けば引っ越し祝いに来たと思うであろう。
 昔の同僚でも無心に直接行くのは少し具合が悪いので、丁寧な手紙を書いて、心配だが田舎から出てきたばかりの中間の権助を使いにやろうと決めた。
 「芝口にいる松野陸奥守(まつのう むつのかみ)様へ使者として使いに行ってくれ。わしとは兄弟分の間柄、心配する必要はない、すぐ通してくれる。ここに手紙を持たせるため口上(こうじょう)はいらないから相手先にいけば大丈夫だ」、「へ~ぃ、芝口三丁目ですね。行ってきま~す」。

 正直者だが江戸に出て来て3ヶ月、慣れない権助さんは人ごみにまぎれるうちに行き先の場所も名前も忘れてしまった。困った権助さん、たまたま通りかかった床屋で、そこに来ていたお客の御隠居に手紙を見せた。学のあるご隠居はこの手紙の宛名が闕字(けつじ)であると分かり、松○陸奥守を「松野」ではなく、芝に住んでいればふくら雀の紋所がある、「松平陸奥守」様だと読み下した。松平陸奥守は天下の副将軍、大変な間違いであった。
 芝のお屋敷を教えられた権助は「竹に雀」の印がついた瓦屋根にびっくりしながら門番に使者であると口上を述べる。この家の主は御家人とは天敵である外様大名でも62万石の大大名、伊達少将であるとは知らないまま・・・。
 使者の間に通された権助さん、「何かおかしいな~」と思いつつ、手紙を渡す。受けた方も名前が分からず、大名名鑑にも出ていない、直参旗本名鑑にも載っていないが、その最後に小さく載っていた。しかし、兄弟分だと言われていたので、伊達様に取り次いだ。
 一方、伊達少将は穴山の名前は全く聞き覚えがないが兄弟分と言うことで、興味をもって手紙を読むと、これが借金の申し込み。鷹揚な伊達少将は、「江戸詰め大名、数ある中で大名の中の大名と見込んでの無心。聞き届けてやれ。但し、伊達家への無心で三十両はあるべくもない。三千両に直しておけ」。家来は「ははー」。権助さん、酒肴の供応を受け「やっぱり違うと思うな~これ」。

 権助の帰りを待っていた穴山は、手土産を持たされた権助が、「食べ切れない御馳走だったのでお土産として包んでもらいました」と聞くと嫌な予感がする。土産に包んだ風呂敷を取って見ると、三段重ねの塗りの重箱には竹に雀の御常紋が金でビタァ~ッと描かれている。息を呑む穴山。「そちゃ、伊達家に行ったのか・・・」、「そうです。松平様です。伊達家と言っておりました」。

 そこに、先ほどの伊達家の接待係が金子三千両を持って到着。
 「受け取れないのでございます」、「なぜだッ」、「間違いなのでございます。私が命じたのは松野陸奥守で、松平陸奥守様では無いのです」、「そうであったか、でも・・・」、御家人として外様の情けは受けられないが、伊達家の親切を無にするのも武士の道ではない。さらに伊達家の使者番はこの金を受け取らなければ腹を切るという。
 「近所に住んでいた知恵者森川がおりまして、聞いて参ります」、「権助、聞いての通りだ。三千両預かるのが良いか、お断りするのが良いか、森川伊豆守様に聞いて参れ」、「すぐだぞッ」、「伊豆守様ですね。行ってきます」。

 「伊豆守様の所に行きたいのですが・・・」、「何伊豆守か?」、「何人も伊豆守様が居るんですか? 知恵のある伊豆守様です」、「知恵伊豆はこちらだ。松平伊豆守様だ」、「知恵は有るのかね」、「日本一の知恵者だ」、「この人で間違いはないナ。チョット聞くが・・・」。またまた間違えが大きくなった。
 本当に会いたかったのは直参旗本森川伊豆守様で、ここに居るのは、知恵伊豆守様といって、松平伊豆守様です。振り袖火事で、江戸城天守閣が燃えてしまったとき、大奥の女性達がガタガタ震えて逃げられなかった。知恵伊豆守は畳をひっくり返し、「この上をお逃げなさい」と言って、全員脱出させたという。困難なときは泉のように知恵が湧いてくるという知恵者です。
 「面白い間違いであるな。伊達様が絡んでいるので、わし一人では無理だ。上様に伺ってくる」。
将軍様まで話が・・・。「誰であるな」。出て来た将軍様は四代家綱公です。「それは面白い間違いであるな」、「伊達様のことですから、預かっておいて、しかるべき時に褒め使わし、褒美などを使わしますれば・・・」、「ならば、そ~せぃ~」。

 「使いの者が帰りが遅いの~」、「今、権助が帰って来ました」、「ただいま行ってきました。松平伊豆守様が・・・」、「チョット待てッ。その方今なんと言った」、「松平伊豆守様」、「森川伊豆守様なのに知恵伊豆様の所にか?」、「そう、知恵伊豆と言っていた。その人に聞いてきた」、「そのような最重役様だと、腹を切れと言われたろう」、「いや、優しい人だったよ~。わし一人じゃ決められないと将軍様に・・・」、「首が無いッ」、「『もらっておけ』って、後で褒美を出すって。三千両もらっておけと・・・」。

 穴山小左衛門は三千両もらって、将軍様は伊達を呼び出し、「家の家来に情けを掛けたと言うので、何とも有り難いことで有る。褒美に、間違いの元は陸奥守が二つ有るからいけないので、松野陸奥守は河内守とし、伊達家が伊達陸奥守を独占する名誉を授けた。外様大名では伊達家だけだったようで、大変名誉なことです」。
 伊達の殿様大喜びで、屋敷に大名、小名招いて、三日三晩大宴会です。一番上手に座りましたのが穴山小左衛門、二番目に権助、「権助、なんでこの様な席に私は居る。今度は何を間違えた」、「大丈夫、チャンと呼ばれたんだから」、「良く平気で呑めるな」、「2回目だから」、「三番目に座ったのが、松野河内守です」。この松野河内守は後に奉行になって、天野屋利兵衛を裁いた。四番目五番目に座ったのが町人で、「何で髪結いがこんな所に、ね~ご隠居」。伊達様上機嫌で、「穴山小左衛門、その方のお陰でお上からご褒美、礼を申すぞ」、「間違えただけです」、「これからも気軽に金を借りに参れ」、「恐れ入ります」、「其方(そち)とは、兄弟分では無いか」。旗本と大大名が兄弟分となったという目出度いお話しでした。

 



ことば

三遊亭兼好(さんゆうてい けんこう);について、
 軽妙な面白味! 今や五代目圓楽一門会きっての人気者、三遊亭兼好は軽快な語り口で世相を切り観客を爆笑の渦に巻き込む。持ちネタの多さも魅力のひとつ、百数十席以上のネタでどんな場面でも観客の興味をそらさぬ力を持っている。 また、落語専門誌「東京かわら版」で得意のイラストと軽妙なエッセイを連載するという画才と文才に恵まれたそのマルチな才能を遺憾なく発揮しており、その親しみやすい和テイストのイラストを使って“落語一筆箋”2種を、同時発売する。 CD収録音源は月例の独演会「人形町噺し問屋」より選び抜かれたものばかり。先頃の横浜にぎわい座での独演会もほぼ完売、2015年5月からは国立演芸場での独演会もスタートさせ、その勢いはさらにますこと間違いなし!(フアンの話)

■この噺は「三方目出鯛(さんぼうめでたい)」という題名で講談で演じられる。それを兼好が落語に直して演じています。ですから、当然筋は若干違っています。噺は面白いのですが、内容や武士と町人、権助の話し言葉に練り足りなさを感じます。

松平陸奥守(まつだいら むつのかみ);初代仙台藩主・伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼(せきがん)となったことから後世「独眼竜」の異名がある。
 秀吉は恭順と惣無事を反故にされた形となり、会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵することを明らかにした。このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、および山形県の置賜地方、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、また現在の宮城県北部や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。
 慶長13年(1608年)1月 - 陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を第二代将軍徳川秀忠より授かる。
 生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日) (グレゴリオ暦1567年9月15日)- 死没 寛永13年5月24日(1636年6月27日)。享年69。主君、 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光。家禄、六十二万五千六百石。家紋、竹に雀(右図)。上屋敷、芝口三丁目(今の汐留)。
 仙台伊達氏は、左近衛権中将・少将、陸奥守と呼ばれた。

松平伊豆守(まつだいら いずのかみ);(1596~1662)将軍家光・家綱に仕え、島原の乱・慶安の変・明暦の大火などに善処。江戸時代、大河内松平家の人物が伊豆守に就任したときの呼び名です。老中職などを務める人が居たため、時代劇などに良く登場する呼び名でもある。この時のモデルは主に俗に知恵伊豆と称される松平信綱がなっている場合が多い。江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。享年67(満65歳没)。
 幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された。酒井忠勝は阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している。
 落語の概略にも有りますが、明暦(1658)の大火の時、大奥女中らは表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印とし、その後に大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御された故、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させたという(『名将言行録』)。

四代将軍家綱公(いえつなこう);生誕 寛永18年8月3日(1641年9月7日) 死没 延宝8年5月8日(1680年6月4日)。享年40。江戸幕府の第四代将軍(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第三代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて11歳で第四代将軍に就任し、内大臣に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。
 家綱は温厚な人柄で絵画や魚釣りなど趣味を好み、政務を酒井忠清をはじめ老中らに任せ自らは「左様せい」で決裁していたことから「左様せい様」という異名が付けられたという。この逸話は家綱自身が幕政指導者としての指導力を発揮できず忠清の専制を示すものとしても引用されているが、辻達也や福田千鶴らは幕政の意思決定における将軍上意の重要性を指摘している。ただし、一般的な殿様は決裁の際言うべき言葉は「そうせい」「考え直せ」「もってのほかじゃ」の三つしか言わないように教育されていた。

 講談では史実を正確には表現しない芸なので、事実は家綱がこの噺の中には登場出来ません。陸奥守との絡みを言うので有れば、三代将軍家光でしょう。

松野河内守(まつのう かわちのかみ);赤穂義士のために槍の穂20本を密かに鍛冶に製作させたことが記される。これを怪しまれた天野屋は大坂町奉行所の詮議に対して口を割らずついに投獄されたが、討ち入りの成功後にやっと大石の名を出した。町奉行は、天野屋が名主役を務めながら法を犯したことを咎めつつ、その心根は奇特であるとして、寛大な処分(大坂からの追放処分とするものの、家財や屋敷は妻子に下げ渡し、「通行中」に妻子に会うことは問題ないとした)を行った。天野屋は京都に移り住み「宗悟」と称したという。
 この裁きをしたのが、河内守で、赤穂浪士切腹から6年後の宝永6年(1709)、津山藩士小川忠右衛門恒充によって書かれた『忠誠後鑑録或説』には、大坂の惣年寄である「天野屋理兵衛」が大石のために武器(袋槍数十本)を調達、町奉行松野河内守助義(すけよし=落語・講談による名前松野と松野の表記が違っています)により捕縛され拷問にかけられたが口を割らなかったとする。討ち入り後に自白したこと以後は『赤穂鐘秀記』と同様の展開であるが、京都に移り「松永士斎」と称したとされる。河内守は大阪町奉行から北町奉行に1704年10月に栄転しています。その後、宝永4年(1707年)4月22日- 享保2年(1717年)2月2日) には、南町奉行に変わり、大岡越前守忠相(享保2年(1717年)2月3日 - 元文元年(1736年)8月12日)にバトンタッチします。

直参旗本(はたもと);江戸幕府の旗本、御家人の総称。中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。
 俗に「旗本八万騎」と呼ばれたが、1722年の調査では総数約5千人、御目見以下の御家人を含めても約1万7千人の規模であった。ただし、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ8万人になるといわれている。 旗本で5千石以上の者は、交代寄合を含み約100人。3千石以上の者は約300人であり、旗本の9割は500石以下であった。

江戸幕府の旗本の定義として、歴史教科書では、江戸幕府(徳川将軍家)の旗本は1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)を持つ者と定義されており、この定義が一般的に知られている。しかし、厳密にはより幅広い用法であったとされる。
 狭義では、200石(200俵)以上、1万石未満の将軍直属の家臣で、交代寄合・高家を除くというものであった。
 広義では、上記狭義の旗本に加えて、200石(200俵)未満で、雪駄履きで馬上となる資格がなく、将軍に謁見できる直参も含まれる。また、親藩や譜代大名の家臣は陪臣であるから、将軍に謁見できないのが原則であるが、由緒ある家系に対しては、特別に旗本の格式が与えられることがあった。この場合、将軍に謁見の資格を持ち、参勤交代のときに関所で下馬することを免除された。したがって最広義の旗本とは、大名および大名の扱いを受ける者以外で、将軍に謁見の資格をある者を指す。  

御家人(ごけにん);江戸時代には、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に御目見以下(将軍に直接謁見できない)の家格に位置付けられた者を指す用語となった。御家人に対して、御目見以上の家格の直参を旗本という。 近世の御家人の多くは、戦場においては徒士の武士、平時においては勘定所勤務・普請方勤務・番士もしくは町奉行所の与力・同心として下級官吏としての職務や警備を務めた人々である。 御家人は原則として、乗り物や馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができなかった。ここでいう乗り物には、扉のない篭は含まれない。例外として、奉行所の与力となると馬上が許されることがあった。有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として布衣以上の役職に就任するか、三代続けて旗本の役職に就任すれば旗本の家格になりうる資格を得られた。

 御家人の大半は、知行地を持たない30俵以上、80俵取り未満の蔵米取で占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身であった。 
 主人公の穴山小左衛門は最低の30俵取りであったので、彼は大都市の江戸に定住していたため常に都市の物価高に悩まされていた。

御台所(みだいどころ);大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称。奥方様の意。御台盤所(みだいばんどころ)も同じ。「御台」は身分の高い人の食事を載せる台の事で、「台盤所」とは宮中や貴族の邸宅の配膳室を指し、台所はその略で調理する場所を指した。

小納戸役(こなんどやく);江戸幕府及び諸藩における職名の1つ。江戸幕府における小納戸とは、将軍が起居し、政務を行う江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕して、日常の細務に従事する者のこと。若年寄の支配下で、御目見以上であり、布衣着用を許された。小姓に比べると職掌は多岐にわたり、小納戸の人数は、四代将軍家綱のころには20人前後、その後の幕末には100人を超えていた。

祐筆(ゆうひつ);中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
 徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆の待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。

芝口(しばぐち);港区新橋一丁目に架かる新橋で、銀座に抜ける中央通り(第一京浜=東海道)を通す。現在は上空に首都高速道路を通し、その上部の橋に「銀座新橋」と入っているところが、「芝口橋」と呼ばれた所です。街は南の新橋側にあった。

義兄弟(ぎ きょうだい);子供がいる親に養子として迎えられた場合の社交的立場上の兄弟に使われる。 或いは配偶者の兄弟との関係を指す時にも使われる。 また、血の繋がりがなくても精神的に固く結束した持つ人間同士がこの言葉を使用することがある。 現在、多くは前者の意味合いで使われるが、歴史上の人物同士(とくに戦の絶えない時代)や創作作品等では後者が多く見られ、創作物では人物同士の団結力の強さを表す要素として用いられることが多い。

口上(こうじょう);1 口頭で申し述べること。また、その内容。「あいさつの―を聞く」「逃げ―」
2 口のきき方。ものいい。
3 歌舞伎などの興行物で、出演者または劇場の代表者が、観客に対して舞台から述べるあいさつ。初舞台・襲名披露・追善興行などのときに行われる。
 この落語の噺では、”1”で、先様での伝言は文書を持たせたので、口頭で伝えなくても良いと権助に伝えた。

闕字(けつじ。かけじ);身分の高い相手に手紙を出す場合、文字の一部を空白にして書く。「松野」を松○陸奥守と書き、ここから誤解が生じ、「松平陸奥守」の屋敷に行ってしまった。
 江戸時代の武家社会では闕字は貴人に限定されず、敬意を表す為に苗字の内の一文字を省略していた。 幕末百話の「家督御礼の献上物」の章では「小出播磨守」を「小、播磨守」と記した例が紹介されている。 元旗本と思われる談話者は「これは支那流なんで」と説明している。

外様大名(とざまだいみょう);大名の出自による分類の一つ。譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。
 外様大名には大領を治める大名も多い。譜代大名は元は豊臣政権下のいち大名に過ぎなかった徳川家康のさらに家臣という立場だったのに対し、外様大名は元は豊臣政権下において家康と肩を並べる大名家だったからである。基本的に江戸を中心とする関東や京・大坂・東海道沿いなどの戦略的な要地の近くには置かれなかった。これは関ヶ原の戦いで東軍についた大名については、恩賞として加増が行われた際に、要地を治める大名は僻地へと転封されたからである。僻地へと転封する代償として多大な加増が行われた事も、外様大名に大領を治める者が多い傾向に拍車をかけた。それゆえに幕府に警戒され、江戸初期には些細な不備を咎められ改易される大名も多かった。
 主な外様大名には、前田家(加賀藩)、 島津家(薩摩藩)、 伊達家(仙台藩、宇和島藩)、 毛利家(長州藩)、 山内家(土佐藩)、 藤堂家(津藩、今治藩)、等などがあります。

御家人と外様大名は天敵御家人は徳川家の直接の家来であって、外様大名は徳川幕府に組み込まれた大名です。ですから、御家人とすれば徳川家の一員で有り、外様大名とは格が違うとの認識があった。
 徳川家のなかで金銭の貸し借りがあったとしても、それは身内の中の出来事、他家に行って金銭の貸し借りなんて、もっての外です。権助はその辺が分からず借りてきますが、穴山小左衛門にすれば切腹ものです。

金子三千両(きんす3000りょう);30両の無心のところ、3000両ですから100倍も値切られたのでは無く、加算されたのですから驚きも100倍。千両箱3箱です。現在の貨幣価値に換算すると、1両=8万円とすると、2億4千万円、誤差を考えても約3億円です。私も金額が大きすぎて、2度も電卓を叩いてしまいました。ま、ビックリと言うより凄い金額です。

○石高と○俵取り;家禄=武家時代、主家から家臣に与えられた俸禄。永世禄、終身禄、年限禄の3種があったが、最も重要なものは永世禄であった。永世禄は原則として子孫に世襲されるもので、功罪によって増減、あるいは剥奪が行われ、武士の身分判定の規準とされた。江戸時代になると、大部分は蔵米で支給される形がとられ、知行取りは家格の高いもののみであった。武士階級以外にも、例外として、公家、神官、僧侶などに家禄が与えられる場合があった。永世禄は家に対して与えられたが、ほかの2種は個人に対して与えられる臨時のものであった。明治維新後も家禄はしばらく存置されたが、財政上の理由もあり、封建制撤廃の方針もあって、一時賜金または金禄公債と引替えに整理し、1876年廃止された。

蔵前取り、 江戸時代、幕府、諸藩の米蔵から俸祿米を支給される下級武士。多く春、秋、冬の三季に給米されたので、切米取とも蔵前者ともいった。受け取る単位は『俵』で、100俵と言えば、100俵の実数があった。
知行取り、江戸時代、封禄を知行でもらう者。知行所を与えられ、その土地の年貢を俸禄として受ける武士。蔵米取りよりも格が高い。受け取る単位は『石』で、100石取りと言えば、農家の収穫高100石から平均4~5割りの税収であった、また、豊作、凶作があるので最終取り分は安定していないどころか4割とすると40石(俵)しか手元に残りません。で、大名などの国を持っている者、大名の直近の武士が領国から受け取る禄です。

官名(かんめい);鎌倉時代より朝廷が、儀式や法会の資金を調達するため、金銭と引き換えにして衛府や馬寮の三等官(尉、允)に御家人を任官させたり、有力御家人を名国司(実体のない国守の名称)に補任することがたびたび行われ、武士の間に官名を称することが普及するようになった。
 国名を付けるのも本人の自由で、その国とは何ら関係が無い。その地を領有するとか、その地で政治を行うとか、収税するとかは全く関係が無い表記上の国名で有った。例外もありますが、そのため、同じ国名を使い、複数の国名の守が生じた。
 外様の国持大藩大名による領国名優先使用として、仙台伊達家の陸奥守、薩摩島津家の薩摩守、福岡黒田家の筑前守、広島浅野家の安芸守、佐賀鍋島家の肥前守など。この他幕府創成期には毛利秀就の長門守の例もあったが、後に侍従が極官となっている。
 徳川氏発祥の地である三河と、江戸城のある"将軍の国"武蔵の二国は、これを名乗ることをはばかられ、通常は任命もされなかった。 ただし少数の例外は
あった。

大名と小名(だいみょうと しょうみょう);小名とは、大名に対する言葉で、大名ほど家格の高くない武家を意味するが、厳密な意味は時代や用いる状況によって異なる。小名という言葉自体は、すでに『吾妻鑑』にも登場しており、戦国時代には御家人のうちで一国を運営するだけの力はない城主格の者を指したり、石高の低い武家のことを指していた。 江戸時代になると、初期の武家諸法度に「5万石以上の石高の城主を大名」「5万石未満の陣屋クラスを小名」と分けたため、石高が5万石未満の大名や、陣屋大名を、とくに小名と表現する場合がある。 また、4千石以上の旗本・御家人を指す場合もある。

中間(ちゅうげん);中世、公家・武家・寺院などに仕える従者の一。侍と小者との中間に位する。
 近世には武家の奉公人の一で、雑役に従事。足軽と小者との中間に位する。

小川町(おがわまち);直参旗本で御台所小納戸役、穴山小左衛門が住んでいた地。江戸時代は土浦藩土屋家や淀藩稲葉家などの武家屋敷があった。
 現在の千代田区神田小川町。北に御茶ノ水駅、東に神田須田町、西に古本屋街の神田神保町が有ります。神田小川町は商業地域でビルや商店が多く立ち並んでいる。町域内の靖国通り沿いを中心にスポーツ用品店が多く並んでいることでも知られる。ほかに神保町に隣接していることもあり出版・書籍関連の企業も見られる。また、カレーの街としても知られ、神田界隈、特にこの小川町周辺には100店舗を超すカレー店があり、それぞれ個性的な店が出店している。



                                                            2020年9月記

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