落語「能狂言」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「能狂言」(のうきょうげん)


 

 1年ぶりに国許に帰国した小・大名の殿様、大広間で家来一同を集めて帰国の挨拶。端午の節句には無礼講の宴を催す、その時江戸で観た能狂言が面白かったので観たいと仰せ。しかし、家老以下能狂言を知っている者がなかった。そこで市中に高札を立て、能狂言を知っている者を探しだすことになった。 なにせ辺鄙な田舎のことで、知っている者は現れない。そこへ登場するのが旅興行が不成功で解散し、方角が良いと言うだけで、たまたまこの国へ流れてきた噺家二人。

 腹が減って一膳飯屋に入ったが、婆さんが一人で店番。肴を聞くと「しらうすの煮たのと焼き豆腐なら今ある」、焼き豆腐は分かったが、しらうすは分からない。見せてもらうとガンモドキであった。焼き豆腐も煮直されて角が取れて世慣れていた。酒も銘酒があって、「村さめ」「庭さめ」「じきさめ」が有った。「村さめ」は村を出る頃酔いが覚める、「庭さめ」は庭を出た頃酔いが覚める、「じきさめ」は飲んでいるそばから酔いが覚める。「村さめ」を頼んだが水っぽくて、「随分水で割ったな」、「水の中に酒を垂らした」。どじょう汁を頼んだら、ドジョウを捕まえに行くし、味噌を買いに行くというので断った。
 能狂言の張り紙を見つけて、太郎冠者が最後に「やるまいぞ、やるまいぞ」と言って舞台を引っ込む。落語家のオチのようなものだ。と話をしていると、二人が能狂言を知っていると聞いた茶店の婆さん。 何かうまいものを作ってやると言って、店を抜け出し役人の所へ行き、店に能狂言を知っている二人づれが酒を飲んでいるから召し捕ってくれと訴える。早速役人5、6人で店へ行き、二人を捕らえてふん縛り城中へ引き出した。

 驚いた家老、役人を叱りつけ無礼をわび上座に座らせ、二人に能狂言をやってくれと頼む。 噺家二人は能狂言をやれば、お礼をくれると言うので、いい加減にやってお礼にありつこうと引き受けた。
 派手な衣装を作るように言い付け、能舞台も大工に頼み、出来るまで二人は朝から飲んで食って寝ているばかり。

 いよいよ舞台も出来上がり、明日は能狂言の日になった。殿様が題名を尋ねたので、二人は忠臣蔵五段目の茶番をやってごまかすので、「忠五双玉」という狂言名にした。鳴り物を家老に依頼したが、実物もなければ、出来る者も居ないので、若侍の口で演じることにした。 掛け声、笛、太鼓の稽古をやり準備万端。いざ当日。
 鳴物連中の、掛け声、口太鼓、口笛の中を、バカバカしくてやってられないから酒を2杯あおって舞台に。五段目のセリフを謡のように節をつけ、噺家の与市兵衛が登場した。そこへ定九郎役の噺家が現れ、金を渡せと迫る。与市兵衛が酔がまわってきて踊り始めたので、こりゃいけないと思い、定九郎は刀を抜いて切るつける。与市兵衛は舞台に倒れる。 定九郎は、「久しぶりなる五十両、これより島原へ女郎買いにまいろう・・・」と言って舞台から引き下がった。
 ここで芝居なら幕が下りるはずだが、能舞台だから幕も緞帳もない。それ以上に困ったのがお囃子連中で、声を出しっぱなしなので、もう声は出ない。舞台に倒れたままの死んだ与市兵衛も困った。すると、与市兵衛がむくむくと起き上がり、与市兵衛「わしを殺して金を取り、女郎買いとは、太てえ野郎。島原へはやるまいぞ。女郎買いには、やるまいぞ、やるまいぞ、やるまいぞー。やるまいぞ、やるまいぞ」。
(こう言いつつ高座から退場する、円生)    

 



ことば

(のう);約600年の歴史を持ち、舞踏・劇・音楽・詩などの諸要素が交じりあった現存世界最古の舞台芸術です。主人公のほとんどが幽霊で、すでに完結した人生を物語る、それが中心になっている不思議な演劇です。幽霊というと怖い内容のように思われるかもしれませんが、そうではなく時代や国によっても変わることない人間の本質や情念を描こうとしているのです。また、ギリギリまで省略された1つの動きの中にはいくつもの内容が込められ、一見無表情な能面には幾通りもの表情が隠されているのです。能は日本人が創りだし、長い間日本人が見続けてきた舞台芸術です。

狂言(きょうげん);能とほぼ同じ頃に発生し、この対照的な二つの演劇はセットで演じられることが多く、幽玄の世界から笑いの世界へと観客の心をリラックスさせてくれます。登場人物は能と違って貴族や歴史上の人物ではなく、底抜けに明るい太郎冠者を主とした親しみやすいキャラクターで、当時を描いた笑いには現代に通じるものがあります。その頃の日常的な話し言葉を使っているので内容もわかりやすく、能と共に歩んだ長い歴史のなかで洗練された「笑いの芸術」といわれています。本狂言の他に、能の間で解説的な役割をする間狂言や、祝言の式で演じられる「三番三(三番叟)」(さんばそう)など特殊なものもあります。
 上図;能狂言絵巻 下巻の内 「船弁慶 初(まえ)」 東京国立博物館蔵

囃子方;楽器を演奏するのが囃子方。囃子方には笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方の4つのパートがあり、それぞれが自分の楽器を専門に演奏します。 演能では笛方1人、小鼓方1人、大鼓方1人、太鼓方1人の4人編成で、能の演目によっては太鼓方が入らない場合があります。 主にシテ、ワキ、地謡が謡う時やシテやワキが登場する際、舞を舞う時に演奏します。

左から太鼓(シメともシラベとも)、大鼓、小鼓、横笛

狂言方;多くの能は前半と後半に場面が分かれています。その間をつなぐのが狂言方の仕事で、間(アイ)狂言といわれます。また、能とは別に独立した劇としての「狂言」を演じます。


以上、能狂言についての解説・写真はここより転載しました。感謝。


 上図;江戸城本丸大手門前に建てられた越前福井藩主・松平伊予守忠昌(ただまさ、1597-1645)の上屋敷に作られていた能舞台です。大広間の障子を開けると、能が楽しめた。
江戸東京博物館蔵。

 右図;江戸城でも同じような造りで、本丸南側に接見のための大広間があり、その南側の庭に能舞台が造られていた。
 江戸城御本丸惣絵図より部分。

 信長・秀吉・家康の時代から武将は能を堪能していた。能舞台を庭に作り、現在のカラオケのように、自分もそこで舞った。徳川幕府が江戸に城を築いたときも、城内に能舞台を作り、常識的に能を楽しんでいた。
 しかし、それは大大名だけで旗本以下はその楽しみは知らず、特に地方の国詰の武士、家老は知らないのが普通であった。観劇が一般に開放されたのが、明治に入ってからです。

大名(だいみょう);1万石を越えれば大名と呼ばれたが、5万石以下は小・大名と俗に言った。10万石を越えないと大・大名とは言え無かった。

・大名は一年おきに江戸に参勤交代で出府した。江戸には正室や子供が人質として捕らわれているので、屋敷の維持と奥様や家族の対応のために、また幕府との折衝のため外交官として江戸詰の役人が常時詰めていた。その役人達は江戸の状況や文化歴史、風俗は良く分かっていたが、中小の国詰(在府)の役人はその事情に疎かった。ここの殿様、能狂言は上役の大名に誘われて観劇したのでしょうから、国詰の家老以下は全くの初耳であったでしょう。

島原(しまばら);室町時代に足利義満が現在の京都東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年頃)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条・万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。京都駅北側、現在の地名下京区西新屋敷町。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある。
 新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門ができた。島原は元禄期に最も栄えたが、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町、祇園新地、上七軒、二条などの遊里に人が流れ、その後は幾度かの盛衰を繰り返したものの、次第に衰えていった。手形が必要ではあるが、廓の女性達は自由に廓の外へ出ることができ、男女問わず一般人も自由に出入りができた。清河八郎や頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせた例もあり、外部から「閉ざされた」遊所ではなかった。幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や新撰組らが出入りしていた。
 明治以後は公家、武家の常連客がいなくなり、さらに窮状に置かれるものの「太夫道中」などの行事で支えていたが、昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋(わちがいや)」、「角屋(すみや)」がその面影をとどめているだけである。現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構であり、「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。


 島原「大門(おおもん)」    「輪違屋(わちがいや)」          「角屋(すみや)」
ウイキペディアより

端午の節句(たんごのせっく);5節句のひとつ。5月5日の節句。古来、邪気を払うため菖蒲やヨモギを軒に挿し、チマキや柏餅を食べる。菖蒲と尚武の音通もあって、近世以降は男子の節句とされ、甲冑・武者人形などを飾り、庭前に幟旗や鯉幟を立てて男子の成長を祝う。
右写真;軒に挿した菖蒲。畠山記念館にて

無礼講の宴(ぶれいこうのえん);貴賤・上下の差別なく礼儀を捨てて催す酒宴。破礼講。
 現在サラリーマンの世界では無礼講だというと、上下関係なくドンチャン騒ぐものと勘違いして、羽目を外す者が居るが大きな間違いで、その辺は大人の対応が出来ないと生涯損をする事に成るから気を付けたい。

高札(こうさつ);法度・掟書などを記し、人目をひく所に高くかかげた板札。立札。町の通行人の多いところに掲示し、幕府や国の伝言を書き出した公報札、またはその場所。



                                                            2015年5月記

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