落語「橋の婚礼」の舞台を行く
   

 

  柳家喬太郎の噺、「橋の婚礼」(はしのこんれい)より


 

 ご婚礼は何時の時代もお目出度いものです。人間だけでは無く動物の世界でも同じことです。でも動物だけでは無いのかも知れません。

 「よ~ォ旦那」、「師匠、朝早くからお座敷かい」、「いえ、新聞で両国橋の開橋式と聞いたもので・・・。出席出来るのは橋に関係があるものだけと聞いたんです」、「私はその開橋式に出るんだ」、「どんな関係が・・・」、「橋本と言うんだ。お前さんには何か有るかい?」、「う・・・ん、腹が張って苦しいから、思い切って力を入れたら『ブリッ』と出たんです。それで痔になってしまって『ブリッジ』でどうですか」、「ダメだよ」、「旦那が信長だったら、私はハシバ秀吉」、「私は夢枕に橋の神様がお立ちになった。我が家には社が二つ有ってその間に橋を架けて拝んでいたんだ。橋の神様が喜んで『今日は接待役』を仰せつかったんだ。ま、こっちにおいで。今日は開橋式だけで無く、両国橋と吾妻橋の婚礼があるんだ」。

 「お招きいただきましたので伺いました。これが帳面ですね、いろいろな橋が来るんですか?」、「旦那、橋が来るって?」、「橋の精霊が来るんだ。本体はそこに有るんだ」。
 「どちら様で・・・」、「私は招待を受けたんですが、来なかった方が良かったんでは。やっぱり来なかった方が・・・」、「考え込んでいますね」、「『思案橋』です」。
 「思案橋さんも迷っていますが、私も迷うんです。橋が結婚するなんて、どうして、なんで・・・」、「物事を聞きますね。どちらさんで」、「『言問橋』です」、「どうぞ奥へ」。
 「お爺さんこちらですよ」、「ハイハイ、お婆さん」、「どちらさんですか?」、「『白鬚橋』です」、「では、どうぞ」、「誰か手を引いてくれませんか」、「では、目が悪いのなら私が」、「貴方は?」、「『眼鏡橋』です」。
 「一八、お公家さんだよ。貴方は・・・」、「”千早振る神代も聞かず竜田川唐紅に水くぐるとは”、麻呂は『業平橋』」、「どうぞこちらへ」。
 「私は橋なんですが、料理番なんですよ」、「お名前は?」、「『俎橋』です」、「どうぞこちらへ」。「兄さん忘れ物。俎や箸持ってもそれだけだったら、しょうが無いでしょう、菜箸持たなくては」、「持ったよ」、「古いのでは無く新しい菜箸を・・・」、「ありがとう」、「チョ、チョット待って下さい」、「私、新しい菜箸持って来たので『心斎橋』」。
 「一八、見てみろ。芸者衆が来たぞ。みんな『新橋』、『柳橋』だ」、「何か大きな物が来たよ」、「大きな橋が花嫁衣装を着てやって来たな」、「私が『吾妻橋』です」。
 それから、ドンチャン騒ぎです。吾妻橋もベロベロに酔って真っ赤な顔です。「おい、吾妻橋、今でも好きや」、「三角関係ですね。貴方は誰ですか?」、「『数寄屋橋』です」。
 「危ない、気をつけろ。吾妻橋が酔って倒れたぞッ」、「大丈夫です」、「何が大丈夫なんだ」、「近くに『枕橋』が控えています」。

 



ことば

初代円遊作;三遊亭 圓遊(さんゆうてい えんゆう)。(嘉永3年5月28日(1850年7月7日) - 明治40年(1907年)11月26日。57歳没)は明治時代に活躍した江戸小石川小日向出身の落語家である。本名は竹内 金太郎(たけうち きんたろう)。この噺は彼の”新作”です。
 初代とされている圓遊は本来は三代目である。過去2人の圓遊は売れなかった訳ではなく、きちんと名を残した落語家が名乗っているのだがこの「三代目」圓遊が珍芸ステテコ踊りで大人気を博し、あまりにも売れたためこのステテコの圓遊が初代ということで完全に定着した。
 大きい鼻で知られており、「鼻の圓遊」ともよく呼ばれていた。寄席において、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。大きな鼻をもいで捨てるような振付けから「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸が「ステテコ踊り」の異名を得、このために「ステテコの圓遊」の名で呼ばれるようになった。また古典落語を明治風に改作して演じた。明治時代の落語界において中心人物であった。全盛期には1日36軒の寄席を掛け持ちしたという伝説がある。

師匠(ししょう);太鼓持ち(たいこもち)のことを芸人の一人として、敬愛を込めて師匠と呼ぶことがあります。
 太鼓持ちは、遊客の機嫌をとり、酒興を助けるのを仕事とする男芸者。幇間(ホウカン)。末社(マツシヤ)。太鼓。

開橋式(かいきょうしき);架橋式。橋の渡り初め。鉄道・道路・電話など、交通・通信の機関や施設が完成して通じること。
 ここでは、橋が新規に架橋され、または、補修されて新規同様になったお祝いの渡り初め式。

信長(のぶなが);織田 信長(おだ のぶなが)天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

 織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。
 永禄3年(1560)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。
 一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566)には上洛を図ろうとした。美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。 

秀吉(ひでよし);豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代、武家関白)太閤。三英傑の一人。 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。
 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。

夢枕(ゆめまくら);夢枕に立つ、夢の中で神仏などが枕頭に現れて、ある事を告げる。

両国橋(りょうごくばし);隅田川に架かる橋で、東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡し、国道京葉道路を渡す。長さ165.46m、幅員24m。竣工、昭和7年11月。
 明暦の大火で江戸に甚大な被害を出した。その反省点から隅田川の東側に逃げられるように、1661年(寛文元年)、隅田川に初めて木製の橋が完成。その後1932年鋼橋を架設。長さ162m。江戸時代から川開きの花火の名所で、両岸に両国広小路が出来賑わった。都心部の武蔵国と東側の下総国を結んだので、両国橋と呼ばれた。落語も「たがや」で有名。

 上写真、両国橋。都心方向を見る。

吾妻橋(あずまばし);東京都台東区浅草と墨田区吾妻橋を結ぶ隅田川の橋。両国橋、新大橋、永代橋に続き4番目に、1774年(安永3)初めて架橋。現在の橋は1931年竣工。

 写真、吾妻橋。墨田区側から浅草を見る。

橋の精霊(はしの せいれい);万物の根源をなすという不思議な気。精気。 草木・動物・人・無生物・橋などの個々に宿っているとされる超自然的な存在。 肉体または物体から解放された自由な霊。

思案橋(しあんばし);(民俗語) 渡るのに躊躇(チユウチヨ)すると伝えられる橋。以下は有名な橋。
 長崎=この先にあった日本三大遊郭と言われた丸山遊郭(現在の長崎市丸山町・寄合町)に行くか行かないか思案したことから思案橋と言うことに由来する。 橋としての現在、思案橋は無く、川は暗渠になっている。

 江戸=(江戸初期)この橋の付近に元吉原の遊郭があり、この橋で行こうかやめようかと思案したところから呼ばれたという。 かつて東京都中央区小網町一丁目と二丁目との間にあった東掘留川に架けられていた橋。元和4年(1618)から明暦3年(1657)まで、元吉原の遊郭はこの橋の近くの日本橋葺屋町(現在の人形町の付近)に架けられていた。現在は川は埋め立てられ橋も無い。

言問橋(ことといばし);隅田川に架かる橋で、向島一丁目3番から浅草七丁目1番まで言問通りを渡す。長さ161.2m、幅員22mの橋で、竣工、昭和2年9月。隅田川の吾妻橋の上流にあります。またこの上流には白鬚橋が架かります。

上写真、言問橋。この橋の正面に、スカイツリーが望めます。この上流(左)で、隅田川花火大会が行われます。

白鬚橋(しらひげばし);隅田川にかかる橋で、明治通りを通す。西岸は荒川区南千住三丁目と台東区橋場二丁目を分かち、東岸は墨田区堤通一丁目と二丁目を分かつ。橋名は東岸にある「白鬚神社」に因む。なお、白「髭」(くちひげの意)と誤記されることがあるが、白「鬚」(あごひげの意)が正しい表記です。隅田川に架かる人道橋の桜橋を除くと言問橋の上流の橋です。関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の橋に木橋から、1931年に架け替えられた。橋長168.8m、 幅員22.1m。

 上写真、白鬚橋。江戸時代~明治期、橋場は風光明媚なところで、有名人の別荘が多かった。

眼鏡橋(めがねばし);
 日本橋
は、東京都中央区の日本橋川に架かる国道の橋。現在の橋梁は1911年に完成し、国の重要文化財。また、日本の道路元標があり、日本の道路網の基点となっている。
 現在の橋梁は1911年に完成し、現在の橋は20代目に当たるとされる。1903年(明治36年)の市区改正計画により、幅6間以上の橋梁は鉄橋もしくは石橋を架設することに定められたため、木造だった以前の橋(明治5年築)に替わり、大都市東京にふさわしい新たな橋として1908年(明治41年)に着工、1911年(明治44年)に完成した。石造二連アーチ橋で、橋の長さ49m、幅27m、設計は米本晋一。橋柱の銘板にある「日本橋」の揮毫は徳川慶喜のもの。

 上写真、日本橋。現在の橋の上の高速道路は撤去が決まっていてる。

 二重橋(にじゅうばし)は、東京都千代田区千代田の皇居内にある橋の通称である。正確には皇居正門から長和殿へ向かう途上、二重橋濠に架かる鉄橋のことで、本来の名称は正門鉄橋(せいもんてつばし)である。ただし正門鉄橋と正門石橋の二つの総称としても用いられている。手前の石橋は、江戸城の西丸大手橋があった位置にあり、明治20年(1887)の建造である。二連アーチ構造であることから俗称で眼鏡橋とも呼ばれ、「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多い。

 皇居正門石橋。二重橋だと誤認されることがあるが、厳密には奥にある正門鉄橋が「二重橋」です。その二重橋から見た眼鏡橋 

千早振る神代も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは;小倉百人一首の在原業平が詠んだ和歌。
 『神の時代にも聞いたことがない。竜田川の水を(紅葉葉が)あざやかな紅色にくくり染めにするとは』。
 落語「千早振る」にこの和歌の解説があります。

業平橋(なりひらばし);業平橋は、大横川(現在は大横川親水公園として川は無くなっている)に架かる。 東駒形四丁目15番から業平一丁目17番までの長さ31.7m、幅員33mの橋。昭和5年8月竣工。現在も浅草通りを通し、交通量は多い。 名前の由来は、現在は無いが、江戸時代に在原業平を祀った寺が近くにあったので、この名が付いた。

 上写真、業平橋。この右奥に志ん生が住んだというナメクジ長屋があった。

料理番(りょうりばん);料理人。料理することを業とする人。

俎橋(まないたばし);東京都千代田区にある靖国通り(東京都道302号新宿両国線)の橋。日本橋川上流に架かり、東側の神田神保町三丁目と、西側の九段北一丁目及び九段南一丁目を結ぶ。
 名前の由来は、橋が2枚の俎(まないた)を渡したような板橋であったことによるとする説と、近くに存在した台所町(元禄期まで現在の飯田橋二丁目にあった)との関連で名付けられたとする説がある。

 上写真、俎橋。南側にある国道靖国通りとくらべると静かな通りに架かる橋です。

心斎橋(しんさいばし);心斎橋はもともと長堀川に架かっていた橋の名前で、1622年(元和8年)に長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説であり、「心斎系譜」によると長堀川を開削した4名のうちの1人、岡田心斎が南北に橋を架けたことが名前の由来になっている。当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)、幅2間半(約4m)の木橋だった。 その後、1873年(明治6年)に本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わる。日本現存最古の鉄橋と言われている。 1909年(明治42年)には野口孫市の設計によって石造橋に架け替えられ、壮大な渡り初めが行われた。1962年(昭和37年)に長堀川が埋め立てられて撤去された。

 心斎橋筋は、船場と島之内を分ける長堀川(現在は埋立てて長堀通に架かっていた心斎橋(橋梁)に由来する。単に船場と島之内を繋ぐにとどまらず、道頓堀川にも戎橋が架けられ、なおかつ西横堀川(現在は埋立てて阪神高速1号環状線北行き)寄りの道であったことから、道頓堀の芝居小屋と下船場の新町遊廓を結ぶ道として賑わいを見せるようになり、今日に至っている。
 もともと心斎橋筋は、新町遊廓へ至る順慶町通と交差する船場側が栄えていた。順慶町通は夜市で知られ、煌々と照らされる街路は江戸から来た人々も驚くほどであった。しかし、松島遊廓の誕生や大火によって新町遊廓は衰退・焼失してしまい、南海難波駅や湊町駅(現・JR難波駅)の開業(道頓堀以南は戎橋筋と名称を変えるが難波駅前まで通じている)、大丸や十合(そごう)といった呉服店による百貨店経営の開始などにより、明治以降は島之内側が栄えるようになった。なお、現在も船場側には、順慶町通を境に、せんば心斎橋筋商店街と心斎橋筋北商店街がある。

新橋(しんばし);町名の新橋は、汐留川(新橋川)に架かっていた「新橋」(東海道の橋)に由来する(現在の中央区銀座八丁目交差点南側)。 1710年(宝永7)ここに芝口御門が造られた事により新橋が芝口御門橋と改称された。また、この頃までに新橋地区は芝口一~四丁目・源助町など町屋として成立し、町奉行支配となった。1724年(享保9)芝口御門が消失。以後も門が再建されなかったため、芝口御門橋は再び新橋の名に戻った。昭和30年代 汐留川が埋め立てられて地名の由来となった橋の機能が消失。現在は埋め立てられた汐留川の上に商店街が並び、その上は高速道路となってしまい、銀座通りの上の高架橋は”銀座新橋”と言う名称になっています。新橋を渡った銀座八丁目博品館の裏通りが金春通りと言われ新橋芸者の多かった地です。  

 上写真、旧新橋が架かっていた所を横断する、銀座新橋。写真奥が銀座。

 上写真、新橋芸者の本拠地、銀座八丁目金春(こんぱる)通り。

柳橋(やなぎばし);東京都台東区(たいとうく)南東端の地区。地名は、神田川(かんだがわ)が隅田(すみだ)川へ流入する落口(おちぐち)に架けられた柳橋に由来する。現在地名は神田川北岸の台東区のみに残るが、対岸の中央区には明治初年以降元柳町の地名があった。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)から船遊びのための船宿が発生し、吉原・深川通いの船の発着所で、待合茶屋などの粋(いき)な遊び場、花街へと発展、明治、大正時代へと受け継がれた。新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。関東大震災にあったが復興し、赤坂と並ぶ料亭街として繁栄したが、1960年ごろからの堤防嵩上げなどによる景観の変化もあり、料亭街は消滅した。
 落語の世界でも有名で「船徳」の徳さんが船頭として、ここから出船して浅草まで船を漕ぎ出した地。

 上写真、夕闇迫る柳橋。橋の左側が花街の柳橋。茶色のビルが”亀清楼”約して亀精です。

数寄屋橋(すきやばし);武士と町人の居住地を隔てる境界線にあり、見附と呼ばれる城門が置かれていた。明治維新後に城門は撤去され、関東大震災後の帝都復興事業によって、1929年(昭和4年)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられた(山口文象設計)。晴海通り (都道304号)が外堀を渡る位置にあり、北に有楽町マリオン(現・ルミネ)、西側に東急プラザ銀座店を臨む風景は東京の代表的な水辺の景観だった。 1958年(昭和33年)外堀が埋められ東京高速道路が建設されるのに伴い撤去された。その後、晴海通りを跨ぐ高速道路の橋は「新数寄屋橋」と名付けられた。
 『君の名は』(きみのなは)は、1952年から1954年に日本のNHKラジオで放送されたラジオドラマで、映画化、テレビドラマ化、舞台化もされた。話は、東京大空襲の夜。焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま一緒になった見知らぬ男女、氏家真知子と後宮春樹は助け合って戦火の中を逃げ惑ううちに、命からがら銀座の数寄屋橋までたどり着く。お互いに生きていたら、半年後の11月24日、それがだめならまた半年後に、この橋で会おうと約束し別れるが、すれ違いが続きなかなか会えない二人。

 上写真、濠が埋め立てられて高速道路が出来て、その上にかけられた橋に”新数寄屋橋”の名が残る。

枕橋(まくらばし);浅草から吾妻橋を渡り、川沿いに墨田区役所を回り込んでいくと、北十間川に架かった枕橋に出る。東武の高架橋をくぐると隅田公園に出ます。桜の時期は花見の客で混み合います。この橋からのスカイツリーは見応えがあります。
 枕橋は、吾妻橋一丁目から向島一丁目隅田公園まで 北十間川を南北に渡す。 長さ26.18m、幅員18m。昭和3年(1928)11月竣工。江戸時代までは、北十間川を源森川と呼んでたので、この枕橋も源森橋と呼んでいました。現在は一つ上流の橋に源森橋の名が移っています。

 上写真、枕橋。橋の向こう側が隅田公園。桜の名所。東武の陸橋上には特急のスペーシアが抜けていきます。

 上写真、枕橋上から眺める東京スカイツリー。ガード下は洒落た商店街になって、スカイツリーと一体感が生まれました。



                                                            2020年11月記

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