落語「梅津忠兵衛」の舞台を行く
   

 

 柳家喬太郎の噺、「梅津忠兵衛」(うめつちゅうべい)より


 

 出羽の国、戸村十太夫に仕える梅津忠兵衛は、豪勇でならす力自慢な侍。小高い丘の上にあるお城の門番です。

 「梅津。そろそろ嫁をもらわんか」、「女には縁が無くてな~。世間では女を見る目が無いというで・・・」、「狐狸妖怪が化けた女に欺されるかもしれん。欺されるでないぞ」、「ははは、そんなことは無い。刻限だから仕事に就こう」。
 仕事が終わって、次の者と交代して、山道を降りる。

 「ん。女が立っている。どうしたんだ? 朋輩が申しておった『狐狸妖怪に欺されるな』とは、この事か。気をつけねば成らん。返事もしないぞ」。
 「あのッ」、「はいッ、(わしは人が良いの~)」、「梅津様と知ってお願いがございます」、「この夜中の山中で何か・・・?」、「この赤子をここで預かっていただけないでしょうか。私はすぐ戻ってきます」、「狐狸妖怪であろう」、「この赤子に罪はありません。ニコニコと笑っています」、「いつの間に抱いておる」、「可愛いと思う心が、抱かせたのです」、「抱いているだけで良いのです。すぐ戻りますから・・・」。
 「行ってしまった。おうおう可愛らしい。狐狸妖怪には見えん。怪力無双の梅津忠兵衛が赤子か~。月が少し動いたな。時が経ったとは思えんが、何時戻るかのう。母は強いな、いつも抱いているが重くは無いのか? ・・・、月が少し動いただけなのに重くなったように感じる。・・・、狐狸妖怪のたぐいだ、重くなった、岩でも抱いているようだ。投げ出したいが、赤子は笑っておる、それは出来ん。腕が抜けそうだ、このままでは落としてしまう、限界だッ、南無阿弥陀仏ッ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ッ。 赤子は落としてしまったのか、何処に行った。あんなに重かった赤子が消えてしまった。なぜだッ」。

 「梅津様」、「みどもに何をしたッ」、「貴方のお陰で、尊い命が二つ助かりました。私はこの界隈の氏神です。氏子の一人がお産でございます。難産で『神様、神様』と言うので行ってきました。梅津様に抱いて貰った赤子は生まれる前の赤子」、「生まれる前の赤子となッ」、「さすがの私もダメかと思いました。何でも出来るものではありません。どちらかか一人でも助けようと思ったとき、梅津様が三度お題目を唱えて下さいました。その声で仏様がお出ましになり、神と仏が一緒になって子を取り上げ母親も元気で居ます。梅津様のお題目のお陰です。そのお礼として一つ願いを叶えて差し上げます」、「そうか、そうか、狐狸妖怪のたぐいがその様なことを・・・」、「神だと言うが、神も狐狸妖怪のたぐいかも知れませんね。何が良いですか? お金、出世、長命、お嫁御様」、「そんなものはいらん。力が欲しい。もっともっと強くなりたい」、「授けましょう」。

 「日が昇り始めた。わしはここで何をしておった。ハッキリした夢を見ていたのか? 母が心配して居るであろう、早く帰ろう。 わぁ~、木が倒れた、触っただけなのに・・・。岩が粉々になった。誠に力を授かったのか、ありがとうございます」。
 この力の使い方も分かってきて、人のために使います。良いお嫁御に恵まれ、また、子にも恵まれ、子々孫々まで力自慢が出たと申します。

 



ことば

原作小泉八雲怪談集より。小泉八雲 (1850~1904)= 作家・英文学者。ギリシャ生まれのイギリス人。本名、ラフカディオ=ハーン(Lafcadio Hearn)。1890年(明治23)来日。松江の人、小泉節子と結婚。のち帰化。松江中・五高・東大などで教鞭をとりつつ、日本研究をまとめ海外に紹介した。評論「東の国から」「心」「神国日本」、小説「怪談」など。

 1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚。 松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学で知られる。 私生活では三男一女をもうけ、長男にはアメリカ合衆国で教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教え、当時、小石川区茗荷谷に住むイサム・ノグチの母レオニー・ギルモアの英語の個人教授を受けさせた。 1904年(明治37年)に狭心症で死去。満54歳没。彼が松江時代に居住していた住居は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。

小泉八雲の同名の小説を柳家喬太郎が落語に仕上げました。 秋田県横手市に残る伝説に、妹尾 兼忠(せお かねただ)の伝説が残っており、小泉八雲はこの話をもとにしています。 女から赤ん坊をあずかり、お礼に剛力をさずけてもらうところは同じ展開で、その後、大木を運搬中に木が橋の欄干に引っかかって動けなくなっているところを通りかかり、通行の邪魔だと言った兼忠に人夫たちが悪口をあびせたのを怒り、大木を持ち上げて橋の下の横手川の川原に投げ落としてしまいます。 この大木を引き上げるのに、五十人の人夫が三日かけて引き上げたと言われています。 また、横手城へ登城する際に、左の手の平に大石を乗せて苦もなく坂を登り、人々を驚かせました。 横手城本丸跡(現:秋田神社境内)には「大力無双妹尾兼忠」と刻まれた石碑と、彼が片手で運んだとされる大きな石が残っています。

 写真、妹尾兼忠(梅津忠兵衛)碑と大石。https://rakugo.ohmineya.com/ より。

 ある日、兼忠が横手川の関門の大扉を持ち、川の水を押し戻して力を誇示していたところ、様子を見ていた老人が笑いながら「上流をささえるより、下流を押し戻してみよ」と言い、兼忠が「容易なこと」と応じましたが、水に流されてしまいます。 陸に上った時には老人はおらず、それ以来、兼忠の力は弱まってしまったと言います。

小泉八雲の「梅津忠兵衛の話」で語られていた。(原文)

 梅津忠兵衛(うめつ ちゅうべい)は怪力で勇敢な若侍であった。出羽国は横手の近くに在る高い丘の上に城を構える殿様、戸村十太夫(とむら じゅうだゆう)に仕えていた。殿様の家臣の家は丘の麓ふもとに小さな町を形成していた。
  梅津はその中から城門の夜番に選ばれた一人であった。夜の見張り番には二種類ある、一番目は日の入から始まって真夜中に終わり、二番目は真夜中に始まり日の出に終わる。
  かつて梅津は二番目の見張り番の時、不思議な出来事に遭遇する破目になった。真夜中に守衛の場所へ行こうと丘を登っている時に、城へ続く曲がりくねった道の最後の登りの曲がり角に、女が独りで立っているのを認めた。両手で赤ん坊を抱いて誰かを待っているように見えた。人気(ひとけ)の無い場所でこんな遅い時間に女が独りで立っているとは異常極まりない状況としか言いようがなく、それに梅津は暗くなってから妖かしが人を騙したり殺したりする為に、か弱い姿をとる習慣があるのを思い出した。そういう訳で、目の前の女に見えるのが本当の人間なのか疑いつつ見ると、急に顔を向けてきたので、話し掛けるなら無言で通り過ぎようと心に決めた。しかし、なんとも驚いたことに、女が名前を呼んでたいそう美しい声で話し掛けたのだ・・・、「頼もしい梅津様、今夜私はかなり大きな困難を抱えて、最も苦しい勤めを果たさなくてはならず、お慈悲でほんの一刻(いっとき)ほどこの赤子を抱いていては下さいませんか」そして子供を差し出した。
  不思議な声の魅力を疑い、魔物の罠を疑い、何もかもを疑い、とても若く見える女を認められなかった・・・、が、生まれつき親切で、妖かしへの不安に取り付かれた一時の感情で情けを惜しむのは男らしくないと感じた。躊躇(ためらい)もせずに子供を受け取った。「どうか私が戻るまで、その子を抱いていて下さい」女は言い「ほんの少しの間で戻って参ります」、「抱いていよう」答えるとすぐに女は背中を向け道を下り、とても軽快にかつとても素早く音も無く跳ねて丘を下って行ったので、我が目をとても信じられなかった。ほんの僅かな時間で視界から消えた。
  梅津は初めて赤ん坊を見た。それはとても小さく、まるで生まれたばかりのように見えた。腕の中で少しも動かず全く泣きもしなかった。
  突然その子が大きくなったように見えた。改めて見直すと・・・いや、変わらず小さな生き物で全く動いてもいなかった。どうして大きくなったと錯覚したのだろう。別の瞬間に分かった。冷気に射貫かれたような感じがした。子供は大きくなっていたのではない、重くなっていたのだ・・・。始めは3キロか4キログラム程度の重さと感じていたが、その重さが次第に2倍・・・3倍・・・4倍となっていった。いまでは重さが二十キロを下回ることはあり得ない、そしてまだまだ増していく、重く重く、五十キロ・・・七十キロ・・・九十キロ・・・梅津は欺かれたのだと知った。死すべき運命にある女と話したのではなく・・・、子供は人ではなかった。しかし梅津は約束した。侍にとって約束は絶対である。したがって腕の中の幼児を守る、それが重くなり続けても、もっと重く、百十キロ・・・百四十キロ・・・百八十キロ・・・、何が起ころうとしているのか想像もできなかったが、断固として恐れず子供を離さない、力の続く限り・・・、二百二十キロ・・・二百五十キロ・・・二百七十キロ!全身の筋肉は張りつめて震え始めていたが、重みはまだ増し続けていく・・・。「南無阿弥陀仏」呻くように呟いた、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」ちょうど3回目の念仏を唱えた時、衝撃と共に重みが去り、空になった両手と共に茫然と立ち尽くした。不可解にも子供は消えていた。しかし、ほとんど間を置かず神秘に包まれた女が、去っていった時と同じように急いで戻って来た。まだ喘ぎながら彼の元に来た女は、始めはとても清らかに見えた・・・が、額に汗を浮かべ袖を襷の紐で後ろに縛り、重労働でもして来たかのようであった。
  「慈悲深い梅津様」、女は言った。「あなたはどんなに重要な手助けをなされたのかご存じ有りません。私はこの地の氏神で、今夜は氏子のひとりが出産の陣痛に自分で気が付いて、私に加護を祈ったのでございます。けれどもその分娩は大変な困難なものに間違いなく、すぐに私ひとりの手では救えないだろうと分かりました・・・。そういう訳で、あなたのお力と勇気におすがりしようと思ったのでございます。あなたの手に預けたあの子はまだ生まれていない子供で、はじめに子供が重く重くなったとお感じになった時、たいへん危ない状態でした・・・。産門が閉じていたのでございます。子供が重くなり過ぎたとお感じになって、そう長くは重みを支えられないと絶望なされた時、同時に母親は死んだようになり家族は泣いていたのでございます。その時あなたは念仏を三回唱えられました、南無阿弥陀仏と・・・。すると3回目の呟きに御仏の加護の力が届き、産門が開いたのでございます・・・。あなたの行いには適切なお返しがなくてはなりません。勇敢なお侍様には剛力以上に役立つ贈り物はございませんから、あなただけではなく、あなたのご子息とそのご子息にも同様に剛力を授かるでしょう」 そして、この約束と共に氏神は姿を消した。

 梅津忠兵衛は、はなはだ奇妙に思いながらも再び城への道を歩きはじめた。日が昇り勤めから開放されて、いつものように朝の祈りをする前に手と顔を洗いに行った。しかし使い慣れた手拭いを絞りはじめると、驚いたことに触れた丈夫な布地が手の中で音を立てて真っぷたつになったのだ。別れた布切れを一緒にして捻ってみると、再び布地は千切れた。まるで水に浸した紙のようであった。その四つを重ねて絞る試みをしたが、結果は変わらなかった。青銅や鉄製の様々な物に行き当たると、触れただけで粘土のように曲がってしまう、そうした後やがて、約束された完全な剛力の持ち主になったから、これから先は物を触る時には指の中でぼろぼろにしないよう気を付けるべきなのだと理解した。
  家に帰ってから、この集落で夜の間に子供が生まれたのかどうか聞いて回った。すると出来事のまさにその時間、実際に出産が有って正しく氏神と関わった通りの有り様であったと知った。
 梅津忠兵衛の子供達は父親の力を受け継いでいた。何人かの子孫は、皆が並外れた力持ちで・・・、この話が書かれた頃にはまだ出羽国に住んでいた。

出羽の国(でわのくに);現在の山形県と秋田県。羽州(うしゅう)ともいう。
 古く蝦夷(えみし、えぞ)に備えて出羽柵(でわのさく)、秋田城が設置された。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は秋田城からのちに現在の酒田市城輪(きのわ)に移され、国分寺は鶴岡市におかれていたと推測される。11世紀後半の前九年(ぜんくねん)の役(えき)、後三年(ごさんねん)の役後、奥州藤原(おうしゅうふじわら)氏が支配。鎌倉時代から室町時代を通じて守護はおかれず、戦国時代に最上(もがみ)氏、小野寺氏、秋田氏などが抗争を繰り広げた。江戸時代に米沢(よねざわ)は上杉氏、鶴岡は酒井氏、秋田は佐竹氏が領有、他に小藩がおかれ、幕末に至った。1868年(明治1)に羽前(うぜん)国、羽後(うご)国に分けられ、1871年(明治4)の廃藩置県ののち、同年に現在の秋田県、1876年(明治9)に現在の山形県が成立した。

戸村十太夫(とむら じゅうだゆう);戸村 義国(とむら よしくに)は、江戸時代前期の武将。出羽国久保田藩士。戸村家七代当主。通称は戸村家当主の代々の通称である十太夫。
 父・義和は文禄の役の際に朝鮮高麗熊川にて病死した(一書には船中とも)。義国は父の顔を知らずに成長する。常陸戸村城より、慶長7年(1602)に宗家・佐竹義宣が出羽久保田藩への国替えとなり、これに従い出羽に入る。慶長10年(1605)から慶長12年(1607)にかけて用水路を完成させた(戸村堰)。主君・義宣と大坂冬の陣に従軍する。今福の戦いにおいて、佐竹軍は苦戦に陥り、刀鍔に銃弾を受けるが怯まずに奮戦し、大坂方の将矢野正倫を討ち取った。その功で二代将軍・徳川秀忠より感状と刀「青江次直」を拝領する。
 後に二代藩主・佐竹義隆の執政を務め、寛永8年(1631)に角館の代官として赴く。寛文10年(1671)12月、死去。享年80。
 長男の義宗に先立たれたため、その嫡男(義国の孫)義連が跡を継ぎ、寛文12年(1673)に横手城代となった。また、次男の隆経は、多賀谷宣家(後岩城宣隆)が岩城氏の番代となったことにより多賀谷家の跡を継いだ。三男の隆家も後に多賀谷家(隆経の跡)を継いでおり、さらにその後も多賀谷家はたびたび戸村家より養子を迎えることが多かった。

横手(よこて);横手市(よこてし)は、秋田県東南部に位置する市。旧横手市と旧平鹿郡町村の市町村合併で発足した。秋田県で、秋田市に次いで2番目の人口を擁する市。2月に行われる伝統行事のかまくらが全国的に有名。
横手城=横手城は比高50m程の平山城で石垣を設けなかった。代りに敵兵が登ってこれないように韮(にら)を植えた事から「韮城」の別称がある。三方が横手川、背後が奥羽山脈が控えた要害で、支城へ繋がる街道が交差する交通の要衝でもありました。戸村十太夫の居城。現在地、秋田県横手市城山町29

   

 上、横手城跡、現在は横手公園として二の丸に模擬天守が建ち資料館や展望台を兼ねている。二の丸の南下(手前)が武者溜りで噴水などが設けられ、その南(写真の手前外)に本丸跡がある。本丸跡には秋田神社が祀られているが、この社殿の部材は旧大手門のものが利用されているという。 この社殿横には、上記、妹尾兼忠(梅津忠兵衛)碑と大石が有ります。

狐狸妖怪(こりようかい);人を騙したり、恐れさせたりする化け物のこと。 または、人知れず悪事を働くもののこと。 「狐狸」は人を騙すとされている狐と狸、ムジナのことで、悪賢く信用できない人のたとえ。 「妖怪」は化け物のこと。

朋輩(ほうはい);傍輩(ほうばい)とも。同じ主人や師に仕える同僚。転じて、仲間。友達。

赤子(あかご);赤児。(体色が赤みを帯びているからいう) 生れて間のない乳児。あかんぼう。

怪力無双(かいりき むそう);不思議なほど強い力。非常にすぐれた力で、ならぶもののないこと。二つとないこと。無比。ぶそう。

氏神(うじがみ);住む土地の鎮守の神。産土神(ウブスナガミ)。その地の守護神。

氏子(うじこ);産土(ウブスナ)神が守ってくれる地に住む人。同一の氏神を祀る人。

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ);阿弥陀仏に帰命するの意。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。六字の名号。

仏様(ほとけさま);悟りを得た者。仏陀(ブツダ)。仏足石歌「釈迦の御跡いはに写しおき敬ひて後の―に譲りまつらむ」。 釈迦牟尼仏(シヤカムニブツ)=(梵語「牟尼」は聖者の意) 仏教の開祖。インドのヒマラヤ南麓のカピラ城の浄飯王(ジヨウボンノウ)の子。母はマーヤー(摩耶マヤ)。姓はゴータマ(瞿曇クドン)、名はシッダールタ(悉達多)。生老病死の四苦を脱するために、29歳の時、宮殿を逃れて苦行、35歳の時、ブッダガヤーの菩提樹下に悟りを得た。その後、マガダ・コーサラなどで法を説き、80歳でクシナガラに入滅。その生没年代は、前566~486年、前463~383年など諸説がある。シャーキヤ‐ムニ。釈尊。

神も仏も無い;苦痛・辛さの連続で、救ってくれるはずの神も仏も現れない。懸命な努力や忍耐が報われないときのことば。
 今回はその逆で、神と仏が協力して護ってくれた。



                                                            2021年1月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system