落語「能狂言」の舞台を行く 三遊亭円生の噺、「能狂言」(のうきょうげん)
■能(のう);約600年の歴史を持ち、舞踏・劇・音楽・詩などの諸要素が交じりあった現存世界最古の舞台芸術です。主人公のほとんどが幽霊で、すでに完結した人生を物語る、それが中心になっている不思議な演劇です。幽霊というと怖い内容のように思われるかもしれませんが、そうではなく時代や国によっても変わることない人間の本質や情念を描こうとしているのです。また、ギリギリまで省略された1つの動きの中にはいくつもの内容が込められ、一見無表情な能面には幾通りもの表情が隠されているのです。能は日本人が創りだし、長い間日本人が見続けてきた舞台芸術です。
■狂言(きょうげん);能とほぼ同じ頃に発生し、この対照的な二つの演劇はセットで演じられることが多く、幽玄の世界から笑いの世界へと観客の心をリラックスさせてくれます。登場人物は能と違って貴族や歴史上の人物ではなく、底抜けに明るい太郎冠者を主とした親しみやすいキャラクターで、当時を描いた笑いには現代に通じるものがあります。その頃の日常的な話し言葉を使っているので内容もわかりやすく、能と共に歩んだ長い歴史のなかで洗練された「笑いの芸術」といわれています。本狂言の他に、能の間で解説的な役割をする間狂言や、祝言の式で演じられる「三番三(三番叟)」(さんばそう)など特殊なものもあります。
■囃子方;楽器を演奏するのが囃子方。囃子方には笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方の4つのパートがあり、それぞれが自分の楽器を専門に演奏します。
演能では笛方1人、小鼓方1人、大鼓方1人、太鼓方1人の4人編成で、能の演目によっては太鼓方が入らない場合があります。
主にシテ、ワキ、地謡が謡う時やシテやワキが登場する際、舞を舞う時に演奏します。
■狂言方;多くの能は前半と後半に場面が分かれています。その間をつなぐのが狂言方の仕事で、間(アイ)狂言といわれます。また、能とは別に独立した劇としての「狂言」を演じます。
上図;江戸城本丸大手門前に建てられた越前福井藩主・松平伊予守忠昌(ただまさ、1597-1645)の上屋敷に作られていた能舞台です。大広間の障子を開けると、能が楽しめた。
信長・秀吉・家康の時代から武将は能を堪能していた。能舞台を庭に作り、現在のカラオケのように、自分もそこで舞った。徳川幕府が江戸に城を築いたときも、城内に能舞台を作り、常識的に能を楽しんでいた。
■大名(だいみょう);1万石を越えれば大名と呼ばれたが、5万石以下は小・大名と俗に言った。10万石を越えないと大・大名とは言え無かった。
・大名は一年おきに江戸に参勤交代で出府した。江戸には正室や子供が人質として捕らわれているので、屋敷の維持と奥様や家族の対応のために、また幕府との折衝のため外交官として江戸詰の役人が常時詰めていた。その役人達は江戸の状況や文化歴史、風俗は良く分かっていたが、中小の国詰(在府)の役人はその事情に疎かった。ここの殿様、能狂言は上役の大名に誘われて観劇したのでしょうから、国詰の家老以下は全くの初耳であったでしょう。
■島原(しまばら);室町時代に足利義満が現在の京都東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年頃)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条・万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。京都駅北側、現在の地名下京区西新屋敷町。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある。
■端午の節句(たんごのせっく);5節句のひとつ。5月5日の節句。古来、邪気を払うため菖蒲やヨモギを軒に挿し、チマキや柏餅を食べる。菖蒲と尚武の音通もあって、近世以降は男子の節句とされ、甲冑・武者人形などを飾り、庭前に幟旗や鯉幟を立てて男子の成長を祝う。
■無礼講の宴(ぶれいこうのえん);貴賤・上下の差別なく礼儀を捨てて催す酒宴。破礼講。
■高札(こうさつ);法度・掟書などを記し、人目をひく所に高くかかげた板札。立札。町の通行人の多いところに掲示し、幕府や国の伝言を書き出した公報札、またはその場所。
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